中道(偏らない心)

瞑想
お互いが両極端なものの見方から離れて冷静で素直な心になったならば、何が正しいか正しくないかという区別がはっきりし、家庭でも社会でも共同生活の秩序が高まってくる。
ハッキリさせないと嫌だということで白黒つけるのではなく、一方的な考えを押し通すのではなく、お互いが謙虚で素直な姿勢で臨むならば、いわゆる正邪の区別というものが自ずとハッキリしてくるのではないだろうか。
互いの利害や感情にとらわれず、偏見から離れることによって冷静に客観的に物事の正邪を判定することができるようになるからである。
しかし、お互い人間というものは、ややもすると、自分の立場であるとか、利害、感情といったものにとらわれて物事の是非を考え、判断するという姿に陥りやすい。
例えば、人に親切にすることの是非を問われれば、誰もが『親切にすべきだ』つまり、是と答えるでしょう。
ところが、それでは日頃から仲のよろしくない相手に対しても親切にするかというと、それはちょっとできにくいところであろう。
むしろ不親切にしているという気持ちに陥りやすいのではないでしょうか。
そしてそれが誰もが陥りやすい姿であるだけに、ふつうはその非を指摘する人はほとんどいないのではないかと思われます。
つまり、正邪の区別がアイマイにされがちになってしまうわけです。
けれども、お互いが偏った考えをやめ、冷静で素直な心になったならば、人に親切にすることの正しさが深く心に落ち、仲のよろしくない人に対しても同様に親切にすることが正しい、という判断が生まれ、それが実際の姿、行動にもあらわれやすいだろうと思います
すなわち、仲の良し悪しといった、いわば個人的な感情などにとらわれることなく、正しいことは正しい、と素直に判断でき、行動できるわけです。
そして同時に、正しくないことは正しくないこと、不正なことは不正なこと、というように偏りがなく、正しく判断できるのです。
ところが、この正しくないことを正しくないことと判断するということも、お互いが偏りのない素直な心をもっていない場合には、なかなかできにくい場合が多いと思います。
たとえば、お互い人間は、肉親に対する愛情、友人に対する友情といった好ましい心の働きをもっていますが、しかし、それにあまりとらわれるということになると、肉親や友人の不正を不正として判別できにくくなる場合もあるのです。
ある事例ですが、自分の子が犯罪を犯した場合でもそれをみとめようとせず、むしろ『それは他人や社会がわるいからで、責められるべきは社会だ』などと一方的に主張する親がいたケースがあります。
これなども、まことに気の毒な同情すべき姿ではありますが、しかし、情愛に偏りすぎたために冷静さを失った結果として、正邪の区別がつかなくなってしまった一つの姿といえるのではないだろうか。
そして、このように正邪の区別がアイマイになってしまった場合、どのような状態が起きてくるのかというと、それはお互いみんなが、何が正しくて何が正しくないかという点について迷いをもつようになり、その結果、改めるべき姿も改められにくくなるとか、また、為すべきでないことも抵抗なく為されるようになったりもしかねないわけです。
しかし、そうなれば、お互いの共同生活というものは非常な混乱に陥るとともに、さまざまの好ましからざる状況が生じ、自他ともに不幸な姿を招くことになってきます。
したがって、やはり正邪の区別というものをはっきりさせるということが非常に大切なことだと思うのですが、正邪の区別というものは、お互いが偏りのない素直な心になったならば、おのずとはっきりしてくるものであります。
たとえば、今の親の例にしても、もしも仮にこの親に素直な心が働いていたとするならば、わが子の罪はみとめたくはないし、他人や社会に悪い面もあるとは思うけれども、しかしわが子に対する愛情で目がくらんではいけない。
身を切られるほどつらいけれども、罪は罪としてみとめよう。
そして深く反省を重ねて、よりよき今後のための対策を考えよう″といったような態度をあらわすのではないかと思うのです。
なぜなら、素直な心になれば、みずからの感情にとらわれて事を判断するのでなく、何が正しいかをしずかに見つめて判断するようになると思われるからです。
こういうことを中道(偏りのない心)というのです。
したがって、世のお互いがともどもに素直な心というものを養い高めていったならば、もちろん互いに相手をゆるしいれるという寛容さは保ちつつも、みんなが正しいことと正しくないことの区別を、とらわれのない心で判断するようになっていくでしょうから、世の中のあらゆる面において、正邪の区別がはっきりし、それぞれが責任ある行動をとるようになるだろうと思います。
そうすれば、お互いに、なすべきことは大いに行ない、なすべきでないことは極力行なわないといったような姿もおし進められ、共同生活の営みというものがきわめて高い秩序のもとに、好ましい姿において進み、日に新たに向上していくことにもなるのではないでしょうか。
このように、お互いが素直な心になったならば、正邪の区別がはっきりするといった、まことに好ましい姿が生まれ、高まってくるだだろうと思のです。
次回は10日 木曜日に小さな記事をアップいたします。
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