仏智を悟る般若心経

修行今日は般若心経の本文について述べていきます。
摩訶般若波羅蜜多心経

摩訶マカとは、マハーと呼ばれている古代インドの言葉です。

意味は、特別とか偉大とかいうことになり、敬称なのです。

マハーパジャパティという人がいます。ゴーダマ・プッタ(お釈迦様)の義母で、弟子たちが尊敬していました。

パジャパティは、三百七十六人の女官達とともにプッタ(仏陀)に帰依され、多くの比丘尼(ビクニ・出家した尼僧)の面倒を良くみておられたとのことです。

般若ハンニャと読んでいますが、般若の面を思い出す人もあるでしょう。

しかし、この般若も当て字で、正しくは、パニャという言葉です。

意味は智慧、心の中から湧き出してくる仏智、ともいえるでしょう。

波羅ハラと読みますがこれも当て字です。

パラーという古代インド語で、彼岸といっている人もあるが、行くとか、到達するという意味です。

むしろ、彼岸、すなわちあちらの岸は、心経解説の最後の所でに述べる(掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦)ギャーティギャーティがそれでしょう。

カーティという古代インドの言葉を中国語に発音すると、ギャーティーとなるようです。

蜜多ミターも当て字であるが、蜜が多いというなかなか中国人らしい言葉です。

蜜は、インドのコーダマ・プッタの時代も、中国の玄奘三蔵の時代も貴重品だったからです。

意味は、内在とか家の中とかいったものです。

心経はお経で終わってはならず、心行、すなわち、心の行いでなくてはならない

つまり、摩訶般若波羅蜜多心経は、マハーパニャー・パラー・ミター・チター・スートラとなるわけで、その意味は、「内在された、偉大な智慧に到達する、心の教え」ということになります。

内在。それをいえば、私達の心には転生輪廻の過去現在のすべてが記憶されているのですが、心の不調和な行為によって曇りを作り、自らの光り輝く心を汚れたスモッグという執着で閉ざしてしまっていることで、過去世で体験したあらゆる智慧を思い出すことが難しい、ということです。

それを思い出すためには、一切の執着を断って、足ることを知り、八正道の実践生活によって心の窓が開かれることになるでしょう。

人生における体験は、わずか百年前後です。しかし内在されている体験は、時を超えて無限に近いものなのです。

私達が、この智慧を思い出して生活したならば、まず生命の永遠を悟ることができ、どのくらい大きな人生での幸せを得られるか、はかり知れないものがあります。

仏智に到達する心の教えもまた、同じことがいえるでしょう。

パニャー・パラー・ミター(内在する偉大な智慧)の境地になるためには、正道(偏りのない、執着しない生き方)を生活の中でしっかり行為しない限り不可能といえます。

内在されたその偉大な智慧、すなわち仏智を得る境地になることは、到彼岸ということになるでしょう。

智慧の宝庫を開かせる、その道こそ、般若心経の根本であるのです。

しかし、何度も言うようですが、般若心経は読誦することに意味を成し、用を成すのではなく、その内容である教えを生活に実践して活かすことによって心のステージがアップされるのであって、それが到彼岸に成るのだということを忘れてはならないだろう。

本文の解説

かんじざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみたじ。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
直訳すると、観自在菩薩が、深く般若波羅密多を行ずるとき、五蘊はみな空なりと照見して、一切の苦厄を度し給う。ということになりますが、これでは理解がゆきとどかないでしょう。

観自在菩薩とは、プッタ(仏陀)がインドで法を説いていた時代、バラモン教のヴェダーやウパニシャドの経典に出てくる言葉で、「アポロキティ・シュバラー」と表現されているものですが、簡潔には、シュバラーとだけ呼ぶこともあったようです。

観自在とは心に執着が無く人間の煩悩の元となる五官六根に縛られない自由な心のこと。

菩薩とは、古代インドでボサッターという言葉ですが、悟りの段階をいうのです。

ボサッターの段階では、完全に執着から離れているというわけではないが、ただし、心の状態は慈愛に富み、衆生済度のためには、身を犠牲にしても救済するという者達で、決してむくいを求めない境地に到達していることです。

足りない部分というのは、自分の身につけるものに対しては飾る心を持っている、ということです。

他人に良くみせたい、というような優越感はないが、自分で楽しんでいる程度といえましょう。

仏像を見ると、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)や弥勒菩薩(みろくぼさつ)、その他の諸菩薩などは、ネックレスや王冠などを飾っていることでそれが良く解ります。

しかし、如来と呼ばれている上段階光の大指導霊達は、宇宙即我の境地に到達していますので、身にまとう衣服などにさえ執着はなく、全人類はみな兄弟だということを悟っている、慈悲と愛の塊りの者達です。

それは、一切の執着から離れ、神仏の心を人々に教え、人々を人生の苦しみから解放させる使命を持って活躍されている上段階光の大指導霊です。

つまり、あの世と、この地上の、もっともすぐれた心の指導者群といえるでしょう。

過去には、ゴーダマ・シッタルダー(釈迦如来)、イエス・キリスト、モーゼが、その大指導霊だといえます。

このような大指導霊には、あの世もこの世もなく、輪廻の実相を悟っているので、生と死の迷いから解脱(悟って執着がない)しています。

肉体を持ってこの地上界に出ている大指導霊は、自らの生活の中において、人生への疑問を持って遂に悟りを開き、観自在力(自由な心)を得、あの世の世界にいる大指導霊や光の天使達の協力を得て、心を失った地上の衆生(人々)の心に真理の種をまき、世界平和への道を開いて行くことに力を尽くしています。

それは、人間の作り出した、社会的な地位や経済的富に溺れることのない者たちで、一切の束縛から離れて身を挺しているのです。

ゴーダマやイエスが非常に良い例といえます。

このような意味で、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、というのは、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践した時」ということになるでしょう。

観自在菩薩(心が真の自由になった人)は、過去、現在、未来の諸現象を、自由自在に見聞することのできる悟った方で、慈悲と愛と寛容の心を持ち、すべての衆生を救済するために活躍している広い豊かな心の持ち主です。

私達の多くは、このように、偉大な、悟った人々の心も、他人の心の中もほとんど知ることができないため、眼でとらえた姿形、耳で聞いた話や噂、そんな範囲でつい人も物も、その評価を決めがちです。

それは、同じ次元で、平面思考で世界を見ているからにほかならないでしょう。

私たち人間のもつ日頃の価値観というものは、実際はとても範囲の狭いものでしかありません。

私達は、この世界に存在する物質的なものなら確認できるが、それにも限界があるでしょう。

一次元、二次元の世界は低次元ですから私たちの三次元の世界から見えるはずです。

しかし、次元が異なっているため、一次元に意志は通じないものです。

それと同じように、三次元以降の四次元の世界も、三次元の五官で確認することはできないのです。

しかし正道(調和された生き方)を心の糧として、毎日の生活をしている者達の中には、四次元以降、多次元の世界に通じているものもあるということです。

四次元をとおして、三次元の状態を知ることができるのです。

その四次元以降は、意識の世界といえましこう。

一次元から二次元、二次元から三次元へと連続されているように、四次元以降の意識界も連続体です。

つまり、私達の肉体に共存している意識は、そのゆえに、高次元と連続されているものだといえるでしょう。

意識は従って、高次元になれば、低次元の諸相を確認することができるのです。

他人の心の中も、低次元にあれば解る、ということです。

本来、私達は、三次元で肉体を持っていても、意識の発達が調和されて、高次元になれば、肉体から下船した者(死者)達とも通信が可能だし、その活動状態も解るのです。

死は、肉体との永遠の別れであって、その魂意識は、三次元以降多次元の世界に適応した光子体(霊体)を持ち、人生体験の一切を記憶して帰ってしまいます。

生命不滅の理由がここに存在するのです。

さて、物質の三態については、知らない人はいないでしょう。

気体、液体、固体の三態です。

水は液体、気体、個体(氷)の三様の姿をとりますがH2Oは変わりません。

これまで何度も述べてきた大宇宙への循環の法則は、魂は光子体を持ってあの世へ帰るだけで、それはなくなるわけではなく、肉体が滅びても、それは形骸の消滅にしかすぎない、ということです。

私達の魂は、不滅です。

ただ、あの世においては、心の調和度によって光の量が違い、その量に比例した世界がそれぞれ存在している、ということです。

地獄と天上界の存在、それは厳然として在るといえるのです。

私利私欲、自我我欲の強い人々の心は、その想念に曇りを生じ、そのために、肉体と同体になっている光子体(霊体)は、自らの内より輝く光をさえぎり、神仏からの光もさえぎり、暗い霊囲気におおわれてしまう、ということなのです。

そして、こうした人々は、地獄界に堕ちて行きます。そこで、罪業を反省し償うことになるのです。

罪業を償う方法は、人間としてなすべき偏りのない中道の心で、反省し、偏った心と行為の誤りを修正する以外にはありません。

私達は、今までの考え方で、『行』といえば、すぐにきびしい肉体行を想像するが、それでは心を失ってしまい、悟りへの彼岸に到達することはできないでしょう。

インドの仏陀(お釈迦様)も、両極端の修行を捨てて、八正道を心の物差しとして悟りの境地に到達し、アボロキティー・シュバラーになったのです。

しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく しゃりし

照見五蘊皆空。 度一切苦厄。 舎利子。

五蘊(ごうん)とは、眼耳鼻舌身の五官から起こる煩悩のことです。

眼は、色彩を持った物質的諸現象を見て判断する機能ですが、私達の眼で確認できる範囲は非常に狭いものです。

宇宙全体をみるときに、眼で確認することのできない世界のほうがはるかに多い。

しかし確認できなくとも、存在することは否定できないでしょう。

私達の眼に見える範囲は、あの七彩の虹くらいのものです。

こまかく見れば、赤色からは、赤外線の熱線レーダー、マイクロウェーブ、テレビ、ラジオ波、低周波というように、エネルギー粒子の振動数は小さくなり、波長は長くなってゆきます。

七彩の虹の紫色からは、紫外線、X線、γ線、宇宙線といった放射線のように、エネルギー粒子の振動数は大きくなり、波長は小さくなってゆきます。

しかし、このように、可視光線をはさんでいる両極端の周波を、私達は眼で見ることはできないのですが、しかし存在しています。

この事実は、医学の分野でも、生物学の分野でも、物理学の分野でも実証できることでしょう。

従って私達は、眼で見た一瞬の諸現象をもって、絶対だと信じこんではならないのです。

私たちが生涯に見ることのできる諸現象は、瞬きの瞬間に匹敵する程度のことでしかないということができるでしょう。

それでなくとも、人間は、おのれに都合の良いものを見れば喜び、不都合なものを見れば嫌い、心を苦しくさせています。

これこそ、心すべきことではないでしょうか。

耳はまた、空気を媒体として、一秒間に約三百三十米の速さで、その鼓膜に音波がつだわってきます。そして聴覚神経に働き、意識に通信されてゆきます。

だが、音には高低強弱があり、完全に音波をとらえることは不可能です。

ただ不可能だからといっても、この世で、ざる、聞かざる、言わざるで通用するものではありません。

たとえそれが不確実なものであっても、をとおしてくる一切のことは、正しく聞くことが大切です。

正しく聞くことのできないの持主は、他人の一語一句に感情的になり、自分を狂わせて正しい判断ができなくなるからです。

は、嗅覚神経を司ります。誰でも、悪臭は嫌いでしょう。当然のことです。

しかし、芳香だからといって、必ずしも良いものばかりとは限りません。中には毒をふくんだ匂いもあるからです。

自然には自然の匂いがあり、物にはまたそれぞれの匂いがありますから、正しく嗅いで正しい判断をすることか大事です。

は、言葉の発音源でもあり、食事のときの味覚で、栄養補給の場所でもあります。

そして、わざわいは口から、病いも口からといわれるように、日常生活では、もっとも重要な五官のひとつであるといえます。

偏らない中道を根本として、語ることが、どれほど大切なことであるかは、言葉が他人に意志を伝える道具として、誰にも深い経験のあることでしょう。

その一言一句が、相手を怒らせたり悲しませたりするだけに、中道をわきまえて語ることが必要なのです。

また、声には韻があり、言魂とは、その声の波動が、この地上現象界以外の意識界につたわってゆくことを意味します。

寺の鐘の音や僧侶の読経、これらはいずれも声や音の波動と、私たち人間の心の想念に乗って、あの世である天上界へも地獄界へも、またこの現象界にも自在に行くことができます。

この波動に乗って、過去、現在、未来の三世を見とおす力を持ち、悟った者を観世音菩薩といっています。

心を調和して、肉体から離脱したもう一人の自分がその波動に乗って行くと、たとえば鐘の音の場合には、その鐘をついた人の心に比例した次元の世界に昇ることができるのです。

そして、身は、肉体的感触をふくめた、五体五官から構成されています。

五体とは、子孫保存の本能として、先祖代々にわたって受けつがれてきた、地上界で生きるに適応した肉体、それです。

魂の修行場を目的とした、人生航路の乗り舟である、ということです。

この真の理、つまり神理が失われるに従って、私達は、肉体が絶対だと思いこんでしまうようになり、小さな汚れた歴史を作りつづけてきてしまったのである。

永遠に変わることのない、肉体の船頭である魂、すなわち意識を忘れ、その中心である心をないがしろにしてきたのです。

肉体の付属物の眼耳鼻舌身が、絶対のように思いこんでしまってきたということです。

もし、肉体が絶対であるならば、なぜ死ぬときに、天上界へ持って帰れないのでしょうか。

それは、次元の違いとともに、この地上界の、もっとも粗悪な物質界と、調和された精妙な霊囲気に包まれた高次なあの世の世界との差といえるでしょう。

私達の肉体は、いつか病み、老い、そして死んで行き、大地や空にもどってしまうものです。

観自在菩薩は、そこで、次のように説かれているのです。「このように、私達の五体五官の煩悩が、心に作用し、正しい基準、片よりのない中道の物差しを忘れ去ってしまったため、一切の苦しみや災難厄難、つまり一切苦厄の、原因になっている。

それを見とどけることができるのだよ、舎利子よ」と。

舎利子という人は、ゴーダマ・プッタの右腕ともいわれた、サロモン(修行者)です。

しきふういくう くうふういしき しきそくぜくう くうそくぜしき

色不異空。 空不異色。 色即是空。 空即是色。

色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なりと読みますが、これは、万人に知られたあまりにも有名な経文です。

とは、私達の眼で確認できる万生万物のことをいっているのです。

肉体もやはり。です。すなわち肉体舟とその船頭である意識、その中心である心とは、この地上物質世界においては、切り離して考えることはできないのです。
つまり、肉体は心の表現体ということになります。
形のあるものは時の流れとともにいつかは崩れ去ることで色不異空となり形のない世界へと変化をしていくものであり、形のない状態から空不異色と時を経て造られてくるものです。
つまり、色即是空であり空即是色と同義の意味を表現しているものです。

仏教は、時代とともに、人間の手によって、むずかしく哲学化されてしまい、心と行ないを失ってしまったが、これは末法の信仰である。

他力本願しかり、教団仏教しかり、まつり仏教しかり、写経しかり、読誦しかりである。

神仏の喜ぶのはただ、心の美しい人々の正しい行為なのである。

人々が、これをなすことが仏教の本来の姿なのである。

しかし、仏教ではの理論が解れば教義の全部が解明されたようなもの、といわれるほど、その意味はむずかしいようです。
を、「むなしいものだとか、あると思えばなく、ないと思えばある」と説いている学者や、その道のプロ書いた著書が多く見当たりますが、果たして人々は、こんな説明で理解できるでしょうか。私には理解できません。
おそらく書いている人にも真の意味は解ってはいないのではないでしょうか。
「色心不二」という言葉があります。天台大師の説かれた、法華経の中にある言葉ですが、この中の、は、仏教の解説書にでてくるような、むなしいものでしょうか。
違います。そして、この心の在り方を、一念三千と教えています。
一念三千とは、私達の心は無限に広く、自由自在に変化することをいっているのです。
仏教を哲学化した人々によって、むずかしく説明されてしまったといえましょう。
私には、彼らが心を失った頭脳プレーを楽しんでしまったように感じられます。
心と行ないを失ってしまったものは仏教ではないでしょう。まして他力本願の信仰においてはなおさらです。
このような仏教を末法といい、人の心はおろか地獄界に堕ちた人々など救済することはできないでしょう。

他力本願の張本人達は、形にとらわれていますが、拝む偶像は、飾りけのない質素な、執着を離れている姿を浮きぼりにしてある如来像です。

それなのに、勤行とかいう旧来の因習を踏んで、金ぴかの袈裟に自分の身と外見を飾っているのはどういうことでしょうか。

私は、疑問を持つ一人です。またこちらが本山だ、いやあちらが本山だ、板曼陀羅は本物だ、いや偽物だと争って、莫大な金を狂信者、盲信者から集め、神の身体の一部である地球という大神殿にあきたらず、不浄の金で豪勢な建物を山中に作ったり、本堂を作ったりしている不自然な教団や僧侶もいます。

こんな物を作って、神仏が本当に喜ぶでしょうか。

喜ぶとしたら、それは、地球という三次元の世界に執着を持って、狂信者や盲信者の心をあやつっている悪魔か動物霊達の仕業である、といっておきましょう。

神仏の喜ぶのは、心の美しい人々の正しい行為なのです。

もし金かあるなら、それを大衆の幸福になるよう放出して、救済に当てることが、本当の布施であり、菩薩行というべきです。

布施をしないと、狂信者や盲信者には罰が当たると脅迫している者もいるが、そんな馬鹿なことは絶対ありません。
太陽の熱や光のエネルギーは、貧乏人だからとか、金持ちだからとか、地位とか名誉によって、差別しているでしょうか。
神仏は、人によってえこひいきなど決してしません。もしそんなことをするとしたら、それも、悪魔に取り憑かれた教祖や、その教団の指導者や動物霊達の仕業以外にないということを知るべきでしょう。
八正道を、生活の柱としている心に曇りのない人々は、神仏の光明によって満たされているものです。
罰というものは、自分の心と行ないが中道の生活から逸脱したとき、その暗い想念や行為が生み出し、一念三千の心の針が暗い地獄界に通じて現象化するものなのです。
つまり、自分で作り出した災いだということだ。
原因はあくまで自分の中にある、ということを知らなければなりません。不調和な恨み、嫉み、怒り、争い、増長慢、自我我欲、自己保存などの心を持っている人々の心は、地獄界に通じ、心に安らぎはなく、肉体的にも不調和になってしまうでしょう。

悪へ片寄った心と行ないをしているから自らが招く禍(わざわい)なのです。

原因と結果の法則、つまり作用と反作用の法則というわけで、このことを考えれば良く解ることでしょう。

常に慈悲深く、愛に富み、勤勉で、偽りがなく、感謝の心を持って、報恩の行為を実践している者達の心は、常に光明に包まれているのです。

このような私達の生活の中に、天上界の光の天使はその人々の幸福のために協力をしてくれるのです。

逆に、心の不調和な人々には、地獄の魔王や動物霊達、未浄化な人霊たちが関わり、不幸な人生へと誘惑をしてきます。どちらを選ぶかは当人次第ということです。

気違いやノイローゼになった人々が、今までの人格か変わってしまうことがあります。

これは、地獄霊の仕業で、憑かれている不調和な人々の意識を支配してしまうからです。

これにも、原因と結果の法則が存在していることが解ったら、自分の不調和な心と行ないを修正する以外にはないでしょう。

すべて作用だ、ということです。

そして、太陽を始め、大自然は、大宇宙の摂理、秩序という神仏の心の表現体ということになるでしょう。少し科学的に説明してみましょう。
この現象世界における太陽は、一秒間に宇宙空間に、約二百万トンの石炭を一秒毎に燃焼しただけの熱エネルギーを無料で供給しているのです。
地球生命はその恩恵を受けることで存在しています。

この熱エネルギーによって、水は蒸発して大空に、そして冷却されて陸地に雨を降らせています。

このために植物は成長し、緑色の植物は、二酸化炭素CO2を水のH2Oとともに吸収し、光合成によって澱粉、蛋白質、脂肪、糖分などを作り、動物の肉体保存のエネルギーを提供しています。

動物の排泄物や、その他の物を、植物はまた土壌から吸収して、相互関係を保っているというわけです。

この様な姿こそ神仏の姿の現れではないだろうか。

もし、太陽がなかったら私達は生存できるでしょうか。

植物の呼吸作用によって酸素が出され、また私達の呼吸作用によって、炭酸ガスが出されています。

空中で二酸化炭素CO2となって、これを植物は吸収し、動物は酸素O2を吸収しています。

酸素が欠乏したら、動物は生きていられるでしょうか。この相関関係も、宇宙の摂理と秩序という神理によるものです。

それを、生活の知恵を作り出した物質文明が、酸素を汚染して、硫化物や窒素化合物を生み出し空間を汚しています。

光化学スモッグは、人体はおろか、植物にまで悪い影響を与えているではありませんか。

人間が心を失って、足ることを忘れた物質文明が、自らの首をしめる結果を生んでいることが、このことでも良く解るでしょう。

利益の追及、労使の闘争、報恩感謝の心を失った人間の、どこに神の子としての心があるといえるでしょうか。

精神公害もまた同様です。

多くの宗教は、他力信仰で人間の心を、誤った神仏の名のもとに束縛しているではありませんか。

教祖と、その一部分の指導者が甘い汁を吸って、大衆は犠牲になっている。

不浄の金で、彼らを養っている、そんな成立の形に本当の宗教はありません。

その教えは、阿片よりおそろしいといえます。

神仏の名のもとに、金品を強要するような指導者は、偽善者です。

金は、生きているときしか使えないものだし、もし、あまって使い道がないのなら、社会人類のため、そのときこそ相互に布施し合って、貧しい人々や、不具の人々や、老病の人などを救うべきでしょう。

あの太陽のエネルギーを、無償の行為と観じたとき、私達は、報恩の心を持つべきなのです。

一人一人が、そうした心を持ち得れば、地上の楽園は築かれていくのである。

感謝する心は、報恩という行為によって輪廻しているということを、忘れ去っている人々の
何と多いことでしょうか。

労使の不調和な闘争は、この心の欠如の最たるものといえましょう。闘争と破壊、これが相互の首をしめてしまうということを、やがて人間は悟るときがくるでしょう。

その為にはまず、家庭から調和することが先決である。

家庭の調和無くして外ずらを良くしても真の調和となることはない。

これまでの仏教に関する解説書は「仏」という言葉が出てはきても、「神」という言葉が使われることは殆どありません。

しかし、大宇宙の営みを観ずるときに「神」を外して記述することはできない。

次回は、

受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不・・・・・と解説していきます。

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