どんな宗教も、そして宗派を問わず、自分の外に心を向けさせて、自己の内面にある原点を探究させない、学びをさせないという意味からいえば“他力信仰”といえます。
他力信仰はそのままご利益信仰のスタイルをとります。
他力信仰は、信者の心を教祖に向けさせ、あるいはご本尊と称して仏像や曼荼羅(まんだら)や写真に向けさせ、祈ることによって幸せになれると説くことや、運命が良くなる、業が解消される、病気が治るなどと説くことも他力信仰の特徴であり、それが依存信仰の土壌となり健全な人間の心を弱体化させることにあります。
日本国内の宗教でも、多くの宗教がご利益を説いていることも事実です。
宗教にご利益を求めるのではなく、人生をいかにすれば心安らかに生きることができるのかを学び、そして人間の苦悩の原因であるエゴの姿の真実を知っていくことこそが宗教で学ぶことだろうと思います。
人間の生老病死について、如何にすれば苦悩せず生きられるかを説いたゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏は一言もご利益があるなどとは説いていないはずです。
私たちは自身の心の在り方によって、どのようにも生きられる可能性を秘めた、尊い心をいただいた存在であることを忘れてはならないと思うのです。
そういった意味では、宗教団体に入信していなくても自分自身の心の尊さを知り、日頃の生活を学びの糧として心を調和し、明るく生きている人たちもいます。
こういった人たちこそ自分の人生の真の達成者となるでろうと確信します。
このブログを読まれている方でも宗教に疑問を持たれた方もいるかも知れません。
「“宗教” ではなく、“まちがった宗教団体” と書くべきでしょうか。
宗教界では億単位のお金をかけた立派な金ピカの神殿、社殿、伽藍が競って建立されています。
私は「地球こそ大神殿」だと考えていますから、立派な伽藍(がらん)や社殿は心の在り方を学ぶのに全く不必要であると捉えています。
心の成長、気づき、悟りを目指すときに、立派な寺院や神社、教会に拘るほど本来の目的からは遠ざかるでしょう。
地球こそ神殿であり、心こそ大神殿ではないでしょうか。
この大神殿という心こそが神仏の宿る唯一の場所だと思うのです。
建物やご本尊に神仏が居るが如くそれを人々に拝ませるようなことであってはならないし、そのようにして拝することが真の宗教だとは思えません。
そして宗教被害の絶えない中身のない、偽りの教団ほど立派な数十億もの建物を建てる傾向にあり、形に目を奪われた信者たちは自分が闇を迷走していることに気づけないでいる。
他力信仰を捨て、“自力”を歩む、すなわち真実の自己探究に入るということの、なんと困難なことでしょう。
教団の教えを観念的に理解し、知識は豊富なのですが、教団の意のままに盲目的な実践を続けることが、どんなに危ういことかを思い知らされることでしょう。
時代の変革とともに人々の価値観はいつも変わってきましたし、これからも変わっていきます。
そしてこの世も時の流れとともに無常なものです。
それは般若心経にも示されるように、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と、自然界における循環の法則、輪廻転生、そして人間の心と肉体の関係にもいえることだろうと思います。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。
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