破壊エネルギーの怒り


先日、買い出しの為に出かけた。
丁度良くスーパーの入り口近くの駐車スペースが空いていたのでそこに車を入れたのだが、その直後に60代とおぼしき白髪の混じりの女性が、私の運転席の外で物凄い形相で怒鳴っている。
不思議に思い窓を開けると、
『ここは、あんた一人の駐車場じゃないだろ<`~´>私が先に来て障害者用のスペースに車を停めて空くのを待っていたんだよ。私が先なんだよ<(`^´)>横取りするな。』
『わかりました。すみません。もう少し静かに話してください。私は横取りしようとしたわけではありませんし、あなたが先に待っていることも知りませんでした。いま車を出しますから、どうぞここに停めてください。それにしても障害者用のスペースに停めて待っていたというのもどのようなものでしょうか?』
この女性、憮然とした顔でそっぽを向いた。買い物にきたはずなのに、私が空けた駐車スペースに車を停めず駐車場から出て行ってしまった。(?_?)
些細なことに腹を立て、言葉を荒げて他人に突っかかる人間の心理には利己主義、怨み、憎しみ、嫉妬、怒り、自己中心、自己保存、傲慢、驕り、排他的な自我心が潜んでいる。

本人が一番苦しいだろうに、この様な自我心の人は、全く苦しみの原因を解っていない。まさにこの世で地獄に堕ちている。

原因は相手にある、私が正しいという思いが強すぎて強引に自分を通してしまう。ひどくなると被害妄想にまでなる場合がある。

昔から『人を呪わば穴二つ』の諺どおりで呪った人間も自ら墓穴を掘ることになる。

何故なら念というものは相手に届くが自分にも返り念がくることになり苦しみや不幸、最悪は病気をしたり、頓死の原因となる。

例えば人を恨みます。自分というものを正ださないで相手に言われたことや、行動に対してだけ怒りを持って相手を恨みます。

こういうことは、言葉にしなくても自分の心の中で想っても、相手に届くし、何より自分自身も体を蝕むことになり、やがては病気さえも引き起こす結果になるのである。

怨みと怒りの念は破壊のエネルギーそのもので、発信者である自分の肉体さえも壊すことになる。

ということは逆にいえば、愛の念波は相手を平和と安らぎに導きますが、その返り念は自分自身をも調和の光りで満たすことになるのです。

特に言葉の場合は、言霊(ことだま)という一つの振動を通して、相手の心の中に入ります。心の中で想っても同じで相手の心には通じます。表面的には分からないだけのことです。

それだけに私達は、この自分の想うこと、行うことの正しい基準を知って生活しなければなりません。

恨むという心の作用は、相手に対して作用しますが、しかし、反作用となって自分にまた返ってくると同時に相手の心にも毒を食べさせる。

怨みの念は自分と相手を傷つけるだけの結果しかうまれないのである。

特に心が常に丸く豊かで光明に満たされている人を呪ったり、怨んだりしたら自分にはその何十倍にも反作用が起こってくるでしょう。

最悪は健康を害して倒れることになります。丸く豊かな光明に満たされた心は鏡の如くそのまま写し返すのです。

呪う悪想念は念波という振動エネルギーとして相手に届きます。しかし呪うことは地獄界の心そのもので、その世界の悪霊や動物霊と感応して憑依されることになります。

やがては地獄霊の支配下のままに人生を翻弄されて廃人同様の生き方となるでしょう。

憑依は類は類を呼ぶ同調原理の結果であることを知らねばなりません。

自分が憑依を招くのであって、霊のせいではありません。

憑依されることは家族にも悪影響が及ぶことになります。

愚痴を言い怒りを持って事を為しても、心も、体も、生活も、環境も平和に進展することはないだろう。

厳密には人に対する愚痴も呪いとなりえることを知らねばならない。

怒りの原因は自分の意に反した相手の言葉や行動に対応できない自身の心であり、理性領域のコントロールができず感情領域だけが暴走するために発生するものです。

怒りの根底には自己保存。自己中心がある。

『心の三毒の貪り、怒り、愚痴』の中では怒りが最も愛から遠い心です。

怒りの心と、恨みの心を持たないための努力をしなければならない。どのような方法ですれば恨みや怒りの心を待たずに生きられるか、そのヒントはこのブログの随所に記載してありますのでサイドメニューの検索にキーワードを打ち込んでお調べください。

昔、修行をしておられた修行僧が老師に問うた。『私は簡単に腹を立てるし怒るし、言葉に出してしまいます。そのことでいつも後悔してばかりですが、このような癖が直りません。どのようにすれば直せるでしょうか。』と。

老師は答えた。『今の世は戦乱の最中であるが、戦は相手の大将を討ち取ればあとはいとも容易く勝ち戦となろう。お前の何が総大将であるか分かっているだろう。その総大将を討ち取ることができたら後の兵は戦わずして降伏させることが叶うであろう。』とこのように指導された。その後、雲水は二度と再び怒ることはなくなったという。

この逸話は、修行僧が如何にすれば怒りを滅することが叶うのか自分の心を見つめて内省し、『ああそうか、総大将とは自分の心だ、この心を調えれば自分を支配したことになる』と気付いたことを日々の修行に実践して立ち直ったという事例です。

日常生活のなかで簡単に言葉を発する傾向にある人はそれを改めること。

それは相手の言葉に対し短慮に反応して言葉を出す癖を直すことです。

一呼吸の間を置いても充分に相手に伝わるし、むしろそのほうが正しい言葉、偏りの無い怒りのない言葉で相手の心に届くでしょう。

また相手の話に割り込んで話す癖も改めなければなりません。

『聴き上手が話し上手』といいます。聴き上手な人は理性が働き自己主張に走ることなく事の本質をよく見極める目(心)を持っています。

他からの意見に対し自分の価値観を押し通すことでもありません。

自己主張の心は時に攻撃的言葉を発する傾向にもあります。

自己主張や怒りの心は他愛の無い、些細なところでその顔を瞬時にだすものです。

それもまた良くも悪くも個性でもあり、心の傾向性でもあります。

これは知識では改めることは困難です。

自身の固い決心を以って、その都度改めなければ叶わないことです。

『見えざる者よ鎮めよ 走る者よ坐すがよい 病める者よ病んではならぬ』

自分自身の心も振る舞いも見えない人よ、冷静に理性をもって心を静めなさい。後先を考えず突っ走る人よ、一時やすんで周りをみなさい。病気で体が辛い人よ、心まで病んではならない。生きるも人生の修業なら、病のなかにあっても修行。死んでも修業は永遠に続く。人間の本分は心の調和と安らぎにある。

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