クリスチャンの不安と恐怖心

魂の輝き
慶子さんのコメント 2013年10月22日 11:36 PM
初めまして。慶子と申します。
私は30歳の独身女性です。
結婚に対して不安感と恐怖心があります。
私の親は敬虔なクリスチャンで、私はその二世として子供の頃から教会に行っていました。
物心の付いた頃から30年近く教義を学び、生活のなかに信仰がありました。
しかし、年齢と共に信仰ってなんだろう。家族ってなんだろう?という疑問が強くなってきたところです。
その理由ですが、父は母に対して非常に厳しく、家族に対して厳格すぎて家のなかがいつも明るさがなく、私自身も家の外にいる時のほうが心の安らぎを覚えるのです。
父の姿を見て育ってきたことで、他の男性の姿を父と重ねてしまい、男性を見る目が偏見に満ちていると気づき、これではいけないと思うのですが、自分の心のコントロールができず困っております。
お尋ねします。
原罪とは何をいうのでしょうか?
原罪概念の前提となっているアダム(男)とイブ(女)による罪は、創世記3章に記されてはいるのですが、その真意が解りません。
観童様は、仏教のことを時折引用されて解りやすく述べていらっしゃるようですが、キリスト教の教えについてお尋ねするのは間違っているのかもしれません。
もし、ご説明、お導きいただけるのであればご教示願えませんでしょうか。
大変不躾ではございますが、何卒よろしくお願いいたします。
慶子

あなたがくださったコメントの中には注目するべきポイントが何か所かあります。

1・結婚に対して不安感と恐怖心がある。

2・信仰って何だろう?

3・家族って何だろう?

4・家族に明るさがない。

5・原罪という言葉の真意

聖書には原罪という言葉が書かれてありますが、人間はどうして原罪を負って生活するようになったのでしょうか。

先ず、人類の祖先は旧約聖書に象徴的ストーリーとして描かれています。

一方、同じように日本の神話の伝承が「古事記」「日本書紀」「風土記」などの記述によってもなされてきました。

エデンの園でアダム(男)とエバ(女)が神の保護の下で楽しい安心した日々を送っていました。

そのうち、神の楽園に蛇が現われ、エバに禁断の木の実を食べよといいます。

エバは好奇心にさそわれ、蛇のささやきをきいてしまう。

禁断の実を囗(欲望、エゴ)にしたエバは、その実をアダムにもすすめます。

アダムは、神の怒りを恐れ食べまいとしますが、エバのすすめで、彼までもそれを食べてしまいます。

二人は禁断の実を食べると、いままで経験もしない自分を意識する。

それまでの二人は、神から生かされたままの人間であって、童子のような安らかな心を持っていたのですが、禁断の実を食べることによって、自分以外の対象を発見し、そして自分を意識するようになります。

つまり自他の発見であり、それはまた、自己保存につながるエゴの自分であります。

間もなく、神の怒りが始まります。

明るくひらかれていた青空を、急に黒雲がおおい、雷鳴がとどろき、稲妻がエデンの園を襲います。

二人は、楽園に身をかくしますが、雷鳴と稲妻は彼らの姿をとらえて離しません。

ついに二人は楽園にとどまることができず、楽園を追われ、流浪の旅が始まるのです。

人間の原罪は、こうしてつくられたわけです。

エデンの園とは、あの世の天上界であり、また、かつての地上天国であったわけです。

禁断の実とは、肉体にまつわる自己保存の想念であり、自己本位の意識です。

蛇は執念、執着の動物であり、それはまたカルマ(業)の象徴を意味します。

つまり、蛇が前に進むには、うねって蛇行しなければなりません。

蛇行は波形を意味し、波形は運動のリズムでもあります。

エネルギーの運動は、すべて波形・波動の形をとるのですが、蛇の波形はもっとも荒く、それはカルマ(業)の波形をかたどっているのです。

つまり、蛇にそそのかされたアダムとエバは、自己保存という神意をはずれた原罪を心に宿したため、執着というカルマの運動をつづけねばならなくなったわけです。

結婚に対して不安感や恐怖心がある。

これはあなたのお父さんの影響がそうさせたところは否定できないのですが、しかし、そのことにあなた自身が拘りを持ってしまうと生涯においてこの不安感と恐怖心から抜けられないということになってしまいます。

あなたの人生はお父さんの人生ではありません。あなたはご自分の人生を歩かれたら良いのです。やがていつか結婚されてご夫婦の生活に入れば、あなたが思っていたような不安感や恐怖心は立ち消えてしまうでしょう。

他の男性とお父さんを重ねてみてしまうあなたの心は偏った物事の見方であり、正しくはありません。

お父さんの偏った価値観、自己中心的言動、すなわち原罪によって、あなたの心を委縮させることなど愚かなことです。

家族

家族って何だろう?

家長であり、一家の大黒柱である夫も、家族の太陽である妻も、また子供たちも、みんなが相手を思いやり、気遣い、心に温もりを忘れずに接するならば、家庭の中が暗くなりようがないはずである。

家族といえども、それぞれが目指すものがあり、生きがいを見出すものもあって然るべきではあるが、社会の中で最小単位の家族内で身勝手な思いや、価値観によって、自己中心的な言動をするならば全くもって家族の用を成さなくなる。

社会において信頼や尊敬を得る人は家庭内でも同じように愛と慈しみの溢れた生活をしているはずである。

家庭の在り方は社会の礎といえるだろう。

家族に明るさがない。

夜の照明は電気によるエネルギーによって可能となっていますが、これは有限のエネルギーであります。

しかし、真の家族の明るさは電気エネルギーが如何に強くても得られるものではない。

家族に明るさがないと言ってはいても明るくなるだろうか?

他から頂いた明るさやエネルギーは、失われやすいものですが、自ら作り出した心の明るさは決して失われることなく、無限に輝くものであります。

お父さんに心を向けすぎて不満をもつより、自分自身の心を輝かせ、家族を照らすぐらいの気概をもっても良いのではありませんか。

「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸に響かない。」

「暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょう。」

原罪という言葉の真意

原罪という言葉を仏教の面からみると、五官にまつわる六根(眼、耳、鼻、舌、身と意識)であり、煩悩であります。

肉体を中心としたものの考え方が、さまざまな執着をつくり、その執着の輪廻に人間が陥って、どうにも動きがとれなくなった人間の悲しい運命をいうのであります。

わかってはいるけど、抑えがきかない心というカルマ(業)の輪廻(繰り返し)こそが、執着の運動であり、それは蛇の前進運動が象徴的に語っているのです。

原罪を断ち切るには、正しい法則、即ち、偏りのない中道の生活にこそその道が残されているといえるでしょう。

調和された正道の生活と行為しかありません。

反省と調和の生活。

自己保存にもとづく悪を思わぬ生活。

悪の種を心にまかぬ生活。

これこそが、原罪から離れ、安心と調和の明日を約束する生活です。

もうお解りでしょう。

原罪とは仏教でいうとこの煩悩と同義語と理解してよいでしょう。

心の光

家庭の明るさ、調和は求めるものではなく、自らが灯してゆくものでなければならない。

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