宗教観の変容

写真は樹木葬のようすですが、最近わたしの知り合いがおこなった樹木葬で一区画30万円、埋葬費用が5万円、一年間の管理費が無料、あとの費用負担は一切なしというケースがありました。これなどは格安で良心的価格の部類かと思います。

近年、これまで何の疑問を持たず受け入れてきた冠婚葬祭、葬儀に対する価値観の変化は著しいものがあるし、お寺が破綻する事例も全国的に出てきています。

理由は、これまでの葬儀内容では墓石だけで百数十万、墓地代が発生すれば更に百数十万以上の費用がかさむスタイルに代わり、最近の葬儀方法や埋葬料などは比較的小予算でできるメリットがあることと、人々の死生観の変化が背景にあるところがその理由でしょうか。

したがって現在、僧職にある人にとっては、これまでの方法で檀家制度に安住していることが難しい時代となってきたところがあります。

さて、私がこれまでブログ上で取り上げてきた話題には宗教に関する問題もあります。
一般的にはあまり知られていないような諸問題が宗教の世界には数多く存在し、人々の苦悩を救済するはずの宗教に入信し、人格まで崩壊されてしまうような悪質なマインドコントロールによって翻弄され、人間関係や家族の破綻にまで追い込まれてしまうケースもあります。
宗教は人に押し付けるものであってはなりません。
本来、信仰は家族も他人もなく、個人の自由意思によるものであって、自分が信仰をもっているからといって必ずしも家族もということにはならないでしょう。
他者の信仰や他宗教に対しては敬意を払いたいところではありますが、しかし、それ以前に、社会常識という観点からしても疑問をもたざるを得ないような教義や団体の行動も見受けられる点を考えますと、やはり是は是、非は非として現実を見極めていかなければならないでしょう。
私は、人々の信仰を否定しませんが、押しつけがましく勧誘したり、選択の自由、信仰の自由が侵されたり、悪質なマインドコントロールに陥ったり、危険な宗教団体に入信するのだけは気をつけなくては思います。
宗教界も布教、あるいは宣教したいのなら、布教、宣教の方法を考え直すべきでしょう。
心の学び、時には救済ということもあるであろうはずの宗教が、個人の人格や社会を破壊し、家庭を崩壊させ、人間の心を蝕むようなものであってはなりません。
そして、私たちが知っているか否かにかかわらず、私たちの精神性や、社会における常識・文化・慣習などといったものは、良くも悪くも多分に宗教が礎になっています。
これは世界に共通することかと思います。
但し、それは古来の日本の神道や渡来の仏教、正統派のキリスト教などの伝統宗教によるところが大きいでしょう。
例えば、先祖を敬う心は神道の祖先崇拝に端を発していますし、「いただきます」「ごちそうさま」といった食べ物への感謝は、仏教の教えによるところがありますし、こういった思想はキリスト教にもあるでしょう。
気を付けなくてはならないことは、宗教に入信することによって、あまりにも傾倒しすぎるがために、これまでとは違って不自然で偏った言動がでてくるようでは、その宗教の弊害でしかないということです。
こうなると妄信、狂信といわざるを得ません。
入信したものの、何かしら疑問をもちながら集団心理に流され、洗脳され、自分の依存心ゆえにすがって盲信していきます。
近年は、残念なことに商業ベースで宗教を利用する団体が多くなりました。
多くの新興宗教では、多額の布施や献金を求め、信者数を増やすことがノルマにもなっています。
信者はマインドコントロールのために従いますが、気がついたときは取り返しのつかないほど心に傷を負った人や、金銭的負担を強いられて家庭が破綻した人もいます。
宗教に対するイメージが悪くなってしまったのは、こうした事実が背景にあることも否めません。
「信教の自由」は選択の自由という意味においては好都合なのですが、それだけに無法地帯になりやすい部分でもあります。
かつては〇ー〇真理教が法を犯して殺人まで行われるまで法の手が下せなかったという悲しい教訓があります。
社会的にも、道義的にも、法的にも許されることではありません。
長時間人を監禁したり、押しつけがましく勧誘したりする行為は、本来は犯罪になるはずです。
広くいえば結構な数の存在がみられる霊感商法も宗教被害の範ちゅうに入るでしょう。

どんな宗教も、そして宗派を問わず、自分の外に心を向けさせて、自己の内面にある原点を探究させない、学びをさせないという意味からいえば他力信仰といえます。

他力信仰はそのままご利益信仰のスタイルをとります。

他力信仰は、信者の心を教祖に向けさせ、あるいはご本尊と称して仏像や曼荼羅(まんだら)や写真に向けさせ、祈ることによって幸せになれると説くことや、運命が良くなる、業が解消される、病気が治るなどと説くことも他力信仰の特徴であり、それが依存信仰の土壌となり健全な人間の心を弱体化させることにあります。

日本国内の宗教でも、多くの宗教がご利益を説いていることも事実です。

宗教にご利益を求めるのではなく、人生をいかにすれば心安らかに生きることができるのかを学び、そして人間の苦悩の原因であるエゴの姿の真実を知っていくことこそが宗教で学ぶことだろうと思います。

人間の生老病死について、如何にすれば苦悩せず生きられるかを説いたゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏は一言もご利益があるなどとは説いていないはずです。

私たちは自身の心の在り方によって、どのようにも生きられる可能性を秘めた、尊い心をいただいた存在であることを忘れてはならないと思うのです。

そういった意味では、宗教団体に入信していなくても自分自身の心の尊さを知り、日頃の生活を学びの糧として心を調和し、明るく生きている人たちもいます。

こういった人たちこそ自分の人生の真の達成者となるでろうと確信します。

このブログを読まれている方でも宗教に疑問を持たれた方もいるかも知れません。

「“宗教” ではなく、“まちがった宗教団体” と書くべきでしょうか。

宗教界では億単位のお金をかけた立派な金ピカの神殿、社殿、伽藍が競って建立されています。

私は「地球こそ大神殿」だと考えていますから、立派な伽藍(がらん)や社殿は心の在り方を学ぶのに全く不必要であると捉えています。

心の成長、気づき、悟りを目指すときに、立派な寺院や神社、教会に拘るほど本来の目的からは遠ざかるでしょう。

地球こそ神殿であり、心こそ大神殿ではないでしょうか。

この大神殿という心こそが神仏の宿る唯一の場所だと思うのです。

建物やご本尊に神仏が居るが如くそれを人々に拝ませるようなことであってはならないし、そのようにして拝することが真の宗教だとは思えません。

そして宗教被害の絶えない中身のない、偽りの教団ほど立派な数十億もの建物を建てる傾向にあり、形に目を奪われた信者たちは自分が闇を迷走していることに気づけないでいる。

他力信仰を捨て、自力を歩む、すなわち真実の自己探究に入るということの、なんと困難なことでしょう。

教団の教えを観念的に理解し、知識は豊富なのですが、教団の意のままに盲目的な実践を続けることが、どんなに危ういことかを思い知らされることでしょう。

時代の変革とともに人々の価値観はいつも変わってきましたし、これからも変わっていきます。

そしてこの世も時の流れとともに無常なものです。

それは般若心経にも示されるように、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と、自然界における循環の法則、輪廻転生、そして人間の心と肉体の関係にもいえることだろうと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。