親の徳・子の運命

清掃

「徳」について質問をいただいた。

私の兄弟が入信している宗教では、親の徳によって子供の運命が変わるという教えがありますが、これは本当なのでしょうか。

親の徳というものと、子供の人生修行の関わりについてわからないことがあります。どのように受け止め、理解すればよいのでしょうか。

さて、徳とは何でしょう。徳とは心が正しく、人に善をつくしてゆくものでしょう。

世の中にはこれみよがしの徳が多いと思いますが、そうした徳は徳とはいえない。

他人に気付かれず、ただ黙々として、慈善を行っている人、まさに陰徳を積んでいる人、こういう人を徳行の人といえるでしょう。

例えていえば、道路や電車の中に紙や新聞紙が落ちていて目につく、人にいう前に、そうしたものを黙って拾い、町や車内を明るくする人、そういう人を徳行の人というのでしょう。

徳の多い人は、人から慕われ、歓待を受けるでしょう。

しかし、その歓待を期待して徳を積むわけではないのです。

町や車内を明るくすることが、自分にとっても、町や車内にとっても気持ちがいいからするわけです。

そうしてそのことが、間接的には人々の心を明るくするわけです。

人々の関心を集めるために、または徳のために徳行を行うとすれば、すでにその時点で徳とはならない。徳は心に一点のエゴがあったら徳にはならないということだ。

ある宗教教団体に行きますと、その教団に奉仕することが徳を積み、子孫を繁栄させるもとだと教えられ暗黙に強制しています。

しかし、徳というものはそうした特定の場所だけしかないというものではないし、いたるところに転がっているはずです。

神仏は私たちのいるところに在って、私たちを見ています。

特定の場所や、人が、いるいないにかかわりありません。

そうして、あなたの徳に応じて、あなたを守り、あなたの家を守ってぐれるのです。

しかし、守ってもらう為に徳を為すのではありませんし、そうであってはその時点で徳にはなりません。

徳は調和の現われであり、そうした心と行いのある家庭が不調和になることは少ないと思います。

子供は両親の感化を非常に受けやすく、そのため、子供を見れば両親の生活行為が分かるでしょう。

つまり、子供の運命をつくり上げてゆきます。

俗に「親の光は七光り」といいます。

親の徳が子供や子孫の生活に影響を与えることは確かですが、子供に徳がないと、親の徳は長続きしません。

おわかりだろうか。親の善行、陰徳があっても、子が悪行三昧では親の徳を食いつくしてしまうということです。

基本的に、親と子の魂はそれぞれ異なっており、同一ではないので、その運命の在り方も、当然、違ってくるからです。

すなわち、親の修行と子の修行とは、自ずと別であり、子供には子供としての人生の目的なり、使命があるからです。

子に対する親の役目は、子供が成人し、社会人となって、人間としての道を外さない、立派な光の一員になるよう導くことであり、それ以上のものでも、以下のものでもないのです。

子供に期待を寄せ、煩悩的に子供の安全のみを願い、出世のみを願い、その為に一流大学を薦め、社会的地位や安泰を図ろうとする親もいるが、かえってそれが災いし、子供を不幸にすることになるでしょう。

こういったケースはよくあることである。よくよく、気を付けねばなりません。

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心の安らぎ☆

禅定

心のやすらぎ!

心の安らぎは偏りのない生き方、すなわち、物事に対する執着しない価値観、そういった悟道の境地から生まれてくる。

とうの昔に失敗したこと、つまずいたこと、そのことに拘って自分を苦しくさせて何か良いことがあるのだろうかとなると、何も良いことが有りようがないどころか、心を苦しくさせるだけで不安感や恐怖心、怯えが消えることはない。

自分を許すということはどういうことを言うのだろうかとなると、必要以上にいつまでも自分を責めないこと。

そして過去との決別をするために、ミスを反省したら後はまっすぐ前を向いて生きることに徹することです。

生涯を通じてミスのない人生なんて有りえないだろう。

パーフェクトである必要はないのです。ミスを犯した自分も自分であり、何かがうまくいった時の自分も自分、そのどちらも自分であるということだ。

人間の成長はミスの連続があって成しえるのだということです。

自分を許すことのできない人は真の愛の行為ができない。

何故なら執着が自身のなかにあるからだ。

それでは、悟道の境地から何故、「安らぎが」生まれるかというと、生死に対して拘りを持たなくなるからだといえるでしょう。

もっと言えば生老病死の迷いから離れているから心が平安になるのであるが、しかし、現実には個人差はあっても、生きることのなかで誰もが、うろたえ、恐れ、泣き、そして動揺して心の不安に苦悩しているのである。

だからこそ日頃から悟道というものを学び実践して心づくりをしておく必要がある。

具体的にいうと、

自分は何の為にこの地上に生まれてきたのかを知ること。

死後の自分の行くべき場所を知っておくこと。

人間の目的が何であるかがわかっていること。

心と肉体は別々であるが、この別々のものが連動して一つとなって働くことで人間生命体ちして役目を成すことができるということ。

自分の意志によって、自分の肉体をコントロールすることもできること。

同時に、自然現象はどんな作用でどう運ばれているかを知り、そのなかで生かされている生命体であることも悟っておかなければならない。

こうなると、心が安らいでない方がおかしいといえよう。

なかでも、いちばん大事なことは生老病死の迷いから離れることだ。

この関門を通ると、心は安らぎ、不退転の心が備わってくる。

すると、諸々の智慧が湧き出してくる。

必要があれば、その智慧はさまざまな角度から湧現して来る。

そうして、森羅万象の姿が大宇宙を統べる唯一の意識の下に動いていることが、はっきりと理解できる。

心の中の無限の可能性は、こうしてさまざまな形でその扉をひらいてくれる。

しかし、肉体を持ち、この地上で生活する以上は、努力と修行をやめることはできない。

たとえ心は安らいでも、正道(偏りのない調和された生き方)という日々の生活から離れることはできないものだ。

その正道を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正した時、心の悪魔は滅びるであろう。

それが肉体を持つ者の天命であり、修行でもあるからだ。

たとえ生老病死の迷いから解脱したとはいっても、人間としての修行は、休むことなく続いて行くのが、この世に生を頂いた人間である。

人間は、大自然が休みなく運動しているのと似ている。

心の安らぎは、執着の心からは決して得られない。

どんなに力んでも、知識が豊富でも得られない。

心の安らぎは、思念と行為を通してしか得られないものであるからだ。

大宇宙の法則という調和の規範を要にして、実践することによって、はじめて、物事の道理がわかり、価値ある真実が理解できてくる。

人によっては仕事をしているときが、いちばん安らいでいるという。

それは仕事に喜びを感じ、精神を統一させ、心を安定させるからだ。

だが、それだけでは老いてその仕事が後進に身を譲ることになると、その人はその途端に心が不安定になってこよう。

仕事は生きがいと安心を与えるが、仕事そのものは心の真の支えから、まだほど遠いものであるからだ。

何故なら仕事によって心が不安定になったり、安定したりということは、人間の心の本質でもあるが弱点でもあるからだ。

私たちは、もう一歩進めて、仕事の中の自分ではなく、仕事も自分もすべてを含めて、ブレない自分をつくるために、変わりのない、地球誕生からつづく法を拠り所とした安らぎであって欲しいのである。

生老病死の迷いと執着は、そうした中から、はっきりと超えることができ、不退転の心の安らぎは、そこから生じてくるものである。

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危険なカルト宗教への入信

阿含宗1

知識より体験!

知識はいろいろたくさん知っていることも大事です。知らなければ行うこともできないという場面もあるでしょう。

しかし、知識偏重の考えは危険である。

人並み以上に知識の豊かで、社会的にも上の立場で仕事をしている人が、間違った宗教にはまり込んで犯罪を犯す場合がある。

医師であった林○夫は父親が医師、母親が薬剤師の開業医の家に生まれた。小さい頃から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。専門は心臓血管外科。1989年2月(24年前)、○ーム真理教に入信。1990年1月に晴嵐荘病院を退職し、同年5月、妻、子供達と共に一家4人で出家信者になった。

妻も慶應大学医学部卒の医師で麻酔医であった。出家の際、目黒に所有していたマンションを売った額を含めた全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。

林〇夫は1977年、桐○靖雄の本に感化され、阿○宗の正式な信徒となり、約12年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んで○ーム真理教に入信している。

1995年、地下鉄サリン事件の実行犯として千代田線にサリンを撒布し2人を殺害、231人に重軽傷を負わせた。

同年の4月8日に石川県穴水町の路上で放置自転車を盗んだ容疑(窃盗罪)で逮捕された。事件直後、林は麻原彰晃が「地下鉄の騒ぎでオウムが疑われてるのは心外だ」と発言したことで麻原に対して不信感を抱いたと言う。

ここまでこなければ気づけないというのも視野の狭さ、思いこみの強さがあり、完全に心のバランスを見失っていたのだろう。

優しさが仇となり、自分が学んできた医学知識では治せない病気や心の病をどうしたら治せるのかという悩みが片寄った自らの心をつくってしまったといえる。

あまりにも知識偏重に陥り、人間としての冷静な判断力、常識的な心さえ見失い、結果的にカルトの邪教に入信してしまっているのである。

医学といういわば科学知識の頂点をゆく学問すらも、病気という現実の前には多くの問題を抱えているという事実である。

学問、知識が成せることにはある一定の限界があることも知っておかなければならない。

経験

私たちの生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない、といって学問知識の必要性は今更述べるまでもないが、要は私たちの毎日の経験が、私たちの実生活を活かしているということです。

いうなれば毎日の経験から生みだされた生活の智慧が、私たちを支えているのだ。

どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。

その何かとは経験である。

経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。

『昔から、覚えるより慣れろ。』という諺があるが、どんな職業でも一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。

大学を出て就職してもスグには役に立たない。

大学を出たからと言って、十人が十人、指導的地位に立つとは限らない。

中学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなしている人もいるし、私の同級生にも中卒ででありながら建設会社を立ち上げ社員数十名をかかえる立派な人間がいる。

こうした例はその人の経験と努力によって得られたものだ。

実社会での生活の智慧が、それを実現させたと言えるだろう。

本来、智慧とは何か。

智慧とは生きた経験の集積である。

その集積が縁にふれ、折にふれて、時々刻々変化する事象に対して、通常はヒラメキきとなって、人によってはもっと具体的に、適切な判断となって現れてくるものだ。

智慧は、知識や頭脳の働きからは生まれてこない。

智慧は、心から生じてくる。

不思議と頭にいっぱい知識が詰まっていると、その知識に拘っているうちは逆に智慧は生じ難い。

知識が智慧の湧出を押さえてしまうからだ。

智慧の宝庫は、潜在意識にある。

潜在意識が開くと、智慧が流れだしてくる。

先の〇ー真理教や、阿○宗などのカルト集団に到っては論外だが、正しい信仰をする者は広い視野を持たなければいけません。

心のせまい人が心を広くしようとするには、まず視野を広くすることから始めたほうがよい。

しかし、一つの事に拘り過ぎて偏ってしまうと視野を広くすることはできない。

心のせまい人とは要するに視野のせまい人のこという。

一方「もの知り」といわれる、いろんなことを知っている人がいます。

しかし、そういう人で、人格的にはどうか、と顔をしかめたくなるような人がいます。

「もの知り」の人の話は時には面白く感心することがありますが、深く人を感動させ、その感動がその人をして実行にまでかり立てるということはないのです。

しかし体験して身体で覚えている人の話は、深い感動があり、「よし、それなら自分もやろう」という行動にまでかり立てる力を持っています。

行動実践によってのみ、心を大きく成長させることができるのであって、知識だけでは心を大きく成長させることはないのです。

だから話を聞かれるなら体験した人の話を聞かれるほうが良いのです。

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「老犬ホーム」看取りまで飼えない・でも殺処分は…

老犬ホーム

私は幼い頃から大の犬好きでこれまで5頭を飼った。内2頭は捨てられたワンちゃんである。去年の暮れにハスキー犬の雑種を看取ったのを最後に飼うのを断念した。

自分が愛犬より先に病をしたら面倒をみれなくなるからである。

今朝は、朝日新聞の記事から愛犬の老後について転載させていただくことにした。

愛犬をお持ちの方は参考にしていただきたい。(老犬ホームと検索すれば多くのホームページがでてくる。)

【山下知子】犬を飼い続けられなくなった。でも殺処分は避けたい。そんな飼い主から犬を引き取り、死ぬまで面倒をみる「老犬ホーム」が、少しずつ広がっている。改正動物愛護管理法が先月施行され、需要が高まるという見方も出ている。

■最期の様子もメールで
丘の上に芝生のドッグランが広がる。2008年に開業した熊本県菊池市の老犬ホーム「トップ」。犬舎では35匹の犬がくつろぐ。寝たきりになった犬のため床には柔らかい布も。室内はエアコンで適温に保たれている。ここで暮らす犬の多くは14~15歳。人間で言えば90歳前後だ。

福岡市の女性会社員(26)は昨秋、小学生の頃から飼っていた15歳のオスの中型雑種犬を預けた。両親がアパートに移った後、一人暮らしをする自分のマンションに引き取ったが、日中は仕事で面倒をみられない。長崎県の祖父母宅に預けたが、犬の認知症で夜鳴きがひどくなり、半年で祖父母は音を上げた。

悩んだ末にインターネットで見つけたのがトップだ。罪悪感にさいなまれたが、「捨てるのとは違う」と自分に言い聞かせた。「面倒をみるのは限界。でも殺処分は絶対に考えられない。快適な施設で最期を迎えてほしいと思った」。毎週末、会いに行った。

犬は今月初旬に死んだ。前日に「体調悪化」の電話があり、最期までの様子がメールで逐一届いた。「手を尽くして面倒をみてくれて、感謝しています」。後悔はないという。

トップの料金は1匹あたり年36万円。当初の引受数は年2、3匹だったが、今年は9月までで30匹に上った。都市部からの依頼が多く、飼い主の4割は福岡県、5割は関東と関西だ。

預ける理由は、飼い主の入院や高齢者施設への入所が4割、犬の病気などが4割ほど。夜鳴きがひどく、近所の住民に訴訟を起こされかけた飼い主が犬を預けてきたこともあるという。

トップを運営する緒方心さん(36)は「動物を飼うということは、病気も老いも死も引き受けること。ただ、そうはいかない事情もある」と話す。
■各地で広がる

老犬ホームは近年、各地にできている。長崎市の「アリスの家」はペットホテルなどを手がける会社が営む。高齢者施設に入る飼い主から「預け先がない」と相談されたのがきっかけで09年に開業した。民家を改造し、約10匹を預かる。

和歌山県串本町にも11年に、大阪府八尾市でも05年に老犬ホームが開業した。神奈川県小田原市のアサワペットサービスは01年の設立。犬舎は当初、1棟だけだったが、今は3棟あり、さらに拡張する予定だ。

「家族関係が希薄化し、飼えなくなった犬を預けられる先が見つけにくくなっている。老犬ホームのニーズは今後高まるだろう」。犬の飼い方の啓発活動などをするNPO法人動物愛護社会化推進協会(大阪市)の西沢亮治事務局長は話す。ドッグフードの改良などで犬の寿命が延びていることが、老犬ホームの需要につながっているとみる。

ただ、中には悪質な業者もいる。

宇都宮市では09年、飼い主に「死ぬまで面倒を見る」と言って有料でペットを預かったNPO法人が、自治体に引き取らせていた問題が発覚した。

朝日新聞社

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蛇霊の憑依

霊能力に依存してはならない!

事例1・特に夜の寝る時間になると身体がザワザワと騒ぎ、気持ちが落ち着かなくなり、眠れない、眠っても熟睡できない、何度も目が覚める、という男性が訪ねてきた。

本人は自律神経失調症ではないか、不安神経症ではないかということで精神科にいって向精神薬を処方してもらったが、一向に変化はないという。

腰の内部にまで蛇霊が巻き付いていた。

私は男性の腰部(霊体)を手刀(霊的手刀)で切り開き、中にいる蛇霊を取り出し、切開した腰部を閉じて浄化をし処置し終った。この間五分。

その夜の男性はザワザワ感がなくなり、熟睡できているということだった。

結局、彼の心の不調和が呼び込んだものだったのである。

それでは何故、夜にザワザワ感が出るのかということですが、日中は表面意識で動いていることで潜在意識がそれほど働くことは少ないのだが、夜になって睡眠状態に入ると日中とは逆に想念領域を含む潜在意識のほうが表面化してくる。

このことが憑依している霊体が活発になるためである。

事例2・昭和五十四年頃の話しですが、ある霊能者が仏像を出したり、真珠を出したり、神前に供えた空の瓶の中に酒を出したりしていたという実話があります。

その当時、その人がPS学会の科学者達の研究の対象になっていたという。

科学者が研究の対象にするのはよいことですが、無知な信仰をする人達は、なにか不思議な霊能力を持っている人がいると、盲目的にその人を神さまみたいに信じてしまう傾向があります。

いかにそういった物質化現象が得意であっても、そのこと自体は何ら人間の救済には用を成さないのであり、むしろ不要なパフォーマンスでしかなく、そんなことで人の目を引いたり、驚かせてみてもどれほどの価値でもない。

さて、きょうの本題ですが、人間は多少ものを当てられたりすると、何でもその人に聞こうとして、自分で判断するということをしない傾向にあるものだが、それもヌミノーゼ心理というもので、正常な心理状態ではありません。

霊能力が存在することや、可能だということの知識を知ったり、それを事実として認めても、霊能力を行う人が直ちに優れた人間であるということにはならないのですが、ともするとその霊能力者に親しく言葉をかけられたとか握手してもらったとすると、急に有頂天になったり、自分を特別視したり、人よりも偉くなったように思ってしまう人が多いようです。

その人に近いからといって、なにも自分の人間性が急に立派になるわけではないはずですが、他愛もないことで浮ついてしまう。

なにを学ぶか

我が心の師は、その霊能力者と三度ほど会ったがそれ以降は会うことをやめたという。

それはその霊能力者が、当てごとばかりして人生の心の在り方、即ち法を説かないし、師の目の前で夫婦げんかを始めたからだという。

霊能力者も同じ人間だから、それは夫婦げんかもするさ、という人があるかもわかりませんが、来客があって一方では神棚に向かって祈りながら、なにもそんな時に夫婦げんかをしなくてもいいのではないのか?ということだった。

その霊能者も小さい時から苦労して滝に打たれたりして修行されたということでありましたが、社会的な良識、教養がないのですと師は言い残しておられる。

我が心の師は「その人の言っていることと、やっていることが違って一致しない人のいうことを信じてはならない」と、くり返しいっておられました。

ふしぎな霊能力があるということを知った人達は、今までよりも広い視野を持ち、そのことにつづいて人生の神秘さについて、永遠に「なぜなぜ」と追求して、その知識は、その人に一層高い道徳性を与え、その上に調和ある人生を築くようになってゆかなければならないのであって、その霊能力者を神さまみたいに信じてしまうということはしてはならないのである。

前に一度とりあげたテーマでもありますが、ヌミノーゼ心理についてきょうもう一度取り上げて述べてみます。

邪教から抜け出せないヌミノーゼ心理について

先ず最初に申し上げておきたいのですが、教祖を神格化している宗教は邪教であるということ。

その教団によっては教祖の写真を飾り、崇拝の祈りをさせていたり、作りあげた功績や名誉を教団のニュースとして写真入りで掲示して祭り上げているところもある。

教祖は、どれほど悟って魂のステージ(霊格)が高くても神でなくて人間であるということ。

神理を正しく知っている教祖は、周囲が神格化しようとするとそれを許さないし、周囲が神格化することを許し、自分が神様になって有頂天でいる教祖は、神理がわかっていないということだ。

教祖を神格化し、盲信狂信をして、正しい知性と理性、あるいは判断能力を失わしめるのがヌミノーゼ心理である。

だから、ヌミノーゼ心理を克服しないと、正しい宗教の信仰はできない。

かつて400年ほど前にヨーロッパで、神の名によるきわめて残酷な宗教戦争が行なわれたことがある。

カトリック教から分離したキリスト諸派であるプロテスタントとの間で起きたことであるが、政治的利害も絡み悲しい戦争となった背景があった。

さて、日本の新興宗教の信者で、これが信仰をしている人達のやることであろうかと思われるような、非常識きわまりない、非人情、非人間的な折伏(勧誘)や、他の宗教の信者との争いなどが行なわれたのも、ヌミノーゼ心理を持っていることが原因といえる。

ヌミノーゼ心理はなぜ起るか。

人間は、なにか神秘的なものに憧れ、できればそういう力を自分も持ちたいと思うものです。ところが、そういう心は、自分を自分で信ずることができない自立性のない心の弱
い人に多いところも否定できない。

具体的には能力に憧れ、望み、劣等感、罪悪感、無力感、無能力感などを持っている人の場合が多い。

また反面、無力感、無能力感、劣等感などの反動、裏返しとして、神秘的な力を身につけて、その力を人に誇示し、あるいは利用して権力を持ちたいと思っているような、極端に自己顕示欲の強い者ほどヌミノーゼ心理に陥りやすい。

だから、ヌミノーゼ心理に陥る者は、いわば一種の精神的アンバランスな人間であって、健全な心の持ち主とはいいがたいのである。

このようなヌミノーゼ心理に陥った精神アンバランスな者を、日本の宗教団体は、信仰が純粋であるといっているが、とんでもない間違いを犯している。

『病気が治らないのは信心が足りないからだ』、『生活が豊かにならないのは拝まないからだ』、『疑問や不信をもってはならない』と正しい判断力や疑問をなくさせて、盲目的に狂信させる宗教は邪教であり、正しい判断精神をなくして盲信狂信させるのがヌミノーゼ心理である。

ヌミノーゼ心理に陥った者の集団では、神秘力を身につけて自己顕示したいと思っている権力志向型の者が神秘力に憧れていて、無力、無能力感を脱し切れず、力強く自分を指導してくれる者が現われることを待っている気の弱い者を、思いのままに支配するという現象が起ってくる。

かつての〇ー〇真理教もそれの最たるものである。

ヌミノーゼ心理とエゴイズム(利己主義)

強力に教祖を神格化し、教祖の力を背景にして自分の権力欲、支配欲を満足させようと思っている者は、しきりに教祖の機嫌をとって、そうでない者、そこまでしきれない者達を支配してゆくという支配体制が、組織の中に現われてくるものである。

信仰を持ちながら、教団内において仲間の足の引っ張り合い、誹謗、中傷、陰口、まさに心の醜(みにく)い者たちである。

そうして、本当は教祖自身の間違いであっても信者達は、「教祖がそんなことをいわれるはずがない。側近が悪いのである」という形の批判が出てくるようになるのだ。

ヌミノーゼ心理は、次のようなものに心をひきつけられる心理状態から、その人の心の隙に起ってくる。

深い崇高なもの。

尊厳で偉大なもの。

人に祝福を与え、それを犯す者には罰が当ると考えられているもの。

人を畏怖戦慄させるもの。

なぜかわからないがゾッとするようなもの。

うす気味の悪いもの。

人を恐れさせ遠ざけながら、なんらかの点でひきつけるもの。

ありふれていないもの。

見なれていないもの。

日常のレベルを超えたもの。

このような力を持っている者があると、その人物にあやかりたいと思い、また、その人物を異常に対し神秘化し、神格化し、絶対化して、その人物と自分とを一体として見ようとする自己同一化が起る。

それがヌミノーゼ心理である。

ヌミノーゼ心理が起ると、各人はそれぞれに、教祖が本来はそのような力は持っていないのにもかかわらず、こういう力も持っていられるはずだと勝手に想像し、その想像を現実のものと錯覚し、その錯覚から起る異常神秘力を持っているものという想像は、ますます膨れあがり、そのため、盲信狂信がさらに進むことになる。

指導者によっては「あなたにも同じ力が授けられますよ。修行によって身につけられますよ。」などと扇動し、つなぎとめようとする思惑を持つものもいる。

そういわれると指導者を神聖視し、神秘化し、これに反対する者、従わない者を、神に対する反逆者すなわち悪魔だ、異端者だ、敵だとみて、神の前にはそのような敵の存在は一切許されないとして、批判者を排除、抹殺しようとする。

このような現象は組織のなかでは起こりやすものであるが、以上のような心理が起るから宗教戦争、また宗教団体間の闘争は残酷なものになるのである。

神と信じている教祖への自己同一化が、女の人の場合には、貞操を捧げることになんの抵抗も感じさせなくさせるケースもある。

それどころか、むしろそれを喜びとするようにさえなるのであるが、教祖の中には、それを利用して、神を喜ばせると罪が消えるという口実で、女性を犯す者が出てきたりするが、このような話しは枚挙に暇がない。

一人の人間として愛をもって人を愛するのではなく、神という美名のもとに悪用した行為は論外であろう。

こういう場合は教祖に貞操を捧げた女に全く罪悪感は起らないのであるが、教祖達が女性スキャンダル問題を起すのはこのような心理状態からである。

女性が教祖として神格化されると、男性が奉仕することになる。だから女性の教祖の周囲に集まる男性に、男らしい男がいることはない。

自分が信じている信仰を一番正しいと信ずるあまりに、そう信じたい為に、自分の信仰以外の信仰をしている人が敵にみえたり、不幸にみえたりするのは、その人がヌミノーゼ心理に陥っているからとみてよいだろう。

ヌミノーゼ心理に陥っている宗教家は、他の人や他の教団の話は絶対に聞いてはならぬといい、違反するとその行為は神にそむくものだとして、「罰が当る」という。

このように考えてゆくと、現在の日本の宗教団体の指導者、幹部、信者でヌミノーゼ心理に陥っていない人は殆どいない、といってもよいかもしれない。

自分を神であると思っている教祖は、自分のいうことがすべて神の言葉だと考えているから、外の人の話は聞いてはならぬといい、昨日いったことと今日いったことが違っていても、それもわからなくなってしまっている。

ヌミノーゼ心理は偏向・倒錯心理

神格化された人物への信仰(メシヤ信仰)は時間とともに狂信盲信化される傾向にある。

神格化された人物が語ること、また、そこから出た情報は、すべて正しいこととして無批判に信じられ、信じない者は神の敵であり、「罰が当る」と勝手に思い込むから、いったん信じ込むと、なかなか離れられないことになる。

離れることへの先に不安を感じ、見えないことへ恐怖するのである。

神格化された人物を少しでも傷つけるか、また否定すると思われる情報、また、狂信盲信している人達を自覚させ、批判力を与えると思われるような情報は、頭から「悪魔の声」だとして拒否するか、無視しようとする。

だから、ヌミノーゼ心理者の集団の中では「悪魔だ」といわれた人の方が正常だということがいえる場合が多々ある。

そうして誰が考えても正しい意見をいってる人達が、その教団をやめてゆくという現象が起ってくる。

ヌミノーゼ心理者の集団では、正しいこと、真実であることが拒否され排除され、自分達に都合のよい情報だけを集め、そういう情報を提供する人間のみを重要視し、信用するということになる。

この心理状態が強くなると、正しい健全な情報は通らなくなり、正しい意見をいう者は発言を封じられ、遠ざけられ、寄りつけなくさせられる。

そしてますます閉鎖的になり、公開の場で第三者を交えて話をするというようなオープンな態度は絶対にとられなくなる。

教祖を神格化し、その神に仕える聖なる使徒、と自らを考える弟子達は、自分達に反対意見を述べる者を神に対する反逆者だとみなし、神に反逆する者はその存在を許さず、滅ぼすのが正しいと考えるから、その排除の仕方は、計画的で執拗で陰険だ。

ヌミノーゼ心理を持っている者も良心はあるのであるから、内心間違っていたと気づいたとしても、その間違いを認めて修正するほどの勇気も持たないから、依然として自分を正しいと思わせようとして虚勢を張るし、自分の非を突かれないように身構えて人を疑う心が強くなり攻撃的になる。

内心、すでに自分の非を認めていても、それを公表して修正する勇気を持たない者は、常に周囲から「あなたのやっていることは正しいのです」といってもらわないと不安になる。

それでいつも取巻きや、親衛隊を連れて歩くということになる。一人で歩くことはこわいのだ。

また、ヌミノーゼ心理は偏向した倒錯心理であるのに、そのことに気づかず、自分を神の味方だと信じているから、自分達に同調しない者を敵だといい、「悪魔」だという。

そのようにして自ら敵対関係をつくり出していながら相手が自分を攻撃すると考えてしまう。

その宗教団体にヌミノーゼ心理になった信者がふえてくると、そのヌミノーゼ心理になった者達が自分達に都合の悪い者を排除しようとして混乱が起り、やがて分裂することになる。

こういう時に神格化された教祖は、必ずヌミノーゼ心理の集団を正統派とするから、そういう教団では内部に混乱が起るたびに正しい意見を持つ信者は排除されて脱会してゆくことになる。

教団組織、宗教団体が永くなるとどの教団でも腐敗堕落してゆくのはそういうわけである。

「メシヤ信仰」はヌミノーゼ心理がつくり出したものだ。

メシヤ信仰はいつの場合でも混乱と争いを生み出し、起ってば消えしてきた。そのことは西洋の「メシヤ信仰」の歴史が教えている。

ヌミノーゼ心理者は、いかに自分を正当化しても、絶対に調和ある世界をつくり出すことはできない。

自分は神の側に所属する聖なる使徒であって、相手はまだ神の恩恵にあたらないかわいそうな者であると見るから、相手に一方的に話すだけで、相手の話を静かに聞こうという心の余裕など全くないのである。

宗教の有るべき姿としては、メシヤ(教祖)信仰ではなく、下記三項目の行いでなければならない。

(1)自らの心を調和するために学ぶ教義であること。

(2)人の道の実践であり、推進することを第一義としなければならないということ。

(3)唯一の存在である神への感謝を忘れたら宗教ではなくなること。

以上、信仰を持つ人々へ向けては警鐘として述べさせていただいた。教祖を崇拝させるものは邪教であること。

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クリスチャンの不安と恐怖心 へのフィードバック

祈り

慶子 のコメント:2013年10月25日 9:57 PM

観童様。 私が問いかけましたことにお答え下さいましてありがとうございます。

原罪について仏教のいう煩悩と同義語であるという言葉を読みまして、喉が渇いた時に飲み干す水のように、何故こんなにもスーッと心に入っていくのだろうと不思議でなりません。

禁断の実とは、実際は木の実のことではなく、肉体にまつわる自己保存の想念であり、自己本意の意識だということだったのですね。

私は30年の長きにわたって何を学んできたのでしょうか。

ほんとうに恥ずかしく思います。

聖書を読んでその言葉の字面だけで抽象的なまま理解した気になっていただけのような気がいたします。

観童さまのブログにあるように、まさに観念の遊戯でした。

いざとなると全くといってよいほど無力な自分を思い知らされることが多かったのです。

いつも変わりなく教会に通い、讃美歌を歌い、聖書を読むという信仰生活をしていても暗い家族でした。

「他からいただいた明るさやエネルギーは、失われやすいものですが、自ら作り出した心の明るさは決して失われることなく、無限に輝くものです。」

私は観童様のこの言葉が一番心に響きました。

私は求めることをしていて、自ら灯すことをしていませんでした。

上手に表現できませんが、これまでの信仰生活に大きなヒントをいただきました。

とても心が安らいでおります。

どうもありがとうございます。

これからもブログを訪問して学ばせて頂きたいと思っております。

慶子

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諸法無我の法則

 

ハタケシメジ

 

初冠雪以来、見事に色づき黄色や赤、黄緑と自然の営みを鮮烈に肌で感じる季節となった。

岩手山麓で暮らす我が家の庭ではハタケシメジが採れて食卓をにぎわしてくれる。

こうして春夏秋冬を繰り返すなかで、人類はどれほど多くの感動と、深い悲しみを味わい体験してきたのだろうか。

歴史は繰返すといいますが、大きな流れはそうであっても、人の一生は常に新たな経験に彩られ、喜怒哀楽があり、苦楽あり、さまざまな人生を描いていくのが定めのようです。

だが、新しい経験が満ちているほど私たちの心は豊となり、以前にも増して、より広い寛容な心がひらいていくものでしょう。

試行錯誤の人生は、人によっては、迷妄と蹉跌(さてつ・物事がうまくいかない)を与え、かえって心を小さくさせ、人生の意義と目的とを見失わせる場合もあるものです。

否、そうした人生が意外と多いと思います。

多くの人から、ご相談をいただき、私の64年間の人生における体験と気づきを元にアドバイスをさせていただいていますが、ご自分の生き方や、価値観が間違っていたことに気づかれた方々は、生活のなかに確実に少しづつの努力をすることで改善されていきます。

しかし、頭で理解しただけで悟ったような気分でいても、折角の気づきを実践しない生き方は、相も変わらず苦悩の人生を歩んでいるのである。

望まれるままに、何度となく同じことを繰り返し、繰り返しアドバイスしても、その時は理解できたようなことを言いながら、同じところでグルグルと回るだけで一向に前に進めない人もいるのだが、こういう人は自分の業に翻弄されている部分も大きく影響しているのであり、よほど心して決心しなければそのスパイラルから抜け出せないだろう。

こういう人に共通するのはいつも「他人のせい」「他人の批判」に執着して人を裁いているという点である。

宇宙大自然の真理や、物事の真理は、ものの真実、事実の上にあって、人間の恣意(しい・勝手な解釈)によって変えられたり、選択されるものではありません。

諸法は無我であり、正しい生き方の法則は、無我の上に成立っています。

諸法とは、ただ単に宗教的な教えに限らず、諸々の法則、即ち大宇宙、小宇宙を動かし、秩序を保っているところの摂理のことであり、一切のものはすべて循環という法則の下にあるということ。

無我とは、決して意思がないというのではありません。無の境地という言われているような抽象的なものではなく、まして、自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道(偏りがない)且つ、私利私欲がない自分の心ということ。

法則に欲望や自分があったら法則になりません。

法則とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序です。

太陽の熱、光に好き嫌いの感情があったらどうなるでしょう、一切の生物は生きてはいけません。

心の光

諸法無我、つまり森羅万象は、中道(偏りがない、調和、バランス)にそって、生かされ、生きているのです。

私たちの心も、輝く魂として諸法無我にそって生きなければならないでしょう。

たとえば、自殺行為は人間の特権という考え方があります。

また、これを支持し、美化する人もいます。

では、そうした支持する人が、ただちにその特権を行使できるかといいますと、おそらく二の足を踏むでしょう。

考え方としてそう理解できても、自殺は原生命に対する反逆だからです。

特権という意味は、動物には自殺の選択権がないことからきているようです。

つまり、動物は、自己を客体としてとらえることができず、生理的、本能的、主観的にしか生きられない。

人間は、自己を客体としてながめ、自らの生命を絶つことによって、自分の意思を実現することが可能というわけです。これは原生命への冒涜であってもです。

人間の自由意思が、さまざまな価値観を生み出し、原生命さえ否定するに至っては、もはや論ずるなにものもありません。

こうした考えの基礎は、人生をこの世だけと見、生命の不変、人生の目的を単に頭脳的にしか解決できないためと考えます。

これまで述べてきた法則について、読者はさまざまなとらえ方をしていると思いますが、そのとらえ方が固定化したり、文字にとらわれて観念化されてきますと法則は死んでしまいますので、やはり、理解でき、納得のいくことであれば、生活の中に活かして実践することが欠かせない条件である。

正しい法則には必ず偏りのない説明が必要であり、その説明とは時代や主義思想に関係なく、この地球が存在し、大宇宙が存在するところに存在しており、そうしてそれは、不変の論理によって貫かれているものでなければなりません。

法則の論理、説明の矛盾があれば、それは法則でもなんでもありません。

もっとも論理といっても、三次元的に理解できるものと、できないものがあります。

その点の理解は各人の体験と其々の心のステージによって補足されるものです。

この点が人間の知的な論理と、法則の論理の相違点であり、われわれの肉体は、人間の自由意思の産物ではありません。

人間の意識が宇宙意識にふれれば、この点の理由は釈然としますが、すべては天のはからいによって、精神も肉体も創造されたのです。

人間は、生かされている事実を忘れ、自由意思が行使できるからといって、自己否定の自殺ほど無知な行為はありません。

われわれの人生は、生かされている事実のもとで、どう、よりよく生きるか、そして、生かされている感動を、どう報いるかに、動物と異なる人間のあり方があるのです。

法則は、ものの真実と大地の上に立つものです。

素朴で平凡な事実の上に、無我の法則があらゆる生命を生かしています。

法則の論理は、こうした事実をもとにして、われわれに教えています。

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クリスチャンの不安と恐怖心

魂の輝き

慶子さんのコメント 2013年10月22日 11:36 PM

初めまして。慶子と申します。
私は30歳の独身女性です。
結婚に対して不安感と恐怖心があります。

私の親は敬虔なクリスチャンで、私はその二世として子供の頃から教会に行っていました。

物心の付いた頃から30年近く教義を学び、生活のなかに信仰がありました。

しかし、年齢と共に信仰ってなんだろう。家族ってなんだろう?という疑問が強くなってきたところです。

その理由ですが、父は母に対して非常に厳しく、家族に対して厳格すぎて家のなかがいつも明るさがなく、私自身も家の外にいる時のほうが心の安らぎを覚えるのです。

父の姿を見て育ってきたことで、他の男性の姿を父と重ねてしまい、男性を見る目が偏見に満ちていると気づき、これではいけないと思うのですが、自分の心のコントロールができず困っております。

お尋ねします。
原罪とは何をいうのでしょうか?

原罪概念の前提となっているアダム(男)とイブ(女)による罪は、創世記3章に記されてはいるのですが、その真意が解りません。

観童様は、仏教のことを時折引用されて解りやすく述べていらっしゃるようですが、キリスト教の教えについてお尋ねするのは間違っているのかもしれません。

もし、ご説明、お導きいただけるのであればご教示願えませんでしょうか。

大変不躾ではございますが、何卒よろしくお願いいたします。

慶子

あなたがくださったコメントの中には注目するべきポイントが何か所かあります。

1・結婚に対して不安感と恐怖心がある。

2・信仰って何だろう?

3・家族って何だろう?

4・家族に明るさがない。

5・原罪という言葉の真意

聖書には原罪という言葉が書かれてありますが、人間はどうして原罪を負って生活するようになったのでしょうか。

先ず、人類の祖先は旧約聖書に象徴的ストーリーとして描かれています。

一方、同じように日本の神話の伝承が「古事記」「日本書紀」「風土記」などの記述によってもなされてきました。

エデンの園でアダム(男)とエバ(女)が神の保護の下で楽しい安心した日々を送っていました。

そのうち、神の楽園に蛇が現われ、エバに禁断の木の実を食べよといいます。

エバは好奇心にさそわれ、蛇のささやきをきいてしまう。

禁断の実を囗(欲望、エゴ)にしたエバは、その実をアダムにもすすめます。

アダムは、神の怒りを恐れ食べまいとしますが、エバのすすめで、彼までもそれを食べてしまいます。

二人は禁断の実を食べると、いままで経験もしない自分を意識する。

それまでの二人は、神から生かされたままの人間であって、童子のような安らかな心を持っていたのですが、禁断の実を食べることによって、自分以外の対象を発見し、そして自分を意識するようになります。

つまり自他の発見であり、それはまた、自己保存につながるエゴの自分であります。

間もなく、神の怒りが始まります。

明るくひらかれていた青空を、急に黒雲がおおい、雷鳴がとどろき、稲妻がエデンの園を襲います。

二人は、楽園に身をかくしますが、雷鳴と稲妻は彼らの姿をとらえて離しません。

ついに二人は楽園にとどまることができず、楽園を追われ、流浪の旅が始まるのです。

人間の原罪は、こうしてつくられたわけです。

エデンの園とは、あの世の天上界であり、また、かつての地上天国であったわけです。

禁断の実とは、肉体にまつわる自己保存の想念であり、自己本位の意識です。

蛇は執念、執着の動物であり、それはまたカルマ(業)の象徴を意味します。

つまり、蛇が前に進むには、うねって蛇行しなければなりません。

蛇行は波形を意味し、波形は運動のリズムでもあります。

エネルギーの運動は、すべて波形・波動の形をとるのですが、蛇の波形はもっとも荒く、それはカルマ(業)の波形をかたどっているのです。

つまり、蛇にそそのかされたアダムとエバは、自己保存という神意をはずれた原罪を心に宿したため、執着というカルマの運動をつづけねばならなくなったわけです。

結婚に対して不安感や恐怖心がある。

これはあなたのお父さんの影響がそうさせたところは否定できないのですが、しかし、そのことにあなた自身が拘りを持ってしまうと生涯においてこの不安感と恐怖心から抜けられないということになってしまいます。

あなたの人生はお父さんの人生ではありません。あなたはご自分の人生を歩かれたら良いのです。やがていつか結婚されてご夫婦の生活に入れば、あなたが思っていたような不安感や恐怖心は立ち消えてしまうでしょう。

他の男性とお父さんを重ねてみてしまうあなたの心は偏った物事の見方であり、正しくはありません。

お父さんの偏った価値観、自己中心的言動、すなわち原罪によって、あなたの心を委縮させることなど愚かなことです。

家族

家族って何だろう?

家長であり、一家の大黒柱である夫も、家族の太陽である妻も、また子供たちも、みんなが相手を思いやり、気遣い、心に温もりを忘れずに接するならば、家庭の中が暗くなりようがないはずである。

家族といえども、それぞれが目指すものがあり、生きがいを見出すものもあって然るべきではあるが、社会の中で最小単位の家族内で身勝手な思いや、価値観によって、自己中心的な言動をするならば全くもって家族の用を成さなくなる。

社会において信頼や尊敬を得る人は家庭内でも同じように愛と慈しみの溢れた生活をしているはずである。

家庭の在り方は社会の礎といえるだろう。

家族に明るさがない。

夜の照明は電気によるエネルギーによって可能となっていますが、これは有限のエネルギーであります。

しかし、真の家族の明るさは電気エネルギーが如何に強くても得られるものではない。

家族に明るさがないと言ってはいても明るくなるだろうか?

他から頂いた明るさやエネルギーは、失われやすいものですが、自ら作り出した心の明るさは決して失われることなく、無限に輝くものであります。

お父さんに心を向けすぎて不満をもつより、自分自身の心を輝かせ、家族を照らすぐらいの気概をもっても良いのではありませんか。

「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸に響かない。」

「暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょう。」

原罪という言葉の真意

原罪という言葉を仏教の面からみると、五官にまつわる六根(眼、耳、鼻、舌、身と意識)であり、煩悩であります。

肉体を中心としたものの考え方が、さまざまな執着をつくり、その執着の輪廻に人間が陥って、どうにも動きがとれなくなった人間の悲しい運命をいうのであります。

わかってはいるけど、抑えがきかない心というカルマ(業)の輪廻(繰り返し)こそが、執着の運動であり、それは蛇の前進運動が象徴的に語っているのです。

原罪を断ち切るには、正しい法則、即ち、偏りのない中道の生活にこそその道が残されているといえるでしょう。

調和された正道の生活と行為しかありません。

反省と調和の生活。

自己保存にもとづく悪を思わぬ生活。

悪の種を心にまかぬ生活。

これこそが、原罪から離れ、安心と調和の明日を約束する生活です。

もうお解りでしょう。

原罪とは仏教でいうとこの煩悩と同義語と理解してよいでしょう。

心の光

家庭の明るさ、調和は求めるものではなく、自らが灯してゆくものでなければならない。

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虚しい虚栄心

霊体

いつも相談者と対峙し、問題を解決するべく、話すことの内容に心を傾けるのだが、本心を見せて事の経緯を語る人もいれば、自分の本心を見せまいとして語る人もいる。

多くの人々は、自分の心の欠点を他人に見せたくないため、常に欠点をカバーしようと意識が働き、却って欠点を上乗せしてしまう。

自らを飾ろうとする自己保存の心は、逆に自分の心に暗い想念の曇りを作ってしまう結果となるものだ。

自分の心と裏腹に、外見的に飾る心は、自分自身に対しても、他人に対してもむなしい淋しさを感じさせることになるだろう。

自己保存の本能によって、他人に嘘をつく。

嘘は嘘を生み、自分自身を小さな殼の中に閉じこめてしまう。

また、他人を批判することで自分を優位に見せようとする心理、自分を正当化しようとする虚飾。

それは哀れな境地だ。

しかし中には、女性が美しくありたいと思う本能、着物や化粧によって外見への調和を計ろうとする場合もあるでしょう。

より美しく見せようとする行為は、むしろ自分自身と外見への調和であり自然の姿でもあろう。

だがそれも、自分でできる範囲の美しさの表現で良いのではないだろうか。

うつ病で自分の体が思うようにいかず、毎日の生活に支障があるほど辛い思いをしている若い子持ちの主婦が、自分の目元をもっとスッキリさせたいといって下見のために、東京まで3時間を掛けて往復したといっていた。

勿論、私は反対したのだが、彼女は美への執着のために、体のことも考えず強行したのだった。それから一週間ほど動けなかったと話していた。

十分に恵まれてきれいな人であるのに本人は不満なのであろう。

執着とは恐ろしいものである。

あるいはまた、人間、いかに苦しい病床にあろうとも、見舞客に対し笑顔を見せるというような思いやりのある人もいたが、こういった心掛けも、相手に対する報恩の表現といえよう。

なぜなら、それは肉体の故障であって、心の欠陥ではないからである。

病気というものも、原因があるから結果となって現象化されている状態であり、原因追及、反省の良い機会だと捉えたいものだ

「嘘も方便」とは、それが第三者に対しての調和へのものであるならば、慈悲の姿といえ、菩薩心の表われともいえるだろう。

良く、心の中で恨み、妬み、そしり、怒りを持ちながら、相手に対面するとその心とは裏腹な言動を以って褒めたり、媚びたりする人がいるが、これは正しい心の在り方、調和ではなく自己保存の虚心としかいえない。

相手の行為と自分の不調和について語り合い、お互いに了解し合うことが、調和への第一歩であり心のこだわりを捨て去ることになるだろう。

それに反することは、正しく見、正しく聴き、正しく語ることに反する結果となる。

自分の虚栄心を行動で示したところで、苦しみを造る結果のみでは虚しいものだ。

「武士は食わねど高揚子」という武士道の精神がある。

しかし、これは日本的なもので、真理にはほど遠い一つの虚栄心にしかすぎず、自己保存以外のなにものでもなく、調和を害する考え方である。

心に嘘のない生活、それが人間らしい生き方であるからだ。

心に在ることを、素直に謙虚に語れる人々は、想念に曇りを造らない心の美しい人々である。

なぜなら、心に曇りがないため苦しみや悲しみの原因を造らないし、その心は神仏の光と同じく全身が覆われているからだ。

人は、苦しみや悲しみの結果を知っているなら、それを造り出す”縁”に触れないことである。

正しい生き方の法則は、こうした偏りのない自分を造り出すための道であり、魂を浄化して行くための神意であるといえる。

しかし、地上生活はどうしても物質や経済、そして肉体中心の生き方となる為に、自分の中にある神性仏性を忘れ去ってしまうのである。

それは、この世とあの世への等速運動的な、慣性の法則と同じ状態が、私達の魂の修正過程に起こる現象である。

過去世においても、この地上界で生活をしていたときの物質的な執着心、自我我欲で神性仏性を失った人々の世界だからであろう。

また、指導霊や守護霊達は、私達がこの地球上に生まれてきてから現在も将来も側に付いている天上界の人々であるから、地上で生きている人間の性格や特徴をすべて知っている。

私たちの魂は、肉体的な外面に出ない意識の記録として、すべて正しく色別に記録されており、否定することは不可能である。

これらの事実は、夢や錯覚や自己催眠では決してない。

としたら、これを非科学的として否定することができる論拠はなにもない。

もし否定する者がいるとしたなら、その人々は本当の自分を知っているのだろうか。

否定は結論であって、探求を中止することだ。

今から百数十年前に、テレビジョンやラジオ、無線機の実用化を想像できただろうか。

科学も魂の四次元世界も、否定する前に疑問を持つことだ。

疑問を持ったら自分自身が探求し、科学することによってその解答を得ることが必要だ。

多くの霊的現象が現われている事実を、誰も否定することはできないであろう。

心を忘れ去り、頭のみで学んだ知識によって否定する者は、智に溺れた、不自然なものへのノスタルジア(郷愁)を持つ者にしかすぎない。

自己慢心、増上慢、このような人々は、容易に他の意見を聞かず、自己の小さく狭い考えを主張した人生の極端を歩む者達である。

他人の生命を軽んじ、いかなる犠牲をも強いる人々である。

正しい結論は、自ら体験をして、あらゆる角度から探究をし、疑問を解明してこそ出るというものだ。

根拠のない否定は、自らをも否定することになろう。

人生は不可解なものではなく、自分自身の心の在り方と行為が、難解にしてしまっただけなのだ。

また永い歴史と、人間の智と意の産物が、真の摂理という宝庫の扉を閉ざしてしまっただけなのだ。

私たちは自分の心の内にある輝ける神性仏性に気づかなくてはならない。

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固体・液体・気体・水の三態にみる法則

水

正しい法則とは、どういうことをいうのだろか。

一口に正しい法則といっても、これをどう理解してよいかわからないという人もいるようですから、今朝は簡単に、わかりやすく要約して説明してみましょう。

とは正しい秩序をいいます。法という文字は(さんずい)に去る、と書きます。

(さんずい)は水ですから、法という字は水が去るとなります。

水は低きに流れ、高きに流れることはありません。

低きに流れることによって、自然の理にかない、自然の秩序にしたがっています。

水が去るとは、水自体が自然の条理にかなって生きていますので、水の姿は自然の秩序をあらわしている、ということになります。

漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物の事象を実によくあらわしているといえるでしょう。

水は低きに流れることによって、常に清らかさを保っています。

山水の流れは冷く、清らかです。

自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く、澄んでいます。

もし、この水が流れを止め、一ヵ所にとどまるとすれば、水質はにごり、飲み水の用にさえたたなくなってきます。

人の心もこれと同じ条理にしたがい働いています。

物に執着し、心にとらわれが多くなりますと、その心はけがれ、ものの用に役立たなくなってきます。

水が一か所に滞って濁るようにです。

その濁りとは、ねたみ、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望に心がとらわれることで、自分自身の心が不安定になり、人との調和もうまくいかなくなってきます。

とは、この意味で、心にさまざまな執着を持たぬこと、とらわれをつくらぬことです。

ここで注意したいことは、とらわれということを曲解し、人によっては、文字の観念に酔い、好き勝手なことをしても、とらわれなければよい、というふうに考える人もいるが、これは大変な誤解です。

とらわれとは物に執着しないことですが、同時にそれは自然の法にしたがうということを意味しています。

法とは、文字通り秩序をいいます。

水の流れをいいます。

水が正しく流れるから、水としての価値を生み、万物が生かされているのです。

また法というものは、循環しています。

水は固体、液体、気体となって天地の間を循環し、地上を潤しています。

こうした正しい循環が万物を生かし、そしてまた水の生命を永遠に保ちつづけているのです。

心にも法、つまり秩序が、条理が必要だということ。

正しい法則とは、水の流れのようにとらわれがなく、万物を生かしながら、正しい循環をくりかえし、水自体の生命をも永遠に生かしているものをいうわけです。

また水自体の生命が永遠であるということは、水の質量に変化のないことを意味します。

つまり、不増不減という言葉が表すように、増えもしなければ減りもしないということです。

それは、まさに物に片寄らない中道に水が生きているからといえるでしょう。

こういう自然の条理、秩序というものを私たちの現実の生活に当てはめますと、物に執着し、心が片寄ると苦しみとなって現われることが解ると思います。

心が片寄ると、自分も苦しく、周囲もまた暗い雰囲気に包まれてきます。

これでは自分も生きないし、周囲も明るく生きられません。

自分を生かし、他を生かすには、正しい法則にそった中道の生き方、つまり物にとらわれない水の流れのように生きてこそ、自分を生かし、他をも生かすことになります。

他を生かすとはほかならぬ愛のあらわれです。

ですから、正しい法則に生きるとは、愛に生きることと同義語になるわけです。

物にとらわれず、清冽な水のように他を生かす愛の行為こそ、正しい法則の要(かなめ)であり、正しい法則の神髄といえるでしょう。

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