霊現象と行者の末路

相談者の話し(承諾を得て掲載しています。)

『あそこの霊能者はよく当たるといって、人の出入りも多く繁盛しているというけど、友人の家庭内トラブルは、いまだかつて一向に改善されず、何か些細な問題があると、すぐにその霊能者のところに行って伺いをたてているようだが、これはどういうものなのか。』という話があった。

一回30分で一万円だというが、様々な御利益グッズや開運宝石なども販売しているともいう。

これまで何度も、こういった話題については、私たち一般人がどのようにして本物か、あるいは誇大霊能者もどきなのかを見分けたらよいかということを話してきました。

霊的な問題は、現象にとらわれず、現象を表しているその人の私生活、性格、人柄、人間性ということを知る必要があるでしょう。

様々な霊現象があり、そういった類のことが表れたといっても、それが本物かどうかはわかりません。現象というものは動物霊でも未成仏霊が憑いていてもできることだからだ。

守護霊や指導霊が背後にいてそうした現象を表しているとすれば、その人の日常生活は普通の人と変わらず、それでいてキチンとした生活を送っているはずです。

また何が正しい生き方であるかという真理も語り、確かな説得力も持っているでしょう。

そもそも霊的な分野に関わっている人間が、そのことで人々の幸せを願い、人としての正しい生き方を指導するのであるなら、なぜ開運宝石なる物を販売したり、当て事に一喜一憂させるようなパフォーマンスに明け暮れるのか。

そして何かと理由づけしては通わせるように実に巧みに扇動するのである。根底にあるのは欲望であり、金儲けにしか過ぎない。

したがって、このような人の私生活は非常に物欲的で自我心が強く、自分に不都合なことがあれば怒りを顕わにする傾向がある。

欲望は人一倍であり、強引で命令口調、起伏の激しい言葉や中傷、非難することが平気といった行動をとるから分かりやすい。

当て事は、大抵は下層階の龍か他の動物霊の憑依によっても簡単にできるが、物事に一貫性がなく、その時々でコロコロ変わることがよくあるものだ。

滝に打たれ、神社仏閣などで行を積む場合は、熱心になればなるほど、こうした危険が常につきまとっているといえます。

霊力を欲しくて行う修行には、心に隙ができ、そこに魔が入りやすいという仕組みを知らずに夢中になるから危険この上ない。

霊的現象というものは、念力によって開くものと、正しい行為(悟り、気づき)にもとづいて開くものとがあります。

勉強勉強でそれに振り回されていると、ノイローゼや精神疾患になりますが、こうした現象も霊道現象のひとつなのです。

また人によっては、そうした中で突然霊道現象が表れ、神がかりになることがあります。

こういう場合は大抵は過去世で何らかの行を積んでいる場合が多く、その人の心の状態如何で、守護霊が表出する場合もあるし、不調和であれば動物霊が語ることもあるのです。

しかし、普通は正しい真理、心の仕組み、生き方、自然の法則といったものを知らずに霊道を開くのですから、まず、十人が十人近い人は動物霊の支配下に置かれ、不自然な言動が多くなり、行者の末路といわれるような結末になるようです。

モノが当たる。病気を治す、霊力が凄い、というだけでその人を信じてはいけません。

一時的に病気を治して見せてもそのあとにはそれ以上の落とし穴が待っているものだからだ。

大事なことは、私たちは三次元のこの世に、多くのことを学ぶ為に生れてきているのですから、先ず常識的に判断し、霊力を持っているというその人の言動をよく確かめることです。

もしその人が、正しい道を全うするような生き方に適う生活を送り、謙虚で、愛に満ち、人々を善導しているならば間違いはないでしょう。また、こういう人こそ霊的な話題や現象に興じたり、そのようなパフォーマンスに偏ることはないものです。

しかし、こういう人は実に少ないのです。どうしても現象や肉体中心的な考え、ご利益的考え、行動になっていきます。

皆さんの周りには、こういった能力者といわれているような人は多いと思いますが、現象を鵜呑みにせずに、それが本物であるかどうか、正しい原則に照らして、見る、聞く、考えることが大切です。

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別居夫婦の苦悩

葉を落とし、すっかり冬支度を済ませた木々の枝には雨が凍りつき、ビーズでも飾り付けたように朝日に輝いている。もう少しすると何もない白銀の林野もまた心静まり、好きな景色である。

地上では一番知恵あるはずの人間の心だけが年中冬籠りして、春になっても外に出ようとせず闇のなかにさ迷うが如きの愚かさは、自然に沿わない生き方であるばかりではなく、自我という拘りを捨てることができない苦悩となるだろう。

人間どれほどに自分が正しくても、夫婦として心穏やかに暮らしたいならば相手を裁いてはならない。裁かれた夫なり妻なり、互いに心が離れるだけである。

Aさんは、自営業をしているご主人54歳が家を出て他の女性とアパートを借りて別居していることに嫉妬と不満と憤りを感じて悶々とした生活をしていた。

私には相談者のご主人がどのような方なのかもわからないが、話しを詳細に聞く前に相談者に話した。

『ご主人の心の中には常に不満があるようだけど、これはどうしてでしょうね。』

『俺の居場所がない。』と時々いいます。

『あなたと、息子さんと、ご主人のご両親のみんながご主人を裁いていませんか?』

『あなたのご主人は子供の頃に家庭環境が良い状態ではなく、ご両親から心を向けてもらえなかったのではありませんか?』

『主人は結婚当初から両親からも冷たくされ家庭内がぎくしゃくして、そのことで私も主人を責めていました。主人は酒に逃げたり、暴れたり、穏やかではない毎日でした。』

Aさんの話しを聞いていると、息子や孫たちのことを思い、嫁ぎ先の家を守るために舅夫婦の仕打ちにも必死に耐え忍んで一生懸命に生きている様子が覗えた。努力しているのである。

しかし、ご主人の『俺の居場所がない』という本音の言葉が意味することは、自分への冷たい家族の厳しさと追い打ちをかける裁きの連続に対して吐いた言葉である。

『奥さん。あなたは離婚したいのですか?それとも可能性があるならやり直したいと思いますか?』

『離婚はしたくありません。できればやり直したいという気持ちはあります。』

『それならば、はっきり申し上げてもいいですか?』

『はい。お願いします。』

『あなたは今まで自分が正しいと思って、そう信じて生活してきましたね。』

『はい。そう思って頑張ってきました。』

『あなたのこれまでの努力は大変なものであったことは十分理解しますよ。しかし、あなたの言葉、行動はご主人に追い打ちをかけて追い出す結果になったとは思えませんか?』

『(;一_一)・・・・・はい。』

『あなたの言葉、行動には間違いはありませんよ。しかし、あなたの言葉と行動には愛がありません。ご主人を心から思いやる優しさがありませんね。』

『(;一_一)・・・・・・』

『ご主人に対し責任を問い詰め、ご主人の行動を裁き、返答できないところまで追いつめたのですよ。奥さんであるあなたに甘えたいという気持ちが、ご主人のどこかにあると思いますが、それがあなたには分かりませんか?』

『以前、酒を飲んで暴れたときに、おまえにだけは俺の気持ちを分かって欲しいと思っていたが、もういい。皆して俺を責めればいい。俺はこの家にいる必要がない。と言ったことがあります。』

『ご主人は、幼少のころから家庭のぬくもり、ご両親の優しさを知らないで育っていると思います。それだけにあなたに優しさと愛を求めていたのですよ。しかし、あなたは逆に厳しさを求め、しっかり女房を務めた結果がご主人の家出になったのです。』

『はい。その通りです。』

『今のままではご主人も家に戻ることはできないでしょうし、戻りたくもないでしょう。ご主人のこれまでの行動を許すことができなければ生涯別居か離婚するかですね。』

『許すというのはどいうことでしょうか。』

『これまでのご主人の行動を否定するのではなく、あなたが受け止めることです。そして、もうひとつ、ご主人に心からお詫びをすることです。』

『どうして、私が主人に詫びるのですか?』

『あなたはご主人とやり直したいといいましたよね。でもお詫びはできない。何故だと思いますか?あなたの心にはご主人を思いやる愛よりもご主人に求める要求愛があるからなんです。』

『本当の愛情というものは、自分が望むことをそのまま相手にしてあげる与える愛をいうのです。だからご主人に対し、これまで優しくなかった自分の言葉、態度を詫びることができないのです。』

『あなたの心はいつも、自分が間違っていない、自分が正しい、主人が間違っているという白黒だけが支配しています。極端すぎるのです。それは相手を裁くということです。あなたはいつもご主人に求め、欲求してきたのですよ。』

『はい。そうでした。』

『あなたも子供を産んでいますね。』

『はい。四人います。』

『生んだときに、赤ちゃんに母乳をあげたでしょ。オッパイをあげるときに、大きくなったら私にお金を頂戴ね、家を建てて親孝行してよ。と要求しながらオッパイをあげましたか?赤ちゃんのオッパイを飲むしぐさ、寝顔をみて、ただ可愛く、愛おしく思ったのであはありませんか。その思いが愛の原点なのです。与えて心が満たされる。これが愛です』

『すみませんでした。ようやくわかりました。』

『気づいてくれて良かったです。私からはもう何も言ううことはありませんよ。』

『折を見て主人には私から謝ります。今までの私を許してくださいと謝ります。主人を裁いていたこと、批判するだけの言葉、責任をなすりつけていたこと、全部謝ります。』

『よくそこまで言いました。今の気持ちを忘れず、ご主人に優しい言葉を掛けてやってください。あなたの心からの温かい言葉が、やがて凍った心を溶かす日が必ずくるでしょう。』

『はい。そうします。ありがとうございます。』

Aさんはしばらく号泣していたが、やがて落着き顔にうっすらと笑みが浮かんだ。来た時とは別人の顔になって背筋を伸ばし帰っていった。

私は心で祈った。

神よこの者の心に光をお与えください。そして罪をお許しください。家族の者たちの罪をお許しください。皆の心に光と安らぎをお与えください。と。

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死後も家に居座る霊

『憑依してくる自縛霊などは永久に成仏できないのでしょうか?自縛霊は運良く霊能者にでも出会わない限り、永久に地上をさまよい続けるのでしょうか?霊能者にお願いしたら成仏させてくれるのですか?

浮遊霊や自縛霊に救いを求められてもキッパリ断ることが大事だと聞いたことがあります。
生半可な気持ちで助けようとすると取り付かれたりかえって厄介なことになる場合があるかららしいです。
なんかちょっと冷たいような気もするのですが、そういう霊はもうずっと安らかに成仏することはないのでしょうか?』(ここまでが問い合わせ内容)

この方の質問は至ってシンプルでもありますが、もっともな疑問といえるでしょう。だが、自分や家族に関わる霊ならば、関わるだけの理由があります。また自縛霊の場合必ずしも救いを求めて憑依するとは限りません。

霊の一方的な都合だけではそう簡単に憑依することはできませんし、憑依される方にもそれだけの原因があります。

心は送信機であり、受信機でもあります。見えない波動エネルギーの働きが心から発する精神活動です。

憑依されるということは、霊と人との波長が合ったということです。

したがって、波長が合わなければ憑依は成り立たないのです。憑依は波動共鳴原理のうえに発生する霊的障害をいうものです。

霊的なトラブルは、個人の敷地内や住宅内で霊的な現象が起きることで、その異常に気付き、なかには体調不良を起こし、それが原因不明であったり、様子の異常さで、もしかしてと疑問を持ち始める場合が多いようです。

相談者がいうように、霊能者に相談すれば霊的なトラブルが解決するとは言い切れない。

現実に霊的な原因が全くないのに、何代前の先祖が人を陥れて、その怨みをかって苦しんでいるから、その先祖を供養しなければ成仏できないし、あなたの家庭問題も悪化するだろうと言われて莫大な金を支払ったが、事態はまったく好転しないというケースがある。

暴利をむさぼる霊能者や、動物霊に支配された一般の人々による霊能者もどきの話しはこれまで限りなく聞いてきた。

結論からいうと、この家族の問題は、それぞれの自己中心と執着、欲望にあっただけである。

また、敷地内や家族の中で起きた霊的な問題も過去にいくつもありましたが、家族が心を一つにして正しい供養(正しい生き方を故人に知らせる)をすることで怪奇現象もおさまって静まった実例があります。ただ、ここでは簡単に記事にできる内容でありませんので割愛します。

霊的な話しは一般的には見えない世界のことですが、無闇に怖がることではないし、自分の心に不満や愚痴や、怒り、嫉妬、などの不調和な心がなければ執着した不調和な自縛霊に憑依されることはありません。

その理由は、波長が合わないと憑依できないからである。

さて、昔からよくいわれていることですが、人間は死後四十九日間は、家の棟を離れない、といわれていますがこれは実際のところはどうなのだろうか。きょうは死者の霊について話しをしましょう。

先ず、四十九日のいわれはどこから来たか。昔から七の数をラッキーセブンといって、縁起がよいとされています。

七の数は完成を意味する、といわれ、そこから七の七倍は四十九で、もっとも縁起がいいということになるようです。

法事の説明では、死後四十九日の間に次の生の縁が定まるとされ、七日目毎の読経礼仏は死者をして善処に生まれ変わらしめることができる、ということのようです。

実際はどうかというと、そんなことはないのです。

2500有余年前の釈迦は、反省と中道という真理の法則に目覚めて禅定を行い21日目にして大悟され、実在界(天上界)に招かれて法話をするのですが、二十一日というのはあの世の定めであって、死者の霊の場合も、二十一日間は、この地上において、自由行動ができる仕組みになっているのです。

したがって、四十九日の根拠の来歴はともかく、二十一日間は、死者の魂は家の棟にとどまることができるのです。

しかし、どんなにこの地上界に執着を持った霊でも、それ以上はこの地上界にはとどまることはできません。

二十一日というのは、地上にとどまる最大限の日数であり、悟った霊ならば、一日も地上にはいません。

亡くなった時点ですぐに肉体からも離れて、そのままスーッと次元の違った天上界に帰ってゆきます。

二十一日という数も、七の三倍という風にみますが、しかしこれはあの世の仕組みであって、もしも、こうした仕組みがなされていないと、この地上界は大変な大混乱になってしまいます。

それはどういうことかといいますと、悟った霊ならともかく、悟らない霊が生きている人間同様に、その行動が自由になるとすれば、多くの人に憑依し、地上界は、たちまち悪霊の支配下におかれてしまうからです。

葬式後、死者が家に遊びに来るとか、挨拶にくるという例は多いのですが死後二十一日間に限り、そうした自由が許されているからです。

しかし、その後はそうした自由行動は許されません。

死者が地上の生活や家族や、財産や、資産、かつての地位、名誉、名声に執着を持ち、二十一日を過ぎても地上にいる場合があります。

これらは自縛霊として、その土地、家、場所にいるのですが、行動の自由はありません。

憑依は、その場所に近付いた場合に発生します。

また自縛霊は、その場所に常時いるかというとそうではなく、次元の違うあの世の生活に耐えられず、その苦しみから逃れようと、執着を持った地上(家や土地)に、意識を同通させるために起こる現象です。ですからその場にいる時といない時があるのです。

自縛霊は、土地や場所だけでなく、物にも通じています。その物を持つと凶事が起こる例は洋の東西を通じてよくあることです。(故人が大事にしていた愛用品など)

自縛霊(地獄)となる人は、足ることを知らない欲望優先の心を持つ人、不満をいう人、愚痴をいう人、嫁さんにつらく当たった人、姑さんにつらく当たった人、物や金に執着した人、人を許せなかった人、人に愛を施すことのなかった人、人を憎み恨んだ人、いつも怒りをぶつけた人、驕り高ぶり傲慢な人、地位、名誉、名声、知識、習慣、因習に執着した人、間違った宗教や団体を指導した者、信じた人たちである。

こういう人たちのことを一言でいうなら、死の際に、自らの心に偏った不調和な心、つまり、執着心を持って死んだ人ということである。

なお悟った霊はどうかというと、悟った霊には行動の自由があります。

上段階に行けば行くほど、その行動範囲は広く、その点は自縛霊の行動とは比較になりません。

先祖供養の真偽は?を参照ください。

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死んだ子どもに会いたい

きょうはK・Jさんのブログ記事から転載させていただきました。

その訳は、最愛の家族を失った後に亡くなった人のためにどういう思いで接することが一番正しいことなのか、何故そうしなければならないのかを考えて頂きたいと思ったからです。

以下、K・Jさんの投稿記事内容。

息子にあいたい(K・J)

私は、交通事故で最愛の息子「K・Y」を十四歳で亡くしてしまいました。子供という宝物を失ってしまったのです。

朝、いつもと変わらずに「行ってきます」と言って出掛けた家族が、数時間も経たないうちに冷たくなって帰宅する事になろうとは誰が想像し得たでしょうか。友人との弾んだ語らいの最中に、この世で生きる事を断ち切られた、命を奪われた息子の死。

あなたはその死をどう受け止めますか。あなたの一番大切な人を失ったら・・・・・・残った自分も生きる力を失ってしまうのです。

息子は、親より先にこの世を去り、私達家族に「さようなら」も言えずに、たった一人で天に行ってしまったのです。

その時私は、助けてあげることができなかった自分の無力さが情けなく、ただただ「ごめんね。ごめんね。」と謝っていたのです。

しかし、その一方では、息子の死という現実を受け入れることができず、「死んでいない、救急車に乗せて。」と訴えていたのです。

なぜなら、ガードレールにもたれかかっていた息子の体はまだ温かかったのです。

その体もだんだんと冷たくなり、固くなっていきました。

青ざめた顔。開かない目。

しゃべらない口。

その周辺には真っ赤な血が流れ、飛び散ったあの子の体の一部。

私は、気が狂い叫びました。誰か助けて、神様助けて。

嫌だ、嫌だ、嫌だ、お母さんと呼んで、ねぇ・・・・・・・・・。あれから何分が経ったのでしょう。

私は、痛いの、怖いの、寂しいの、悔しいの、大丈夫お母さんはここにいるよ。

安心するんだよ。Y君、Y君、Y君と名前を呼び続けました。

体を何度も何度も揺すりました。

失ったこの辛さは、当事者以外、誰にも分からないのではないでしょうか。

あの笑顔、あのしぐさ、あの言葉、息子の全てが思い出という形でしか残されていません。

過去しかないのです。現在も未来もないのです。

二〇〇〇年九月二十五日。K・Yの全てが無くなってしまった日でした。

葬儀の二十七日。無言でお別れをして、白い煙りとなり高い高い空に飛んでいきました。

本当に本当にこの世から消えてしまったなんて・・・・・・。影も形も無くなってしまったなんて・・・・・・。信じたくない気持ちでいっぱいでした。

数日後、私の夢の中に来ました。中学の制服姿で自分の祭壇の前で私に聞いて来ました。「ねぇ、俺、本当に死んだの?」「燃やされるって熱くないの?」

亡くなった後の最後の言葉でした。最愛の息子を亡くしたショックは大きいものでした。

しかし、私は「生命いのちのメッセージ展」と出会ってから変わりました。

あの子の為に何かしてあげようと思ったのです。

あの子をこの世に戻すためには、同じ遺族の方達と声をあげて、息子が生きていた証を、沢山の人々に見て頂き感じて頂くことだと思いました。

私は、生命いのちのメッセージ展で全国を旅している息子の為に、これからも闘います。闘うとは変な言い方かも知れませんが、息子を殺した加害者が、本当に自分が「悪い事をした」と思えるまで闘います。

仲間のメッセンジャー達とその家族とで訴え続け、息子の無念さを晴らしたいと思います。

最後に皆さんに伝えたい事があります。

交通事故は、あなたの不注意で被害者の人生を奪ってしまうのです。

周りの人達を悲しませないでください。

ハンドルを握る手に、あなたの一生も握っているのです。交通事故を軽く見ないでください。とても恐ろしい犯罪です。(ここまでがK・Jさんの投稿全文です。)

さて、死というもの、どのような理由にしろ、最愛の家族を失うことは悲しいことである。また寂しいことである。

特に、わが子に先立たれることは、どれほどの悲しみ、苦しみであるか、当事者でなければ到底わからない辛さであろう。

K・Jさんも悲しみのあまり、『あの子をこの世に戻すためには・・・・・・。』とつづっている。

実際になくなった息子をこの世に引き戻すことが叶わないことだと知ってはいるのだろうが、しかし、死者に向ける思いとしては非常に良くない。

何故なら、そのような遺族の想念は然るべき霊界に入る準備をする者にとって心を乱されるからである。

悲しみ、未練、怒り、こういった想いは死者の心を引っ張り、呪縛となることをしらねばならない。

私のところに、『亡くなった娘の声を聴きたい、息子の声を聴きたい、何か伝えたいことはないか知りたい、どうしているか知りたい』といって相談に見える方がいます。

私は相談者に伝えます。『私は、あなたのお子さんの代弁者にはなれませんよ』と。

例え、どのような信憑性(しんぴょうせい)のおける言葉で、これがお子さんのメッセージですと伝えても、話しているのは、お子さん本人ではなく私なのです。

聞いた親御さんが納得する、しないは夫々に個人差があります。

本来、見ることのできないものを見たい、手に取ることのできないものを手に取ってみたい、聞こえないものを聴きたい、こういうことを人に託してまで自分の望みを叶えたいという思いは決して向上的な心の在り方とはいえないのです。

一時の慰めを求める者は、人から与えられる愛を待つ傾向にあるものだ。

そして、3年10年と、いつまでも我が子がどうしているかと気にかけ、思い悩んでいるのである。

最愛の家族を亡くしたことは同情もし心情を察しますが、遺族が、亡くなった人に対し長期にわたり、余りにも心を傾け過ぎることは死者(あの世の)の生活を邪魔することになるという摂理については殆んどの人が知らない。

この世には人類が平和に暮らす為に、安全に暮らすために法律があり道徳というものを守り生活しています。これと同じように実は、あの世にも犯すことにできない秩序と摂理というものがあるのです。

例えば、幽界といって、亡くなった人は21日間はこれまでのように家にいたり、親戚、友人、知人のところに挨拶にいくことも許されますが、それ以上は別な世界(霊界)に移動しなければなりません。

つまり21日の間は、これまでの生前の自分の生き方、心の執着、家族や他人に対して不満や愚痴や怒りなどを現した態度、言動を振り返って反省し、心から詫びて悔い改める反省行をして心を調和しなければならない期間なのです。

このような調和の反省行ができた時点で本来の霊界に行くことができるのであるり、これを以って成仏というのです。

事故死の場合などは突発的で瞬間的なものですから、死に対する心の準備もなく、痛みや苦しみを感じている間もなく死に至るため自分が亡くなったことを気づかずにいる場合があります。K・Jさんの記事にあったようにです。(「ねぇ、俺、本当に死んだの?」「燃やされるって熱くないの?」亡くなった後の最後の言葉でした。)

死者は、家族が大勢集まり、祭壇を飾り、告別式の準備をしている様子を見たり、自分の身体が横たわっている姿に家族が泣いている光景などを見て、不思議に思い、自分は生きているのに何故みんな泣いているのか、なぜ自分の身体が横たわって動かないのか傍で見て疑問に思うのである。

『おーい、僕は生きているよ。お母さん。お父さん。おーい、僕はここにいるよ。』と声をかけても誰もその声に気づかないのだ。

これは、肉体がない、霊体だけの状態で声を出しても、この世の人たちの耳には届かないのだ。

つまり、3次元のこの世は、肉体のある世界であり、4次元のあの世は、肉体がなく霊体だけの世界である。

死者がさ迷うのは、この世の感覚のままであの世に移動した場合に、次元の違いに気づけないことでおこるのです。

このように自分の死に気づくのは死に至る状況や、生前の心の曇り、つまり、執着の度合いによって異なってくる。常日頃のなかで心にこだわり、執着のある人の場合は死んだときに自分を客観的にみることができないのです。

したがって、このような状況の死者に対し遺族がしっかり霊界に入れるように導いてやらなければならないのであるが、自分の気持ちだけでいっぱい、いっぱいになって『子どもの声を聴きたいとか、伝えたいことがないか知りたいとか、どうしているかを知りたい』などと叶わない希望を言いだすのである。

問題は、この世の遺族が死者に対して自分の想いを優先して向けることが如何に、霊界入りの妨げになるかということです。

故人のために何を為すべきかとなれば、いつまでも悲しみの心を向けてはならない。

自己都合の言葉で話しかけてはならない。

どうしているかと近況を知りたがる話しかけはしない。

そして死者の冥福を祈ること。

では、どのように故人の冥福を祈ることが最も正しいことなのだろうか。

その具体的なことについて触れるまえに述べておきたいことがあります。

先ず、あなた自身が、愛する家族を残して急逝したと仮定してください。

あの世に行ったあなたが見る光景は、毎日毎日泣き崩れる妻であり、夫であり、あるいは、子供であり、兄弟姉妹であるかもしれません。

しかし、長きにわたり悲しみ苦しんでばかりいる家族をみる貴方は、その光景をどのように感じ、受け止めるのだろうか。

間違っても嬉しいはずがなく、むしろあの世の貴方も切なく、淋しく、悲しくなるのではないだろうか。

後に残った家族が悲しむことはあなたの悲しみとなるために、あの世の貴方自身も旅立ちに際して決心ができなくなると想像がつきませんか。

このことが霊界入りを妨げるのです。

この世とあの世の関わりとして発生する私たち人間の想念は深く、強く働き、あの世の霊人達の心を安らかにもし、呪い、騒がせもするということだ。

ということは自己都合の想いではなく、悲しみではなく、怒りではなく、愚痴ではなく、この世に残ったものたちの偏りのない調和された心で霊界入りを見送ることが必要だということです。

愛するが故に悲しみ、苦しむのではあるが、故人の冥福を祈るということはそうであってはならないのである。

故人供養の一例

『○○よ。あなたと親子で(夫婦で)(兄弟で)あったことは、私にとって何よりも嬉しく、尊いことでした。

あなたからたくさんの愛を頂きました。

勇気を頂きました。

そして貴方と親子であったおかげで様々なことを学ぶこともできました。

今あなたに言いたいことはただ、ありがとうということです。

○○よ、本当にありがとう。

あなたがこの世の人生を終わるには早過ぎました。

しかし、それも今となってはどうすることもできませんし、致し方のないことです。

短い人生でしたけど、あなたの存在と精いっぱい生きたことは私の心にそのまま生きています。

あなたも自分がこの世からそちらの世界に移って生活することになったことに気づき、これまでの人生を振り返ってみてください。

もし人様にご迷惑をかけた事や嫌な思いをさせたことがあるなら、そのことを心から反省して何が良くなかったのか答えを探し、神様に心から詫びることです。

この世にいるときのことに関して一切のこだわり、不満、愚痴、怒りなどを捨て心を調和することによって貴方の心に光が満ちてくるでしょう。

そうすると、やがて魂の兄弟たちがあなたを霊界に導くために傍にきてくれるのです。

あなたは何の心配もいりません。

その魂の兄弟たちが光で満たされている人たちなら安心してついて行ってください。』

このように自分の立場で文章の内容を変えて手紙を書く要領で作成して、それを毎日21日間読み聞かせることです。そのことによって死者が自分の状況を気づかされます。

故人、冥福への祈り参照

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自殺した息子への手紙

今回は命の尊さと、その尊い命を自ら絶つことの矛盾についてお考え頂きたく、T・Sさんが公開されたブログから、そのままの内容で転載させていただいた。

以下その内容です。

息子への手紙を書いてから初めて読み返してみました。
メールも”送信エラー”で戻ってくるのがわかりながら時々送信しています。
電話番号もアドレスも消すことが出来ずにそのままにして家族のグループに登録しています。

2005年11月16日
警察官だった息子 34才の人生を自らの手で幕を降ろした日、命日です。
納棺の日は私たち夫婦の35回目の結婚記念日でした。
息子は結婚もして三才半の娘もいて幸せだとばかり思っていました。
宮城県多賀城市で飲酒運転によるRV車事故、高校生の列につっ込み三人が犠牲になりました。
その事故の事故処理担当係長が息子でした。赴任してすぐの事です。
休みがなくなり大好きな車にのる時間もなくなり、家族団らんもなくなり・・・
心を病んでいったようでした。
そして相談して自宅療養になったのが10月でした。

夜の11時すぎ---電話
死んだ!!    と主人

すぐ次男が起きて来て 死んだ!! うそ!! 言葉になりませんでした。
私は 死んだ!? 誰? 死? どういうこと?
お兄ちゃんが? 死んだ? って何?
そのくり返しが頭に浮かび体がフワフワ浮いているようでした。

彼のメガネが涙でまっ白でした。
彼はどれ程の涙を流したのでしょう。
どんなに泣いて泣いて悲しみの絶望の中で死を決意し、
誰にも何も言わずに自分だけを責めて一人逝ってしまいました。
二度と帰ることのない世界に・・・
警察官だった息子は三日間何も飲まず食べず、覚悟の自死でした・・・
でもドアはカギをかけてなし・・・心のどこかで助けを求めていたのでしょう・・・
決行しても一秒でも早くドアを開けてくれたら・・・と・・・どこかで期待をしながら・・・
あわれでせつない彼の心・・・
そこまで彼を追いつめたものは何でしょう。
人間関係、言葉   言葉の暴力
するどい刃物より言葉は心を深くえぐります。
でも
人を責めず、自分を責めて責めて
”ゴメンナサイ” ”すみません” ”申し訳ないです” ”ガンバリます”と言い続け
逝ってしまいました。
”人は悪い事をしても、どうして悪いことをしたとは認めないんだろう。悪人だらけだよ!!”と
言っていた彼。
警察官という職業は合わなかったのか・・・と思うこともあります。
地域のふれあいの”おまわりさん”的な仕事はむいているようでした。
おじいちゃん、おばあちゃんが大好きで子どもが大好きで・・・
交番時代は楽しそうでした。
相談によくのっていたようでした。

死を決意し、ねむらず泣いていた日々
なくなる日・・・三日間

月曜は月が輝いて大きく、夜中に目がさめた私は
あまりの美しさに主人を起こして一緒にみてほしくて何度も声をかけて・・・
18階のマンションの窓から月をしばらくながめていました。
火曜日も又、同じように目がさめて主人に声をかけて・・・
大きく白く輝く月でした。
水曜は友人とランチをした時、肉の嫌いな私なのに、
ステーキがとても食べたくて・・・
人生で初めてステーキとハンバーグのセットを食べたのです。
夕方、その日は満月できれいな月でした。
友人と月の話しをして、”女は月をあまり見るとよくない事がおこるんだよ”
とか言われ・・・帰宅・・・
その夜の電話で息子の死
その朝七時に亡くなったと
いうことでした。

息子はお肉が大好きでした。
私を通してステーキを食べたかったのでしょうか・・・不思議です。
親バカですが・・・スポーツもでき、体力もあり、
そこそこ勉強も出来て身長も175cm体重90kg
やさしく真面目で・・・・・・
でもゲームもやり、映画も好きでたまにはパチンコもやり・・・
親思い特に私の事は大好きだったはずなのに・・・
相談もなく一言も死にたいと私たちにはもらさず逝ってしまいました。
結婚しないで独身だったら・・・
一緒に暮らしていたら・・・

もう二度と会えない彼に”かーちゃん”と言われる事もなく、
笑顔も見られない、おいしいものも食べさせられない・・・
毎日、お兄ちゃ-んとさけんでみます。
健一・・・と大きな声でさけんでいます。
一人っきりでの時
会いたくて会いたくて
名前をよぶのです。
弟もいつも、お兄ちゃんの好きなものを買って来ては仏壇に供えています。
夫も・・・私もスーパーに行くとつい彼の好物をさがしています。
夜中に目が覚めると彼の姿をさがしていて
お墓に行っても彼の姿をさがしています。
うっすらとでもいい 彼を見たいのです。
妊娠ですと言われた先生、あの場所から彼を産み---
34年の一秒一秒の想い出が頭に浮かびます。

ハイハイした日、たっちした日、入学の日
風邪ばかりひいていた彼 けんかした日
彼との34年間の想い出はこれから先ずーっと消えることなく
私の胸の内にあります。
でも 彼はもう、ここにはいない!!
弟が誕生日を迎えた日に、
”お兄ちゃんの年を自分が越えるなんて・・・!!”と・・・
もう彼が生きていた時のように笑うこともなく、
おいしいものも楽しいことも
二度とあの頃の感覚ではなくなっています。
笑っても・・・彼がいない・・・食べていても・・・彼はいない
きれいな景色をみても・・・彼はいない・・・
どこをさがしてもどんな時ももう彼は存在しないのです。
魂はあると思うけど、私には見えない・・・会いたい

自死
人間社会の最高の刑罰が死刑ですが、
死とは人間が最も怖れるものです。
”死にたくない”
不老不死の薬を望んだ昔の権力者たち、
自分の死は恐ろしいものです。

その死を
自ら決意し 自ら決行する
自決は勇気ある者として讃えられます。
なぜ自死は忌み嫌うのでしょうか・・・
あってはならない事ですが、
その決断をさせた何かがあるのであって、
何もなくおだやかに笑っていられる世の中ならば
誰が好んで死を選びましょう・・・か

誰だって生きたいのです。生きたかったのです。
自死は彼らの責任ではなく、
残された私たち社会への大きな問いかけだと思っています。
そして救える命なのです。
確実に助けられる命なのです。

私は自死遺族だけでの運営による会をやっていて
多くの参加者があり、全国たくさんの方々とのつながりをいただき、
自死予防活動にも今年から力を入れています。
一人でも一日でも長く生きてもらいたい、生きてほしい
ひらすら願い毎日24時間の受付相談をやっています。

少しでいいのです
やさしくありたい
ほんの少しの思いやりを
一人一人もてたら
社会は大きく変わります

慢を人間が感じとり謙虚になれたら
必ず世の中がかわり、それが私達も住みやすい社会なのです。

ほんの少し・・・の やさしさ
少しの想像力

私の息子は生きていました。
頑張って生きていました。
彼を誇りに思います。

ここまでが転載させていただきました内容です。

心やさしく、真面目で自分に厳しく遠慮がちで純粋な個性の人間。しかし、純粋過ぎるという言葉では片づけられない。純粋さもバランスを失い、そのことに偏り過ぎると傷つくことになる。

この世の中は善と悪が混在する世界である。それは物質世界であるからだ。肉体、物、金、知識、名誉、地位、職業、何一つとっても偏ると心のバランスを失う原因と成り得る事ばかりである。

この世は悪がはびこってはいるが、心やさしい人々もいる。そして善を為している人たちもいる。決して悪ばかりではない。

いつまでも心に残してはいけない相手の言葉に拘り、心から離せないで引きずっているときは、心が重く苦しく、そして負担になっていることにさえ気づけないほど自分を見失っているものだ。

できない自分にいら立ち、自分を奮い立たせようとするが、心は晴れない。完全にやり遂げようとすればするほどできない自分とのギャップに苦しむことになる。

できない自分を認めることができない自分が自分を苦しめていることに気づけないでいる。苦しみは自分の心の視点を変えてやることで負担が軽くなるものです。

さて、最近も『死にたい、殺したい』という若い女性のうつ病クライアントからお母さん同伴で2時間ほど話しを聴きました。

そこで自殺は大きな業(カルマ)を上塗りしたことになるということを先に申し上げておきたい。

自殺の問題を考えるときに避けて通れない『人間が生れた目的、人生は何のためにあるのか、何故生きなければならないか』というものがあります。

人間の目的を一言でいうならば魂のステージアップ地上をユートピア(楽園)にすることである。

私達があの世からこの世に生まれる時は、百人が百人、こんどこそは自分の業を修正し、自分の心を調え、この世を調和すると決意して出生します。

ところが、生れて地上の空気に触れ、やがてこの世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。

自殺の心理はその極点に近いものです。いうなれば自己保存の自意識が過剰なために、自らそうした行為に追い込んでゆくものです。

優しい子だったとか、真面目な人だったとか、素直な子だったと追憶するのだが、それだけでは済まされない心の闇の実態を知っておく必要があるだろう。

人間の命というものは、肉体は両親から頂いたものではあるが、魂(心)は人間が創ることはできない。魂(心)は胎児が妊娠3ヵ月~4カ月のときにあの世から下生して胎児に宿るのである。

あの世にいるときの魂は万民が神の分け御霊であり、時が満ちて許しを得てはじめてこの世に生まれることが叶ったのだ。

この世に生まれるチャンスは、手のひらにすくいあげた海水と大海との差があることだといえば分るだろうか。この世に生まれることのできるチャンスは手のひらほどの少ないものなのだ。

そうしてみると、千年、二千年という時を経てこの世に転生できることを思えば自ら命を絶つことが如何に神への冒涜になるかを知らなければならない。

自殺は人類の調和、地上の調和という道から逸脱した反逆であって、人間否定を意味します。ですから悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいるのです。

自ら命を絶った人の場合、死んで楽になることはない。

死の瞬間の心は自責の念や、他への恨み、生きることへの諦め、悔しさ、悲しみ、などで不調和の極みである。

いずれにしても死は、現世のままの連続体だといえよう。

その意味で、この世で不調和な人は、あの世に逝っても、当分は心が調和できるまで時間を要することになる。時間というより年数といえる。

ただ、あの世の場合は、心的変化がこの世よりも遥かに精妙な世界なので、肉体がないが故に、思うことがそのまま現象化する世界だから、不調和な心もまたそのまま現象化するということだ。

それだけに死者や先祖に対しては、生きている人々の調和された心と行いの積み重ねによって、正しく導いてやることが必要である。

正しく導くとは、地上の家族が心穏やかに生きることを示し故人にみてもらうことである。いわゆる模範を示すことといえよう。

模範の基準は足ることを忘れない生活、不満を心に持たない生き方、愚痴を思わない、言わない、怒りの心に持たない、他に対し怒らない。すべてに感謝し、報恩として行いに現すことをいうのである。

そのことにより死者はやがて、自分の内に在る神性仏性を思い出し、必ず、いつの日か救われることになるのである。

自殺者や死者への真の供養のあり方は、決して仏壇の前で勤行することでもなければ、仏像を拝することでもないのである。

自殺が何故いけないかは、本人のその時の想念が死後も継続するために暗黒の世界で、一寸先も分らぬ真っ暗な穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみが延々と続くからである。

鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響き、得体の知れない生物が意識の中に入り込んでかきむしるのです。

頭痛や幻聴に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒の地獄ではそれができません。肉体がないからです。

意識だけはハッキリしており、それでいて真っ暗ですから自分の体がどこにあるのかもわかりません。

自殺は光りを否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引きこみ、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。

夢々こうした想念に支配されないようしたいものです。

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暴言と算術

今回の投稿も事実をそのまま掲載しますが、これは決して単なる批判中傷を目的とするものではないことを申し上げておきます。その点は最後までお読み頂ければ真意がご理解いただけるものと思います。

あらゆる分野における科学の発達も科学だけが独り歩きする傾向は必ず公害をもたらし、人類に警鐘を鳴らすことになる。

それは技術や資格の分野においても同様のことが言えるのではないか。

特別な技術や資格を持ち得た者が、その技術や資格の上にあぐらをかいて増長慢になり、驕り、高ぶることは、人間のとしての根本的愛の欠如といわねばならない。

人は愛の欠如により人を傷つけ

知足の欠如により守銭奴となる(知足とは、足ることを忘れた限りない物欲)

(ある方の投稿)

投稿例1、『いま通っている心療内科を変えようか迷っています。

私は不眠症が続くので、とある心療内科に通っています。そこでは生活環境や生育暦など詳しく聞かれましたが、なんとなく馴染めないというか、臨床心理士の資格をお持ちの先生なのですが、私の主人のことを「欠陥商品」と言った事が一番ひっかかります。

そのような暴言、心理職に携わっている方がおっしゃるものなのでしょうか?

確かに主人は変なところもあるものの・・欠陥商品と言われると、まるで私自身も否定されたような気がしてなりません。
この医師を知っている友人にどう思うか聞いてみたところ、「あの先生はいい人だから、仕方がないのよ~」の一点張りなのです。
その医師のことをすごくいいおじさん・・という友人もなんだか信じられなくなり・・
心理職に携わっている方、あるいは心療内科にかかった方、私の感覚は間違っているでしょうか?
「欠陥商品」と言われたことが、納得いきません。
それとも、そのくらいのレベルの暴言はおっしゃるものですか?
例えば患者に真実を言い、目を覚まして欲しいときなど。
医者変えた方が無難でしょうか?』(ここまでが投稿内容)

さて、ブログを読んでおられるあなたは、この方の投稿内容どう考えるでしょうか。私のところに来る相談者でも、うつ病です、統合失調症です、摂食障害です、パニック障害ですといって精神科や心療内科に通院している人たちが共通して話すことがあります。(私のところに相談にみえるということは、これまで改善されてないから)

体験者が語る主治医による発言のいろいろ。

『あなたは根がネガティブだ。』

『あなたの生き方はマイナス思考だ。』

『そのような悪い癖を直さないと、あなたのうつ病は治らないよ。』

『言われたとおりに薬を飲まないのなら通院しなくていいよ。』

医師にこのような言葉を言われて通院する気持ちがなくなった、失望したといってくる相談者は多い。人間を否定しているとも解釈されしまうような発言は医師が使う言葉としては不用意な禁句だと思うのだがいかがだろうか。

投稿例2、カウンセリングを主眼に置いて相談に行きたいのですが、メンタルクリニックか、カウンセリングの相談室か・・・などで迷っています。

メンタルクリニックの様な所で、相談も医師が請け負う場合(カウンセラー不在で)そういった医師は、例えば、最低でも臨床心理士レベルの知識を有しているのか、疑問を持ちました。

医療知識は豊富でも、心理学的にはどうなのか?カウンセリングの様な相談は、医師とカウンセラー、どちらに相談した方が良いとかあるのでしょうか?(ここまでが投稿内容。)

この方の場合、カウンセリングを希望されるなら臨床心理士さんのほうが良いと思うのですがどうだろうか。
心療内科医の場合話しを聞いて解決というよりも、いまの実情では医学的な治療つまり、薬物治療などが主流で専門のようです。

私が、これまで相談を受けてきた方々の話しの内容をまとめてみると大体そのような流れが多いことがわかりましたし、大概は症状を聞くだけでゆっくり話しは聞いていただけないようです。

クライアントが多くて一人に長い時間を取れないということや、一人に長い時間を取ることは院の経営上効率的ではないということや、長い時間のアプローチの割には診療報酬が少ないということや、薬を投薬して短時間で回転させたほうが利益率が高いということなどがあると思われます。

カウンセラーに話しを聞いてもらうだけでも気持ちが落ち着くという方もいるでしょうし、症状の程度によっては医学的な投薬治療が一時的に必要かなと思える方もいます。

話しを聞いてもらえるという意味では精神分析医が条件的によい面もあるでしょう。

投稿例3、『臨床心理士を人の気持ちを察したり、落ち込んだ時や悩みを解決するのに長けた人と思い込みがちではないかという印象を受けました。

私は複数の臨床心理士さんにカウンセリングや認知療法を受けましたが、患者である私の気持ちを統計学に当てはめようとする人が多かったです。

みんなそうだとはいいませんが、私の気持ちなんか理解しようともしてくれなかった。何かしらマニュアル通りという感じがして、私の心に伝わるものを感じ取れないのです。

それならば人生の達人に相談したほうがずっと良いアドバイスが貰える。とすっかり臨床心理士アレルギーです。取得するのは大変な資格なんでしょうけどね。

医師も合わず、一時期ドクターショッピング状態でしたが、ようやく私の悩みに目から鱗が落ちる言葉をくれる医師と出会えました。

結局、医師も心理士もクライアント(相談者)も人なんです。心理学の知識がいくらあったって、目の前の人の心の問題を助ける言葉を持っていなかったら、全く役に立ちません。

相手の資格だけでは良し悪しも推し測ることが出来ません。良い人に巡り会うまで探すしかありません。』(ここまでが投稿内容)

 

投稿例4、精神科の先生も、かなり勉強なさって、臨床心理士と同等の知識をお持ちの方もいると思います。
ただ、基本的には精神科の先生と臨床心理士ではアプローチが違います。

精神科や心療内科の先生は薬などで症状を無くすために体にアプローチする傾向があるし、臨床心理士は、定型文というか、マニュアル的というか、一応カウンセリングで症状の原因を探るアプローチをしてきます。

どちらも大切ですので、理想は臨床心理士カウンセラーもいる精神科や心療内科ではないでしょうか。

精神科医師の役割は、薬物による治療が必要な、精神疾患(統合失調症やうつ病など)の患者さんに対応する治療です。
精神疾患になる前の段階の心の病は、カウンセリングで何とかなる範疇であれば、臨床心理師さんの役割だと思います。(ここまでが投稿内容)

投稿例5、通院先の医師は

心療内科に通院しています。ゆっくり話を聞いてくれ、症状や悩みに対してどうしてみたらのアドバイス、考え方の持って行き方等のアドバイスを下さいますので薬さえ出せば的な医師ではないですから、信頼して通院出来ています。

投稿例6、私(女性)が内科に行き『喉が痛いし熱もあるので、風邪をひいたと思います』と言ったら、医者の顔つきが一変し、凄い形相で、『あなたは医者か?風邪だとなぜわかる?』と長々と説教された事がある。
私の言い方がよくなかったんだなぁと思ったから謝った。
そして言い直しを求められ、『喉が痛いくて熱があります。』と言い直した。腹が立つより、具合が悪いから行ったし、自分の体の状況を伝えたいだけで悪気があって言った事ではないのに、説教され悲しかった。
それを教訓に病院に行った時には、症状だけを言うようにしてます。

でも、患者は症状を言う。結果は医者が判断する。そういうものなんだろうね。

それにしてもあれだけ向きになって形相を変えて言わなければならないことなのでしょうか。私にはこの医師の傲慢なプライドという本質が見えたような気がします。

しかも、注射一本して終わり。
でも熱が下がらないし、具合が悪化したから、次の日に別の病院に行った。そしたら、レントゲンを撮り肺炎を起こしかけてると言われ、朝晩通いで点滴をした。
夜も8時過ぎ、時間外に毎日、点滴してくれた。先生のご厚意に心から感謝しました。

今回の風邪では気づいたけど、未熟なのは医療技術だけでなく、人間も未熟な医師だと気の毒にさえ思えたが、貴重な経験をしたと思っています。

以上が投稿者による様々な体験から発せられた言葉である。

医は仁術、それぞれの体験によるご意見を記述してみましたが、一つの精神疾患という分野において仕事を成すときに必要な医師の国家資格、臨床心理士、カウンセラーなど、優秀、且つ、立派な資格であることは間違いのないところだと思います。

しかし、昔の言葉にある医は仁術という言葉が意味することは『医療は単なる技術や資格ではなく、人を救う道である』ということです。

悲しいかな、現代は医術を算術にして、金を稼ぐことに夢中になって大事なものを忘れてしまっている輩も多いのには寂しさを感じてしまうのである。

医は仁術であるという、この言葉は、特に江戸時代に盛んに使われた言葉だとされていますが、医師である前に人間であるということ、そして相手もまた人間であるということを忘れてはならないだろう。

医師も一個の人間にしか過ぎないことは十分承知はしているが、立場上、医師の心から発する言葉はクライアントに対し、とても影響を与えるものであることを踏まえて発言しなければならない。

言葉は言霊であり、その人の人間性、人格というものが実によく表現されるのである。

それによって勇気づけられ、あるいは逆に失望したり、傷ついたりということが現実にあることも否定できない。ことさら上から話さなくても同じ、目線で聴き、話せば心は通じるものである。

人生相談のパーソナリティーを務めておられる、人間味の溢れる医学博士の森田幸一郎先生(87歳)は『現代は忍耐と思いやりに欠けた世である』と言われております。

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夢と想念

モノクロに近い、グレーのスクリーンでも見ているかのような、なだらかな斜面の丘の上にいた私の目に入ってきた光景は、一列に並んで生気のない顔した人たちが山から薄暗い谷底に降りて行く異様な光景だった。

まさにあの世の地獄に降りてゆく光景だった。私は彼らと一緒に降りて行きたくなかった。

向きを変えて、お~い、と叫んでみたが周りには誰もいない。

そして一瞬にして雪景色になったところで目が覚めた。深夜の二時だった。

私は、守護霊の導きによって地獄の入口を見て来たのだった。

さて、いったい夢は何を意味しているのだろうか。夢に生活上の重要性はあるのかないのか、フロイト『夢の解釈』は有名ですが、夢とはなんだろうか。

普通、夢には主観的なものと、第三者の介入による夢とがあります。

主観的なものは、自己の想念がつくり出したもの。これは思っていることが夢に現れる状態のことである。

第三者の介入のものは、地縛霊、動物霊などの影響によるものが多いようです。

主観的な夢には、他愛もない日常の出来事に関するもの、美しい情景を見てくる、天女と語る楽しい夢などさまざまです。

反対に、暗く気持ちの悪い夢、呪われた世界などの夢は自分の心に不調和な想念があることの現れですからよくよく反省して心を調和しなければなりません。

また、蛇に追いかけられる、あるいは巻きつかれる夢の場合は情欲を秘めている場合、嫉妬で苦悩している場合、執念をもっている場合などにも現象となって見ることがある。

こうした夢は、あの世の階層を実際に見てくるのであり、それは同時に、自分自身の、そのときどきの現実の想念のあり方が、そうした階層に通じ、またそのような日頃の想念が、夢という形で現象化されていることを意味します。

したがって、こうした夢は、天上界の夢ならともかく、いやな夢、ないしは調和に反した暗い夢の場合は、自分の想念のどこかにあやまりがあるのですから、反省し、修正する必要があるでしょう。

夢はたいてい朝方です。眠るという行為は、表面意識の休養を意味し、あの世のエネルギーの補給を行っているのですから、意識の休養中に夢をみるのではなく、エネルギーの補給を終え、朝方に守護霊の働きによって夢を見る、夢を憶えているということになるのです。

つまり、補給を終えた表面意識が、いつでも活動しやすい状態になったときに、夢という現実的な想念と行為が働くわけなのです。

また夢は、自己の想念と行為をごまかしなく再現するものですから、反省の材料としては、またとない資料となるのである。

現実生活の私達の想念は、形になって現れないとわかりませんが、夢の場合は、日ごろの想念がなんの抵抗ないために現象化されますので、夢の中の行為は、自己に内在する想念の、偽りのない姿といえるでしょう。

一方、第三者の介入による夢は、朝方よりも、真夜中に見る場合が多いものです。眠りが浅く、なんとも寝付かれず、ウトウトしながら悪夢を見る。

恐ろしさのあまり、目を覚ましたときは、自分の腕が胸の上に置かれ、汗をかいている。

こうした場合は、実際に自縛霊、動物霊、浮遊霊、生霊などがそばに来ている場合があるものです。寝入りばなの金縛りもそうです。

ですから『実在界の光の天使、諸天善神よ。私の心に光をお与えください。安らぎをお与えください。』というように、あの世の光りの天使、または諸天善神に一時的な加護を求めることで急場をしのぐことが可能となります。

大事なことは日ごろの心の不調和をなくし、安息な生活をするべく、常に調和を心ががけ、反省と実践の継続的な努力をすることである。

特に怒りを心に持っている人の場合は、他人に対しても、家族に対しても些細なことで怒るということを、何度も同じことを繰り返すことのないように自分を律することを忘れてはならない。

怒りは利己的、自己中心、愛への渇望が背景にある。

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人間は頭脳か心か

或る医学者達は、ものを考えるのは前頭葉だと言っています。

それならば、私たちが心の中で、嬉しかったり、悲しかったりしている時に、込み上げてくるものは頭の中から込み上げてくるでしょうか。

私たちの心の中の感情の領域である胸から、込み上げてくるはずです。胸は魂が位置する場所だからである。

脳細胞は、ものをキャッチし受信するただの、セクションにしかすぎない事実が、あらゆる今後の医学界においても実証されていくでしょう。

そして既に心というものが何よりも優先されて肉体に影響するのだとされる精神医学に着目しはじめている国もあります。

肉体船の船長さんであるもっと大事な私たちの、その中心にあるというものこそ、脳を支配するものであり、不変的なものだということです。

そこで、物理科学を通して、次元の変わった世界、これを考えてみましょう。

今、特殊相対性理論によって、私たちが日常生活の中でエネルギー、エネルギーという言葉を使っていますが、エネルギーというものは目で見ることはありません。

何故ならば、仕事を成し得る能力をいうものだからです。

このエネルギーというものは次元が違うのです。して物質の次元というのは、私たちの住んでいる世界、三次元の世界です。

何故ならば物質というものを物理的に定義づけますと、質量と体積を有するもの、これが物質だと言っております。

そうなりますと、相対性理論を通しても物質の世界というものは、必ず質量があるんだ。

そして光の速度というのは、一秒間に、地球の周りを七回り半すると言っております。

一方、仏教におきましては、これを(物質)の世界といっております。

そして私たちの次元の違った世界をの世界と言っております。

色心不二とも言っております。色心は不二である。即ち物質と心は別ではなく一体であると言っています。

或いはまた、色即是空とも言っております。あるいは空即是色とも言っております。

物質は即ち是(これ)空になる、つまり形のない状態になると言っているのです。

このように仏教の教えの中にあるように、色心は不二だということは、色(物質)と心(空)は循環して繰り返しているという事を説いているのです。

いま私たちの目に見える世界というものは、七色の虹の世界しか、この五官でとらえることはできません。

しかも、虹の七色の両極端にあるところの赤色、その赤から更に赤外線、そして電波に至っております。

この電波も赤外線も私たちの目では見ることは出来ません。更にまた極端であるところの紫外線、X線、Y線、こういう熱線も見ることは出来ない。しかし存在しているのです。

我々の目で見える世界というものは、ほんの小さい世界だということを知らなくてはいけません。

しかし、目でとらえることのできる全ての世界というものは、色彩をもっております。

色彩を持っているために、この一切の万象をと言ったのです。

色心が不二だというというのは、私たちの肉体と心は同じだと言っているのです。

更にまた、色即是空という空の世界というものも、この色という世界も同じだと言っているのです。

地上の世界は1次元、2次元、3次元の世界です。

二次元の世界というのは、私たちが毎日見ているテレビ、あのスクリーンはX軸とY軸の平面の世界です。

その平面の世界、そのスクリーンは三次元、つまり立体の世界で制作されて投映された世界です。

その投映されている世界の二次元(画面)に対して、如何にその投映されているヒロインが可哀想であっても、私たち三次元の世界から声を掛けても通じないはずです。

それは4次元のあの世からから3次元のこの世に声を掛けても通じないのも同じ原理によることです。

しからば、三次元の世界というものはどう説明するれば理解できるだろうか。

私たちの暮らす三次元は四次元(あの世)以降の世界の投映されているものであり、そこに次元の存在があるのです。

つまり、あの世からこの世に生まれるのであって、この世からあの世に生まれることは、この世では死を意味するのである。

この三次元の世界というのは非常に、振動が粗悪な、物質的な不安定な世界なのです。

この自然界における諸現象は一切、振動からなりたっております。これは科学の話です。

私たちの心から生ずるものもこれまた振動です。

私たちの脳細胞の中に起こる脳波の波もやはり同じ振動です。ただ次元が違うだけなのです。

それでは色即是空の世界をもっと分かり易く考えてみましょう。

いま、私達は固体、液体、気体という三つの変化をする自然の現象を知っています。

この三つの変化をする氷について考えてみましょう。

氷が水に浮かんで、水面上に出るのは約10パーセントです。殆ど水の中に入っている部分が90パーセントです。よく氷山の一角と言っています。

この氷というものは、分子式で書きますとH2Oです。この水もH2Oで同じです。

こうして水の密度と氷の密度の差によって、それのパーセントを見ますと10パーセント位しか水面上に出ていない。

また、空の雲は水の分子がお互いに分散している状態です。

分散されている状態という事は、ここではじめて熱粒子である振動数というものの作用によって膨張をしてくれば、水の分子の間に入る熱粒子が膨らんでくるから蒸発します。

逆に収縮をしますと今度は水に変わったり、或いは更に温度という熱粒子が冷え込むと氷に変わります。

収縮の度合いが小さくなればなるほど、粒子の変化もまた同じように変わってまいります。

こうなって宇宙に存在している空のあの水もまた高度千メートル上がる毎に6、5度ずつ温度が降下していきますから、やがて蒸発した目に見えない水蒸気も、お互いに熱粒子の収縮にあって雨になり雪になり、そしてまた地表に或いはまた雨となり降ってまいります。

したがって、氷のH2Oも、水のH2Oも、分散されている雲のH2Oも、一つとして変わらないのです。

このような状態を色だと言ったり、見えない世界であっても、また見える世界であっても、色即是空であり空即是色というのである。

水蒸気のH2Oは氷のH2Oと同じであり、氷のH2Oは水のH2Oとなんら変わらないということなのです。

唯これが、科学的に言うと分散集中だけなのです。この自然界に存在するあらゆる諸現象は、全て輪廻転生を続けております。輪廻転生を続けていないものは何もないのです。

ただ見えなくなったから存在しないということはナンセンスです。

人間に見えない世界の方が遥かに多いという事実は、あらゆる科学的な世界においても、はっきりとしているのである。

人類は物理学を通しても、もう既に現代の素粒子理論は壁にぶつかり、それ以上進むことが出来ない段階です。

人類は、ややもすると科学的、化学的というものの考え方に立ちがちであるけれども、科学なんていうものは実際のところ、まだメッキより薄いものなのです。

見えない地金の部分、つまり、見えない世界の方が遥かに多いということを知らなくてはいけません。

こうして次元の違った世界、宇宙の一切の現象を統べる意識である絶対唯一のgod神とは一体何なんだろうか。或いは仏とは一体何なんでしょうか。

我々は分からずままに、永い歴史の中に体験されて来ている目の前の姿を絶対視して、それを拝むようになりました。

しかし人間が物質だけを追い求めて得たものは一体何なんでしょう。

例えば30年前の東京、隅田川でも垂れ流しによる公害で水が汚れドジョウや魚が取れなくなった時期があったのです。今でこそ規制されて川も当時よりきれいにはなっただろうが人間の経済と物質偏重主義は自然破壊の道を進むことになるということである。

大事な自然というものを、人間が物を追いかけて、追究してその欲望を満たそうとして、公害を作り出したのです。

いま中国が公害を作り出していますが、中国の上空は他国より熱が高いことを宇宙から測定し公表された。公害はこうして人間の、心を失った、物だけに溺れ求めた結果であろう。

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あなたの4次元ガイド

最近では高齢者より若い人たちの方が守護霊指導霊という言葉を知っているようです。

『あなたに徳の高い守護霊をつけてあげます。そのことによってあなたを守護し、運が強くなり何事もうまくいき幸せになれます。』実に都合が良く、うまい話しである。

あるいは『霊格の高い守護神をつけてあげます。』という甘い言葉に誘われて大枚を支払ったという人がいます。

あるいは『この仏像は全ての災難、病気を除く霊力を授ける力のある神ですからご利益がすごいですよ。』といって数十万の小さな仏像を買わされた被害者がいます。

人間はなぜこうもご利益に弱いのだろうか。答えは簡単です。欲望である。

何もせずに砂漠でダイヤをあてにすることと同じようなものだ。

金額の大小こそありますが、数千円のご利益グッズから数万円のものまで、あるいは数十万のご利益グッズから百数十万のものまで、ご利益グッズは宗教界には付き物である。

このような物を買い求めなくても私たちには立派な人生のガイドが生まれた時から誰にでも公平に付いてあの世から守護霊として使命を果たしてくれているのだ。

ですから営利主義の霊能者と称する人たちが後から取り付けるようなものでは決してないということ。そのような話には絶対に乗ってはならないということです。

何故なら、4次元世界と3次元世界の関わりには厳然とした摂理と秩序が存在していて、何人たりともこの秩序を破ることはできない。

したがって後付するような霊は動物霊か地獄霊しかないのです。ご注意いただきたい。うまい話はいつも誘惑と危険がはらんでいるのである。

私たちの背後(4次元)にはいろんな役目の霊が存在しています。

目的がいろいろとあるからですが、しかし、その霊がすべて同じレベルにあるわけではありません。各々の霊に割り当てられる守護霊としての役目は霊的な成長と発達の度合によって異なります。

例えば宇宙の機構について詳しい霊がいても、あくまでその時点までの経験の結果としての知識で協力するということで、まるで知らないことについては協力できません。決してパーフェクトではないのです。

ですから知らないことは何一つないような霊は決していません。

物理化学に精通している霊は高等な思想上の問題についてはよく知りませんし、高等な思想・哲学を説くことを使命としている霊は物理化学に関しては苦手なわけです。

霊をぜんぶ同一水準に置いて考えることは禁物だということです。

守護霊・指導霊とは。

多くは魂の兄弟が担います。また地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感や霊的使命感によって結ばれる場合もあります。まれには地上での血縁関係によって担う場合もあります。

そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り4次元世界に行き、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていくのである。

魂には民族も国家もありません。あるのは地上生活のときの肉体上の差異だけです。

選ばれる基準は何か。

4次元世界にいる段階で地上世界(3次元)のために為すべき役目があることを自覚して、自らかって出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。

誘われた魂は困難を承知で人類愛のために引き受けるのです。

また自分から進んで背後の指導を買ってでたとしても、その霊の人間性が未熟ならば叶わないことです。

あの世においてはオーラ、色彩、光輝がその霊人の本性(魂レベル)を全て示しているのです。

あの世では地上人間のように嘘は隠せませんし、心の状態がすべてオーラとなって表れているからです。

あの世における霊体だけの生命はこの地上のような肉体はまとっていませんから心の状態がすべて丸見えなのです。

守護する力量のないものがその任を担うことはできません。その人には協力できないことが明らかなのですから。

ですから、地上のあなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊格の高い指導霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。

仏像や守護神を後付けする話は全く嘘の作りごとでしかないのである。

指導霊にも段階ありです。殆んどは自分と同等レベルの指導霊が背後にいると解釈してよいでしょう。

つまり、自分の魂のステージに見合った霊が守護霊や指導霊という立場で背後の協力をするのです。

この世においても資格のないものにはやりたくても出来ないことがあるのも道理でしょう。

しかし、ここでいう資格は学歴や運転免許や国家試験で得るような形の資格ではありません。

魂の成長度合の意味です。偉大な聖者たちは大学を出ただろうか?

先ずは私たちが心磨きを実践して魂のステージを向上することが先です。

そのことによって段階的に指導霊が入れ替わることがあるのです。私たちが意識するしないに関わらずです。

仏像や曼荼羅に向かって真言を唱え、読経をして拝むことは全くの御利益求めで他力本願で依存型信仰の代表といえるでしょう。

このような考えと行動が動物霊や地獄の人霊を引き寄せるケースが多いことを知る人はとても少なく、霊障に苦悩する人も後を絶たない。

ノイローゼや家庭内不和で相談にみえるのである。

人間に必要なものはすべて生れ落ちるときに備わっていることを知っていただきたい。

すべては私たちの心の中に内在されているということです。

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破壊エネルギーの怒り

先日、買い出しの為に出かけた。

丁度良くスーパーの入り口近くの駐車スペースが空いていたのでそこに車を入れたのだが、その直後に60代とおぼしき白髪の混じりの女性が、私の運転席の外で物凄い形相で怒鳴っている。

不思議に思い窓を開けると、

『ここは、あんた一人の駐車場じゃないだろ<`~´>私が先に来て障害者用のスペースに車を停めて空くのを待っていたんだよ。私が先なんだよ<(`^´)>横取りするな。』

『わかりました。すみません。もう少し静かに話してください。私は横取りしようとしたわけではありませんし、あなたが先に待っていることも知りませんでした。いま車を出しますから、どうぞここに停めてください。それにしても障害者用のスペースに停めて待っていたというのもどのようなものでしょうか?』

この女性、憮然とした顔でそっぽを向いた。買い物にきたはずなのに、私が空けた駐車スペースに車を停めず駐車場から出て行ってしまった。(?_?)

些細なことに腹を立て、言葉を荒げて他人に突っかかる人間の心理には利己主義、怨み、憎しみ、嫉妬、怒り、自己中心、自己保存、傲慢、驕り、排他的な自我心が潜んでいる。

本人が一番苦しいだろうに、この様な自我心の人は、全く苦しみの原因を解っていない。まさにこの世で地獄に堕ちている。

原因は相手にある、私が正しいという思いが強すぎて強引に自分を通してしまう。ひどくなると被害妄想にまでなる場合がある。

昔から『人を呪わば穴二つ』の諺どおりで呪った人間も自ら墓穴を掘ることになる。

何故なら念というものは相手に届くが自分にも返り念がくることになり苦しみや不幸、最悪は病気をしたり、頓死の原因となる。

例えば人を恨みます。自分というものを正ださないで相手に言われたことや、行動に対してだけ怒りを持って相手を恨みます。

こういうことは、言葉にしなくても自分の心の中で想っても、相手に届くし、何より自分自身も体を蝕むことになり、やがては病気さえも引き起こす結果になるのである。

怨みと怒りの念は破壊のエネルギーそのもので、発信者である自分の肉体さえも壊すことになる。

ということは逆にいえば、愛の念波は相手を平和と安らぎに導きますが、その返り念は自分自身をも調和の光りで満たすことになるのです。

特に言葉の場合は、言霊(ことだま)という一つの振動を通して、相手の心の中に入ります。心の中で想っても同じで相手の心には通じます。表面的には分からないだけのことです。

それだけに私達は、この自分の想うこと、行うことの正しい基準を知って生活しなければなりません。

恨むという心の作用は、相手に対して作用しますが、しかし、反作用となって自分にまた返ってくると同時に相手の心にも毒を食べさせる。

怨みの念は自分と相手を傷つけるだけの結果しかうまれないのである。

特に心が常に丸く豊かで光明に満たされている人を呪ったり、怨んだりしたら自分にはその何十倍にも反作用が起こってくるでしょう。

最悪は健康を害して倒れることになります。丸く豊かな光明に満たされた心は鏡の如くそのまま写し返すのです。

呪う悪想念は念波という振動エネルギーとして相手に届きます。しかし呪うことは地獄界の心そのもので、その世界の悪霊や動物霊と感応して憑依されることになります。

やがては地獄霊の支配下のままに人生を翻弄されて廃人同様の生き方となるでしょう。

憑依は類は類を呼ぶ同調原理の結果であることを知らねばなりません。

自分が憑依を招くのであって、霊のせいではありません。

憑依されることは家族にも悪影響が及ぶことになります。

愚痴を言い怒りを持って事を為しても、心も、体も、生活も、環境も平和に進展することはないだろう。

厳密には人に対する愚痴も呪いとなりえることを知らねばならない。

怒りの原因は自分の意に反した相手の言葉や行動に対応できない自身の心であり、理性領域のコントロールができず感情領域だけが暴走するために発生するものです。

怒りの根底には自己保存。自己中心がある。

『心の三毒の貪り、怒り、愚痴』の中では怒りが最も愛から遠い心です。

怒りの心と、恨みの心を持たないための努力をしなければならない。どのような方法ですれば恨みや怒りの心を待たずに生きられるか、そのヒントはこのブログの随所に記載してありますのでサイドメニューの検索にキーワードを打ち込んでお調べください。

昔、修行をしておられた修行僧が老師に問うた。『私は簡単に腹を立てるし怒るし、言葉に出してしまいます。そのことでいつも後悔してばかりですが、このような癖が直りません。どのようにすれば直せるでしょうか。』と。

老師は答えた。『今の世は戦乱の最中であるが、戦は相手の大将を討ち取ればあとはいとも容易く勝ち戦となろう。お前の何が総大将であるか分かっているだろう。その総大将を討ち取ることができたら後の兵は戦わずして降伏させることが叶うであろう。』とこのように指導された。その後、雲水は二度と再び怒ることはなくなったという。

この逸話は、修行僧が如何にすれば怒りを滅することが叶うのか自分の心を見つめて内省し、『ああそうか、総大将とは自分の心だ、この心を調えれば自分を支配したことになる』と気付いたことを日々の修行に実践して立ち直ったという事例です。

日常生活のなかで簡単に言葉を発する傾向にある人はそれを改めること。

それは相手の言葉に対し短慮に反応して言葉を出す癖を直すことです。

一呼吸の間を置いても充分に相手に伝わるし、むしろそのほうが正しい言葉、偏りの無い怒りのない言葉で相手の心に届くでしょう。

また相手の話に割り込んで話す癖も改めなければなりません。

『聴き上手が話し上手』といいます。聴き上手な人は理性が働き自己主張に走ることなく事の本質をよく見極める目(心)を持っています。

他からの意見に対し自分の価値観を押し通すことでもありません。

自己主張の心は時に攻撃的言葉を発する傾向にもあります。

自己主張や怒りの心は他愛の無い、些細なところでその顔を瞬時にだすものです。

それもまた良くも悪くも個性でもあり、心の傾向性でもあります。

これは知識では改めることは困難です。

自身の固い決心を以って、その都度改めなければ叶わないことです。

『見えざる者よ鎮めよ 走る者よ坐すがよい 病める者よ病んではならぬ』

自分自身の心も振る舞いも見えない人よ、冷静に理性をもって心を静めなさい。後先を考えず突っ走る人よ、一時やすんで周りをみなさい。病気で体が辛い人よ、心まで病んではならない。生きるも人生の修業なら、病のなかにあっても修行。死んでも修業は永遠に続く。人間の本分は心の調和と安らぎにある。

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