諸法無我の法則
初冠雪以来、見事に色づき黄色や赤、黄緑と自然の営みを鮮烈に肌で感じる季節となった。
岩手山麓で暮らす我が家の庭ではハタケシメジが採れて食卓をにぎわしてくれる。
こうして春夏秋冬を繰り返すなかで、人類はどれほど多くの感動と、深い悲しみを味わい体験してきたのだろうか。
歴史は繰返すといいますが、大きな流れはそうであっても、人の一生は常に新たな経験に彩られ、喜怒哀楽があり、苦楽あり、さまざまな人生を描いていくのが定めのようです。
だが、新しい経験が満ちているほど私たちの心は豊となり、以前にも増して、より広い寛容な心がひらいていくものでしょう。
試行錯誤の人生は、人によっては、迷妄と蹉跌(さてつ・物事がうまくいかない)を与え、かえって心を小さくさせ、人生の意義と目的とを見失わせる場合もあるものです。
否、そうした人生が意外と多いと思います。
多くの人から、ご相談をいただき、私の64年間の人生における体験と気づきを元にアドバイスをさせていただいていますが、ご自分の生き方や、価値観が間違っていたことに気づかれた方々は、生活のなかに確実に少しづつの努力をすることで改善されていきます。
しかし、頭で理解しただけで悟ったような気分でいても、折角の気づきを実践しない生き方は、相も変わらず苦悩の人生を歩んでいるのである。
望まれるままに、何度となく同じことを繰り返し、繰り返しアドバイスしても、その時は理解できたようなことを言いながら、同じところでグルグルと回るだけで一向に前に進めない人もいるのだが、こういう人は自分の業に翻弄されている部分も大きく影響しているのであり、よほど心して決心しなければそのスパイラルから抜け出せないだろう。
こういう人に共通するのはいつも「他人のせい」「他人の批判」に執着して人を裁いているという点である。
宇宙大自然の真理や、物事の真理は、ものの真実、事実の上にあって、人間の恣意(しい・勝手な解釈)によって変えられたり、選択されるものではありません。
「諸法は無我」であり、正しい生き方の法則は、無我の上に成立っています。
諸法とは、ただ単に宗教的な教えに限らず、諸々の法則、即ち大宇宙、小宇宙を動かし、秩序を保っているところの摂理のことであり、一切のものはすべて循環という法則の下にあるということ。
無我とは、決して意思がないというのではありません。無の境地という言われているような抽象的なものではなく、まして、自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道(偏りがない)且つ、私利私欲がない自分の心ということ。
法則に欲望や自分があったら法則になりません。
法則とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序です。
太陽の熱、光に好き嫌いの感情があったらどうなるでしょう、一切の生物は生きてはいけません。
諸法無我、つまり森羅万象は、中道(偏りがない、調和、バランス)にそって、生かされ、生きているのです。
私たちの心も、輝く魂として諸法無我にそって生きなければならないでしょう。
たとえば、自殺行為は人間の特権という考え方があります。
また、これを支持し、美化する人もいます。
では、そうした支持する人が、ただちにその特権を行使できるかといいますと、おそらく二の足を踏むでしょう。
考え方としてそう理解できても、自殺は原生命に対する反逆だからです。
特権という意味は、動物には自殺の選択権がないことからきているようです。
つまり、動物は、自己を客体としてとらえることができず、生理的、本能的、主観的にしか生きられない。
人間は、自己を客体としてながめ、自らの生命を絶つことによって、自分の意思を実現することが可能というわけです。これは原生命への冒涜であってもです。
人間の自由意思が、さまざまな価値観を生み出し、原生命さえ否定するに至っては、もはや論ずるなにものもありません。
こうした考えの基礎は、人生をこの世だけと見、生命の不変、人生の目的を単に頭脳的にしか解決できないためと考えます。
これまで述べてきた法則について、読者はさまざまなとらえ方をしていると思いますが、そのとらえ方が固定化したり、文字にとらわれて観念化されてきますと法則は死んでしまいますので、やはり、理解でき、納得のいくことであれば、生活の中に活かして実践することが欠かせない条件である。
正しい法則には必ず偏りのない説明が必要であり、その説明とは時代や主義思想に関係なく、この地球が存在し、大宇宙が存在するところに存在しており、そうしてそれは、不変の論理によって貫かれているものでなければなりません。
法則の論理、説明の矛盾があれば、それは法則でもなんでもありません。
もっとも論理といっても、三次元的に理解できるものと、できないものがあります。
その点の理解は各人の体験と其々の心のステージによって補足されるものです。
この点が人間の知的な論理と、法則の論理の相違点であり、われわれの肉体は、人間の自由意思の産物ではありません。
人間の意識が宇宙意識にふれれば、この点の理由は釈然としますが、すべては天のはからいによって、精神も肉体も創造されたのです。
人間は、生かされている事実を忘れ、自由意思が行使できるからといって、自己否定の自殺ほど無知な行為はありません。
われわれの人生は、生かされている事実のもとで、どう、よりよく生きるか、そして、生かされている感動を、どう報いるかに、動物と異なる人間のあり方があるのです。
法則は、ものの真実と大地の上に立つものです。
素朴で平凡な事実の上に、無我の法則があらゆる生命を生かしています。
法則の論理は、こうした事実をもとにして、われわれに教えています。
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