鑑定・遠隔ヒーリング後の霊障

佳代 より: 2013年7月29日 8:53 PM(原文のまま)

修行僧様のコメントへの返信投稿を拝見致しました。

この世の争いは、あの世の霊達の影響もあるとお話ししておられます。 しかし、それも私たち人間の不調和な想念が呼び込んだものと述べていらっしゃいます。

実は私は、お付きあいしていた彼とお別れすることになり、憔悴しきって何もやる気になれず外出もする気になれず、仕事が休みの日は殆ど部屋にとじ込もっていました。

このままではダメだと模索しているときに、あるサイトを知り、鑑定と遠隔ヒーリングをしていただきました。 鑑定ではとてもよく私の事を知っているかのように当てました。

信用しました。

最初は気分が良いよう思ったのですが、でも日がたつにつれて様子が変わって行くのが分かります。

鑑定をして頂く以前にも増して不安感が強くなり、夜になると動悸がしたり、イライラしたり、家の中で変な現象が起きてくるようになりました。

新しいテレビなのに画面が途切れたり、電話が鳴るのに相手の番号が表示されません。

誰もいない階段を人がミシミシと音を立てて登るのが分かります。

家のきしむピシッと音がします。

そういうときは決まって頭痛がしたり、吐き気に襲われ不安感と恐怖心で身の置き所がありません。

このようなことは今までなかったことです。

母も穏やかな人ですが、最近はイライラしたり、私に当たったりします。

こんなことは母にはなかったことです。

もしかして霊障?まさか。 人のせいにしたくはありませんが、鑑定と遠隔ヒーリングをしていただいて翌日からこのようなことが始まりました!

鑑定は無料で30分していただきましたが、遠隔ヒーリングは一週間のコースで10万円です。

振り込み確認が取れた日から遠隔ヒーリングを始めましたが今はやめております。

こちらのブログを拝見して問題を解決するきっかけにしたいと勇気をもってコメントさせていただきましたが、本当に無料でしょうか?

不安がいっぱいあるのですが、お答えいただければ有難いです。

宜しくお願いいたします。

返信、相談者は有料ではないかと心配しておられるようですが、ご安心ください。

私のブログを読んで全国、あるいは海外からもメールで相談がきます。また、近隣の方は直接おいでになって相談される方もおられます。

しかし、これまで一度も、カウンセリングやその他のことで対処しても時間も内容も関係なく、一円たりとも報酬をいただいたことはありません。

あくまでも奉仕活動です。

ブログもホームページもそうですが、無料というメッセージを前面に打ち出すことでPR効果がうまれ、それに引かれるようにサイトにアクセスして依頼していくことになります。

最初は相談や鑑定が無料ということであっても、一端やり取りが始まると誘導されるままに多額の契約をして送金することになり、あとで後悔をする。

このようなケースは数限りなく存在しますし、私のところにも多くの相談があります。

プロの造ったホームページは見事に綺麗で全体の構成もレイアウトもイメージもうまくできており、それにまた惹かれてしまいます。

ホームページも、メニューも、それを仕事にしている人たちにとっては、お金を得るための内容と手順でつくられているものだということを知っておかなくてはならないでしょう。

心の問題、霊的な問題は形のないものを取り扱うだけに慎重に行動しなくてはいけません。

今回のあなたの問題は、明らかに霊の影響によるトラブルかと思います。

しかし、むやみに不安感や恐怖心をもってはいけません。不安感や恐怖心は霊たちの付け入る隙を与えることにもなるからです。

とは言っても、当事者であるあなたにとっては、問題の解決が第一の優先事項でありましょうから、この問題に関しては私の方でできる限りの協力をさせていただきます。

それと合わせて、自分でもできる家の環境浄化や、自分の心の調え方をお知らせしますのでそれを日々実践することです。(内容は非公開)

このやり方は、危険性もなく、霊的な知識など必要もなく、難しいものでもなく、何の小道具も、材料も、お金もかかりませんし、必要なものはご自分の努力だけです。

宗教的問題と被害、及び霊的な諸問題で相談にみえた方によく質問をされることがあります。

『霊が見えますか?』と。

多くの人は、霊が見えるといえば感嘆の表情をみせるのだが、見えませんというと落胆のような心がうかがえる。

何故、これほどまでに見えるということにこだわるのだろうか。

それは、見えるということイコール特別な能力があるという思い込みによるからです。

しかし、本来、見えるということは、正しい生き方である偏りのない中道の生活が実践できているなかで、心が調和された結果の二次的働きとして開花した能力なら信頼に足るものですが、ただ単に見えると自負する者ほど危険なことはありません。

何故なら、動物霊が憑依していても、邪悪な人霊が憑依している心の不調和な人でも見えるという現象が起きるからである。

また、精神的病気を患って心療内科や精神科などに通院して投薬治療をしている人のなかにも『霊がそばにいる』、『家のなかに霊が出る』という人がときどきいます。

これも類は類を呼ぶの原理にしたがった現象であり、自分が呼び込んでいる場合がある。

もうひとつは、小さな子でも周りを見て姿なき存在と語っている場合があるし、精神的に幼い小学生の子供でも見えている場合があるということ。

小さな子供の場合は心に曇りがない分だけ次元の違った世界に感応しやすいということがいえるし、もって生まれた魂の素養というのもある。

また、男性よりも女性の方が霊的な存在を感じるケースが多い。

大人でも人間的に心貧しい、執着をもった人でも見えるという人はたくさんいるということ。

見え方にも段階あり、見えることがイコール尊いことではないのであり、能力があるという評価にはならない。

人の道は見えることにあるのではないということを、しっかりと理解していただきたいものです。

つまり、見えるということは霊的心のステージが低くても、未熟でもおこることです。

逆に霊的な存在を見る能力がなくても人の心に安らぎを与え、導き、正しい生き方を指導している人間性の豊かな人たちがいるのである。

見えるということに拘るほどに人々は利用され、被害にあう危険性が潜んでいるスピリチュアルな世界だということを十分に承知しておかなければならないだろう。

私は相談者に対して霊的諸問題を自分で解決するようにその方法を正しく危険のないように教え、実践させることにしているが、これまでその方法で解決できている。

その意図するところは、依存心をなくし、自立心を持っていただく為です。

霊的な能力に依存して救いを求めることは危険と道を誤るリスクが伴うことを知っておくべきである。

当事者が自分の努力で解決することが一番のぞましいのです。

私は、これまで何度も記事として投稿してきましたが、に関わるサイトを運営している方々、あるいは霊能者としてそれを生業(なりわい)にしている人たちのなかにも、御本人が気づかずに邪悪なものたちに支配されている人たちもいるということです。

それは何故かといいますと、邪悪な霊達を引き寄せるだけの条件が自分自身の心に揃っているということです。

不満、愚痴、怒り、嫉み、足ることを忘れた物欲、金に執着している、様々な欲望、などが邪悪な霊達と波長が合い、招きよせるのである。

これは何も霊的な生業に携わる者たちに限らず、一般の方たちでも心に不調和があれば簡単に、類は類を呼ぶの原理にしたがって引き寄せている場合が多々あるるということだ。

浄化をしていただいて、その時は心身ともにクリーンな状態になって喜んでいても、日常生活の些細なことで簡単にイラッとしてしまう、簡単に怒りが込み上げてくるようなら完全に霊に支配されやすいタイプといえる。

私は霊感がある、予知能力がある、人間の心がわかる、遠隔浄化や遠隔ヒーリングができる、病気治しができる、霊が見える、オーブ写真が撮れる、龍神の姿を写真に収めた、宇宙のプラーナが見える、あるいは写真に収めた、等々、こういうことを公言する人がいると、凄い、と思い込んでしまうのが人間でもありましょうし、なかには憧れる人たちもいます。

実は、このようなことは、何ら、今日いちにちを正しく生きることには重要でもなく、用を成すものではありませんし、まして、貴いことでもありません。

霊的な能力があることと、人間性、人格とはまったく別なことであり、そういった類の能力がなくても、人間として日々の生活を調和あるものにし、人々にも慈愛を持って接し、立派に尊敬されるような人たちがいます。

霊的現象に関して公開しているサイトはたくさんありますが、けっして現象そのものに価値があるものではなく、そのようなことに心を惹かれること自体、気をつけなければならない問題であります。

したがって、こういう霊的なことに関わってサイトを運営している人間の行動を慎重に見極めることが重要です。

大事なことは、人間の生き方であり、それは心のあり方でしょう。

心のあり方とは、いつも心安らかに心身共に偏りのない調和された精神状態で生活行為をすることです。

こういうことを説いて実践しているようなサイトなら信頼に足るとみてよいでしょう。

どれほど魅力的で素晴らしいサイトであっても、また、巧みな言葉で扇動しようとも、結果的に、今回のあなたは、大枚を失ったうえに邪悪なものたちの影響を受けて苦しむことになりました。

人生において、禍が起きたとき、何かにつまずいたとき、挫折したとき、あるいは失望したとき、誰かに話しを聞いてもらいたと思うことは誰にでもあることです。

しかし、安易に鑑定や占い、霊的な能力者といわれる人たちに依存してはなりません。そのような時がいちばん危険なタイミングだからです。

最終的に自分を導くのは右にも左にも、上にも下にも偏らない、自分の決断であり、心だということを知らなくてはならないでしょう。

それが中道の精神(リンク)ということです。

佳代様から 2013年7月30日 9:36 PM(原文のまま)

観童さま。とても早い返信メールをくださいまして本当にありがとうございます。 やはり、霊的な影響があったのですね。予測はしておりましたが、改めて事の重大さに愚かなことをしたと猛反省しているところです。

観童さまからご連絡を頂き早速、我が家を浄化していただいて10分ほどしたでしょうか、これまでの重苦しい空気がなくなり、家の中が軽くなり呼吸も楽になりました。 それと、家の中のピシッという音がしなくなっているのに母が気づきました。

テレビの画面が途切れないでちゃんと映っています。

階段の気配も感じられません。不思議です。

何故なんでしょう?

母の顔が変わりました。 これまでの母の顔に戻っています。

とにかくありがとうございます。 なんとお礼をしたら良いのでしょうか。

ブログを勉強させていただきます。

先ずはお礼まで。

佳代様からの問い合わせの件については緊急を要すると判断し、事の解決を図る為に対処をしたものです。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。下のバナーをポチッとクリックして頂いているおかげで多くの方にに読んでいただく機会も増えております。

そして全国からご相談のメールもいただき、及ばずながらも対応させていただけること、身に余る光栄と存じます。ありがとうございます。

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修行僧の質問・地上にはなぜ争いが絶えないか

光の天使

修行僧 より: 2013年7月24日 6:37 PM 問い合わせ。

私はお寺の長男として生まれました。

檀家さんもたくさんあり、お寺を継ぐために現在は専門の大学を出て他所のお寺で修行僧として学んでおります。

ただ、お経の中身は非常に哲学的で難解なことばかりです。

人間の心を何故、これほどまでに難しく表現し、学ぶ必要があるのかいつも疑問があります。

しかし、この度、こちらのサイトをたまたま発見して食い入るように読みいりました。

大学でも、いまの修行でも、経文に対する疑問が消えなかったのですが、観童さまのブログを拝見して、雲が晴れるように溶けてしまいまし た。

ありがとうございます。

ひとつの質問をさせてください。

あの世には極楽浄土があると思うのですが、この世で争いが絶えないのは地上の人間による原因だけの問題でしょうか?

あの世の霊の影響はないのでしょうか?

突飛な質問で失礼かと思うのですがよろしくお願いいたします。(原文のまま)

お答え

この世の争いはあの世の霊たちの影響があるのかとなると、あるといえますが、しかし、それも地上人間の不調和な想念が呼び込んだものであります。

さて宗教の世界では、よく天の国とか、極楽浄土とか、黄泉の国ヨミノクニ(あの世)とか、あるいは高天原タカマノハラ(神々の住む場所)と、いったりしますが、私たち一般の人間も、天国とか、地獄という言葉を使うこともあります。

一般的には認識できないことですが、天上界には光の天使や指導霊という、人々を教化する霊たちがいます。

勿論、天地大宇宙を創造された唯一の意識(神)が存在するのはいうまでもありません。

その下には神と同一の意識までられ、その任を担った光の大指導霊たちが存在するということです。そして、光の大指導霊が地上に降りたときにサポートする守護霊や指導霊のほかにも明王や諸天・善神がいます。

神道的には「高天原に座します〇〇の神たち」、「八百万の神々」というようにです。

例えば、光りの大指導霊として地上に降りた天使の代表をいうならば、

紀元前13世紀ごろ(約3300年前)活躍した奴隷の子、古代イスラエルの民族指導者であったモーゼ

約2500有余年前インドの地において王家の息子から出家して大悟され、慈悲を説き、仏教の開祖となった釈迦無尼仏

紀元前4年頃 – 紀元後28年頃(約2000有余年前)にガラリヤの地において宣教活動を始めて愛を説いたイエス・キリスト

これら天上界を代表する光りの大指導霊たちではありますが、それでも一旦、肉体をもってこの地上に降りてくると、大悟するまでには地獄の魔たちとの闘いがあるのです。

ゴーダマ・プッタは禅定によって大悟する前に地獄のマラーを退け、イエスは沙漠の荒れ野に送り出され、そこで四十日間断食し、悪魔の誘惑を受けたが退けて大悟されました。

崇高な境地まで自身を高めようと志す者には必ず魔が競い立つものであります。

修行僧さまの質問の趣旨は、四次元以上の世界には偉大な光の大指導霊や天使たちがいて平和な楽園があるというのに、そして地上にも使命を担った光の大指導霊や光の天使達が降りているというのに、なぜ地球上に戦争や、他人との争いや、労使の闘争や病気があるのだろうと問うているのかと思います。

疑問を持つのは当然のことと思います。

この世の状況に応じて、あるいは定期的に、光りの大指導霊たちは地上におりて正しい教えを残して還るのであるが、いつの世も人間の心は邪悪な想念によって物質至上主義に陥り、守銭奴と化し、争いが絶えないのである。

それはこういうことです。空″の世界、即ち、あの世と、この地上世界とは、次元こそ違ってはいるが、この地上界の人々の心の調和によって、霊囲気が清明になれば、通信は可能なのです。

また調和された心の人々には直感、インスピレーションという形とって守護霊や指導霊から導かれることになり、益々より良い人生を営めることになっていくのである。

しかし、人々の心が不調和のため、この地上界に巣食っている動物霊や地獄霊のように執着の強い者達が、特定の人々の心を支配して語ることもあるし、行動させる場合が多々あるものです。

重要なことは、このような人々の心と生活の態度が、怒りっぽいとか、金銭欲が強いとか、他をそしるとか、地位や名誉ばかりを追っているとか、形式主義にとらわれて、いつも心に安らぎがないということです。

不調和になっている人たちの心は、天上界の光りの天使といえども、波長が合わないために、なかなか指導できないのです。

科学的にいうならば、送信機(心)と受信機(心)の波長(周波数)が合わなければ送信も、受信もできないのと同じことです。

家庭のトラブルや対人関係でうまくいかないといって相談に見える方、うつ病や過食症、さらに、広汎性発達障害などで相談に見える方、総じて自分の心の中に執着の塊がある。

回復していける人、いけない人の違いは、自分の我を捨てられるか否かである。

大宇宙の善なるエネルギーと人類との間にある障壁は、私たち地上の人間がつくっているということだ。

思想や習慣、イデオロギーなど人間の小さな価値観で作ったものなど天上界の調和された愛と慈悲の価値観からすれば全く愚かなものでしかないだろう。

特に、貧乏人から多額の金品を神の名のもとに請求する偽善者は、正しい心の者達ではありません。論外です。

このような地獄霊や動物霊に憑依されている者達は、常に心がイライラし、今いったことと、あとでいったことがチグハグで、脅迫めいたことばかりをします。

先祖が祟っているとか、浮かばれていないとか、不幸の原因をそのような方向にばかりもっていく霊媒や、霊能者、教祖、教団もある。

そうしたものにいくらお経を上げて供養したところで、救われることはないでしょうし、基本的には地獄に堕ちるような人に、お経の意味など解るはずはない。

「解らないお経を唱えることの有り難さ」云々といっている僧侶がいまだにいるのである。

解らないお経を上げて、悟ることができるなら、地上界の人々の心は、もっと平和になり、争いなど起こさないはずです。

お経を唱えることが間違っているということではないが、意味を理解して、その教えを生活の中で実践して活かすことが重要だと言っているのです。

先祖に対する供養は、お経を唱えることではなく、まず先祖からは肉体を戴いたのだということ、育てて戴いたことへの感謝する心を持って報恩の行為で示すことが大事でしょう。

先祖に向かってお経を唱えるということは、親やその先祖に対して「人生の在り方はこうだよ」と説教しているようなもので、説教している本人が日頃、不満や愚痴や怒りを露わにしているというのはおかしいではありませんか。

報恩を行為に示すということは、身体を健康にして、心を美しく、家庭が円満で、いつも笑い声の立つ家で、朝起きれば希望に燃えて、昼は自分の仕事に勤勉で、夕は一家団らんの夕食をとり、夜は自由と反省を与えられた生活です。

こうした人間の一日に、不満があるはずがないでしょう。

このような生活をすることが、先祖に対する最大の供養だといえます。

たとえ地獄に堕ちていても、子孫が平和な生活、光明に満ちた生活をしていれば、地獄霊もその姿を見て、自ら自分の非を悟ることでしょう。

形式主義によって読経による供養だとか、ご法事だとか、何回忌だとかでは、光明の安らぎは与えられないということを悟らなくてはならない。

地獄に堕ちるということは、他人に原因があるのではなく、自分自身の生活に原因があるということを自覚すべきです。

また、病気や事故や経済的不調和、友人との不調和や、生まれながらの肉体的不調和にしても、すべて反省の機会は与えられているのである。

そのことを知るべきでしょう。

結果を見て、なぜ不調和な現象が起きたのか、その原因を知って反省し、心から神に詑びることが必要です。それが自分の心にウソをつかないということです。

心の調和されている者達には、直接注意してくれる天使達もいるでしょう。

不調和な者には、様々なかたちをもって警告を出してくれることもあるでしょう。

目先の自分の利益だけ、国益だけで行動してはならないし、政治を行ってはならない。

私達は、日本にだけ生まれているのではなく、あらゆる国々の体験をして、転生輪廻をしているということを忘れてはならないのです。

心の窓が開かれ、意識の記憶にスイッチできた者達は、あの世の光の天使達の協力によって、過去の記憶もよみがえってくるでしょう。

釈迦如来、といって出てくる霊媒や教祖達が、 二千数百年後につたわってきた如来の像に向かってお経などを上げることもおかしな話です。

まして、我は釈迦なり、といって出てくる者が法華経の題目など上げるはずはなく、あったらそれは偽者です。

何故なら、その時代に、そんな経文はありはしないからです。

また、我は観世音菩薩なりと名乗る者が、観音経を読んだとしたらこれもおかしい。

なぜなら、自分が自分の業績を讃(たた)えたお経を読むはずがないからです。

つまり、それだけ、人の心は汚され、動物霊や悪霊、地獄霊などが偽って出ているのです。

しかし、メッキはいつかはげるものです。如来や菩薩や不動明王や稲荷大明神や竜神などが、霊媒に出てきて、先祖の供養をしなさいとか先祖が迷っているとかいうはずはないのです。

すべて、地獄霊の仕業です。

本物の、慈悲深い如来や菩薩や諸天善神なら、哀れな地獄霊達をも救うことでしょう。このように、永遠の生命を持っている私達は、誤った道に入ってはならないのです。

正しい神理にもとづいて生活をしていれば、必ず天上界に通じるはずです。

天上界に通じるということは、正しい指導を受けられることになり、道を誤ることもなく、地上平和の条件が整うことになるのです。

間違ってはいけないのですが、神仏が全てを解決してくれるのではなく、光の大指導霊が事をはこんでくれるのでもありません。

家庭の調和が私たち自身の想念と行いに委ねられているように、地上の平和も私たちの心にすべてが委ねられてあるということです。

如来は、転生輪廻の道を悟っているから、地上の肉体にとらわれず、自由に天上界、地獄界、地上界を往来し、輪廻を解脱しているのです。

生と死の束縛から離れている、そのことは、如来ならば当然、肉体は人生航における魂、意識の乗り物にしかすぎないことを知っています。

生死はまた。から。の世界、あの世とこの世に適応した肉体の乗り替えにしかすぎないことを、良く知っているからです。

私達は、この地上界においては、同じ国にばかり生まれているのではないということを、このことによって知らなくてはならないでしょう。

それは、肉体条件の異なるあらゆる世界の国々に、自分が望んで転生輪廻している生命である、ということなのです。

貧しい環境に生まれて魂を磨くこともある、また一国の主として優雅な生活を送ることもあるし、衆生(人々)に尽くす立場に立つこともあるでしょう。

そのすべては、自らの人生の体験をとおして、豊かな神仏の子としての、広い心を作るための修行にほかならないのです。

そして今も、私達は新しい人生の学習をしているのです。

従って、肉体的先祖が、すべてである、という認識は誤りなのだ、ということが解るでしょう。

現代社会人の大きな誤りは、肉体先祖から肉体を戴いているため、それが魂までくれたもの、と思いこんでいるところにあります。

しかし、そうでないことはもうお解りでしょう。

もし魂まで戴いたものなら、私達は、両親と全く同じ魂・意識を持ち、同じ考えをするはずですし、断絶などあり得ないはずなのです。

しかし現実は、そうなっていません。

私達の中に、内在する潜在意識の記憶は、転生輪廻のすべてを記憶しているのであり、誰でもが、心の窓が開かれ偉大な智慧に到達できれば、そのことを悟り得るのです。

私達はつまり、転生輪廻の旅人、修行者である、というわけです。

私達の魂は、生まれることも滅することもない、永遠の生命なのです。

ですから、肉体自体が垢や塵にまみれることもないし、そのゆえに、増えも減りもしない、不増不減であるというわけです。

人の世の争いも、各人の心がここに到れば、必ず救い得るものなのです。

生命には、鉱物のような不動の生命もあれば、植物のように静態の生命もあり、動物のように移動する生命もある。

しかし、こうした固体的生命というものは、不安定なものである。

つまり物質界というものは、このように不安定なものなのである。

この不安定な肉体に執着すればするほど自分を見失うことになるということだ。

人類の平和を神仏に願うことはただ単に祈りであってはならず、私たち各自が我が子を見守って育てる親のように、愛をもって慈しみ、全ての人間に接していくことから始めなければならないのだ。

私たちの心が神仏の意志に沿うものであれば、いつでも光りの天使たちの導きを受けられよう。

しかし、己の欲望に翻弄された生き方は対立を生み、敵を作り、孤立し、、相争う結果としかならないであろう。

だが、やがて人間の未来は、長い歴史のなかで愚かさを知り、多くを学び、物質文明と精神文明の両立を図るようになるであろう。

そして、今から200年ほどもすれば高度な科学の発展によって宇宙空間にも生活の場が拡がるであろうし、地下都市や海底都市もできてくるであろう。

乗り物は自分の家から飛行するようになり、現代の車のような化石燃料をエネルギーとする乗り物とははるかに異なった光りエネルギーによる高度なものになってくるだろう。

それは、反重力エネルギーによるもので、物理的規制を超えて移動し、新たな天体も発見され、他の天体にまで行き来するような飛行物体へと進化したものとなるだろう。

しかし、そういう進化した科学文明を支えるものは、より進化した高いステージの精神性がなくてはならない。

いつの時代も科学的物質文明が優先してしまうがために、その文明によって自らの破壊が深刻になる場合が多いものだ。

2011年3月11日、M9・震度7の三陸沖地震による津波の犠牲者、原発事故による犠牲者や居住地を追われた住人達。

これほどの犠牲を出してもまだ気づけない、国をあずかって行政に携わる人間たちの愚かさ。

地上平和のためには、物質文明を支えるだけの崇高な精神性必要であり、それがいま、人類が取り組まなければならない最大、且つ、重要なテーマであるということだ。

地上平和の祈りとは、愛と慈しみの心をもって行うことである。

祈りの為の祈りである必要はない。

!光り即行であり、行即光である!

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仏智を悟る般若心経(最終編)

蓮の花

般若心経(心行)の真意

仏智を悟る般若心経Ⅰ

仏智を悟る般若心経(続編)

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦

真実不虚 

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰 掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦

菩提薩婆訶 般若心経

きょうは最終章の解説となります。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

三世の諸仏とは、過去、現在、来世にわたっていつの世でも、依般若波羅蜜多故、つまり、偏りのない正しい生活行為をすることによって智慧というものを得阿耨多羅三藐三菩提、悟られたのである。

しかし、怒り、恨み、嫉み、そしりの心や、増上慢な心つまり天狗になってしまうと、心に曇りが生じ、その光は消えてしまいます。

地球上における不自然なスモッグは、不調和な曇りで太陽の光をさえぎるが、私達の心も同じことです。

人生の目的や使命を知ることはむずかしいものです。このことを知った人は、生きる喜びを知り、感謝し、報恩の行為を実践します。そこには、自己保存も自我我欲もなく、不自然な闘争も破壊もないのです。

このため、心は安らぎ、常に平和な生活を送っています。

苦楽の原因は、五官と心が作り出しているということを知って欲しいと思います。

一日一日の生活を反省しているとき、外界が真暗であっても、私達は、瞑想中に、眼の前が淡い金色の光におおわれていることを知るのです。

これが、光明の世界です。光明の世界は、次元を越えた世界で私達は、心を調和することによって四次元以上の光明世界と意識が同調して、あの世を見ることができるのです。

そして、その世界も、その人々の心の調和度に比例したそれぞれの世界が存在します。       
つまり、不調和な人生を送った人々には暗黒の地獄界が展開されているといったように、あの世には、はっきりとした心の段階があるのです。

しかし、この点だけは正しく理解してほしいのですが、地上の現象世界を去った私達を、神仏がその調和度に応じて天上界へ送ったり、地獄界に堕としたりするのではありません。

この世で、どんな生活をしたか、その自分自身の想念と行為の総決算が、自らにふさわしい霊囲気に導く、ということです。

この光明の世界は、今のような経済奴隷に成り下がった人達にはとうてい体験することはできないといっていいと思います。

導体に電流をとおすとき、その導体に抵抗が多いと、電気のエネルギーは、熱エネルギーに変わってしまいます。

特に、ニクロム線のような導体は、熱エネルギーに変わりやすいのです。

これは、河川における水の流れと同じといえましょう。

電流も、銅や銀や金の場合は、抵抗か少なくひっかかりがありません。それは、電流が素直に流れるからです。

私達の心も、そのように、不調和な抵抗を作り出してしまうと、苦しみや悲しみを作り出してしまうといえます。

導体の抵抗が熱エネルギーに変わり、導体が熔けてしまうことがあります。熔けてしまうと電灯は消えて暗闇になってしまいます。

人間は、暗闇になってしまうと、一寸先も見えないし、どんな危険物があるかも解らず、そのために恐怖心さえ生まれてきます。

導体が電流を流しても安全であれば、ひっかかりがないため、暗闇による恐怖にさらされることもないでしょう。

つまりこれは、心の原理と同じものなのです。

従って、悟った人達は、心が調和されているため、心にひっかかりがなく、一切の恐怖心もないから、光明のある、執着のない終局の悟りの世界を得ている、といえるのです。

過去・現在・未来という三世を、あなたはどう生きるか。

転生輪廻を、どう生きねばならないか。

智慧の宝庫は、どうやったら開かれるか。

そして、光明ある彼岸に到達するには、どうすべきか。

過去、現在、未来という三世における、悟った方は、転生輪廻の過程で体験した人生の価値ある智慧の宝庫の扉を開かれた方々です。

つまりそのために

阿耨多罹 三藐三菩提(インドの言葉では、アーヌクタラー・サソミヤク・サンボデー)という最高の悟りを得たということです。(日本の読経は、アーノクターラー・サンミャク・サンボーダイ)

最高の悟りを得たから、内在される仏智を知ることができた、ともいえます。

是大神呪とは、これこそ大宇宙を支配している大神霊の神理であり、是大明呪である。

すなわち、これこそ大神霊より与えられている大光明の神理であり、

是無上呪であり、つまりこれ以上の神理はないということです。

是無等等呪であり、すなわちこれと比較するに等しい神理はない、ということです。

能除一切苦、真実不虚とは、良く一切の苦しみを、人生の生老病死を原因として生ずる苦しみを除き、真実であって、偽りではない。

故説般若波羅蜜多呪 即説呪日。それゆえに、般若波羅蜜多の神理を説き、実践したのちに、

羯諦 羯歸 波羅羯歸 波羅僧羯諦 菩提薩婆呵 般若心経、悟りの彼岸に到達しよう、ということになります。

インドでは、カーティ、カーティ、パラーカーティ、パラーサンカーティ、ボデースバハー、と読みますが、カーティとは彼岸という言葉で、パラーは、到達するとか、行くという意味になります。

サロモンとは比丘(男性)、比丘尼(女性)すなわちサロモソーサマナー(修行者)ということです。

ボデーとは悟りをいい、スバハーは成就するとか、一切成り立つという言葉です。

これをとおして、今日ふうに訳しますと、「彼の岸、彼の岸、彼の岸に行こう。比丘、比丘尼達も、悟りの彼岸に到達して、一切を成就しよう」という意味になりましょう。

以上で般若心経の解説を終わりにいたします。

過去現在未来という三世を、私たちはどう生きるか。

転生輪廻を、どう生きねばならないか。

智慧の宝庫は、どうやったら開かれるか。

そして、光明ある彼岸に到達するにはどうすべきか。

この般若心経の解説を何度も熟読し、心に落ちるまで、日々の生活に意識して実践していただければ望外の喜びであります。

次回は、修行僧様からの問い合わせに対する返信として投稿したいと思います。お待ちください。

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仏智を悟る般若心経(続編)

仏智を悟る般若心経Ⅰ(リンク)

受想行識 亦復如是 舎利子

心の中で想うことと肉体での行為は、互いに調和された相互関係を持って、安定されていなくてはならない。

しかし、多くの人々は、正しいということを知りながら、欲望や誘惑、そして邪悪な思いに負けてその正しい道を歩んでいない。

受想行識 亦復如是 舎利子の意味は、私達の心の作用によって、肉体行動が現われ、肉体行動があって、また心に作用するということをいっている。

すなわち、色即是空、空即是色と同じ意義を持っているのだよ。シャリープトラーよ、と。そして、諸々の比丘(男性の出家者)、比丘尼達(女性出家者)よ、ということでしょう。

受想行識とは、

(心の感受作用・物事を思い受け入れること)
(心の表象作用・思い浮かべること)
(心の意志作用・意識し、成し遂げようとすること)
(心の認識作用・
物を分別し、認識すること)
亦復(やくぶ・またまた、再び、重ねて)
如是(にょぜ・かくのごとし、このように)

上記の記述で理解できると思いますが、心の作用と肉体的行為であり、五官をとおしてきた感応が、心の中の想念の領域の本能や智性や感情や理性に作用して、意志となり、行動に移って行く。

そして体験されたものは、肉体的行為や心の想念の働きに作用して智性の進化にもなって行きます。

つまり、心の作用と肉体的行動は、空から色に色から空へという変化と変わらない働きだといえましょう。

心で想うことと肉体の行為は、互いに調和された相互関係として、安定されていなくてはならないといえます。

しかし多くの人々の中には、正しいということを知っていても、自分の都合が悪ければ行為で現わさない人達もいます。

このような人達は、自己保存、あるいは、自我我欲の暗い心を作り出してしまうでしょう。

心の世界は、次元を超えた。の世界に通じているから、不調和なことも、調和されている慈愛の心もすべて記録されているということを、知らなくてはならないでしょう。

そしてこの善悪の記録は、やがて自分自身にかえってくるのです。

このことは、作用と反作用の法則と同じです。はからっぽだとか、何にもないとか、否定することはできないのです。

否定したところで、自分の心は、動かすことのできない絶対の空の中に存在しているからです。

是諸法空相

是諸法とは、「この諸々のあらゆる神理タルマ(法則、目的)は」、ということになるでしょう。       
空相とは、「神の心の現われである」ということで、これは、空即是色であるということからみれば、あの世すなわち次元の違っている、非物質的な精妙である意識界と、もっとも不安定な固体的な地上物質の世界とは、不二一体である、という内容を持っています。

地上の現象世界における大自然の移り変わる姿や、自然の法則は、心の世界、実在の世界の表現体です。

すなわち、大宇宙体を支配している意識の現われだといえるのです。

この意識は、神の心の現われということになるでしょう。

の世界からの世界に変わり、の世界からの世界に変わって行く、すなわち、輪廻して行く姿を空相という言葉で表現しています。

肉体と、体の支配者である魂・意識が不二(ひとつ)であるということは、今自分達がものを考え、思うと、その意志によって肉体の進路を定めていることを考えても理解できましょう。

肉体は、意識(魂)の表現体ということです。

それゆえに、の相を現わしているし、の実相を表現している。

この地上三次元の世界と、あの世、四次元以降の世界は次元が異なっているが、連続体です。

しかし、三次元の物質を、四次元以降に持ちこむことはできないでしょう。

つまりこの地上世界は、四次元以降の世界から投影されている立体映画ともいえ、人類は、その人生劇場で演技するヒーローやヒロインということがいえます。

言いかえれば、物質はエネルギーであり、エネルギーはまた物質である、ということと同義のこととなります。

仕事をなし得る能力、つまりエネルギーを見て物質の特性が解り、物質をとおしてエネルギーの特性が解るように、エネルギー粒子の集中と分散、それによって輪廻しているということです。

物質の三次元の存在に対して、エネルギーの次元は、高次元といえます。

外力の縁によって、物質はエネルギーという次元に連続されて行くことになります。

やはり、色即是空空即是色、すなわち。空相ということです。

このように、空相とは、永遠に変わらない四次元以上の万生万物を支配している根本で、宇宙意識の心の姿といえましょう。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

とは、生まれず、滅せず、垢つかず、浄らかならず、増えず、減らず、ということになりましょう。

しかし、すべて不、不、不と否定しているから、無になると思ったら大間違いです。

人間の体が死によって火葬されると何も無くなったとみるのですが、しかし、宇宙全体からみた質量は減ってもいないし、増えてもいません。

かたちが変わっただけのことである。

肉体というエネルギー粒子の集中固定化した物質が分散されている空間に出てしまっただけのことであって、大自然の法則にならった肉体生命の循環の姿でしかないといえるだろう。                     

また、心においては成長するに従って、過去世で作り出した業という性格が、人生体験を積むほどに出てくるようだ。

しかし、苦しみをとおして、その原因を追及し、反省して修正すれば、心の曇りは晴れ、安らぎの丸い豊かな心が作り出されて行き、心は光明に満たされ、やがて人生に対する疑問を次々と追及して心は進化を続けて行くものだ。

学校で学習するのは、より豊かな智性を作り、ものの判断を豊かにし、誤りのない人生を送るための基本的素養を身につけるためだ。

きびしい社会生活の体験をとおして、さらに今ある環境の中で、心の新しい学習を今も続けているのだ。

そして、自らの心と行ないの欠点を、強く修正して行く者こそ、真の勝利者である。

しかし、人間は、肉体的先祖や子孫に執着をもって、神の身体の一部である土地や、財産への執着が絶ちがたく、肉体への執着に明け暮れている。

遂には、という四次元世界のやがて帰るべき場所まで忘れ、墓や寺院に、また生まれた家や住居に執着を残して自らの心を束縛して心の中に地獄界を作り出してしまう。

いかに財産があろうとも、地位があろうとも、執着を持ってしまうと、心に曇りが生じ、肉体と同体になっている光子体(霊体)の光を失ってしまうため、辿りつく場所は、きびしい地獄界に行くだろう。

人間は、この地上を去るときは、人生で体験した一切のこと、思ったこと行なったことを持って行く。

心の中のその記憶装置は精妙で、地上界のコンピューターなどの比ではない。

人生でなした行為と想念の決裁は、自らの善なる心が裁き、罪を犯した者は、自ら罪を償う場所に行き、その原因がどこにあったかを発見して自覚するまでそこにとどまるのだ。

物質文明も人間の生活の智慧が作り出したものであり、地位や名誉も作り出したものであり、それらはすべて変わりやすい。

神の作り出したものは、安定し変わることがなく、ただ、いかに人間らしく、正しい中道の生活をして、広く豊かな心を作り、人々のために心から尽くしたか、ということがもっとも大事なことだといえよう。

人間は、いつの日か、両親から戴いた肉体から下船しなくてはならない。

あの世に帰る光子体(霊体)の体をもって、光の世界に帰って行くのだ。

自らの心と行ないを正さないで、実在する四次元以上の世界を悟ることはできない。

智性だけの悟りは絵に書いたボタ餅であり、正道を行なわなくては結果は出ない。

肉体の生と死を見て、生まれたとか死んだとかいうのは、正しい道理ではないといえよう。

れは、肉体の船長が、乗り物をかえただけで、本当の自分自身は、死ぬことも生まれることもなく、汚ないも綺麗もなく、増えも減りもしないのである。

これが不生不滅 不垢不浄 不増不減の意図するところである。

物質的な現象だけを見ているから、生老病死に翻弄され、そのように感じるだけなのだ。

人間は永遠の生命である。

わたし達は、眠っているときに、四次元の世界に行くことがあるが、不調和な心では天国の世界にはいけない。

このような話しを信じる、信じないは読者の判断に委ねることとしますが、頭の中だけで判断するのは愚かしいことです。

頭ごなしに否定する人もいますが、それは否定のために否定している執着の強い人である、というしかありません。

疑問を持つのは当然のことです。それをどう解くか、そのことのほうが真実に近づく早道でしょう。

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身 意無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界

空“の世界、あの世は意識界であるから、非常に精妙な心的な世界である。
空″の世界、すなわち魂、意識中心。心の世界は、肉体の五官をとおしてみた現象界とは、全く異なっているということを説いているのです。

「これゆえに、あの世の世界、空の世界、すなわち心の世界は、色すなわち物質的な万物もないから、肉体的な想行識を受けることもない。

眼によって万生万物を見たり、声を聞くことも、鼻で匂いを嗅ぐことも、舌で味を知ることも、身で感触を知ることも、肉体的な現象の法則もないし、眼で見える境界もないと否定している経文です。

現在、私達の肉体についている付属品である、眼耳鼻舌身意の五官六根は、あの世という次元の異なった世界へ持って行くことはできない。

だから、肉体の一切をとおして感知できる現象を否定して、ないという否定の意味です。

これは、空”の世界、実在の世界は、精妙な非物質的な世界である、という説明ともなっているのです。

地上における現象界の大自然は、物質であり、鉱物、植物、動物が相互関係を保って共存しているということは、これまで何度も述べました。

詳しくは、この地球上には、鉱物のように成長せず、風化して変化している不動的な生命体もあれば、植物のように、同じ場所から移動せずに生命を保っている静態態生命もあり、動物のように、生存する場所を自由意志によって変える動的生命もあるということです。

しかし、これらの不動的生命も静態生命も動的生命も、それぞれの環境に適応して安定しているかに見えますが、実は不安定で不確実な、固体的なものです。

その証として、私達は、空中にある電波、紫外線、赤外線、線、線、λ線のような熱線や放射線などを、自分の眼で確認することはできません。

大自然の万物は、ひとときでもその位置を保存することはできないし、今ある形を変えねば生きて行けないからです。

変わること、即ち循環することで生かされていると言えるでしょう。

物質界というものは、このように、不安定で固体的な世界なのです。

空”の世界、四次元以上の世界は、意識界であるから、非常に精妙で心的な世界です。

動的、静態、不動的な各生命も、実はこの非物質的な精妙な生命によって作り出されています。

植物は植物としての意識生命によって、次元を越えた大自然が存在し、物質はエネルギーとしての不動的な生命であり、動物も意識生命としての存在があるのです。

そしてそこは、この現象世界のような、物質的光景ではないということです。

それゆえに、この現象世界の諸現象をとおすような、想いや行動の心もありません。       
空“の世界における意識の発達度合いは、この現象世界と異なって、90%の表面意識が出ており、それだけに相互の意志の疎通は難なくおこなわれるのである。

しかし、この地上における現象世界の人々は、五官六根をとおしての判断によって、行動したり考えたりしているのです。

あの世では、この逆で、すべての現象を、心で感知します。

自分の思ったことがすぐ他人に通じるし、おのれの不自然な想念も表に出るので、ただちに反省、修正してしまえるのです。

これがここに説く、空”の世界、四次元というところの実体なのです。

つまり、いえることは、現代社会の不調和な混乱は、

人間がこの神性仏性の本性を失い、偉大で普遍的な心を忘れ、肉体の五官六根のままに生活して、物質経済の奴隷になり下がっているところにある、ということです。

足ることを忘れ、欲望の中で、盲目の人生を送っているからです。

すべてそれは、肉体が絶対だと思うあまり、知識と肉体的なものに偏った価値観で、心の中のゆとりを失っているからなのです。

偉大な普遍的な魂、その中心である心の存在を、しっかりと認識したならば、こんな混乱は生じないでしょう。

魂を失った人々は、互いに人の心が解らなくなり、自分本位に陥って、小さな自分に成り下がっているのです。

人類はみな兄弟だということを忘れて、互いに信頼することなく混乱した社会を作り出しているのです。

本来、この地上界の一物たりとも、自分の所有物というものはありません。

この世を去るときには、すべて置いて帰らなくてはならないのだ、ということを悟ったなら執着が生まれてくるわけはないのです。

国土とか、わが土地とかいうものの所有権は、人間の永い歴史的な環境が作り出したもので、子孫に受けつがれただけです。

神の身体の一部分である地球を占有しているにすぎません。

だから、社会人類のために、有意義に使用すべきです。

経済もまた、人間の生活の智慧が作り出したものだということを忘れてはならないでしょう。

不平等な、あらゆる環境を作り出しだのは人間、その人々なのです。

人生がこの世限りではないということを悟ったならば、この地球上を人類のために、平等な立場で利用すべきだということが真理なのです。

無無明とは、否定の否定であり、迷いのない世界、ということになりましょう。

ということは、明かるい光明の世界ということです。

あの世、空”の世界は、光明に満ちているということです。

亦無無明尽とは、光明の尽きることもない、ということで、無限の光明に満ち満ちているということです。

この地球上の空は、地球の水が太陽熱や地熱によって蒸発して曇りを作り、太陽の熱や光をさえぎりますが、しかし雲の上は、真青な大空で、太陽の光はさんさんとその雲の上にそそいでいるのです。

地上界では、スモッグという人間の知恵の作り出した公害が問題になっているが、この公害は、人間の意志と行動によって消滅させることはできるものです。

そして。空”の世界は、その場所に住む者達の心の霊囲気が調和されて精妙になっているため、調和の光をさえぎるものがないのです。

そこでは、光明が満ち満ち、光明の尽きることのない無限の力が存在しているということです。

それゆえに、空”の世界では、相互の理解と信頼が当然なこととして自覚され、実現されているから、完全に調和のとれたユートピアの世界です。

地上界で生活している者達の意識は、ほとんど90%が潜在して、過去世で体験したあらゆる智慧が内在され、わずか10%の表面意識により新しい学習を体験し、豊かな心を作り出すために人生修行をしているから、盲目になりがちなのです。

肉体的な五官六根によって、客観的にとらえたあらゆる事象に迷わされてしまい、そこに自ら苦しみを作り出してしまいます。

しかし四次元の世界では、地上の現象世界とは違い、その表面意識は90%で、過去世のあらゆる人生体験の智慧の宝庫が開かれています。

そのため、人智とは違って、小細工もしないし、他の天使や光の天使の心の中は、相互に解っているから、自己保存や自我我欲の心はないのです。

地上の現象世界のように、おれの国だ、おれの地所だといった心はないということです。

他の天体から見たら小さな地球という枠の中で相争い、骨肉をけずっているということは、まことにおろかしいことです。

空″の世界に帰るときには、色の世界で、これは自分の国だ、自分の土地だと思っていた一切の財産を持って帰ることができないのです。

ということは、色”の世界である地球に存在している一切の物は、本来、絶対に、おれの物だというものは存在していないのです。

一時、自分自身の物だと思い違いしているだけで、借り物にすぎないということです。

大事にしていた自分の肉体だと思っていたものでさえ、人生の乗り物として捨てて帰らなくてはなりません。

それは、色”の世界のものだからです。それでも、人間は、執着心から離れることができないのです。

本当の自分を忘れて、物にとらわれているそのとらわれが、一切の苦しみを作り出しているのです。

しかし、あの世の天使達は、一切の欲望から離れているために、所得を得ることがないし考えることもありません。

それどころか、より豊かな広い心の進化を作り出して、現象界の世界を、調和された環境に完成させるための協力を、常に惜しみなく与えているのです。

この慈悲や愛を、盲目の人類は心の窓を開かないために解っていないのです。

人類が幸福になるための協力をしている光の天使達は、決して報酬を求めないため、何の所得もいりません。

空゛の世界、四次元世界の光の天使達は、大宇宙生命の中にとけこんでいる生命ですが、その中で一人一人の個の生命を自覚し、各自が個性を持っています。

丁度、大海にそそいでいる水のように、ひとつに集まる水の粒子、H2Oという個性のようにです。

地上の現象界で、両親の縁によって戴いた人生における肉体の船長、すなわち普遍的な私達の魂も、大宇宙生命の中に、今生きているのです。

それぞれの個性を持って・・・・・。

永遠の転生輪廻の過程において、色”の世界で、今、その魂は人生修行の途上にあります。

もっとも不安定な、粗悪な固定的、物質界の色”の肉体に乗ってしまうと、生まれた環境や習慣や教育や思想によって、人は盲目の人生を送り、生かされている環境に心を向けることを忘れ、大自然の恵みに感謝することもなく、両親すらもないがしろにして、自我の道を突っ走って行きます。

感謝の心がないから、報恩の行為も現われてはきません。

しかし、全人類は、みな神の子として、兄弟であり、その時代の同期生だということを知り、手をとり合って相互の信頼の上に立っていれば、現代社会の人心に混乱はないのです。

親と子、夫と妻、教師と生徒、労使間など、誤った自我の思想が、人々の心を惑わしているのだといえましょう。

惑わされているということは、正道(偏りのない生き方)を忘れ去った人々の驕りであり、すべてに足ることを忘れた人間の末路であるといえましょう。

それを超えるには、執着心を捨てて、欲望の奴隷から自分自身を解放すること、それが先決なのです。

一人一人が魂の偉大さに眼覚め、人間としての本来の品性を悟ったならば、光明の道はおのずからそこに開けましょう。

私達は、空”の世界、四次元以上の世界からきた魂なのです。

そして、今は、肉体に乗って生きています。

なのに、かつて自分が、その環境を、望み選んで現象界へ出た、ということを忘れ去ってしまっているのです。

つまり生まれた環境や、地位や名誉や財産や、貧富の差や学歴の差などといったものはその人の人格を現わすバロメーターではありません。

今生活しているこの場は、豊かな広い心を作り出すための、学習の環境なのです。

自分の望んだ修行の場なのです。

私達はそのことを忘れてはなりません。

そして、自らの希望によって、その縁によって、私達が送り出されている、ということを知ったならば、その環境の中で、相互の関係を良く理解し、信頼を持って生活することが大切といえます。

相互に偽りの心と行為を捨てて、平等、且つ、公平な立場の中で、それぞれの生活の部門の担当を、充分に果たすことが必要だろう、ということです。

より慈愛に満ちた人々と心の交流をはかり、貧しい人々に愛の手を差しのべる、といった豊かな心と行ないが、つまりその人達の人格を決定する、といえるのです。

丸い豊かな心の広さが、本当の人格者といえる人を作るのです。

いかに社会的地位があり、学識経験かあり、経済力豊かでも、自らの欲望に足ることを知らない者達は、貧しい心の持主であり、形にとらわれている憐れな者、としかいいようがありません。

謙虚な心を失い、他人を見下し、増上慢の心を持っている人は、やがて自らを苦しみの中に没落させて行く者達なのです。

心の中にスモッグを作って暗い心を包み、感情や理性に歪みを作り、宇宙の調和された光をさえぎってしまうからそうなるのです。

心は、地獄に通じ、自らの安らぎを放棄した憐れな人達です。

たとえ財産がなくとも、地位がなくとも生活に足ることを知り、友達に信頼され、心にひっかかりがなく、良く他人の面倒を見、家庭にも相互の信頼を築いた人は平和で、生活に不満を持っていません。

このような人々こそ、富める心の人というのです。

心の中に、恨み、そしり、怒り、自己存在の心がないため、スモッグがなく、光明に包まれています。安らぎの境地に生きている者達は、常に心は光の天使達の世界に通じているため、慈愛に富み、偽りがありません。

所得の多寡によって、心の貧富を定めるべきではないのです。

朝は健康で、調和される環境を作り出すために智慧を働かし、希望に満ちて、昼は自らの仕事に精進、努力を怠ることなく、夕は一家団らんの楽しい夕飯をとり、夜は一日の反省と休養の時間が与えられているのです。

人間は、なぜ不満の心を持つのでしょうか。

欲望への執着心を捨て、悪心にとらわれない道によって、足ることを悟り、心の貧しい人々 には正しい偏りのない正道を物差しとして導き、心の革命を起こしてそのこと行為を正したとき、人間から不満の心は消え去ることでしょう。

しかし、不満は常に人々の心の中に影のようにつきまとっているものです。

正しい法則に沿った、正道(偏りのない生活)の道を歩んだとき、その影は、人間の心の中から消え失せてしまうことでしょう。

般若波羅蜜多によって、菩提薩垂になったのは、こうした、四次元世界の光明によるもので、その意味は、「正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をし、正しく生活をし、正しく道に精進をし、正しく念じ、正しく定に入るという八正道の生活をしているからである。

偏りのない中道の物差しで心と行ないを反省し、その曇りをとり除くことにより心の内より光明に満たされれば、四次元の光の天使達が、正しい人生の道を教え導くようになりましょう。

そして、人々の心に人生の意義と価値を教え、迷える衆生を救済して無償の道を歩んで行くことができるようになる。

また、心の中に潜在している過去世の体験、偉大な智慧がよみがえり、悟りの境地に到達して悟られた方、ということになりましょう。

心無菫礙 無歪礙故 無有恐怖

この意味は、心にはひっかかりがない、ひっかかりがないから、恐怖心もないのである。        
ということになりますが、ひっかかりがないということは、つまり、心の苦しみの原因を作らないことだ、といえましょう。

心の窓を開く、ということは、何の拘りもなく、豊かに、清い心を持ち、おそれるところもなく生きるということです。

遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃

この意味は、「一切の、夢のような顛倒(てんどう)した考え方を、遠くに離して、つまるところは最終的(究)な悟り(涅槃の境涯)に入る」という意味になります。

しかし、私達が五官でとらえたものと違って、心の世界、心の眼でとらえた、一切の執着を離れた世界ですから、これは精妙で平和な安らぎのある光景を説明しています。

これは、全く心の曇りがないため、光明が尽きることのない世界ということになります。

良く仏像や仏画を見ると、後光の出ているのを見かけますが、これは、生きている人々にもオーラとして出ているものです。

この後光は、心の調和された人の場合は淡い金色をしています。

心と行ないが正しい生き方に適った人の心の調和度に比例した光で、その光に包まれた人は、安らぎの心を持ち、一切の執着心から離れていることを証明しているのです。

次回は三世諸仏(さんぜーしょーぶつ)から最後まで掲載したいと思います。

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仏智を悟る般若心経

修行今日は般若心経の本文について述べていきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

摩訶マカとは、マハーと呼ばれている古代インドの言葉です。

意味は、特別とか偉大とかいうことになり、敬称なのです。

マハーパジャパティという人がいます。ゴーダマ・プッタ(お釈迦様)の義母で、弟子たちが尊敬していました。

パジャパティは、三百七十六人の女官達とともにプッタ(仏陀)に帰依され、多くの比丘尼(ビクニ・出家した尼僧)の面倒を良くみておられたとのことです。

般若ハンニャと読んでいますが、般若の面を思い出す人もあるでしょう。

しかし、この般若も当て字で、正しくは、パニャという言葉です。

意味は智慧、心の中から湧き出してくる仏智、ともいえるでしょう。

波羅ハラと読みますがこれも当て字です。

パラーという古代インド語で、彼岸といっている人もあるが、行くとか、到達するという意味です。

むしろ、彼岸、すなわちあちらの岸は、心経解説の最後の所でに述べる(掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦)ギャーティギャーティがそれでしょう。

カーティという古代インドの言葉を中国語に発音すると、ギャーティーとなるようです。

蜜多ミターも当て字であるが、蜜が多いというなかなか中国人らしい言葉です。

蜜は、インドのコーダマ・プッタの時代も、中国の玄奘三蔵の時代も貴重品だったからです。

意味は、内在とか家の中とかいったものです。

心経はお経で終わってはならず、心行、すなわち、心の行いでなくてはならない

つまり、摩訶般若波羅蜜多心経は、マハーパニャー・パラー・ミター・チター・スートラとなるわけで、その意味は、「内在された、偉大な智慧に到達する、心の教え」ということになります。

内在。それをいえば、私達の心には転生輪廻の過去現在のすべてが記憶されているのですが、心の不調和な行為によって曇りを作り、自らの光り輝く心を汚れたスモッグという執着で閉ざしてしまっていることで、過去世で体験したあらゆる智慧を思い出すことが難しい、ということです。

それを思い出すためには、一切の執着を断って、足ることを知り、八正道の実践生活によって心の窓が開かれることになるでしょう。

人生における体験は、わずか百年前後です。しかし内在されている体験は、時を超えて無限に近いものなのです。

私達が、この智慧を思い出して生活したならば、まず生命の永遠を悟ることができ、どのくらい大きな人生での幸せを得られるか、はかり知れないものがあります。

仏智に到達する心の教えもまた、同じことがいえるでしょう。

パニャー・パラー・ミター(内在する偉大な智慧)の境地になるためには、正道(偏りのない、執着しない生き方)を生活の中でしっかり行為しない限り不可能といえます。

内在されたその偉大な智慧、すなわち仏智を得る境地になることは、到彼岸ということになるでしょう。

智慧の宝庫を開かせる、その道こそ、般若心経の根本であるのです。

しかし、何度も言うようですが、般若心経は読誦することに意味を成し、用を成すのではなく、その内容である教えを生活に実践して活かすことによって心のステージがアップされるのであって、それが到彼岸に成るのだということを忘れてはならないだろう。

本文の解説

かんじざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみたじ。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。

直訳すると、観自在菩薩が、深く般若波羅密多を行ずるとき、五蘊はみな空なりと照見して、一切の苦厄を度し給う。ということになりますが、これでは理解がゆきとどかないでしょう。

観自在菩薩とは、プッタ(仏陀)がインドで法を説いていた時代、バラモン教のヴェダーやウパニシャドの経典に出てくる言葉で、「アポロキティ・シュバラー」と表現されているものですが、簡潔には、シュバラーとだけ呼ぶこともあったようです。

観自在とは心に執着が無く人間の煩悩の元となる五官六根に縛られない自由な心のこと。

菩薩とは、古代インドでボサッターという言葉ですが、悟りの段階をいうのです。

ボサッターの段階では、完全に執着から離れているというわけではないが、ただし、心の状態は慈愛に富み、衆生済度のためには、身を犠牲にしても救済するという者達で、決してむくいを求めない境地に到達していることです。

足りない部分というのは、自分の身につけるものに対しては飾る心を持っている、ということです。

他人に良くみせたい、というような優越感はないが、自分で楽しんでいる程度といえましょう。

仏像を見ると、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)や弥勒菩薩(みろくぼさつ)、その他の諸菩薩などは、ネックレスや王冠などを飾っていることでそれが良く解ります。

しかし、如来と呼ばれている上段階光の大指導霊達は、宇宙即我の境地に到達していますので、身にまとう衣服などにさえ執着はなく、全人類はみな兄弟だということを悟っている、慈悲と愛の塊りの者達です。

それは、一切の執着から離れ、神仏の心を人々に教え、人々を人生の苦しみから解放させる使命を持って活躍されている上段階光の大指導霊です。

つまり、あの世と、この地上の、もっともすぐれた心の指導者群といえるでしょう。

過去には、ゴーダマ・シッタルダー(釈迦如来)、イエス・キリスト、モーゼが、その大指導霊だといえます。

このような大指導霊には、あの世もこの世もなく、輪廻の実相を悟っているので、生と死の迷いから解脱(悟って執着がない)しています。

肉体を持ってこの地上界に出ている大指導霊は、自らの生活の中において、人生への疑問を持って遂に悟りを開き、観自在力(自由な心)を得、あの世の世界にいる大指導霊や光の天使達の協力を得て、心を失った地上の衆生(人々)の心に真理の種をまき、世界平和への道を開いて行くことに力を尽くしています。

それは、人間の作り出した、社会的な地位や経済的富に溺れることのない者たちで、一切の束縛から離れて身を挺しているのです。

ゴーダマやイエスが非常に良い例といえます。

このような意味で、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、というのは、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践した時」ということになるでしょう。

観自在菩薩(心が真の自由になった人)は、過去、現在、未来の諸現象を、自由自在に見聞することのできる悟った方で、慈悲と愛と寛容の心を持ち、すべての衆生を救済するために活躍している広い豊かな心の持ち主です。

私達の多くは、このように、偉大な、悟った人々の心も、他人の心の中もほとんど知ることができないため、眼でとらえた姿形、耳で聞いた話や噂、そんな範囲でつい人も物も、その評価を決めがちです。

それは、同じ次元で、平面思考で世界を見ているからにほかならないでしょう。

私たち人間のもつ日頃の価値観というものは、実際はとても範囲の狭いものでしかありません。

私達は、この世界に存在する物質的なものなら確認できるが、それにも限界があるでしょう。

一次元、二次元の世界は低次元ですから私たちの三次元の世界から見えるはずです。

しかし、次元が異なっているため、一次元に意志は通じないものです。

それと同じように、三次元以降の四次元の世界も、三次元の五官で確認することはできないのです。

しかし正道(調和された生き方)を心の糧として、毎日の生活をしている者達の中には、四次元以降、多次元の世界に通じているものもあるということです。

四次元をとおして、三次元の状態を知ることができるのです。

その四次元以降は、意識の世界といえましこう。

一次元から二次元、二次元から三次元へと連続されているように、四次元以降の意識界も連続体です。

つまり、私達の肉体に共存している意識は、そのゆえに、高次元と連続されているものだといえるでしょう。

意識は従って、高次元になれば、低次元の諸相を確認することができるのです。

他人の心の中も、低次元にあれば解る、ということです。

本来、私達は、三次元で肉体を持っていても、意識の発達が調和されて、高次元になれば、肉体から下船した者(死者)達とも通信が可能だし、その活動状態も解るのです。

死は、肉体との永遠の別れであって、その魂意識は、三次元以降多次元の世界に適応した光子体(霊体)を持ち、人生体験の一切を記憶して帰ってしまいます。

生命不滅の理由がここに存在するのです。

さて、物質の三態については、知らない人はいないでしょう。

気体、液体、固体の三態です。

水は液体、気体、個体(氷)の三様の姿をとりますがH2Oは変わりません。

これまで何度も述べてきた大宇宙への循環の法則は、魂は光子体を持ってあの世へ帰るだけで、それはなくなるわけではなく、肉体が滅びても、それは形骸の消滅にしかすぎない、ということです。

私達の魂は、不滅です。

ただ、あの世においては、心の調和度によって光の量が違い、その量に比例した世界がそれぞれ存在している、ということです。

地獄と天上界の存在、それは厳然として在るといえるのです。

私利私欲、自我我欲の強い人々の心は、その想念に曇りを生じ、そのために、肉体と同体になっている光子体(霊体)は、自らの内より輝く光をさえぎり、神仏からの光もさえぎり、暗い霊囲気におおわれてしまう、ということなのです。

そして、こうした人々は、地獄界に堕ちて行きます。そこで、罪業を反省し償うことになるのです。

罪業を償う方法は、人間としてなすべき偏りのない中道の心で、反省し、偏った心と行為の誤りを修正する以外にはありません。

私達は、今までの考え方で、『行』といえば、すぐにきびしい肉体行を想像するが、それでは心を失ってしまい、悟りへの彼岸に到達することはできないでしょう。

インドの仏陀(お釈迦様)も、両極端の修行を捨てて、八正道を心の物差しとして悟りの境地に到達し、アボロキティー・シュバラーになったのです。

しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく しゃりし

照見五蘊皆空。 度一切苦厄。 舎利子。

五蘊(ごうん)とは、眼耳鼻舌身の五官から起こる煩悩のことです。

眼は、色彩を持った物質的諸現象を見て判断する機能ですが、私達の眼で確認できる範囲は非常に狭いものです。

宇宙全体をみるときに、眼で確認することのできない世界のほうがはるかに多い。

しかし確認できなくとも、存在することは否定できないでしょう。

私達の眼に見える範囲は、あの七彩の虹くらいのものです。

こまかく見れば、赤色からは、赤外線の熱線レーダー、マイクロウェーブ、テレビ、ラジオ波、低周波というように、エネルギー粒子の振動数は小さくなり、波長は長くなってゆきます。

七彩の虹の紫色からは、紫外線、X線、γ線、宇宙線といった放射線のように、エネルギー粒子の振動数は大きくなり、波長は小さくなってゆきます。

しかし、このように、可視光線をはさんでいる両極端の周波を、私達は眼で見ることはできないのですが、しかし存在しています。

この事実は、医学の分野でも、生物学の分野でも、物理学の分野でも実証できることでしょう。

従って私達は、眼で見た一瞬の諸現象をもって、絶対だと信じこんではならないのです。

私たちが生涯に見ることのできる諸現象は、瞬きの瞬間に匹敵する程度のことでしかないということができるでしょう。

それでなくとも、人間は、おのれに都合の良いものを見れば喜び、不都合なものを見れば嫌い、心を苦しくさせています。

これこそ、心すべきことではないでしょうか。

耳はまた、空気を媒体として、一秒間に約三百三十米の速さで、その鼓膜に音波がつだわってきます。そして聴覚神経に働き、意識に通信されてゆきます。

だが、音には高低強弱があり、完全に音波をとらえることは不可能です。

ただ不可能だからといっても、この世で、ざる、聞かざる、言わざるで通用するものではありません。

たとえそれが不確実なものであっても、をとおしてくる一切のことは、正しく聞くことが大切です。

正しく聞くことのできないの持主は、他人の一語一句に感情的になり、自分を狂わせて正しい判断ができなくなるからです。

は、嗅覚神経を司ります。誰でも、悪臭は嫌いでしょう。当然のことです。

しかし、芳香だからといって、必ずしも良いものばかりとは限りません。中には毒をふくんだ匂いもあるからです。

自然には自然の匂いがあり、物にはまたそれぞれの匂いがありますから、正しく嗅いで正しい判断をすることか大事です。

は、言葉の発音源でもあり、食事のときの味覚で、栄養補給の場所でもあります。

そして、わざわいは口から、病いも口からといわれるように、日常生活では、もっとも重要な五官のひとつであるといえます。

偏らない中道を根本として、語ることが、どれほど大切なことであるかは、言葉が他人に意志を伝える道具として、誰にも深い経験のあることでしょう。

その一言一句が、相手を怒らせたり悲しませたりするだけに、中道をわきまえて語ることが必要なのです。

また、声には韻があり、言魂とは、その声の波動が、この地上現象界以外の意識界につたわってゆくことを意味します。

寺の鐘の音や僧侶の読経、これらはいずれも声や音の波動と、私たち人間の心の想念に乗って、あの世である天上界へも地獄界へも、またこの現象界にも自在に行くことができます。

この波動に乗って、過去、現在、未来の三世を見とおす力を持ち、悟った者を観世音菩薩といっています。

心を調和して、肉体から離脱したもう一人の自分がその波動に乗って行くと、たとえば鐘の音の場合には、その鐘をついた人の心に比例した次元の世界に昇ることができるのです。

そして、身は、肉体的感触をふくめた、五体五官から構成されています。

五体とは、子孫保存の本能として、先祖代々にわたって受けつがれてきた、地上界で生きるに適応した肉体、それです。

魂の修行場を目的とした、人生航路の乗り舟である、ということです。

この真の理、つまり神理が失われるに従って、私達は、肉体が絶対だと思いこんでしまうようになり、小さな汚れた歴史を作りつづけてきてしまったのである。

永遠に変わることのない、肉体の船頭である魂、すなわち意識を忘れ、その中心である心をないがしろにしてきたのです。

肉体の付属物の眼耳鼻舌身が、絶対のように思いこんでしまってきたということです。

もし、肉体が絶対であるならば、なぜ死ぬときに、天上界へ持って帰れないのでしょうか。

それは、次元の違いとともに、この地上界の、もっとも粗悪な物質界と、調和された精妙な霊囲気に包まれた高次なあの世の世界との差といえるでしょう。

私達の肉体は、いつか病み、老い、そして死んで行き、大地や空にもどってしまうものです。

観自在菩薩は、そこで、次のように説かれているのです。「このように、私達の五体五官の煩悩が、心に作用し、正しい基準、片よりのない中道の物差しを忘れ去ってしまったため、一切の苦しみや災難厄難、つまり一切苦厄の、原因になっている。

それを見とどけることができるのだよ、舎利子よ」と。

舎利子という人は、ゴーダマ・プッタの右腕ともいわれた、サロモン(修行者)です。

しきふういくう くうふういしき しきそくぜくう くうそくぜしき

色不異空。 空不異色。 色即是空。 空即是色。

色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なりと読みますが、これは、万人に知られたあまりにも有名な経文です。

とは、私達の眼で確認できる万生万物のことをいっているのです。

肉体もやはり。です。すなわち肉体舟とその船頭である意識、その中心である心とは、この地上物質世界においては、切り離して考えることはできないのです。

つまり、肉体は心の表現体ということになります。

形のあるものは時の流れとともにいつかは崩れ去ることで色不異空となり形のない世界へと変化をしていくものであり、形のない状態から空不異色と時を経て造られてくるものです。

つまり、色即是空であり空即是色と同義の意味を表現しているものです。

仏教は、時代とともに、人間の手によって、むずかしく哲学化されてしまい、心と行ないを失ってしまったが、これは末法の信仰である。

他力本願しかり、教団仏教しかり、まつり仏教しかり、写経しかり、読誦しかりである。

神仏の喜ぶのはただ、心の美しい人々の正しい行為なのである。

人々が、これをなすことが仏教の本来の姿なのである。

しかし、仏教ではの理論が解れば教義の全部が解明されたようなもの、といわれるほど、その意味はむずかしいようです。

を、「むなしいものだとか、あると思えばなく、ないと思えばある」と説いている学者や、その道のプロ書いた著書が多く見当たりますが、果たして人々は、こんな説明で理解できるでしょうか。私には理解できません。

おそらく書いている人にも真の意味は解ってはいないのではないでしょうか。

「色心不二」という言葉があります。天台大師の説かれた、法華経の中にある言葉ですが、この中の、は、仏教の解説書にでてくるような、むなしいものでしょうか。

違います。そして、この心の在り方を、一念三千と教えています。

一念三千とは、私達の心は無限に広く、自由自在に変化することをいっているのです。

仏教を哲学化した人々によって、むずかしく説明されてしまったといえましょう。

私には、彼らが心を失った頭脳プレーを楽しんでしまったように感じられます。

心と行ないを失ってしまったものは仏教ではないでしょう。まして他力本願の信仰においてはなおさらです。

このような仏教を末法といい、人の心はおろか地獄界に堕ちた人々など救済することはできないでしょう。

他力本願の張本人達は、形にとらわれていますが、拝む偶像は、飾りけのない質素な、執着を離れている姿を浮きぼりにしてある如来像です。

それなのに、勤行とかいう旧来の因習を踏んで、金ぴかの袈裟に自分の身と外見を飾っているのはどういうことでしょうか。

私は、疑問を持つ一人です。またこちらが本山だ、いやあちらが本山だ、板曼陀羅は本物だ、いや偽物だと争って、莫大な金を狂信者、盲信者から集め、神の身体の一部である地球という大神殿にあきたらず、不浄の金で豪勢な建物を山中に作ったり、本堂を作ったりしている不自然な教団や僧侶もいます。

こんな物を作って、神仏が本当に喜ぶでしょうか。

喜ぶとしたら、それは、地球という三次元の世界に執着を持って、狂信者や盲信者の心をあやつっている悪魔か動物霊達の仕業である、といっておきましょう。

神仏の喜ぶのは、心の美しい人々の正しい行為なのです。

もし金かあるなら、それを大衆の幸福になるよう放出して、救済に当てることが、本当の布施であり、菩薩行というべきです。

布施をしないと、狂信者や盲信者には罰が当たると脅迫している者もいるが、そんな馬鹿なことは絶対ありません。

太陽の熱や光のエネルギーは、貧乏人だからとか、金持ちだからとか、地位とか名誉によって、差別しているでしょうか。

神仏は、人によってえこひいきなど決してしません。もしそんなことをするとしたら、それも、悪魔に取り憑かれた教祖や、その教団の指導者や動物霊達の仕業以外にないということを知るべきでしょう。

八正道を、生活の柱としている心に曇りのない人々は、神仏の光明によって満たされているものです。

罰というものは、自分の心と行ないが中道の生活から逸脱したとき、その暗い想念や行為が生み出し、一念三千の心の針が暗い地獄界に通じて現象化するものなのです。

つまり、自分で作り出した災いだということだ。

原因はあくまで自分の中にある、ということを知らなければなりません。不調和な恨み、嫉み、怒り、争い、増長慢、自我我欲、自己保存などの心を持っている人々の心は、地獄界に通じ、心に安らぎはなく、肉体的にも不調和になってしまうでしょう。

悪へ片寄った心と行ないをしているから自らが招く禍(わざわい)なのです。

原因と結果の法則、つまり作用と反作用の法則というわけで、このことを考えれば良く解ることでしょう。

常に慈悲深く、愛に富み、勤勉で、偽りがなく、感謝の心を持って、報恩の行為を実践している者達の心は、常に光明に包まれているのです。

このような私達の生活の中に、天上界の光の天使はその人々の幸福のために協力をしてくれるのです。

逆に、心の不調和な人々には、地獄の魔王や動物霊達、未浄化な人霊たちが関わり、不幸な人生へと誘惑をしてきます。どちらを選ぶかは当人次第ということです。

気違いやノイローゼになった人々が、今までの人格か変わってしまうことがあります。

これは、地獄霊の仕業で、憑かれている不調和な人々の意識を支配してしまうからです。

これにも、原因と結果の法則が存在していることが解ったら、自分の不調和な心と行ないを修正する以外にはないでしょう。

すべて作用だ、ということです。

そして、太陽を始め、大自然は、大宇宙の摂理、秩序という神仏の心の表現体ということになるでしょう。少し科学的に説明してみましょう。

この現象世界における太陽は、一秒間に宇宙空間に、約二百万トンの石炭を一秒毎に燃焼しただけの熱エネルギーを無料で供給しているのです。

地球生命はその恩恵を受けることで存在しています。

この熱エネルギーによって、水は蒸発して大空に、そして冷却されて陸地に雨を降らせています。

このために植物は成長し、緑色の植物は、二酸化炭素CO2を水のH2Oとともに吸収し、光合成によって澱粉、蛋白質、脂肪、糖分などを作り、動物の肉体保存のエネルギーを提供しています。

動物の排泄物や、その他の物を、植物はまた土壌から吸収して、相互関係を保っているというわけです。

この様な姿こそ神仏の姿の現れではないだろうか。

もし、太陽がなかったら私達は生存できるでしょうか。

植物の呼吸作用によって酸素が出され、また私達の呼吸作用によって、炭酸ガスが出されています。

空中で二酸化炭素CO2となって、これを植物は吸収し、動物は酸素O2を吸収しています。

酸素が欠乏したら、動物は生きていられるでしょうか。この相関関係も、宇宙の摂理と秩序という神理によるものです。

それを、生活の知恵を作り出した物質文明が、酸素を汚染して、硫化物や窒素化合物を生み出し空間を汚しています。

光化学スモッグは、人体はおろか、植物にまで悪い影響を与えているではありませんか。

人間が心を失って、足ることを忘れた物質文明が、自らの首をしめる結果を生んでいることが、このことでも良く解るでしょう。

利益の追及、労使の闘争、報恩感謝の心を失った人間の、どこに神の子としての心があるといえるでしょうか。

精神公害もまた同様です。

多くの宗教は、他力信仰で人間の心を、誤った神仏の名のもとに束縛しているではありませんか。

教祖と、その一部分の指導者が甘い汁を吸って、大衆は犠牲になっている。

不浄の金で、彼らを養っている、そんな成立の形に本当の宗教はありません。

その教えは、阿片よりおそろしいといえます。

神仏の名のもとに、金品を強要するような指導者は、偽善者です。

金は、生きているときしか使えないものだし、もし、あまって使い道がないのなら、社会人類のため、そのときこそ相互に布施し合って、貧しい人々や、不具の人々や、老病の人などを救うべきでしょう。

あの太陽のエネルギーを、無償の行為と観じたとき、私達は、報恩の心を持つべきなのです。

一人一人が、そうした心を持ち得れば、地上の楽園は築かれていくのである。

感謝する心は、報恩という行為によって輪廻しているということを、忘れ去っている人々の
何と多いことでしょうか。

労使の不調和な闘争は、この心の欠如の最たるものといえましょう。闘争と破壊、これが相互の首をしめてしまうということを、やがて人間は悟るときがくるでしょう。

その為にはまず、家庭から調和することが先決である。

家庭の調和無くして外ずらを良くしても真の調和となることはない。

これまでの仏教に関する解説書は「仏」という言葉が出てはきても、「神」という言葉が使われることは殆どありません。

しかし、大宇宙の営みを観ずるときに「神」を外して記述することはできない。

次回は、

受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不・・・・・と解説していきます。

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般若心経(心行)の真意

般若心経千鶴子 よりコメント: 2013年7月19日 8:39 PM

千鶴子と申します。
いつもブログを拝読させて頂いております。

ひとつのテーマを深く取り上げて頂いてとても理解が深まりやすく、書店などで探した著書よりも遥かに心に響いてまいります。

感謝しております。

本日投稿してくださいましたテーマの最後に書いてありました、『般若心行ついて述べてみたいと思います。』とありましたが、是非とも解説をしていただけませんでしょうか。

私は特定の宗教団体に属してはいませんが、お経の中身には関心が強くあり、同時に葬儀のあり方やこれまでのご法事、読経についても何かしら疑問をもってきました。

観童さまのご意見に感銘しております。

何とぞ般若心行の解説をしてお願いいたします。

 

さて、今回は般若心経の解説をする前に、心経の活用の仕方について述べさせていただきます。本文の解説については次回に譲ることにいたしましょう。

般若心経の漢字は当て字です。むずかしい顔をして通ることはありません。

要は、その心を学ぶことが大事であって、真の心の在り方とは何か、真の宗教とはどういうものか、真の信仰とはどうあるべきなのか、そして、悟りの道への方法はいかにしたら良いか、ということであり心経とは心行なのである。

般若心経(心行)

般若心経というお経の名は、かなり一般的ですし、書店には解説した著書がたくさんあります。

しかし、むずかしい漢字が並び、何だかすべてを否定しているようで、一般的には解りにくいものでもあります。

にも拘わらず、あるお寺の坊さんが、普通の言葉でお経を上げたら、「お坊さん、漢字で書いてあるむずかしいお経のほうが、解らなくてもありかたいような気がする。あれをお願いしますよ」と、仏前にかしこまって坐っていた職人風の主人が、読経の方法の指定をしたという話しがあります。

この話しで思うことは、永い習慣とはおそろしいものだ、ということです。

漢文調の読経でなくては感じが出ない。そんなふうに仏教は変わってしまったのです。

法事や葬式、仏前、仏閣での灯明や線香その他の小道具と同じように、お経もまた儀式の附属品のようにされてしまっています。

しかし、本当の仏教とは、そのようなものでしょうか。

私はこうした仏教の在り方に、大きな疑問を持っている一人です。

私は、知り合いの仏教の専門大学で学ばれた、プロの宗教家のお坊さんに聞きました。

「般若心経を仏様に供養すると、どんな功徳があるんですか」と聞いたことがあります。すると、「般若心経はありがたいお経ですよ。どの宗派でもこのお経を読誦していますし、神仏に通ずるお経ですからね。写経も功徳があるようです」という答えでした。

そして般若心経の心は、[無我だ]とつけ加え、「無我とはわれを無にすることで、これが仏教哲学の根本だ」とも解説するのでした。

そして「空」とは、「むなしいものだ、無だ、あると思えばない、ないと思えばあるという表現しかできない、不可思議なものである」ともいうのです。

おそらく、語っている本人も解ってはいないのでしょう。

このようなやり取りは禅の手引書にもありますし、禅のまんが本にもあります。

しかし、仏教におけるお経の中身を、いかに学問的な智で悟ろうとしてもできないでしょうし、私はむしろ、心経は、心行であるべきだ、と思うのです。

つまり人々は、心経が、心と行ないの在り方を説いていることを忘れ、読誦(どくじゅ)することによって理解しようという、無駄なことをしているのです。

単なるそうした勤行は、心も伴わず実践もないから、かえって苦しみとなります。

実践とは、お経を読むことではなく、その意味を良く理解して、生活行為の柱とするとき、そこにこそ価値があるのです。

心と実践を失った仏教は、すでに仏教ではない、といえるでしょう。

しかしあるお坊さんは、「一所懸命に、毎朝毎夕、般若心経を読誦したり、写経などをすれば、必然的にその意味も解り、心がおだやかになります。ありがたいお経文です」といいます。

それでは、胃けいれんや喘息で苦しんでいるときに使う、頓服薬のようなものではありませんか。

心経とは、決してそんなものではありません。おだやかにならない原因を除くための、心と行ないの在り方を教えている。心の物差しなのです。

さて、それでは般若心経についての説明をしましょう。般若心経はまずその題からして、大切な意味を持っています。

この意味も理解せずに中味をとやかくいっても始まらないので、きょうはその解題から入ることにしましょう。
摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

摩訶般若波羅蜜多心経は、古代インド語を中国流に当てはめた当て字です。

そこには、ゴータマ・プッタの正しい教えを歪めてしまった、永い歴史があり、インドからチベット、中国と渡って行く間に、その国々の習慣や言語などの相違のため、学問的な智だけで判断して、その教えの実践をしないままに難しいものを作り出してしまった、ということでしょう。

人間を、人生の苦しみから解脱(げだつ※悟り解き放つ)させる方法を説いたもので、これをプッタ・スートラといっていました。

プッタ・スートラ即ち、悟りへの道。悟りへの教えです。

つまり、日常生活の一瞬一瞬の中で、偏らない心と正しい行ないを実践する。

そのときに、私達の心の窓は開かれて一切の執着から離れ、ある者は過去世を思い出し、現在の毎日の生活がいかに大切であるか、それゆえに人生の目的と使命を自覚せざるを得なくなる。

そういった悟りへの道の教えなのです。 とすれば、他力信仰の観が否めない大乗仏教によって、悟り得るかどうかは、自明の理といえることでしょう。

悟り得るはずがないのです。

私達は、毎日の実践活動の積み重ねによって、苦しみから離れ、執着を断ち、心の不調和な自分が作り出した曇りを晴らしたときに、心の内より慈愛の光によって満たされ、安らぎの境地に到達することができます。

ところが仏教は、中国に渡ってから学問仏教に変わってしまい、智と意でゆがめられてしまった、といえるのです。

情、すなわち心は、学問仏教の哲学化された内部に埋没されてしまい、今、人々は、その真理を探し出すのに苦労しています。

つまり仏教は、日常生活の中に生かされていないのです。お経をあげたり、神社や仏閣にお詣りしたり、先祖をおまつりする、そうした形だけが今の信仰になっていますが、大切なことは、仏教という教えによって、正しい生活を行なうことなのです。

その心と行ないを実行しないで、何で仏教の本質を悟ることができるでしょうか。

むずかしい仏教哲学を、素人に解るはずがないと嘲笑する、プロ宗教家がもしいるとしたならば、私は聞いてみたい。

「インドのゴーダマーシッダルターは元々、宗教家であっただろうか。武家の息子でした。

イスラエルのイエス・キリストは宗教家であっただろうか……」と。一般庶民の息子でした。

ゴータマ・ブッダも出家した当時は、バラモン教のサマナー(出家者)や在家の人たちから、素人では深遠な神の道を知ることはできない、といわれたことです。

しかし、その中にも、マハーバラモンのババリーなどという人は、自らの愛弟子のビンギャーを始めとしてマイトレイヤーら十七人を、ブッタのもとへ送り、その心を学び取らせるため、パラナシーのカパリーというところからはるばるグリトラクターの地に送った、という事実もあります。

イエスもユダヤ教や他の教徒から迫害を受けたことは、周知の話でしょう。

つまり、インドにおいてその時代にもプロの宗教家の中には、生ぬるい宗派にもの足りず、自ら道を求めて実践した人々もいるということです。

ここでいいたいのは、プロの宗教家も、プロ意識を捨て、素人の言葉にも耳を傾けることのできるような心の広い人間になるべきだ、ということです。

インドを走るガンガーの流れが、今も変わることなくベンガル湾に注いでいるように、宇宙大自然の真理の法則は、時代の変化によって変わるものではありません。

かつての、戦乱の時代には無学文盲の、その環境の人々を救うため、生命の不変を教え、心の平和を与えるため、やむを得ず他力本願という方便を用いて人々を導くこともあったでしょう。

しかし、それは一時の方便に過ぎないことです。真理の法則は、人間の知恵によって変えられるものではない。

だから、仏教を食い物にして、ヴェールをかぶせて他力信仰を教え、信者を盲目にしてしまった人達も、真の法を知ったならば、その罪は自分に返ってくることを思い知らされることでしょう。

つまり、理解できないから、かえってむずかしいものに作り変えてしまった、というのが真実の姿のようです。

般若心経は、現代の自然の法則をもって対照し、正しい人生の道標として残されているものです。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、長安の都から遠く南天竺を訪れ、仏教を求めて、悪戦苦闘の末、遂に仏法の神髄に触れ、心と行ないの大調和に達して、あの大般若経の中から、般若心経を集約したのです。

本文266字、題字10文字。それが、精華です。

だからそれは、悟りの境地に到達しなかったら、完成されなかったといえましよう。

知識と智慧とはちがうものです。

生活と心の調和がなかったら、得ることのできない仏智であったといえるのです。

しかし後世の人々は、容易な他力本願に道を求めたときから、生活体験をとおして理解することを怠り、無限の可能性をもった自己を見失ってしまいました。

例を引けば、現在、世界で社会問題になっている公害も原発のトラブルも人間が作り出したものであり、文明という人間の生活の知恵に、人間自身が溺れたからです。

それを修正するのは、やはり人類の自力によるしかありません。

心の中に作り出したスモッグも同じことがいえるでしょう。

自力によってのみ、他力が得られる、ということを知るべきです。

他力によって自力が完成されることはない。

いただいた心の光は失われやすいが、自ら悟って内から輝きだした光は生涯にわたって消えることはないのである。

般若心経も、内容を理解するための読誦(どくじゅ)であり、理解するための写経であるならば良いのです。

しかし般若心経を読誦し、祈ることによって救われると思うのなら、それはその本旨から遠くへだたってしまうということです。

このことは般若心経の意味が理解できれば容易に納得できるでしょう。

内容の意味を知った心と生活、それ以外に本質に到達する道はないのです。

般若心経によってご利益を得ようと読誦することは、発声練習と、自己逃避、自己満足にしかすぎません。

偉大な般若心経の中にある正しい教えを、泥沼の中に入れてしまうということは、ダイヤモンドをドブに捨てるようなものではありませんか。

ゴーダマ・プッタの教えは、偉大な心と行ないの教えであり、それが経文となっているのです。

次回は般若心経の具体的な解説を述べてみたいと思います。お待ちください。

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信仰と読経にもつ疑問

読経

謙一 よりコメント: 2013年7月18日 8:41 AM

ブログを拝見してお聞きしたいことがありコメントさせていただきました。

私の実家は私が生まれる前から某宗教団体(団体名削除)に入信していて、とても信仰熱心です。

一年365日、休むことなく毎朝一時間位い読経をしている姿は異様な雰囲気があり、具合が悪くなることさえありました。

私の実家はいつも争いが絶えません。

何の為の読経なのでしょうか。矛盾を感じることばかりです。

私は、実家や兄弟からのけ者扱いされています。

信仰を持っていながら家族はいつも争いが絶えません。 現在もそうです。

実家や兄弟の信仰と読経に疑問をもっています。

返信

信仰をもつものが、仏壇に向かい、一心不乱に読経(どきょう)しているときは心が落ち着くと言い、病気が治ると言われたから読経していると言い、朝夕の勤行をしっかりやりなさいと指導されたといっては貴重な時間を読経に費やしている。

しかし、こういった人たちに限って、偏った価値観に固執して、日頃の生活では不満や愚痴、そして怒りをぶつけながら家庭内では争い事が絶えず、不調和なままに生活している傾向にある。

精神的疾患を病んでいる者が、病気が治ると言われ、毎日数時間を読経に費やすことで、ノイローゼの原因になっている夫婦仲の問題から目をそらせば、一時的に解放され苦しみが軽くなることもあるでしょう。

しかし、原因が解決したわけでない限り不安も嫉妬も恐怖心も消えてなくなるわけではなく、読経によって気をまぎらせた程度のことでしかないのだ。

このような場合は読経していないときは心が不安定であり、結果的にまた苦しみから逃れるために読経三昧に陥っていくことになるのである。

宗教はアヘンであるという言葉の意味はこのようなところにもいえるのである。

お経の中身を理解し、生活に活かすことが根本的心の調和になることを悟らなければならないということです。

読経に偏りすぎた生活は家庭生活にまで支障をきたし、異常に狂気じみた雰囲気さえ醸し出しているものだ。

仏教徒の場合、宗派によって使用する経文に多少の違いはあっても、みなさんご存知の般若心経というお経の場合は、比較的宗派を超えて読誦(どくじゅ)されているようです。

般若心経に限らず、お経の内容を、今の字句から理解するのは、現代人には、なかなかむずかしいことです。

なぜそうなってしまったか、それには、いろいろな理由があります。

一つには、神社、仏閣、仏壇の前で、神主や行者や僧侶や、一般の人々までが、言葉そのものを読誦しているからです。

またある人は、写経によって、毛筆で経文を書き写すことだけに心を奪われたからといえます。

私は、そうしたことから、永い間、お経というものに、非常に疑問を持っていました。

つまり、本当の意味が解らないから、読誦したり、写経をしているのだということもいえるでしょう。

ということは、経文の本当の意味が解ったら写経などによって書き写す必要がなくなるということになります。

お経の意味は本当は、もっと日常的な言葉で語られた内容であり、解りやすいものではないのかと思ったのです。

永い歴史を体験して人々に愛されてきた仏教は、いつの間にか、日常生活の中でそうした形式的な読経するという習慣としてしか生きていない、いわば、化石化してしまったのです。

本当の意味が解っていないから読誦すれば良いとか、写経すれば良いということになったのではないだろうか。

私は疑問に思うのですが、ゴーダマーブッダ(仏陀)の時代に、果たして今のような哲学化されたむずかしいもので、文盲同様の当時の人々を救うことができたのかどうかと。

日本に伝わってきた仏教は、インドの言葉が中国ですっかり哲学化され、漢文化されたむずかしい経文となって日本に渡来してきたものです。

そんな、仏教専門の学者や僧侶でも真に理解できない言葉で、当時のインドのカースト制度におけるシュドラー(奴隷)や、ヴェシャー(商工階級)や、クシャトリヤ(武士階級)の学問をおさめていない人々の心を救い得たのでしょうか。

私は、どうしても疑問に思うのです。

経文というものは、読誦することによってその真意を良く理解をし、日々の生活の物差しとして実践する、そのことを教えているものでしょう。

つまり、ただ読誦するだけの、唱えるだけの他力本願的読経は、仏教の根本とはいえないはずなのです。

みなさんご存じの般若心経は、その意味で、決して絵に書いた餅であってはならないと思います。

たとえ餅だとしても、食べてみなければ(生活に実践しなければ)味は解らないものです。

お経の中に書かれてある内容を、心の指針として毎日の生活のなかに実践する、これが本当の信仰であり、人の道といえるのではないでしょうか。

小乗仏教であるとか、大乗仏教であるとか、あるいは何々宗、何々流派とか色分けされたものは、仏教とはいえません。

では、真の仏教とは、ということを考えてみましよう。

仏教は、今を去ること2500有余年前、中印度を中心として、ゴータマ・ブッタの説かれたプッタースートラ(悟りへの道)それが真の道ではないか、と思います。

つまり、人間の欲望からくる煩悩はすべて心から発することであり、この煩悩をいかにすれば調和して安らかな心にすることができるのかという説いたのです。

中国の仏教にしても、日本の仏教にしても、バラモン教やヨギー・スートラ、拝火教まで混合していると考えられますし、真言宗系の護摩焚きなどという行事は、ゴーダマ・ブッダの説いた仏教の行なうことではないはずです。

特にナラジュルナ(龍樹)2~3世紀は、ゴーダマ・ブッダの説かれた四十五年間の教えを分類して、自分で理解できなかった問題は捨てて、後世に伝えたものであり、この辺に、後の仏教への誤りの原因があったといえましよう。

毎日の生活から離れた仏教は、正しいものではありません。

つまり、お経の読誦に意味があるのではなく、それを良く理解して生活の中に生かすこと、そうでないとブッダ(仏陀)の教えではないということになるでしょう。

祈りとして他力本願の読誦を行うだけで、仏陀の悟りに到達した人が果たしているでしょうか。

私は、宗教には入信することもなく、全く無関係の人生を歩んできましたが、人間としての道を求めて、すでに63年の歳月を過ごしてきており、その間、自然科学や物理学を特別学んだこともないが、生活の中で体験し、健康のあり方を多くの患者さんの臨床体験から学び、また精神の疾患についても根本は心にあることに気づき、人生の道を知りました。

その結果、気づいたのは般若心経が自然科学と全く変わっていない真理であるということでした。

つまり、大自然こそ、人生におけるわが師であると知ることができたのです。

精神的疾患によって苦しんでいる者が、病気が治ると言われ、毎日数時間を読経に費やすことでノイローゼの原因になっている夫婦仲の問題から目をそらし、一時的に解放されれば精神疾患も軽くなることもあるでしょう。

しかし、ノイローゼの原因が根本的に解決したわけでない限り、不安も嫉妬も恐怖心も消えてなくなるわけではなく、読経によって気をまぎらせた程度のことでしかないのだ。

お経の中身を理解し、生活に活かして行うことが根本的心の調和になることを悟らなければならないということです。

お経に関していえば、専門の学者や僧侶が、哲学的な知恵だけで行いを離れて解説した著書にはどうしても迫真にせまるものがなく、心と行ないを実践した自分の心の中から湧き出した想いと合致するだけの力がありません。

私は、30歳を過ぎた頃より30年の求道の経験を踏まえて、人の道がどうあるべきか、苦悩を超えて安息の生活をするにはどのような学びをし、生きることが望ましいのかを説きはじめて6年ほどになります。

人間の心の仕組みを悟り、煩悩の愚かさを知るにつけ、相談にくる老若男女の苦悩を解放することの一助になればと日々、実践するものです。

いつか折を見て「般若心経」について述べてみたいと考えております。

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病気に学ぶこと

病気

生まれた環境の条件

85歳のお婆さん。自費出版した自著をあげると私にくれた。口を開けば自分が若い時にやってきた仕事の内容や功績を並べて止まらない。

その一方で他人や世の中の批判、娘婿の悪口を辛辣(しんらつ)に攻撃する口調にはさすがに聴いていて耳も心も心地よいものではない。

そういう矢先に左足が壊疽をおこし切断せざるをえなくなった。車いす生活を余儀なくしているが、ぼろくそに悪口をいっていた娘婿に車いすを後から押してもらっていた。

このお婆さん、不満と愚痴をいいながら、いかほどの事もない名誉にも拘り、いつも心が休まることが無いのだが、実は定年まで教師を務めた人間である。

人間のこの世での環境は、自分自身がそれぞれ希望して選んで生まれてきた世界である。

それは、地位や名誉や家柄ではない。そのようなものは人間の造り出したものだ。

人間は生まれたときは皆裸である。

裸には、身分も階級もありはしないし、太陽の熱、光が万人に平等に与えられるように、天の慈悲もまた平等に注がれるのである。

心の安息というものを私達が悟ったならば、人間の地位、名誉、身分など非常に小さいものであり、悟る以前の自分を反省したときには全く恥ずかしくなる。

人間の価値は、心の在り方を悟って生活しているその人の状態によって定められ、学歴や地位、財力のみでその人を人格者ということはできない。

人格者とは、魂の神性仏性を悟って、已に足ることを知り、人々の調和のために、正しい想念と行為を実践している人々をいうのである。

要は社会の秩序を根本にして、「自分の心に忠実に生きる」ということであり、人間の価値をより高めて行くことである。

私達は、地獄から生まれてきた生命ではなく、誰もが天上界で一定の仏性を悟って生まれてきたのだが、環境や、教育、思想、宗教などの不調和によって、自らを、生きながら地獄の生活に追いこんでしまっていることに気づかなくてはならないだろう。

それも他人のせいではなく、自分自身に責任があることを知るべきである。

悪い結果に対して、人間はよく他人のせいにするが、それは誤りである。

たとえ他人に責任を転嫁しても、自分自身がそんなことで安らぎを得ることはできないはずである。

病気に学ぶこと

病気には、人生の乗り舟である肉体と、肉体の支配者である意識、その中心である心の病いとがある。

心の病いは、自己保存や自我我欲がほとんどの原因で、この原因が人生に必要な肉体まで破損させることがある。

肉体の故障についても、内外を問わず、良くその原因を反省してみることが、何よりも早く病気を治すきっかけになって行く。

こと肉体が、完全に正法(偏りのない中道の生き方)に適って調和されていれば、病気にはなることも少なく、なったとしても重度になるところが軽度で済むだろう。

しかし、いかに正法に則した生活をしていても、無理な体力の消耗の仕方をすればどこかに歪みを生じるものであり、自分の限界を知ることが必要である。

眠るべきときには眠り、体力をつける運動なども、エネルギーをより蓄積するために必要な方法だ。

日中や、眠っているときや目をつむっているときに胸が息苦しくなる、あるいは静かにしているときなどに頭がファーっとしたり、どこかへ行くようにふわふわしてきて、心臓が乱れたり止まりそうな現象がでることがある。

さっきまで何度もなかったのに、出先で急に肩や背中が重くなった、急に頭痛がしてきた、動悸がしてきた、めまいがしてきた、息苦しい、特に病気という病気がないのにこういったことがある。

これは多分に霊的な影響による現象で、日常生活の中で知らず知らずのうちにどこか霊的なスポットに出かけたとか、あるいは人が大勢いるショッピングセンターに行ったとき、電車に乗ったときなど、人に会ったあとなどに発生する場合が多い。

自律神経失調症と診断されて自分は更年期だから仕方がないのだと思っていたが、霊的な影響によるものだということがわかって適切な対処するようになってからはパニック状態に陥ることがなくなる人たちもいる。

しかし、このような原因による症状の場合は医者に診て貰っても病態がみつからず、心臓病とか精神的な病気だといわれるくらいがおちである。

このような現象の起こっている人々こそ、良く生活を改め、偏りのない正しい生き方を学び、毎日毎日の想念と行為を良く反省して、心というものがいかに重大なものであるかを悟るならば、このような現象は少なくなってくる。

更に、心が調和されることにより、二次的に潜在能力を開き、霊的なパワーアップをする人もでてくる。

もし読者の中に、このような現象の出ている方がいたなら、それは霊的なことが作用している場合もあるということを知って戴きたい。

愛や慈しみの欠乏

精神的疾患者の中には、後天的に自分自身の心の不調和によってうつ病や、ノイローゼなどに陥っている人々が多いが、これらは自分の状況を知り、正しく心を調和する勇気と努力をする以外に回復の可能性はないといえるだろう。

いずれにしても、私達は、その病状がどのようなものであろうが、原因に対する追求を怠ってはならない。

そしてその結果、良く反省して、心の浄化を計ることが欠かせないのである。

家族の一人一人が自ら、また互いに、心と心の調和を計って明るい家庭を築いて行けば、自然に安らぎの生活は生まれてくるものだ。

病気を、恐れてはならない。かといって、おろそかにしてもならない。

早期に、医学的にその原因を追求して貰い、必要な治療することが早く快癒する道である。

但し、うつ病、パニック障害、その他の精神的疾患に関しては、心療内科、精神科の投薬治療だけでは改善は期待できないところもあるというのが実態でもある。

いずれにしても、生活上の諸問題や病気もそうであるが、結果を良く反省し、良いことはより伸ばし、悪い想念と行為は捨てて、正しい心になることが必要であるし、それが正しい反省ともいえる。

そうすれば、心が浄化され大宇宙の光によって心身が満ちてくるため、邪悪な霊に影響されることもなくなる。

常に病気で沈みがちな人々は、自分自身の心の在り方を良く反省し、その原因を知ることが必要である。

人間は肉体がすべてであるからといって、内面のことを考えないで医者などにかかっても完全とはいい難い。

心の内面こそ、本当の自分自身であることを知ったなら、肉体の故障の修理も、より完全にできるといえるからで、こうした結果、自分の治癒力を信じることによって、その効果は現われてくるものなのである。

肉体的に不調和なときも、守護霊は常に私達を内面から見守っている。

魂の縁者たちも心配している。私達は、その事実を知ることにより、毎日毎日を平然として自分勝手な不調和な生活にすごすことはなくなるだろうし、常に反省をして、より良い調和のとれた生活を送るようになるであろう。

一般にノイローゼといわれている人々の多くは、感情の領域がむらで、本来の自分の心の状態を失っている。

この原因は、根本的なところで人間としての愛や慈しみの欠乏にある。

またこうした人々は、心が狭く、孤独で、常に不安定であり、安らぎがなく情緒に乏しい。

それは灰色の人生といわざるを得ない淋しい人達だ。

心の中は、閉鎖的で、健全な精神とは言い難い状態にある。

このような人々の多くは、不調和な世界の霊にも影響されている自分の暗い想念が、内在する心の光をさえぎり、苦しみの意識界に通じているということだ。

当然、肉体的にも不調和になって行く。

子供達との関連においてそのことを考えてみよう。

人々は良く自分達にできなかったことを子供に託して、その希望を果たそうとする教育や、虚栄心による子供への束縛を原因として不調和になる場合がある。

肉体は確かに与えたものだろう。しかしそうした場合、その魂まで両親の独占物だと考えていることに誤りがあるということを知らなくてはいけない。

全くの親子であっても、魂は個の生命であって、自ら相違があるのだ。

なぜなら、魂も親が与えたものであり、親の分霊だと思うなら、その思考性や行為のすべては同じでなくてはならないだろう。

残念なことに、親のいうことを利かない子供が多い事実を考えなくてはならないのが現実なのである。

従って親達の、子供の環境や教育についての育成は、溺愛でなく、家柄や自己保存的な考えを捨てた純粋な心からの愛でなくてはならないということだ。

子供自身が自分の思い通りの道を歩くと、世間の両親の中には「あんなに可愛がって育てたのに、親の恩を忘れて、親不幸をしている」などと嘆く者達がいる。

しかしこれも親のエゴイズムであろう。

報いのみを求める、そんな心だから子供達は自分達の真実の道を求めて去って行くのだ。

親子相互の対話の不足を考え、子供の人格を認めてやることも親の愛というものだ。

対話のない家庭の中には孤独な子供達が育ってしまう、これが現実だ。

だから両親は、子供の魂の乗り船は、互いに約束して与えたのだということを忘れてはならない。

与えた、と思う心があるから、親の尺度ですべてを計り、子供に注意などをする。

親の意志に反したことをすれば、きびしく怒り、肉体はおろかその心まで束縛してしまう。

私達は、こうしたことを良く考えて、子供達を指導することが必要であろう。

最も調和した自由自在の中で、良く心の在り方を教え人間としての道を教え、感謝と報恩の意味をさとし、両親が実践模範を示した生活環境を造り出すことが先決なのである。

純真な子供心を、素直に育ててやることが、より良い豊かな心を大きく育てる道、これが本当の愛情というものだ。

きびしく叱ることも、正しい中道の判断によれば、その真実が子供心にひびくことなのである。

子供と親の対話、日々の行動が、心の行き来が、愛の心をより豊かに育てて行き、健やかな子供の姿をみることになる。

子供の心もそこで広く人々のなかに調和され、自分自身の魂を磨いて行き、円満な人格を作って行くのである。

親が子を放任し、正しい道をその愛情によって示さない生活の中で育てられた子供達は、気の毒といわざるを得ない。たとえば学校の成績ばかりを気にしている親達の心は、自己慢心にしかすぎないということだ。

仕事を理由に子供の心を知ろうとしない親も然りである。

心の中の知識の領域だけが発達しても、心にゆとりがなく情緒のない人間は、人生での正しい判断すら決定することはできない人間になっていき挫折を味わい、社会に失望する若者が増えている。

智性という領域内にある知識は、人生をいかに正しく生きるかという、調和した生活をするための早道であって、自己保存、自我我欲の道具ではない。

智策、智に溺れる愚を犯してはならないのである。

知性と理性、本能と感情、そして想念の領域が調和された、円満な人間に成長することが人の道である。

社会への警鐘として申し上げたいが、試験、試験の人生は、自己保存的な、かたよった人格を造り出し、人間本来の心を失ってしまう結杲にもなろう。

また本能的な領域だけが発達しても、不調和な人格を造ってしまうものである。

いずれにしても心の不調和が、想念に曇りを造り出し、内面にある慈悲と愛の光をさえぎり、精神的疾患の原因を造り出してしまうというわけである。

更に、その暗い想念意識は、不調和な霊によって影響され、人生を灰色と化してしまう。

不調和な満ち足りぬ心の病は、偏りのない生き方を悟って実践し、その法則に沿った生活以外、修正することは不可能である。

また不自然な宗教を信じ、盲信、狂信して自分を失い、心に安らぎを失っている人々が非常に多い。

神仏の罰が恐ろしくて、組織の細胞になり、心の自由を失ってしまっている人々がいる。

だが、神仏は絶対に罰など与えはしない。

可愛い自分の子供を誰が不幸にするだろうか。

神仏の子として在る人間に、なぜ神が罰を与えようか。

太陽の熱、光のエネルギーは、地位や名誉や金持ちや貧乏人に差別を示しているだろうか。

天の慈悲と愛の光は私達に全く平等に与えられている。

貧乏人に生まれたのも、自分自身がその中で修行しようと、自らの魂が決定して出てきたのだ。

過去世の魂は、かつては王侯貴族であったかも知れない。

たとえ貧乏人、富豪の家に生れようと、魂の修行には何らの変わりはない、ということだ。

経済力や人間の地位、名誉などは、人間界で造り出したもので神仏の意志ではない。

肉体的に欠損があろうとも、自分の魂、すなわち心が、立派な道を悟っているならば、人生航路を正しく操縦できるということを悟るべきであろう。

このことは肉体の病においても同じことが言える。体が病んでも心まで病ませてはならない。

魂は、その欠損のある体で修行することを自分自身で望んできた尊い心であることを忘れている。

このような自分自身の不満な心を、神仏に、信仰の対象として求めることは、不自然な偽善者達の食いものにされてしまうということを、私達は良く悟らなくてはならない。

よくよく見極めなければ魂までひ弱な人間にされてしまうことになり、その結果、自分自身を失って小さな枠を心に造り出してしまう。

人間とは、まことに愚かしい者達である。

私達の心は本来、過去の記憶をよみがえらせる能力を持っており、過去において正しい人生の生き方、法則、真理というものを学んだ人々は、不自然な教えには必ず心の中に疑問が生じるのが真実だということだ。

信仰に対しては、自分の心が納得するまで、疑問、疑問の解答へと、追及することが必要である。

「なぜ」に答えられない信仰は真の教えではないということだ。

祈らせる対象物を買わせたり、御魂と称するお守りを押しつけるような信仰、そして、様々な健康お守り、御利益グッズなどは教団のための金集めであり、真の教えではない。

私達は、大神殿たるこの地球上に住んでいるということを忘れてはならない。

自分自身に嘘をいえない自分の心、それを信ずることだ。

正しい道を、人間らしく生きることだ。

それには努力と勇気が備わらなくてはいけない。

竜神だの稲荷大明神だのといろいろ祭り、心の安らぎがなく精神分裂状態である人もいる。

こういう場合はほとんど動物霊に影響され、体もすっかり不調和になっている。

竜神だの稲荷大明神だのと拝んでみても、本物の竜神や稲荷大明神の識別もつかないで信仰することは危険である。

霊視で見ることができたり、心の眼や守護、指導霊によって確認されないものを信ずることは、己を失ってしまう結果になってしまう。

たとえ霊媒の口を通して語ったとしても、動物霊が偽称する場合がほとんどである。

神仏を分からない人々が信ずるならば、まず霊媒の人格を見抜くことが先決であろう。

私生活、その言動が正法(偏らない中道の生き方)に適ったものであるかどうか。

口先で正法の如きを説いても、行為が備わっていない指導者は、絵に描いたボタ餅にしかすぎないのだ。食えるものではない。

人間は、宗教者がいう通りに不調和なものまで祭って祈る対称物にしてしまう。

このような者に騙されてはならない。憑依する霊の100%は地獄の霊、浮かばれない魂達である。

良く正法を話し諭してその者から離れて貰うことが必要であり、影響されている人々の心を正常にもどし、正しい道の心と行ないを実行させることが必要なのだ。

喜びのある実生活、これこそ正道というものだ。

私達はもう少し、苦しみ、悲しみの原因について追及し、反省する心を学ぶことが必要であろう。

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心のスモッグ

大自然

未熟者 より: 2013年7月14日 10:25 AMにコメントをいただきました。下記コメントへの返事を兼ねて私の見解を述べさせていただきます。

会社内での人間模様は自分の思うようにいかないと怒りだす人が何人かいて、その人達によって多くの同僚たちが精神を病んでいる有り様です。

私は観童さまのブログを昨年の年明けあたりに初めて訪問しましてから常に拝見させていただいております。

一個人の問題だけではなく、家庭、社会、世界、人類にまで問題提起をし、考えさせられる内容に読みいるばかりです。

他に類を見ない希なる内容のサイトですから、是非多くの方々に読んでいただきたいものと思います。

都会で暮らす私には、自然とふれ合う機会も少なく、毎日が追われるような生き方をしているのですが、ふと、自分の命を考えますと、大自然と関わり、人間の心と大自然の関わりというものについて、希薄になっていくのではという危惧さえあります。

人間は大自然から学ぶことがあると思うのですが、その点について具体的にお話しいただければありがたいです。 よろしくお願いします。

返信

心は太陽のように、貧しい人にも富める人にも、わけへだてのない公平無私の意識である。

嘘の言えぬ心こそあなた自身でありましょう。

ついこの間まで雨が降らずに農家の畑は乾き、作物が成長しないと心配されていたが、今度は毎日雨が続き日照不足の観がある。

しかし、長雨もだいぶおさまり、太陽のひかりが地上を照らすようになってきた。

人間はいつも足りないことを嘆き、過ぎたことにも愚痴を言いがちである。

今の季節の私が住む岩手山麓は、朝の温度も20度を切るぐらいで静かな風は肌にも心地よく、大きく息を吸い込むと爽やかさが体の隅々まで いきわたる。

私は毎朝ウオーキングのあとに、家のデッキでしばらく椅子に座って庭の野鳥に視線を向けている。

巣箱から巣立ちしたスズメのひな鳥に親鳥が餌を口移しに与えている光景に頬が緩んでしまう。

本能のままにひたすら子育てをする野鳥の姿をみていると、育児ノイローゼなどはなく、時期が来るころにはしっかり自立をさせていることに感動すら覚えるものだ。

野鳥の姿を見ながら、この大自然の摂理と人生について思索をめぐらしてゆくと、この両者の間には垣根はなく、垣根をつくっているのは人間社会だけであり、自然は人間の生き方を身をもって教えていると思われてくるのである。

私は、人間とはいったい何者なのか、そして人間はいったい、何のために生まれ、なぜ仕事をし、苦しみを背負い、老いて死んでゆくのであろうか、という問題について、様々な角度から追究していた頃のことを思い出していました。

ふと耳に入ってくる声は林の奥で鶯(うぐいす)が鳴き、目の前で雀がさえずっています。

朝の澄んだ空気と、緑と、太陽の光の下に自分を置くと、いかにも大自然に包まれ、生かされている己を発見して、都会では味わえぬ感覚を覚えます。

自然のこうした美しい環境というものは、太陽の熱・光のエネルギーによって育まれる。

太陽の偉大さに、いまさらながら脱帽せざるを得ません。

私たちの肉体は、その環境に適応して保存されるようにつくられています。

寒い冬は、その寒さに耐えられるように、皮膚はちぢみ、体内温度をコントロールし、反対に暑くなれば、皮膚は膨張し、毛穴から汗を出し、放熱作用をつづけています。

内臓諸器官は常に活動を続け、人体という安定された小宇宙を維持しています。

肉体の諸機能を静かにふりかえりながら、ながめてみると、そこには、いいようのない偉大な働きを想像することができます。

″神秘″というすなわち、大自然の環境をつくり出している目に見えない力、全能のエネルギーこそ、宇宙意識の現れでなくて何といえるでしょうか。

そうして、その心の現れこそ、慈悲であり、愛の姿といえるでしょう。

ところが、その心について私たちは、これをどこまで理解しているでしょう。

おそらく、心とはこうだと、はっきり答えられる人は少ないのではないでしょうか。

あの人は精神状態が悪いとか、心の広い人だと簡単にいうけれども、では精神とは、心は、となると説明に窮します。

万物が生命と同居している事実は誰も否定出来ません。

物理学では、物質がエネルギーと同居している事実を証明し、エネルギーとは仕事を為し得る能力であるとしています。

そうしてその結果、物質はエネルギーであり、エネルギーは物質であるとさえいうことが出来るのです。

目に見られる違いは、物質という集中された次元と、拡散されたエネルギーの次元の差だけであり、しかも両者は常に併存しているということがいえましょう。

また、質量は不変であり、エネルギーは不滅であるという事実も実証されています。

たとえば、密閉したコップの中にマッチ棒を入れて燃焼させても、全体の重さは変りませんし、マッチ棒はコップ内の酸素によって燃え、炭素や炭酸ガスに変化しても、全体の重さの変化はおきないということです。

私たちの肉体も大自然の中で存在している以上、大自然の法則を無視することは出来ないでしょう。

生老病死という掟を誰も破ることが出来ない事実を知れば、自明の理といえます。

形あるものはいつの日か崩れ去る事を仏教では諸行無常と表現しています。この言葉は崩れ去ることのみを表現しているものではなく、再び生命が誕生する循環の法則をもいっているのであり、大自然の法則そのものといえるのです。

したがって、肉体も他の物質と同じように、次元の異なった何者かと同居していることになるでしょう。

これを、魂、あるいは意識と名づけてみてもいいでしょう。

ちょうど、物質がエネルギーと共存しているようにです。

お分かりでしょうか。

物質は運動を成し得る能力を持っているもので、それをエネルギーと称するように、人間も魂という運動を成し得るエネルギー体を備えているということである。

肉体は肉体細胞諸器官の生命活動により安定していますが、この肉体の責任者は五体を支配する船長である魂・意識の活動によって、生活を営んでいるといえましょう。

肉体の欠陥は、五体の各諸器官と船長である意識の相互関係がアンバランスになっ たときに起こるのです。

私たちの記憶も、頭脳がそれをするのではなく、魂・意識が記憶しているのです。

つまり、肉体と意識・魂という次元の異なった世界のものが不二一体となって、生命活動をしている、といえるでしょう。

永遠の生命とは、この世とあの世を超えて輪廻する、魂・意識の自分であるわけです。

いっさいの記憶を持ちながら、生き続けている肉体の生死にとらわれることによって、死はすべての終りを意味しますが、肉体を離れた自分を認識し、体験すると、そこには、死のないことに気づきます。

ただ、生きている間にこのような体験を持つ者は、ホンの一部にかぎられているため、想像は出来ても、信ずるところまでは、なかなか、いかないようです。

しかし、信じる、信じないにかかわらず、人間は、肉体が滅びても死ぬことはないし、死はあの世への誕生といってもいいのです。

私たちは旅行をするときに、いろいろな乗り物を使います。飛行機で飛んだり、自動車に乗ったり、電車を利用したりして目的地に着きます。

乗り物はそれぞれちがっていますが、乗っている自分自身は少しも変らないのです。

魂の永遠の生命、つまり転生輪廻もこれと同じで、自分の過去世は中国で、インドで、あるいは日本人として、生れ変って生き続けていますが、自分自身は少しも変っていないのです。

過去世の記憶をよみがえらす人は非常に少ない。

ほとんどの人は現在の生活だけが絶対であると思っています。ましてや輪廻の未来について語る人は絶無に近い。

そのために、無意味な人生を送ってしまっているのです。

過去世の記憶の断絶は、一つには現世は修行の場であり、もう一つは次元の相違がそれをさせているといえます。

過去の記憶がオギャーっと生れてすぐにわかってしまうならば、この世に生まれた意義は少なくなります。

もう一つは、ある一定の年令に達しても、なおかつそうした記憶が浮かんでこないというのは、自分の心の中に次元差をつくっているためなのです。

次元差とは断絶という壁であり、心のスモッグです。

そのスモッグは、私たちの思うこと、行うことの、片寄った生活行為がつくり出したものです。

私は小学生の頃から、自分は何の為に生れてきたのか、という生命の神秘に疑問を持ち、空を見上げては天に帰りたい衝動にかられ涙したことがあります。

30過ぎたころに禅堂に通い始め、自分を追究するたびにさまざまな体験が積まれ、体験を通して、生命のナゾが明らかになって来たのです。

ともかく私は、こうした体験の中から、人間は魂という意識を持って生きつづける永遠の生命である、ということを知り、限られた短かい肉体人生に与えられた己の役割に、全力を挙げてゆきたいと考えるようになった。

魂について、さらに明らかになった点は、魂を動かしているものは心であり、心は意識の中心に存在するということです。

私たちが生活の場の中で、さまざまな行為を指示するものは、意識の中心である心であり心以外のものは何もないということです。

もっとも私たちの肉体は、神経の働きで心臓や内臓器官が動いており、肉体舟全体の行動は、魂の中心である心が支配しています。

したがって、心臓や内臓は心とは関係がないとみる人もいるかも知れませんが、心の動きは内臓諸器官に大きな影響を与えています。

神経、つまり自律神経はから与えられたエネルギーを吸収しながら活動していますが、それだけに心の波動を強く受けて動いています。

病気の殆どは心因性によるところが大であり、怒ったり、悲しんだり、愚痴ったり、こうした自己保存が重なると、肉体にさまざまな障害が現れ、病気になってゆきます。

心が片寄ると、自分だけの問題なら病気となって現れますが、対外的に影響を与える場合は、事業不振、家庭不和、公害、災害などに発展してゆきます。

物質文明が発達するにしたがって、人間は普遍的な自分自身の心を失い、物質文明の虜になってしまいます。

物質文明は誰のためにあるのか、文明のためか、人間のためなのか……。

人間はいつのまにか主客を転倒し、文明に奉仕する人間になり下がっています。

愚かというほかありません。

欲望のためには手段を選ばず、すべてに自己中心的な考えが根底にあるので、世の混乱はいつになっても治まらぬというのが、現実でありましょう。

大自然をみると、私たちの眼前にひらかれている姿は、法則と摂理のルールにしたがって、動物も植物も鉱物も、互いに調和されています。

自然は、正しい循環の法、ルールを示し、足ることを知った中道の真理を教えています。

動物は酸素を吸って炭酸ガスを吐き、植物は炭酸ガスを求めて酸素を吐きます。

動物は植物を求め、植物は動物の排泄物を栄養源にして育ってゆく。

両者の相互共存、これは天の摂理です。

肉食動物は草食動物をやたらと殺しません。腹がいっぱいになれば、目の前の獲物も見送ってしまう。

彼らは足ることを知り、自然の循環にそって生かされています。

したがって、彼らの生活は、人間が踏み込んで荒らさぬかぎり、半永久的に維持されてゆきましょう。

人間はこうしたルールを忘れ、欲望充足に明け暮れています。

そのために、大気は汚染され、河川や大海までが、工場排水でよごれ、動、植物の生存ばかりか、人間の生存すらおぼつかぬような状況をつくり出しています。

これらは等しく、足ることを忘れた利益追求の人間の在り方に問題があり、今や人類は大きな壁に突き当っている、といえるでしょう。

かつての日本がそうであったように、いままた中国の全土が公害によって大気も汚染され水も工業排水で汚れきっています。

結果は原因なくしてあり得ないし、現実の現象に対して私たちは、まずその原因を取り除くことからはじめねばなりません。

つまり、行為をつくっている心の在り方を正す必要があるでしょう。

諸相の根源はどこにあるか、そして人間の在り方、生きる目的、苦しみの原因などについて、つまびらかにしなければならないだろう。

大自然と人間の関係を相当な覚悟で悟らなければならない時期に在るということだ。

ともかく私たちは、まず、自分にウソのいえぬ己の心に忠実になることを心がけねばなりません。

そうして、自己保存、自我我欲という心の公害を取り除かねばなりません。

心の公害は、他人は取り除いてくれません。

何となれば、自分の肉体の支配者は他人でなくて自分だからです。

心の王国の支配者は己であるという自覚を持つ必要があるでしょう。

自分を含めて、自分の周囲で起こったさまざまな諸現象の原因は、他人ではなくて自分にあることを悟るべきです。

今日の社会の混乱と公害問題に人びとが悩むのも、もとはといえば、個人個人の心の公害から端を発していることを知るべきです。

原因と結果の法則は何人たりとも崩すことは出来ません。

しかし、この法則を知って、調和と明るい世界、環境をつくろうとするなら、この法則の偉大さに気づき、人生の目的は期せずして達成されることでしょう。

私たちの心の中につくり出されたさまざまな心の曇りを除いてゆき、平和な人生を送ることが出来たならば、人びとは人生の偉大な価値を自ら悟ることが出来るでしょう。

デッキに腰をおろし、人生の不安から解放された自分自身を、野鳥の声を聴き、目の前の林の風をいただきながら私はしみじみ思うのでした。

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心の悪魔

霊能力

私は先般、自身もお金を相当に使い、かつ、多くの人たちを霊能者に紹介したというご本人(男性50歳)と3時間ほど対談をした。

『あの世を浄化することで宇宙をキレイにし、世界の平和と人類の平和をつくることができる。その為にあなた自身も神を授かることができます。

但し、その前にあなた自身を浄化しなければなりません。現在あなたには先祖霊が13体、陰化した神々が3体憑いています。

これを浄化すれば新たに高次元の神が授かる可能性があります。そのことによってあなたも神の浄化能力が授かります。』

こういうまことに言葉巧みなアプローチで友人や知人、霊能者に誘われたら、あなたはどのように思い、受け止めるであろうか。

この霊能者は、人間の生活の在り方や、心の在り方、苦悩の超え方、人生の目的、正しい生き方とはどのようなものなのか、こういった最も大切な私たちの現実生活のなかでの苦悩の超え方に関しては一切触れることはしない。

しないというより指導者自身が真理を悟らず守銭奴と化しているために善なる心に触れることができないし、説けないだけである。

何故なら自身の心が悪魔に支配されているからだ。

そして、みんなの前で威張り散らし、カリスマ性をあらわにすることが多く、「私の浄化依頼に5万~10万とお金を包んでくる人たちがいますよ」とまで言ってのけるから呆れてしまうのだが、それでも疑問をもたず、神が授かるとか、能力が欲しい一念で泥沼に引き込まれていく人たちがいるのである。

気づくのが遅ければそれだけ多額の金銭をつぎ込んでしまうことになるのだ。

この霊能者、夜の街に出ては己を失うほどに大酒を飲み、酒癖も悪くなり、出入り禁止の店が多いという。

更に、この霊能者は決定的な間違いを犯している。

それはあの世を浄化すればこの地上が平和になるといっていることだが、あの世をどれほど浄化しようが一個人が宇宙を浄化しきれるものではないし、仮に少し浄化できたとしても、この地上の邪悪な想念、悪を為す人々が心不調和なまま人生を終えたならば行先は高次な天国ではなく、低次の地獄界となってしまう。

とすれば、世界の人口の不調和な人々があの世にいくわけですから、執着から離れて悟るまで相当な時間がかかることになるのは簡単に理解できる道理であろう。

あの世を浄化することが先ではなく、私たち地上で生きる人間が心を調和させて生活をすることが地上の浄化につながるということであり、早道だといことに気づかなければならないだろう。

この霊能者の守銭奴と化した邪悪なエネルギーとて聖なる光エネルギーの前には為すすべがなく、自らが償いをしなければならないときが必ずくるだろう。

悪魔(邪悪な人霊)と動物霊に支配された人間の末路は清算する運命にある。

人間、悪魔に犯されると、善なる自分を失い心の自由さを放棄することになります。

悪魔は私たちの心の中に、いつでも入りこもうとして、虎視眈々(こしたんたん)と狙っています。

悪魔に魅入られてはならないのです。

感謝と報恩の行為をしている者には、悪魔は、近寄ることができないものです。

悪魔についてもう少しふれてみましょう。

私たちの身近には、善人の仮面をかぶった悪魔がいます。

悪魔に憑かれると、他人を見下し、あたかも自分が善人のような錯覚に陥ってしまいます。

正道を口にしながら人の前で自分を誇張し、傲慢になり他を誹謗し、正しく素直な人びとを罪におとし入れようとします。

人から注意されると、自分が他を誹謗したことを忘れ、反省することもなく自己弁護してしまう。

増長慢の心が常に自分を支配しているため、心は不安定です。

善と悪が交錯し、悪いときには動物霊が背後にいて、霊眼、霊聴などの現象をみせ、本人の心を支配して、いかにもそれが本物の映像、声のように思わせてきます。

そのため、本人の心は、もともと増長慢が下地になっているので、正、不正の判断がしにくくなり、言葉巧みに、不平不満をあおり、混乱を企てるようになってきます。

主観的、客観的な善なる自覚を失ってしまうのだから恐ろしいことです。

悪魔から自分を守るには、正道(偏らない心)のフィルターを通すことが大事です。

正道のフィルターは調和された心が尺度です。

自分の置かれている立場をいったん捨てて、自分を客観的に眺めることです。

そうしてそれは何も肉体五官の世界のみでなく、あの世からの邪悪な誘惑についても同じことがいえるのです。

これが出来ないと、何が正しく、何が不正であるか、善と悪のケジメさえわからなくなってしまいます。

善悪の判断は、そこに愛があるのか、人を助けたいとする慈悲の心があるかが基準でなければならないのです。

悪魔は、もともと執着と欲望の塊りであり、他人はもとより、憑かれている本人の心さえも狂わしていく血も涙もない非情なものです。

しかしこうした悪魔に憑かれるには、憑かれるだけの原因がなければなりません。

すなわち、怒り、愚痴、ねたみ、しっと、そしり、守銭奴、足ることを忘れた欲望という想念行為、それがその原因です。

こうした心は、目で見ることから、口で話すことや、耳で聴くことを通して、外から入ってくる場合もあるし、不平不満の自らの心がつくり出す場合もあります。

善も悪も、自分の心の在り方がつくり出した天国と地獄であり、一念三千の心の方向が、その人自身の意識世界をつくっているのである。

※一念三千(邪悪な世界、安らかな天上界のどこにも通じる己の心です。)

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