他力本願&自力本願
他力本願という他力信仰・依存信仰
身体症状に対して、あるいは精神的な問題、疾患についても内科や精神科でもまったく改善されなかったからと、最後の神頼みとばかり霊能者のハシゴをするケースは実に多い。
勿論、ただで対処するはずもなく、数万から数十万、なかには数百万という大枚をはたいたがまったく改善は成されなかったという相談者が後を絶たない。
私個人でもそういったケースの相談が多いのですから、全国規模で考えたら恐ろしいほどの数になるのではないだろうか。
欲望だらけの霊能者は言葉巧みに扇動し、救うどころか逆に迷走させることで依存心を植え付けてしまい、不必要なことを行わせ、お金を巻き上げるというやり口は実に美味しい商売なのでしょう。
何代前の先祖が云々と誰も知りようがないこと、水子が云々と言いだしたら要注意である。
こういう輩(やから)は間違いなく末は地獄の底に身を置くことになるだろう。
ここで敢えて申し上げておきたい。
自分のこれまでの生き方を省みることもなく、あるいは自分自身に根本的な原因があるにもかかわらず、外に原因を探してそれを何とかしようとしても事態が好転することはないでしょう。
病気の問題然り、家庭の問題然り、人間関係然り、仕事の問題然り、精神疾患然りです。
他力本願(他力信仰・依存信仰)によって、現代人の心が救われることはないいと。
これは霊能者が云々の問題に限らず、仏教系、神道系、キリスト教系、その他の新興宗教すべて宗教においていえること。
例えば、法然や親鸞、日蓮の時代における人々の心は、権力に反抗できない無学、無智な者がほとんどであり、当時は南無妙法蓮華経や念仏を唱えさえすれば救われるという他力の中で、神仏の存在を知らしめ、生死の苦しみを離脱させる以外に救うことができなかったのである。
しかし果たして、神仏に己の心と身の一切を委せて悟ることができるであろうか。
祈ることのみによって本当に救われるであろうか。
己の心を無にして悟れるであろうか。
否である。
何故なら、それは神仏の存在を漠然と知るというだけの方便にしか過ぎず、悟るということは決して心を無にすることではなく、先ずは心に偏りがなく、どのような条件下においても理性と知性をもって客観的に自分を観れるところからの出発点である。
念仏を唱えて神仏に任せるということを超えて、先ずは、己自身の心の状態を知る事、自身の心に執着があることに気づいたならば、それを修正するために心の調和を図るべく、学びと実践をしていかなければ、心の苦悩も安楽な生活にもなりようがなく、ましてや悟りなど到達するはずもない。
人間は自らの意思で生きるように創られた生命体であって、ロボットではないということだ。
他力依存の心によって己自身を失っては、人間としての心の修養目的を果たすことはできないのである。
それは、偏りのない、正しい心と正しい行為の実践の中にこそ、真の調和が生まれてくるものだからです。
神仏に対し、生存し、心の修養ができる環境を与えてくれている、一切の万象万物に対し、感謝するとともに、報恩の実践をすることこそが菩薩心の現われといえる。
私達は、ややもすると他力本願(信仰、依存)という自己保存に陥りやすいのである。
正しい目的に対する想念の一念力は、努力と勇気によって生まれるものであり、己の逃避と自己保存のお題目や読経によって自分自身も人類をも幸福に導くことはできない。
それを体験した人たちからの問い合わせが、何よりも事の真実を物語っている。
大宇宙自然界に対して感謝し、人々に対しては報恩の実践行動することによって調和が成り立つのである。
だからといって仏像やご神体を祀(まつ)る必要などまったくないのである。
否、祭ってはならないし、祀るほどに真実と神仏の意識から遠ざかるばかりであるということだ。
私達には必ず生まれた瞬間から一人の守護霊が、どなたにもついてくださっているのであって、決して霊能者が『霊格の高い守護霊をつけてさしあげます』『霊格の高い守護神をつけてあげます』というように、誰かが後付けできるようなものではない。
このことは何人たりとも変えることのできない大宇宙の真実であり、仕組みなのであり、私たちが自身がそういったことを望むことが如何に愚かしいことであるかを知らねばならないのです。
常に己の心に問う生活の中にこそ、真に神性仏智を悟る道がある。
己の心を失った信仰は、正しい法の信仰とはいえないのだ。
私達は、守護霊という生命に必ず保護されているし、各人の心の調和度によっては指導霊がついている。
こうした霊に対しても心からの感謝が必要であり、その一切の協力の事実をほとんど忘れて、あるいは気づいていないから気づきが遠くなっているのである。
自分自身が求めようとする努力、その結果によって、心の世界の門戸は開かれて行くということを忘れてはならない。
また私達は、偽りの指導者の言葉や、神理を悟っていない予言者の予言などに心を惑わしてはならないし、占いなどに一喜一憂すべきではない。
相談者が質問すれば逆切れする霊能者や教祖もいるが、神仏のお告げといって予言をしたり、お札を買わせたり、お守りを強制したりする霊能者や指導者や教祖に心を売ってはならない。
彼らの指導や教義に対する吟味と、常日頃の行為を観察して、師に足る人であるかどうかを正しく思念して定めなくてはなりません。
決して己の心まで彼らに売ってはならない。
己の心は、無限の生命と宇宙を統べる意識に通じている己自身の王国である。
その己自身の心は、誰も侵害することはできない。
その王国を第三者に売り渡してしまうため、人々は自分を失い、努力することを忘れ、他力本願という依存型信仰に迷走してしまう。
神仏は自ら信じるその心の内に存在するものであって、神社仏閣や神棚、仏壇に座すものではないということをしっかりとご理解いただきたい。
努力する行為によってのみ、力も恵みも与えられるのである。
そしてその力に対する守護、指導霊の協力は常に存在している。
すなわち自力によっての努力があってこそ他力に通ずることは、原因と結果、作用と反作用という大宇宙の真理であるということだ。
人間のわずかな、小さな分別によって造られた物や建築物に神仏がいるのではない。
あの世の上段階光の大指導霊(如来)や、光の指導霊(菩薩)達は、物質経済に束縛されている人類に対して、勝手気ままな命令や、無から有が生じるような人間都合的な約束は絶対にしないものであり、己自身の努力なくして自己保存の祈りやお題目を上げるだけで、私達の幸福は得られるものではないということです。
祈ることのみによって救われるとか、ご神体を祀らせたり、何代前の先祖が供養を欲しているからこれこれの方法で供養しなさいとか、こういう約束をさせる霊能者や教祖や指導者に、私達は気をつけなくてはならない。
私たちは、自我の智と意によって、欲望や失望の解釈をしてはならない。
ということは物事を判断するときは常に自分本位ではなく客観的な視点から判断する習慣を忘れてはならないということです。
その原因と結果に対する思慮の中からこそ、はじめて正しい判断は生まれてくるのである。
神仏の使いのごとく自称し、そういった言葉とは裏腹に私達の心に安らぎを与えない、信徒たちの心の成長もない、読経や念仏、あるいは祈りだけの他力本願を植え付ける指導者や教祖達は、低級霊や動物霊に支配されていたりする。
また無智や偏見によって、神仏を信ずることがなくこの地球上にとり残されている、地縛霊や地獄に支配されている人々、これらに私達は迷わされてはならない。
悪霊や動物霊に支配されていることによって、その霊の影響で霊視をする者や、一時の予言をしたり、病気を治すようなことができても、より不調和な、暗い霊域に、私達の心を下げてしまうからである。
このような偽善者は、常に言葉と行為に矛盾が生じるから、その矛盾に対しては冷静に且つ即座に正しい解答を得なくてはならない。
ましてやこのような人々は、神仏と表裏一体の上段階光の大指導霊達と交信することなどできようはずがないのだが、こういう人に限って自分は仏陀の生まれ変わりだとか、メシアだとか言って自己主張を繰り返すものだ。
なぜなら、正しい法を悟った生活の中でなければ、心の調和がとれないからである。
何でもかんでも無分別に盲信する心は、はなはだ危険であるということを悟らなくてはならないのだが、何かにすがろうとする人たちほど狂信してしまう人間の弱さ、愚かさがある。
神仏は、己の心の内に存在していることを信じなくてはならない。
物質や型にとらわれてはならないのである。
決して偏りのない中道の心は、教義や指導の矛盾に我慢することではなく、正しい見解の中から正しく語ること、行うことの中に存在しているものなのである。
意志は、石のようにしてしまっては必ず歪みを造り出してしまう。
意志は常に柔軟に保って、正しい生き方の実践によってこそ悟りの一歩は開けてくる。
その行為の中で潜在意識の90%は無限大の智慧を悟り、自分自身を悟り、転生輪廻の法則を悟るのである。
肉体を持っている私達の意識は、悟りの境涯によっては見上げるほどの光子体(霊体)となってそれぞれの肉体を支配している。
また自力の調和度によっては、肉体から抜け出した光子体(霊体)とともに、次元の異なった世界に行くこともできる。
本来のあの世は安らぎのある世界であるが、しかし、低段階の世界と上段階の世界では、その霊域に、雲泥の差のあることが歴然としているのである。
低段階の世界となると、やはり自国的環境に閉じこもり、自己主張的な世界になっている。
さらに地獄界の人たちの心は、人を信じることもできず、一見、調和されているかに見えても、自分自身のことになるといがみ合うという自己保存の世界であり、安らぎなどはほとんどない。
地獄の王の権力によって支配され、心からの自由の存在はなく、平穏な生活を営むことのできない世界である。
自分自身の心を失った人々の住む不調和な世界で、慈悲も愛も存在していない。
そのような人々の心が造り出している世界なのである。
だがこうした人々も、その環境の中から反省が芽生え、いつの日か光の天使によって救われて行く。
四次元の世界は、地上とは逆に潜在意識が表面に90%出ているため、反省に対する反応は即座に現象化され、光子体(霊体)の光子量の差が反映されて出てきやすく、調和への速度も常に早い。
私たちの心の調和度は、死後に肉体に出て、それぞれの心の境涯、すなわち魂のステージに適応した世界へと進んで行く。
このように、霊界と一口に言っても、不調和な世界は相当数の段階があり、また上段階も大別されている。
天上界の上段階以上は、天使、光の天使、上段階指導霊、上上段階光の大指導霊と世界が分かれ、調和に比例した社会が構成されている。
この地上現象界は、あたかもあの世のから投影されている立体映画のようなものである。
つまりは、あの世もこの世も、肉体の構成に相違があるのみであって、その中心の魂は変わらないものなのだ。
転生輪廻における、この現象界である地上の肉体という衣と光子体(霊体)の違い、環境の違いだけなのである。
もっと厳密にいうならば、意識、すなわち魂は、生まれることもないし死ぬこともなく、増えることもないし減ることもない、それが本来の姿なのだ。
般若心経の不生不滅、不増不減という一文がそれを示している。
生まれるという言葉は、お母さんから赤ちゃんが生まれるという表現として理解はできるが、死んであの世に返ればあの世の人たちからすれば誕生でもあり、お帰りなさいである。
私達はその輪廻転生の本質を良く知り、この世的な偽りの自己表現や、偽りの神仏の信仰、偽りの判断は避けるべきで、真実の法則が全ての生命の循環のなかにあることを知らねばならない。
それは、我欲のままの偽りの人生が、自分自身の心に苦悩を背負わせることになるからである。
苦悩の本質は他によることの影響ではなく、己の心から発生するものであり、己自身によってのみしか解放できないものだ。
私達は、自分自身の支配者である心を正しく築き上げ、あらゆる現象にとらわれない不動の心を持って、自ら造り出した心の重荷を捨て去ること。
これによって安らぎと平和な環境を造り出すことができるのである。
私達は、旧来の因習を破り、己の心に存在する神仏なる 心”を信じ、その王国に秘められている宝庫を、自らの努力によってその門戸を開かなくてはならない。
宿命論や無益な論争を避け、混乱せる己の心の誘惑に打ち克たなくてはならない。
正しい生き方、法則にもとづいた実践生活の中からこそ、正しい心の制御装置が造り出されるという真理があるからである。
正しい法は、他力信仰、他力本願にあるのではなく、己自身の心の内にあることに目覚めなくてはならないだろう。
次回は『彼岸の瞑想・親の姿&子の姿』25日に投稿予定です。
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