ほんとうの自分

霊体

それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って私たち人間は肉体のことはおろそかにはしていない。むしろ甘やかしすぎといえるかもしれない。

体に必要以上のものを与えています。人間が文明と呼んでいるものは、実は不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

日本もかつては公害問題で大気が汚染された時期があったが、今また中国の公害問題が相当に深刻な状況にある。

日本はいま、工場などの排煙を浄化する技術を中国に提供しようとしている。

呼吸器系の疾患で病院に駆け込む患者の数が増え続けているというニュースをきいた。

中国の車、1億台が品質の悪いガソリンから吐き出す排気ガスが問題となっている。

さて本題にはいりましょう。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。

衣食住にこだわり執着するほどに自己の本質を見失うのが私たち人間の姿でもあろう。

厳密にいうと慣習上、必需品となっているだけです。いわゆる贅沢思考である。

私は決して肉体とその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではない。

肉体は魂(霊)の大切な道具です。人生という航路を全うするために必要な乗り船です。

ですから肉体的本性が欲求するものを無視するようにといっているのでもありません。

私は一人でも多くの人間に“正しい視野”をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいと願っています。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでる人が多すぎます。

本当は“肉体を具えた霊的存在”なのです。順番が違います。それとこれとでは大違いです。

無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは相談者の不必要な心配です。

そして人の目を気にし過ぎる癖は自らを疲れさせ、やがては身体を蝕んでいき、うつ病になったりパニック障害を患ったりしている。

大きな目標を見失い目先の出来事に振り回されている人たちは、過ぎたことを引きずり、先のことに不安をもち、いまの自分を苦しみの中に追いやっています。

その根底にはいつもエゴがある。思い通りにいかないことに悩み、無理な欲求を満たそうとする自我心、他人の目を気にし過ぎて無理な迎合をして疲れる。悪く思われたくない。良く思われたい。

しかし、今いる環境の中で咲くことを受け入れると楽に生きられるのです。

そのような理(ことわり)に気づくことは叡智であり、大自然の意識とつながるものです。人間は自然のように生きなければならない。

宇宙の唯一なる意識は無限なる叡智と無限なる愛であり、人間の理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちた宇宙の営みが、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され規制され維持されているのです。

その摂理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。

変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。それが自然の法則です。

いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な意思と構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

野の花は誰に知られることがなくも、置かれた場所でその命を最大限に表現しています。その野の花にも宇宙の営みと意識をみることができますか?

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きまわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸(ちじく)を中心に回転することによって季節のめぐりが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る。この、いつの時代にも変わらない〝きまり〝こそ神の働きの典型です。

麦がこぼれたら、それは数百倍、数千倍の麦をもたらし民(たみ)の糧となるように、正しい理は人々の心に宿り、生きる灯となるでしょう。

正しい理とは過去にも現在にも、そして未来にも変わることのない営みとしての法則に沿った心の在り方をいう。

それは決して偏らない中道の精神、つまり、調和された、バランスのとれた想いであり、言葉であり、行いである。

このような思念は唯一なる意識と共鳴し、同調する生き方であり、あらゆる困難を乗り越える力となるだろう。

唯一なる存在は絶対にしくじったことはない。私たちの方から見放さないかぎり唯一なる存在は人類を見放すことはない。

しくじるという言い方はいかにも幼稚にひびくかもしれないが、人間が不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏がえせば絶対的叡智に対する信じる心が不足していることを意味し、分かりやすく表現するためにしくじることはないと言ったのである。

私は、すべての人に正しい本当の視野をもっていただきたいのです。

そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何かしらの役に立つことを知ります。

その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。

そのさ中にあってはそう思えなくても、それが真実なのです。あの世の住人となったときに改めて暖かいエネルギーに満たされた愛のある環境に歓喜し涙することになる。

私たちの誰もがいつかは4次元の世界へ旅立ちますが、事の真実に気づかされるのはそういう間違った思考や暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、魂の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。

こうした記述はあなたにとって比較的新しい言葉であり真理でしょうが、これは宇宙の真理であり、また多くの側面をもっています。

まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探究の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。

ただし、盲目的に鵜呑(うの)みにしてはいけません。

あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶してください。

理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れることです。

何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。

私も誤りを犯す可能性はあります。心に湧き出るものを精査して記述はしますが、うっかりミスを犯すこともあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。

私の健康状態、潜在意識の中の思念、かたくなに固守している観念などが伝達を妨げることもあります。肉体を持っているということは障害ともなる場合があります。

私のこれまでの人生で知り得たこと、信じるに足るだけの内容に限ることをこうしてお知らせしたいと思うわけです。

私が知り得たことはごくわずかなことでしかありません。

私が知り得た知識と知恵をこうしてお知らせするのは、代ってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。

宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。

私は自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞もいりません。

崇めてくださっても困ります。

私はただの媒体であり真実の伝言役にすぎません。

自分ではその役目にふさわしいかどうかはわかりません。

しかし、心の内から突き動かされてやまないのです。

私は力のかぎりその遂行に努力しているところなのです。

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斧を見なかった木こり

木こり1

我が家では冬の暖をとるのに薪ストーブを使用している。そのために春から秋にかけて木を間伐したり、営林署の間伐丸太をもらいうけたり、その丸太をチェンソーでスライスして、それを薪割り機で程よい大きさに小割りして積み上げていく。

私にとっては、斧(おの)もチェンソーも欠かせない大事な道具である。使うたびに刃砥ぎをしていつでも使えるように、切れがいいように手入れは欠かせない。

この一連の作業は私にとっては自然と対峙できて汗を流せる楽しい時間である。

「私は、木を切るのに忙しくて、斧(おの)を見る暇がなかった」

一人の実業家が、定年後に語ったというこの言葉を、私は自戒の言葉として受けとめています。

寸暇を惜しんで、他人よりもよい木を、より速く、より多く切ることに専念し、生産したこの人が、仕事をしなくてよくなった時に見出しだのは、刃がボロボロに欠けた斧でした。

林業に携わる者にとって斧は最も大事な道具であり、自分自身でもあるが、木を切る手を時に休めて、なぜ、斧(自分)をいたわってやらなかったかを悔やんだ言葉ではないだろうか。

人は多くのものを求め、満たそうとしてひたすら働くのですが、例え、全世界を自分のものにしても、自分自身を失ったら、何の益があるだろう。

働きにおいては、大きな成果を挙げたとしても、木を切っていた斧である自分自身が、その間、心身ともにすり減っていたとしたら、本末転倒ではないだろうか。

どれほど一生懸命に働いたとしても、その働きの根本に執着という動機があれば自己を見失ってしまいかねないということだ。

『大言海』の辞書によれば、「ひま」はレジャーとしての暇ではなく、「日間」、日の光の射しこむ間と記されています。

私たちの心が、働くことでピッシリ詰まっている時、そこには日の光が射しこむ隙間がありません。忙しさには、字が示すように、ぼし、ゆとりを失わせる危険が伴います。

ある学院長が告白しています。『時折、学生がノックして部屋に入ってくることがありました。「いらっしゃい」と迎えるべきなのに、仕事に追われている時など、つい「何の用」という言葉で迎えてしまい、「別に用はないんですが、ちょっとお話ししたくて」と、すまなさそうに部屋を出てゆく学生の後ろ姿に、何度「ごめんなさい」とつぶやいたかわかりません。』と。

「働き」そのものはすばらしくても仕事の奴隷になってはいけない。

いつも木を切る斧を磨き油をさし、いたわる日間を忘れないでいたいと思う。

働くことはすばらしい。しかし、仕事の奴隷になってはいけない。

きちんとまわりが見えているだろうか?

心にゆとりがないと自分も他人もいたわれない。

心にゆとりを持つということは、必要以上にこだわりを持たないこと、自分の欲望を満足させるための執着は持たないことができていること。

斧を見ることがなかった木こりは、斧ではなく自分自身を見ることをしなかったことに気づいて悔いたのです。

私たちは衣食住のことに、より豊かさを求めてその為に働くことに一生懸命になるのですが、木こりのように自分自身を省みることには心配りしない傾向があります。

物やお金の事には努力するのですが、休めることや心磨きに努力する人は本当に少ない。休めるというのは惰眠(だみん)のことではない。

心磨きは日々意識しないと進歩はできないものです。

勝利者が勝ち取るものは敵意である。

敗れた人は苦しんで萎縮し、

心穏やかな人は、勝敗を捨てて

安らかに過ごす。

社会は、日常の暮らしを戦いの場にしています。

幼稚園の入園試験なども、子どもたちに、もう生きるか死ぬかと言うような戦いを強いている親もいる。そして競ってブランドに身を飾る。

ただでさえ、苦しむことがいっぱいあるのに、そんな余計なことまでして、苦しみを積み上げているのです。

それはあまりにも不幸な生き方です。わたしたちは「どうでもいいこと」に拘り、執着し、何とかして相手より優位に立とうとしたり、自分の強さや正しさを誇示します。

いちばん難しいことではあるが、己を知る人こそ真の勝者であろう。

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真実の言魂

言霊

暦のうえでは春とはいっても我が家の宅地にはまだ雪が一メートル以上はある。

雪が溶けて春一番に姿をみせてくれる福寿草の黄色く小さな花が楽しみだ。

福寿草は何年経っても福寿草として花を咲かせるが、ひまわりにはならない。

人間は何年経っても人間であり猿になることはない。猿が人間になることがないようにである。

人間は、この地上に人間として誕生されたのであり、ダーウィンの進化論のように類人猿から現代の人間に進化したとは考えていない。

このことを理解できるように説明するためには一冊の本になるくらいの記述となるだろうから、この場では割愛させていただく。

類人猿から人間になるなら、何故ゴリラや猿はそのままで人間にならないのか。

罪を犯せば犬になるとか、猫に生まれ変わるとかいう霊能者もいたが幼稚極まりない話しである。

ただ、知恵ある人間であるがゆえに、動物以上の欲によって苦しむのが人間であろう。

心がこの地上生活の様々な快楽を求め楽しめば、迷いと苦しみが生まれ、心が正道(偏りのない生活)を好めば、悟りと喜びが生まれてくる。

それには、八正道(八つの指針)の実践によって己自身の本性を悟ること、愛と慈しみによって人々に対する菩薩心の行為をすること、より心を浄化して安らぎと平和な社会を造り出すこと、それらを実行することである。

そのためには、執着を持たないことが必要だ。

肉体は人生という航路の乗り船にすぎず、いつかは捨てて去るべきものである。執着はすべて苦しみの因と悟らなければならない。

私達の意識、魂は、常に一定の場所にとどまることなく移り変わっており、すべてのものは、宇宙唯一なる意識の仕組みによる因と縁によって成り立っている。

そして循環の法則である転生輪廻の法に従っている。

心に生ずる悪の原因を摘みとり、現象化された悪の結果を良く反省し、その原因を除かなくてはならない。

善根を育て、正しい生き方を信じ、正しい想念と行為を実践し、常に反省の中から心を正道(調和された生活)に統一することによって、偉大な智慧の心は開かれて行く。

は、育てることであり、その慈の心をしっかりと修めることにより、むさぼりの心を断つことができる。

は、かなしみ助けることであり、相手の立場に立って中道(偏りのない生き方)の判断を忘れず、悲を修めることによって怒りの心を断つことができる。

は、他人の喜びを自分のことのように喜ぶことで、自己と他人にとらわれる心を断つことができる。

は、自分でなした行為の報いを求めず、また恩に着せず、恩と怨みのいずれの人に対しても差別をなくすことによって、とらわれの心を断つことができる。

その結果、人々に幸福と楽しみを与えることが慈悲であり、すべてに平等でへだたりをせず、人々に歓喜の心をもって向うこと、これが喜捨の精神である。

しかしこれを育てて煩悩に打ち克つことはむずかしい。同様に、正道を修めることは容易ではない。

正しい道を行くということは、人生の上での想念行為の一つ一つの積み重ねである。そしてその中に、不動の心は造られて行くということです。

私達がこの現象界に生まれてから経験した知識や、学校で学んだ知識というものは、より良い人生を送るための体験でなくてはならない。

しかし、たとえ人生経験の時間が、六十年になろうと八十、九十年になろうと、魂生命の永い転生輪廻の過程から見れば、一瞬の線香花火に似た、短かい経験にしかすぎないのが人生である。

人間は、永い転生輪廻をしている魂であり、その潜在意識の宝庫には、過去世において体験しておきた偉大な智慧が埋蔵されている。

この智慧も、人生航路における目的のための、私達の努力に、直感、インスピレーションや霊感となって現象化されるものである。

さらにこの偉大な智慧の宝庫を開く方法は、自分自身の心の鍵による以外に道がないのが人生である。

この鍵は、真理にもとづいた想念と行為であることは、幾度も説明している通りである。

この地上生活における現象界で学んだ知識は、ややもすると自己保存というエゴ(執着)のための道具になりやすく、またこれに溺れやすいのが人間でもある。

そうした結果、学歴やペーパー試験によって、人間の価値が判定されてしまい心が失われていても、試験が通れば社会的地位が与えられ、地位を得た者の中には権力の座について悪徳を貪る者もいる。

またそうした権力者と組んで利欲に関係する者など、自己保存をして他人のことなどかえりみない人間もいる。

しかしそういう人間も、権力の座をひとたび下りてしまうと、陸に上がった魚のように人生の無常を知ることになろう。

ちやほやしていた取り巻きも、いつか遠ざかる。腐敗した肉に集まる蛆(うじ)のような心を持っている人々も離ればなれになって行き、悪徳業者達は新しい相手を求めて散らばる。

人間のつき合いは、このようなものであってはならない。このような現象は、社会の指導者が外面的判断で人間の価値を決めてしまったために造られた心の歪みである。

現代の価値判断による学歴や知識がなくても、社会に出て一人前になり、ある者は職人となり、ある者はその道のスペシャリストと言われるような人間に成長している人たちも多いのだ。

心の尊厳を無視した知識偏重主義が、学力重視の採用構造が人類を物質文明の奴隷にしている事実を、認識しなくてはならない。

物質文明のために人類があるのではなく、人類のために物質文明は存在しているのであると声を大にして申し上げたい。

知性は、人類社会の調和と己の心の安らぎを目的として、自分自身の魂をより磨くためのものであり、自由と平等を求める自らの努力によって、一人一人が神仏の子たる自覚に到達するためのものでなくてはならない。

自由とは好き勝手なkとをしてよいというのではなく、秩序ある社会生活のなかで存分に行動し、マナーを心得た生き方の事だ。

人間には、教養という知識があるが、道を悟らない人にはそれが却って自分自身の抵抗を造り、苦しみの原因ともなっている。

なぜならそれは、心を中心とした知性ではなく、自己保存、自我我欲、すなわちエゴを満足するための触媒になっている場合が多いからである。

常に中道の立場で、自分の想念と行為を反省して、与えられた環境で積極的に実行、努力していたならば、地上生活の現象界で学んだ知性は、潜在意識の中に記憶されている偉大な智慧の宝庫と調和され、人生をより良く進歩させて行くことができる。

こうした生活をすることによって、私達の心の調和がとれる。

そのため、魂の兄弟達や守護、指導霊の協力があり、私達の魂はより浄化され、智慧の門戸は開かれて、自在の力を発揮することができるようになって行く。

学問的な価値は、このときにより正しく発揮され、職業のいかんにかかわらず、真理の道に通じて行くようになるのである。

悲しきかな、北朝鮮の現実、中国の偽りと傲慢な国家戦略など、心を失ってしまった知性は破壊と闘争を生み、原子爆弾は、人類の修行場をも破壊に至らしめる結果にもなりかねない能力を持っている。

志があって世に出ても権力と金に負けて道を誤まるのも政治の世界にはつきものであろう。

いまの中国の物質経済至上主義による高度成長は、公害を生み、農工業における農薬、洗剤、石炭、石油、ガソリン、鉱業、食品に至るまで、人生航路の肉体船を破滅させるような生活環境を造り出している。

これはすべて目先の利益を追求したための知の産物であり、心を失った物質文明の歪みである。

人類の知は、こうして自分自身の修行場をも破壊するような結果を招いて行く。

農薬、二酸化炭素、四塩化鉛、硫化物、その他の公害によって、多くの犠牲が出るのを見てから具体策を考えるようでは、真理の悟りにはほど遠い。

ここまで物質文明の奴隷と化した人類の姿は、哀れといわざるを得ない。

資本主義は、経済力によって企業を支配し、心を失って利益追及主義に陥り、労使の不満は階級闘争を生み、社会文明は上部層と下部層の階級闘争の中から発展して行くのだという、弱肉強食、のケニアの動物的そのものの考え方を、人類の中に造り出してしまったのである。

経済力で他の企業を乗っとることも可能な、資本主義の考え方は非情としかいえない。

企業は人々によって成り立っていることを忘れ、ある時代においては、人間は経済奴隷的な価値判断しかされず、一部の独占資本家のふところを肥やす犠牲者となったこともあった。

しかし作用があれば反作用がある。強者に対して弱き者は団結によって対抗し、階級闘争が独占資本や権力者の前に、立ちはだかるようになってきたのである。

多くの人々は、その肉体先祖の代々においても、その時代時代の権力者によるきびしい階級制度の中で虐げられてきた。

そうした心の闘争の歴史が、いつか、その人々自らの力によって自由平等の社会を目指し、造り出してきたといえる。

現代、自由平等であるべき時代においてすら、現実には団結という美名の中で個人の自由は無視され、多くの民衆は、新たに生まれた労働貴族という連中の奴隷に変わりつつあるのだ。

物を物と見る唯物論は、心を失った価値判断に立ち、その指導者達は智で造り出した階級闘争を民衆に強制し、あるときは武力、あるときは権力、組織、暴力をバックにして団結を保とうとしている。

人間は心の修行をする為に地上に降りていることを忘れてはならないのである。

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不妊・霊的な視点

問診

従来、社会的意識として不妊の原因は女性側にあるとされ、長期間妊娠できない女性は夫ないしその家族から離縁されることもあり、またそれは慣習的に認められていた歴史がある。

古い話ではあるが、同様に女児ばかり妊娠する女性も離縁の対象になることがあった。

しかし前述の通り不妊の原因は男女ともに存在し、女児ばかり妊娠する場合は男性側に起因する場合もあるとの医学的見地がある。

なお、1989年に至って、一部のフェミニストの言い分は「健康上問題が見られないのに不妊が病気であると言う考え方は、子供を設けられない女性は一人前ではないと言う考え方に至る。その上不妊治療による女性への身体的負担は非常に大きい。また、独身者の場合は問題とならないという側面からも病気とは認められない」などとして、不妊症が病気ではないと否定していた例が存在する。

2010年現在日本国内においての不妊症の治療は、何らかの病名がついた場合においての個別の措置に対しては健康保険が適用されるものの、人工授精、体外受精などには保険は適用されない。

これを根拠として不妊は病気でないと主張する人もいる。

いずれにしても妊娠できない女性の多くは葛藤があり、心身ともに辛く肩身の狭い思いをされている方が多いのである。

さて、きょうは霊的視点から不妊の実態に迫ってみたい。

人間はこの世に生まれる時期がくると、今度の人生はこういう心の学習をして魂のステージアップをしてこようと人生設計を立ててから出生する。

その人生設計は過去の人生経験から、より一層の学習をするためには、どのような環境が最も自分にはふさわしいか、誰を親とすることが自分の成長につながるのだろうかと、周りの同胞たちと相談したり、魂の縁者たちと相談をし、約束をしたうえで生まれてくるのである。

なかには厳しい環境を自らに課して、それを承知で選び下生する勇気ある魂もいるのだ。

あの世の天上界からこの世に生まれてくる時に、過去世では十分に子供に関わる仕事して学んだし、自分の子どもでも子育ての学習をしたから、今度は子供を持たずに、そのために自由になった時間を他のことのために使って人々のために尽くし、魂の向上を図ろうということを人生計画として生まれてくる人達もいる。

しかし、人間は生まれたその瞬間に天上界での自分自身の約束、誓いを記憶していない。そのために好き勝手な目先の欲望に翻弄された人生を生きる人も多い。

天上界に居る時は立派な志を立ててはいても、いざ、この世に下生すると自身の志もどこへやら、日常の生活や人間関係にも円滑さを欠き、心を曇らせてしまうのだ。

あの世で子供を産まない人生設計を選んだ人の場合、夫婦はお互いに愛し合い、性生活を忌避するのでなくても、この世的な心情から欲しいという気持ちをたまに持つことがあっても、子供は生まれない可能性が大きい。

これは自分が生まれる以前に心に誓ったことが地上に生まれてからの想いよりも優先されるという、あの世とこの世の仕組みによる結果であることを意味するものです。

また後天的(誕生後)には子どもは欲しいが夫を尊敬できず、性に対して不潔感を持っている人の場合にも妊娠しない場合があるから、子どもを欲しいと願うならば夫に対するその心を改め、本来の温かい愛で接することである。

また前世で子供を沢山持って「ああ、子供のことでこんなに苦労するくらいだったら、もう子供はいない方がいい。」と強く思った人は、その思いが潜在意識に深く残っているために、その心の通りに今生では子供を持てないことになる。

また、子供があったのではできない、何か人の為に成る仕事をして、その仕事を通して周囲の人々を幸せにすることを使命として生まれて来た人達も子供を持たない場合がある。

後天的には夫の精子の問題や、インポテンツなどによる性交不能、妻の卵子の不具合など、肉体的疾患による不妊という場合も多いだろう。

だから、子どものない人達は、自分たち夫婦のことだけに執着したり関わり合ってばかりいないで、社会のために自分にできる形で奉仕することに喜びを感ずる生活をしなければならないのである。

人間としてこの地上に生まれてくるということは、あくまでも『魂の向上』というこの一点の目的のためであるということ。

子どもができた、できない、病気をした、健康だ、精神的悩みがある、成功した、失敗した、幸せになること、これらはすべて人生の目的ではなく、魂向上のためのファクターであり、プロセスでしかないと悟らなければならないだろう。

前世で自分の子でありながら、自分で育てず他の人に面倒をかけた人は、今度は自分が他人の子供を育てなければならないと言う事になって、養子をするということになる場合もある。

その養子となった子供は、今生では他人の子供であっても、前世では自分の子供であった場合もあるのですから、たとえ今生では自分の腹を痛めることはなくても、自分の腹を痛めて生んだと同じように育てると上手くゆくのであるが、いささかでも他人の子供を育てると言う心の隙があると、養子との間が上手くゆかなくなる。

養子の場合は、その点の自分の心のあり方を大事にすることである。

子供のない生活体験をしてみて、その一生の終わりの時に、やはり子供があった方がよいと思うと、この次に生まれた時には子供を持てると言うことになるのです。

ここまで述べてきたことを、ただのこじつけと解釈するならそれも致し方なし、なるほど、それもまた道理であるとして謙虚に受け止めて生活するなら必ずやご自身の人生が平穏なものとなるであろう。

人生は子どもがある無しだけで左右されるもであってはならないし、最も深奥な魂の向上という、この世に生まれてくる意味、目的を忘れてはならないのです。

何故なら人間の身体は医学的根拠以上に精神的影響が健全な発育や健康に与えるところが大きいということだからです。

実際にそれを理論的に説明している世界の医学者の数が増えてきている。

ご主人に心から感謝して性生活を不潔だという思いをなくして、自分の心を愛の心で暖かくして、夫を通して天上界で約束した子供を受け入れるという心になることが大事です。

胎教1(クリック)で言ったように、親も子も、あの世の天上界での約束によって霊(魂)が受胎をしてくれるのですから、心身ともに調和して安らかにしていれば、通常なら必ず立派な赤ちゃんを生むことが出来るのです。

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岩手県 盛岡市 無料 カウンセリング kandou0822@yahoo.co.jp

試練と病気・調和の法則

禅定瞑想

心の悩みを抱えて相談に来る方々のなかには、いわゆる『生真面目すぎる』人も少なからずおられます。

偏らず真面目な人はそれが長所といってよいだろう。しかし、生真面目というのは「非常に真面目過ぎて融通が利かない」ことをいいます。

つまり長所がバランスを崩せば短所となる。アンバランスとは偏った心であり、欲念、邪念、執着、拘りでもあり、これを仏教的には煩悩(クリック)と表現している。

良かれと思われることも偏りすぎると心が苦しくなる。これが人間の心の仕組みだということを忘れてはならない。

私の相談者へのアドバイスはいつも心を調えるための方法を具体的に示すという内容に尽きる。

それでは正しい法則すなわち正法とはどのようなものなのかとなると、それは人間の心のあり方、生き方のことであり、そのあり方の基準は大宇宙の摂理、秩序、調和に沿った、偏らない生き方のことである。

自分では正しく生きていると思ってはいても、第三者から見た場合に疑問を持たれたり、指摘されたときに初めて間違いであったことに気づくこともあるだろう。

正しい心の基準というものは曖昧であってはいけないし、人それぞれの正しい基準が違っていては正しい基準とはならないのです。

真の正しい基準は個人の基準ではなく、個人の価値観によって異なった基準ではなく、決して人種、国の違いによって、民族の違いによって異なるようなものであってはならない。

すなわち真の正しい基準とは不偏であって根底には愛と慈しみがなくてはならない。

従って、どれほど正しいと声高に叫んでも中道から逸れた愛と慈しみの欠けた法則は正法とはいえないのだ。

人間、生きているからこそいろんな試練や逆境があるし、また、逆に試練や逆境があるからこそ生きているともいえる。

人生80年として一日24時間のうち約8時間は眠っているとすれば、生涯のうち26年は眠っていることになる。

80歳の人の言葉はいくつもの苦難を乗り越えてきた体験に満ちていて説得力もあり、納得させられるものだが、80年の人生が100%幸福ですということはなく、三分の二は苦労の連続だともいう。

となると、52年は苦労との戦いだということになりますが、幸せと思える時間が人生の三分の一というのは素晴らしく、上出来な話しではなかろうか。

人間は苦労のなかでこそ、試練や逆境のなかでこそ心が広くたくましく成長するものである。

きょうは試練と病気について考えてみましょう。

我が心の師はいいます。

『真に正しい生き方を調和の法則に沿って実践すると、当初は好結果が与えられる。だが、つぎの段階では、本人の心を試すが如くに迷いを与えるような小事件が、人によってはつぎつぎと起きてくる。

また、さまざまな欲望が不思議と出てくる。道を志す者は、必ず魂のステップアップの為にあらゆる試練を超えなければならないのだ』と。

正法(正しい心の在り方、生き方の法則)を知ると心が変わります。

心が変わるとその人の病気が治ったり、環境が急に変わってよくなったりします。

すると、正法はすばらしいということになります。

これで自分は正法がわかったと思って、人にも伝えます。周囲の人達も、あの人はよくなったと認めます。

ところが、その人がいつしかまた病気をしたり、なにか悪いと思われるような現象が起
こってくることがあります。

前はよくなったのだからと思ってやってみても、今度はなかなかよくならないという状態になることがあります。

そうすると、正法ももうダメだと思ってやめたりする人がありますが、これは残念なことです。

どうしてそういうことになるのか、それをよくわかっていないといけません。

確かにその人は心が変わったために一時はよくなります。

しかし、それだけでなくて、を求め志す人の場合、その人に宇宙の法則、唯一なる存在の意識の実在を悟らせるために、あの世の光りの天使たちや、指導霊、守護霊が協力してくれ、試練も与える場合があるということだ。

つまり、正しい心の在り方、生き方がまだ完全にその人のものになっていなくても、あの世からの協力によっていわゆる奇跡(必然)が起こります。

ところが、あの世からの協力があったことに感謝しないで、治ったのはすべて自分の力だと思って慢心して感謝の心を忘れてしまいまい、謙虚さを忘れてしまいます。

すると、その謙虚さを失った程度に相応してまた病気が再発したり、環境の変化が起こったりするのである。

一所懸命に正しい生き方、心の在り方を実践しているように思っていても、なかなかよくならない。

自分の心の中に慢心を生じて、唯一なる存在への感謝、自分の心のガイド(守護霊、指導霊)への感謝も忘れているのに、教わったこの法則がダメだと思ってしまう。

ここに道を志す者、法則を知った者の落とし穴があります。

正法(正しい心の在り方、生き方の法則)がダメなのではなく、『最初の奇跡は私達があの世から援助したのですよ。今度は本当に自分一人の力でやってみなさい』といわれているのです。

実は、それがその人の力を本当に引き出そうとしている試練であり天から与えられた慈悲なのです。

だから最初の時よりは、なお一層に敬う心、謙虚な心になって感謝を深め、調和をめざして真剣に偏りのない調和された生活を実践して、本当の自分の心を引き出さなければいけないのです。

大抵の場合、調和の法則を知ってよくなると、「ああ、これでもう自分はりっぱになったのだ」と思い込んでしまって、増長慢にいつの間にかなってしまいます。

それなら今度は自分の力だけでやってみなさいといって問題を出されるのですが、自分はもう調和の法則がわかっていると思い増長慢になった人は、少しも自分の心を深めようとしないものです。

初めの時はよくなったのにと思ってやるけれどもよくならない。そうすると、調和の法則はよいと思ったけれども、やはりダメかなと思います。

まったく自分の心のあり方を忘れてしまって、調和の法則がダメであるかのように思ってしまうのです。

こうなると、折角、調和の法則の縁に廻り会いながら、初めての時はあれほど感激したのに、もうなんにも感激を示さなくなって堕落してしまうということになります。

するとまた、前世のカルマを越えきれないでカルマを重ねてゆくということになるのである。残念なことです。

ですから、調和の法則を知って一回よくなったが、また悪くなったという人には、このような説明をして、ますます心を深めて実践し感謝してゆくように指導をすることになります。

我が心の師は「業の活動は時が経つと静かになるので、それまで調和の実践をしながらじっと待つしかない」、「こうして一歩一歩欠点と業の修正が実を結んでゆく」といっておられます。

問題を解決しようとして夢中になればなるほど、つぎつぎにまずいことが起こり、反省しようと思えば思うほど、心は落ち着きがなくなる。そうしてだんだん心を狭くしてゆくということがあります。

『志を忘れず時を待つ』ということは非常に大事です。

例えば、腹が立ってどうしようもないという時でも、時が経つにつれてだんだん平静になり、しまいには「なんだ、あんなことで腹を立ててしまって……」と思うものです。

調和の法則を知ったがためにかえって苦しくなったという人がありますが、そういう人は早く完全な調和法の実践者になりたいという焦りの心があるからです。

早く完全者になることを願うことはよいことであっても、そう一足飛びになれるものでもありません。やはり順序と段階があり、何でもかんでも一緒にやれるわけではないのです。

放っておくと時とともに自然に解決してゆくものもあるし、その時にはわからなかったことがだんだんわかってくることもあります。

「時を待つ」ということは、すべての果実には熟する時があるように、いろいろな条件が整わないと実現しないことがあるということです。

人間の心が成長するには時が必要なのである。

あせる心の中にはいつも「まだダメだ、まだダメだ」という心があり、それは「ダメだ」ということをいつも心に描いていることになるし、心に描いたことが実現してゆくのですから、あせる心はますますダメな状態をつくり出してゆくということになります。

ダメ焦り連鎖して心を狭くしてしまうのです。

あせる心をなくして「時を待つ」ということは、ダメだと連続的に思う心を中断する、なくするということになります。

あせってダメだと思う心をなくすることが「時を待つ」という智慧の効用ですから、「時を待つ」ということの大事さを知ることです。

そのことを「放っておくと、ついには全く現われなくなってくる」ということです。

だから、何ごとでも、うまく事を運ぼうと思ったら、焦ってはならないのです。

以上のことの次に大事なことは、我が心の師がいう、

『実践の過程の中で、よく現実的事柄を見極めないで、無理矢理に霊的因果関係に結び つけて考えようとしがちだが、それは間違いである。

霊的因果関係は無関係ではないが、主体はあくまで現実的な心にある。従って、まず現実の想念のあり方を八正道(クリック)に照らし、原因を突き止める努力が大事である』ということ。

これまで様々な悩みの相談に応じてきましたが、中には霊能者やカウンセラーといわれる人たちに頼って相談したが、問題が解決するどころか逆に霊的な問題があるといわれて大枚をはたいて何も解決せず、恐怖心が増しただけだというケースが多々ある。

「あっちが痛い、こっちが痛い」というと、すぐ「それは霊が憑依している」というような指導をするのは問違いです。

 病気の原囚には大きく三つあります。

一、肉体的原因

肉体的、生理的に無理をした場合その人の精神力によって肉体の耐久力には限界がありますが、その限界を越えるとやはり病気します。

例えば湿気の多い所で年百年中仕事をすると、どんな健康な人でも肉体の生理作用を害して神経痛になったりします。

どんなに心のきれいな人でも、空気の悪い所に長時問いると気分が悪くなり、ついには失気を失いかねません。

だから病気の人を指導する場合は、肉体的、生理的に無理してはいないか、ライフスタイルに問題はないか、食生活に偏りがないかということを確認しなければならないのです。

二、心の原因、

肉体的、生理的な原囚を考えた上で、今度は心の原因を考えてゆきます。この時に
考えなければならないのが、次の二つのことです。

I、原因・結果の法則

2、類は類で集まる、波長共鳴の原理

心が明るい人は健康で病気になりにくいものです。心が暗い人は病気をつくってしまいやすい。だから病人は心が暗いのですから、その心の暗い原因はどこにあるかを究明しなければなりません。

例えば、うつ病で相談にきた方が、精神科では『家庭の問題は家族で話し合うことです。』といわれたと言いますが、それは精神科でなくても友達に話しても同じことです。

具体的にどのように相談することが望ましいのか細かい提案があるわけではないといいます。相談者は具体策もなく思案に暮れて為すすべがないから相談しているのである。

カウンセリングというものは、マニュアル化された通り一辺の流れでは根本的な原因、核心部分にたどり着くことはできないものです。

三、霊的原因

「霊的原因ではないか」と考えるのは最後であって、いきなり最初から霊的原因である、憑依されているというのは間違いです。

憑依は単独で起こるのではないので、心の暗い状態が永く続いた時に、あるいは何かに強く執着したとき、また霊的能力や超能力が欲しいなどという欲望を持って一心に修行したりした時に憑依してくるケースが多いものですから、まず心の原因を調べて、つぎに霊の憑依ではないかと考えるべきです。

心が暗いから「類は類で集まる」の法則によって憑くのですから、心が明るくなると自然に憑いていられなくなって離れてしまうのです。

「主体はあくまでも現実的な心にある」ということ、その人の心のあり方、 生活が、八正道に適っているかどうかを考えることです。

一度改善された人が、なぜダメになってゆくか、この理由を知ることは大事なことである。

調和の法則をすばらしいと思い、自分はそれを正しく実践していると思っていて、いつの間にか次第にその法則をはずれて、結果的に病気になったりする。

それは正しく実践していると思いながら、いつの間にか道をはずれてしまっている場合が多いからなのです。

悪くなった原因をなんでも憑依霊のせいにするのも問違いであるし、よくよく注意しなければならないことである。

反省はどうするか、心を浄化する方法

「反省」ということの混乱を避けるために述べておきましょう。

自我意識がめばえてくるのは五歳頃からです。その頃から自他の区別がはっきりしてきて記憶に残ってゆきます。そうして知らず知らずのうちに親不孝をしたりしてしまうわけです。
何故、親に感謝しなければならないか。

生まれた子供が一番心の安らかさを感ずるのは親のふところに抱かれた時です。

その心の安らかさは、悟りを開いた時の心の安らかさに通ずるものです。

母親に抱かれて母乳で育った子供は情緒が安定していますが、母親の胸に抱かれることが少なくミルクで育った子供は、母親の胸に抱かれたことによる心の安らかさを昧わっていないから、自閉症やノイローゼなど、また、情緒不安定になって落ち着かなくなるのです。

このことは世界の医学者や精神科の専門医が研究や追跡調査をされて、その結果を論文に記したり、著書で発表しています。

人間はいくつになっても母親をなつかしく思い出すものであり、その時なんともいえぬ心の安らかさを感じます。

それは母親の胸に抱かれた時の安らかさの記憶が心の底にあるからです。

ですから、本当の悟りを得るためには、この親に対する感謝を持ち、その感謝の心を持った時の心の安らかさを通して、一切のものの創造主でたる宇宙の意識を認知できるということを知らなければいけません。

だから、親に感謝せず、親不孝したままで悟ったという人は一人もいないのです。

調和の法則を知った人達が一番先にしなければならないことは、なんといっても親に対する感謝です。それは義父母に対しても同じことです。

自分の親には感謝できるが、配偶者の父母には感謝できないというのであれば、それは調和の法則に逸れた偏った価値観でしかないということです。

人間の心の奥底にある一番強い深い記憶は、母親に関することです。

反省というと、一歳から五歳までのことを思い出しなさいといっても、思い出せるはずがありません。

そういうことよりも、私達は生まれてからだんだん成長してくるに従って、どんなに親に愛されてきたかを思い出させて、親に感謝することを教えてゆく方がよいのです。

そのことを思い出すことによって、人の心は浄化されてゆくのです。

正しい言葉の遣い方、「正語」。

人に指導する立場にある人は言葉の遣い方も勉強しないといけません。強化合宿の大義名分のもとに暴言を吐いたり、体罰とか暴力とか論議されていますが、調和の原点が間違っていることに気づくことが先でありましょう。

調和法の出発点は「親に対して感謝する」ことである。

親のことを思い出した時に生ずる心の安らかさが、悟りに通ずるものであることを大事にできないようでは何をかいわんやである。

調和法の基礎原点である反省は、先ず、なにを置いても親に対する感謝から始めることである。親、特に母親に対する感謝は、胎児であった時の心の安らかさにも通ずるのであるということだ。

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三次元と四次元

4次元

『あの世という世界はどの辺りにあるのだろうか』という質問をいただいた。

といわれても抽象的で今一つイメージできないでしょうから、この世的(三次元)思考でこの辺りがといわれると理解しやすいと思いますので、ちょっと説明を変えてみましょう。

あの世とは、次元の異なる世界をいい、物理的にここにあるといったものでは本来ないのです。

あの世とは各人の心の奥底にあり、また、大宇宙の中にもあるわけです。

しかし、そうはいっても実感としてこれではとらえにくいので、三次元的には次のように考えてもらうことがいいかと思います。

すなわちあの世とは、各人の意識の大小によって住む場所が異なってくるということ。

意識の大小とは心の広さであり、それに伴って光り輝く大きさのことで光子量といってもよいでしょう。

それでは光子量の大小はとなると、それは大きく分けて、生前、自己本位に生きたか、人々のために奉仕したかにかかってきます。

自己本位に生きたものは死して後にも心に自我が残っており、地上三次元的な想念のままに、この地球上の地表に、あるいはその近くで生活しています。

何故かというと、自己本位の心はこの世(現象界)に執着を強く持っている為に、現象界からなかなか離れることが出来ないからです。

反対に執着心が少なく、人々に調和をもたらした人達は、地上の現象界から遠く離れた高い世界で生活し、愛と調和の自由な、そして行動範囲が広く制約のない毎日を過ごすようになります。

つまり、あの世とは三次元的にいうと、地表から宇宙大に広がった大宇宙の空間の中にあって、地表に近ければ近いほど苦しみが多いことになります。

地表は陰のエネルギー、邪悪な諸霊たちが蔓延している空間ともいえます。ということは地上ではは常に霊と隣り合わせの生活をしているということです。

旅客機に乗って上空8千メートルか1万メートルにまで上昇すると体が楽なのをはっきりとわかりますが、下降して地上数100メートルあたりから再び普段のように感受反応が働いている。

これも霊的な三次元感覚です。

さて、現実の私たちの生活意識では、物を見る場合に近視眼的に目先のことに心が常に動かされていますと、正しい客観的な判断が出来なくなってきます。

しかし広く高い視野からながめますと、物の価値判断が変わって来て、今まで正しいと考えたことも正しくないことがしばしばあるものです。

あの世の住む場所もこれと同じように、それぞれの物の見方が、人類的立場に立つか、個人の利益に執心しているかで大きく変わってくるのです。

話は変わりますが、チベットのあるところに聖霊たちの住む空洞空間があって、ここから人類の天使たちにさまざまな指令を出しているという話がありますが、そういうことはありません。

あの世というのは次元の異なる意識の世界を指し、心の世界をいうのですから三次元の物質界とは違うのです。

物理的な位置づけとしてはこういうことがありました。

例えば、家の中でラップ現象や怪奇な現象が日常的に発生して気味が悪く家にいたくないとの相談がありました。

その家を訪問したのですが、未成仏な霊が出入りしているのがわかります。

その理由は二つ。

一つは、宅地そのものが、山を切り開いて分譲された土地ではあったが、古代(縄文時代)に集落があった場所で、すぐ近くにその時代に死者を埋葬する墓地があったこと。

二つは、その家の家族の人間関係が非常に不調和なために心が曇り、低次元の状態であったこと。

この二つの理由によって類は類を呼ぶという原理で霊が騒いでいたのでした。

結局、日頃の生活意識を正して、足ることを忘れず、不満、愚痴、怒りを調和することが問題解決になるというお話しをして、土地と未成仏霊たちの冥福を心より祈り、帰ってきた。

勿論、騒々しい霊現象はなくなったが、このような実例でわかるように、地表に近い、私たちの生活空間に位置するところにいる霊たちは非常に執着のある霊であることは確かなことであるということ。

したがって、次元の違う世界ではあるといっても、私たちの不調和な生活は、あの世の次元の低い未成仏霊といつでもコンタクトされるということを知っておかなければならないだろう。

逆に、死後に執着のない霊は、地表から遥かに離れた位置空間に居住しているということです。そして、死後に執着のない悟った霊は、生前も心豊かな生活をしておられた人たちである。

あの世には、この地上的な時間や距離観、三次元的な立体空間がなく、心が適えばどこへでも通じるのです。

こういうことからあの世(実在界)とは微妙に、そして波動の細かい環境をつくっており、物理的にはそれは地表から上空にわたっていると考えてもらえばよいだろう。

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自己と宇宙意識

宇宙

どこの集団、どこの会社にも、どこの学校にも職員同士による人間関係のトラブル、子どたちのトラブルはあるが、更にそれが、心ある人生を学ぶべき宗教団体にもつきものだから疑問でならない。

おなじ群れでも動物世界のほうが統制がとれている部分もあるが、知恵のある人間が群れるということは陰湿な無視や批判、中傷、になってしまうしまう傾向があるから困りものである。

人が集まり、行動が組織的になってくると、その組織や人の行動が気になり出す。

そうして、肝心かなめの正しい生き方である法則がどこかへ行ってしまう傾向になりやく、人間の心は周りの人たちの動きに左右されやすいものでもある。

人の噂や中傷に気をとられ、その噂や中傷に心をゆだねると、もはや、法則を学ぶ者とはいえなくなる。

何となれば、正しい法則を学ぶ者は、何時どんな場合でも、摂理、秩序、慈愛という宇宙大自然の原理を尺度に、生活の中に実践して行く者であるからだ。

集団生活や組織というものは、この地上に生きて生活していく上に欠かせないものだが、さりとて、これにウェイトがかかると、自分を失いがちとなる。

読者のなかにも、そういったことを実体験された方もおられることでしょう。

自分の身の回りに現れる様々な出来事、現象は、自分の心を育む材料に過ぎないものだということを覚えておかなくてはならない。

これはどんなに世の中が進み、文化や科学、人々の精神が向上し、調和された姿が現れたとしても、その基本的態度を変えてはならないものである。

調和の姿というものは、これが完全というものは本来望み得ないものだし、調和が進めば進むほど、より高度の調和が私達を待ち受けているからだ。

魂のステージアップは上限がないということです。

また、この宇宙を認識しうる意識は何かというと、ほかならぬ各人の意識であり、心である。

そうして、その宇宙の存在を理解出来るのも各人の魂だ。

これをもっと平易に説明すると、私達は眠っている時は、外界の様子がわからないし、鼻をつままれても気づかないでいるが、めざめてはじめて、自分の存在を認識し、昨日のこと、今日のことが理解出来る。

つまり、自分という意識があってこそ宇宙の存在が理解出来る。

これを逆にいうと、宇宙は自分がなければ存在しない。

さまざまな諸現象は自分があるからそれをとらえることが出来る。

おわかりでしょうか。外でカラスがカーと鳴くその声を聞いている自分がいるから聞こえた、そしてそれはカラスが存在していることを認識したということ。

自分という個の存在がなければカラスを認識できないことになります。

人間関係のトラブルも相手のせいにしがちですが、不愉快な思いをしているのは自分自身の心であって、その心のあり方ひとつで不愉快なトラブルは解決できるのです。

それなのに相手が悪いと、矛先を相手にばかり向けてしまうようでは一考にトラブルは絶えないだろう。自分自身を見ることの大切さはここにある。

こう見てくると、自分以外の諸現象は、自分の心を育む材料であるが、その材料の中に、自分を没入させてしまっては、自分を失ってくることになろう。

没入とは囚われのことであり、執着のことです。

自己という存在は、大自然という中道(調和)の法則の中にこそ生きているものなのだ。

人の噂や組織に気をとられ、それに心を振り回される愚を、人生の在り方を学ぶ者は犯してはならない。

つまり、私達の大事な対象は、人や組織ではなく、調和という大自然が教えてくれている摂理、秩序なのである。このことを私は法則と呼んでいる。

ある人はこんな名言を吐いている。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。』これは平等をいっているようだが、もう一歩進めて、人を相手にせず、天を相手にするとき、人の心は大きく広いものとなり、人を裁かず、批判せず、人を許し、自己に厳しく、正しい生き方である法則の実践者になってくるものであろう。

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『しかたがない』という心・私たちの道

人生とは、まことに理不尽なものです。

私たちはいつも理不尽なものと向き合い、それにもまれながら生きています。

「どうして自分だけがこんな目に遭うのか」、「何も悪い事はしてないのに、なぜこんな仕打ちをうけなくてはいけないのか」、「どうして自分ばかりが損をするのか」、事の大きさに関わらず、そんな思いにかられることはままあるでしょう。

一昨年の3・11東日本大震災などは、まさに理不尽の極みだろう。

コツコツと真面目に生きていた人たちが、一瞬にして家や家族を奪われる。その理不尽な苦しみや悲しみは、とても囗に出して表現することなどできないはずだ。

こうした人生の理不尽さに遭遇したとき、やがて日本人はこう囗にします。「しかたがない」と。

この言葉の中に私は、日本人の強さと生きる気力、知恵をみる思いがするのです。

私の所で学んだ人でアメリカの青年がいたが、文化の違いから思考、価値観の違いを感じた。彼は日本の文化に魅力を感じ、武道、座禅を好んだが、「しかたがない」という言葉は、英語のなかにはない。

「しかたがない」と日本人が呟けばアメリカ人はこういうだろう。「どうして諦めるんだ。逃げてはいけない。 どんな過酷なことがあったとしても、ベストを尽くせば必ず立ち直ることができる」と。

彼はそんな青年だった。日本人は、けっして諦めの気持ちでこの言葉を発しているのではありません。この世の中には人知を超えたものがある。

自分の力ではどうしようもないことがある。「なんで自分が」と思うことが人生には必ず起こる。

そのことに抗(あらが)っていても道は見えてはこない。まずは受けいれること。

理不尽さや過酷な状況を心でしっかりと受け止め、そこから覚悟を決めて歩き始めること。

その覚悟こそが、日本人の底力、胆力なのだと私は思っている。

若き頃から抱いていた夢や希望。それらがすべて叶うことはないだろう。

希望する仕事に誰もが就けるわけではない。すぐに思い通りの結果が出るはずもない。

それなのに、辛抱が足らずに、すぐに嫌だと言って仕事を辞めてしまったりする風潮を感 じます。

二十代の頃ならまだしも、三十代になっても四十代になってさえもフラフラとしている。

あれもしたいこれもしたい。自分に合った仕事をしたい。もっと評価されたい。小さな理不尽さばかりに文句を言い、自分という存在と向き合っていない。

自己都合だけを優先させるだけでなく生きる覚悟をもつことです。

人生は選択の連続です。

私は、相談者にいつも問うのだが、『自分は何のために生きて人生をやっているのか』を気づいている人は非常に少ない。

一つのものを選ぶということは、一つのものを手離すということでもある。すべてが手に入ることなどありません。いま手に持っているものを離さなければ新しいものは手に取れないということだ。

余分な思いは手放すことです。

今やっている仕事。それはベストではないかもしれない。もっと自分に向いた仕事はあるかもしれない。でも、探し歩くばかりでは前には進むことはできません。

この仕事を一生かけて頑張るんだ。自分はこうやって生きていくんだ。そんな覚悟をもつこともあってよいのではないだろうか。

結婚というのも同じことです。若い女性の相談に、『彼が私を褒めてくれない。好きだと言ってくれない。』といった話しがあった。

自分のことを100%理解してほしい。相手のことを100%理解したい。自分が思うような存在に相手がなってほしい。そんなことは所詮ムリです。

すべてを分かり合えることを望む事に無理があるし、自分の希望で相手を変えることなどは、考え方に問題がある。そんな当たり前のことに気づくことです。

仕事、結婚、人生。そのなかには「しかたがない」と思うことは山ほどあります。

努力をしても叶えられないことばかりです。

それでも諦めたり投げ出したりせず、そこから始めること。

まずは自分の人生をしっかりと受け入れ、今やるべきことを為していく。

日本人の美しさは、そんな心にこそあるのです。

縁を結ぶということ

昔から日本人は、縁というものを大事にしてきました。家族や親せきとの血縁、同じ村で暮らす地縁、あるいは職場を共にする社縁などです。

こうしたネットワークのなかで、互いに支え合って生きてきました。ところが最近では、こうした縁が段々と薄らいでいます。

縁というものは、一方でしがらみを生みます。そのしがらみを嫌い、自由に生きたいと願う人たちが増えてきた。

自由の裏側にあるのは孤立です。これが「無縁社会」を作り上げているという側面もあるだろう。

捨て去ってしまった縁や絆というものを、再び取り戻す時期ではないでしょうか。

幸福とは物や権力を手にすることではありません。

どれだけ豊かで温かな縁をもっているかなのです。究極の幸せは「足ること」を知ったときにこそ訪れるものです。

誰かのために尽くすこと。

人さまから感謝される喜び。

その豊かさを取り戻すことです。

縁や絆を結ぼうとするとき、私たちはつい一対一の関係に目を向けてしまいます。

誰かと友達になったり、特定の人たちと関係を深めていくことが絆なのだと。

愛情のギブアンドテイクの関係を築こうとします。実は、これがしがらみを生みだす原因になっているのです。

たとえば誰かから何かをしてもらった。だから今度はこちらがお返しをしなければならない。つい「お返し」の発想で考えてしまう。

このやり取りが煩わしくなり、そこから逃げ出そうとする気持ちが働く。

誰かから受けたものを、その人にお返しするのではなく、誰か他の人にお返しをしていく。反対に、何かをしてあげたからといって、相手のお返しを望んではならない。

お返しなど期待することなく、ただ誰かのために何かをしてあげる。こういう気持ちをもつことで、温かな絆は広がっていくのではないだろうか。

小さなことでかまいません。例えば道を聞かれたら、快く丁寧に教えてあげる。それだけでいいのです。

二度とその人と会うことはないかもしれませんが、その心の温かさは、きっとどこかでつながっていくものです。緩やかで温かな縁というのは、そういうものではないだろうか。

「おかげさま」という言葉があります。

いかがお過ごしですかと聞かれれば、「おかげさまで元気にやっております」と答える。

それは、誰か特定の人のおかげという意味ではない。自分を取り巻く自然。自分とともに生活している人たち。そして見知らぬたくさんの人たち。すべての人や大自然のおかげで元気に生きることができる。

つまり、人間は生かされているという心が日本人には根付いているのである。こういう日本人の考え方を、欧米の人たちはとても羨ましく思えるという。

彼らの発想はギブアンドテイクです。そして生きているのは自分自身の努力があるからだと考える。そんな彼らにしても、日本人のもつ心根を羨ましく感じているのです。

そこにこそ、日本人がすべてのものと共生してきた、共に生きてきたという文化が宿っているのである。

そう考えれば、日本人というのはもともと絆や縁を結ぶのが上手な民族だと思います。

せっかく培ってきたその幸福の作り方を、いま再確認することです。

人皆、すべてのものに生かされている。その感謝の気持ちを大切にしながら、誰かのために尽くすこと。そこにこそ、私たちの道があるのでしょう。

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うつ病は何故増えるのか

うつ病

うつ病などの精神疾患で仕事や日常生活に支障をきたすケースが増加している。

症状が続くうつ病の患者数(躁うつ病を含む)が、昨年4月時点で100万人を超えたことが厚生労働省が3年ごとに実施している患者調査で分っている。

ちなみにうつ病の総患者数は平成20年現在で104万1,000人、うち男性が38万6,000人、女性が65万5,000人。年齢別総数は下記のグラフをご覧ください。

患者数

上のグラフを見てわかるように女性の発症率が高いことが示されています。したがって私のところにカウンセリングを求めてくるのも女性が多い。

一方、全国の自殺者は年間三万三千人を超え、なかには心の病が原因の人も多い。現代はなぜうつ病がこれほど増え続けているのだろうか。

いわゆる「うつ病」は1996年の段階では四十三万三千人でしたから、総患者数は、十年間で二倍以上に増えた計算です。

同調査はあくまで医療機関を利用した人が対象で、発症していても我慢していたり、職場に知られることを避けるケースもあり実際の患者数は更に多いでしょう。

医学的解釈では『うつ病』とは気分や感情の障害による身体症状であるとし、臨床現場では抗うつ薬を投与することでセロトニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の働きを促す治療が行われているが、あくまで対症療法的なものであり、原因の解明は成されていない。

薬物による治療は避けられない問題として副作用であるが、この副作用によって体調が低下することで朝の起床がダメになる、倦怠感が増してきた、集中力がなくなった、日中も眠気が抜けない、食事が以前より摂れないなどの症状を訴えるケースもある。

うつ病の予防するためには、普段から仕事などであまり無理をせず、十分な休養を取ることが大切ですと医学ではいいます、勿論、休養は大切です。

しかし、注目すべきは十分に休養を取れていたら発症しないのかとなると必ずしもそうではなく、休養をとったら回復するのかとなるとそうでもなく、同じ職場のなかで、同じ条件で働いているのに発症する人としない人があるということ。

ここに家庭環境の問題や心の傾向性(癖)という問題が潜在しています。

これは社会情勢の急激な変化や仕事だけではなく、家庭内のライフスタイルやプライベートでの人間関係などにおけるストレス、あるいは根本的には心の傾向性(癖)にも大きな原因がある。

私のところに相談にみえる方々には、これまでの心療内科での内容とは異なる手法で、ご本人の幼少の頃からの家庭環境、親子関係、心の傾向性(癖)についても深くアプローチしていきます。

物事に対する考え方、価値観、拘り、執着、生真面目、頑固、求めすぎ、といったことを解放することでうつ病は改善できるのです。

「程度のよっては自殺を考える人もいる」とすら言われるので、なるべく早く対策をとることをお勧めします。

投薬による治療を受けて、一度うつ病が治ったかにみえても、「遅れを取り戻そう」と仕事で頑張りすぎて病気が再発することもあり、復帰してこれまでより仕事量を減らしても間もなく再発するケースも多いのが実情でもある。

となると、必ずしも仕事量の問題だけではない理由があるということになります。

やはり最終的には心の在り方心の使い方対人関係の在り方、を根本的に見直していかなければ本当の回復には至らないでしょう。

うつ病患者は、とりわけバブル崩壊後に増えていますが、高度経済成長期には、うつ病にかかる人は現在ほど多くなかったという点も見逃すことはできないだろう。

思うに、かつて日本人は、良くも悪くも「額に汗して真面目に働けば幸せになれる」と信じていました。この精神は大事なことです。

しかしバブル崩壊にともない、そうした価値観は報われにくくなった社会でもあります。

すると、もともとうつ病にかかりやすい素質を持った、こだわり症で几帳面な人たちが、精神的な拠り所を失ってしまったのです。

うつ病を防ぐためには、自分の個性(傾向性)を知り、何事も『ほどほどに』『執着しない』『片寄らない価値観』の精神で行ない、生きることが肝心です。

また、うつ病の大きな特徴は、「仕事をするのがつらい、でも休むと仕事がたまる」などの悲観的な考えを延々と繰り返す「ぐるぐる思考」に陥ることです。

そこで重要なのが、「気分は考え方によって変わりうる」という発想の転換。

気分を暗くするのも明るくするのも、結局は自分の考え方次第だということを根本的に学び知ることです。うつ病で苦しんでいる方のなかには知識でがんじがらめになっている人もいますが、このような人の場合はちょっとした工夫と智慧を示してやれば早期に改善がみられます。

例えば「自分はこれまで頑張りすぎたのではないか」「頑張りすぎる理由はなんだろう?」「自分の癖にはどんなことがあるか?」「執着していることはないか?」などと、新しい考え方を試してみることで、「ぐるぐる思考」から抜け出す道が開けてくるはずです。

昨日のことに拘ると今が苦しくなる。

明日のことを心配すると今が不安になる。

今を生き切ることに徹すれば道は開ける。

悩み苦しむ人にとって、今いちばん必要なのは門を叩く手をあげること、それだけです。うつ病を改善したいと願う方にはご相談に応じさせていただきます。kandou0822@yahoo.co.jp

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自己限定の愚かな偽り

バイブル

『我が教団の教えこそが真理であり、ご利益が凄い』と信者も教祖も口をそろえて入信の勧誘をしているのですが、真理というものは決して一教祖、一教団の専有物ではないし、ご利益がというところほど危険なものはないだろう。

事の真実、法則、秩序、摂理は人間がそのことに気づいたというだけのことであって、人間がつくったものでもなく、発明したものでもない。

真理は人類が誕生する前から大宇宙の意識の表れとしてあったにすぎない。

しかし、真理という大宇宙の意識である愛と慈しみを、唯一なる存在は決して押し売りはしない。

簡単なことです。親が子どもに愛を押し売りするだろうか、慈悲を押しつけるだろうか、ただ健やかな成長と自立を願っているだけであろう。

唯一なる存在はただ提供するのみである。

それを受け入れるか拒否するかは私たち地上人間の選択に任されているということだ。

が、やがては遠くない未来には人々の全てが、いずれ、それぞれに持てる神性を確信してくれるであろう。

それをあくまでも否定する者は、浅薄なる頑迷さの網にかかり、宗教の教義、戒律、規律という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。

そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者、独善家は人類の目的にさえも気づけず、何のために生きているのかという己の使命さえも気づくことはない。

否、魂に泌み込みこんだ古い信仰に何よりの安心立命を見出す者もまた、気の毒であり、手助けしがたい存在である。

しかし、彼らにもいずれ気づきの時が訪れよう。今はその時ではない。

このブログを読んでくださっている人のなかに志を同じくする進歩的求道者がおられましたら、心からの敬愛と感謝の心を伝えたい。

これまで私が申し上げてきたことは、法則、摂理、秩序というものを愛と慈しみをもって日頃の生活に活かすという実践こそが心の修行なのだと解していただきたいのですが、しかし、理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶していただきたい。

十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めない。

常に探究心と疑問をもって咀嚼(そしゃく)して、盲信、狂信はしないことである。

何故なら霊的教義の正しい内容は正しき理性を得心させるものでなければならないからです。

かつては、シナイ山にて四十日、四十夜、嵐の如き口調にて啓示された戒めの十戒を授けられたモーゼ。

荒れ野に四十日も身をおき、悪魔の誘惑に打ち勝って後、慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる愛を人の道として説いたイエス。

王家の子息という地位を捨てて出家をし、6年間の苦行も捨て、禅定瞑想のなかで調和することで大悟された仏陀(釈迦)が説いた人の道は慈悲であった。

偉大な先人たちの説いた真実の言霊を教条的に、あるいは理論的、哲学的に書き改めた観念的遊戯に人の道があるのではない。

人の道は素朴でありシンプルであり、暖かいものでなければならない。

人の道は古きを知って更に昇華させていくところにこそ向上があるだろう。

真実の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかなく、受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。

そしてそれに関われる背後の天使が、あるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎないということだ。

大宇宙意識の摂理と人間的解釈とは毅然と区別せねばならないし、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説、仏陀の名において説く教義。

イエスも仏陀も自ら否認されるであろう教説、教義を黙認することはできないし、偉大な先人の面目を汚すことになるとすれば潔しとはできない。

例えば、病気や怪我によって医療が必要なときに、輸血をすれば身が穢れるからと輸血を拒否する信者がいる。

勿論、輸血によって身が穢れるはずはないし、肉体に執着した非常に幼い教義と言わざるを得ない。たとえ肉体は病んでも朽ち果てても魂は穢れるようなものではないということを、この教団は失っている。

人の魂は、この世とあの世とを生き通しの生命である。

肉の身を自分と見、肌に触れぬものはなにもないとする自己限定の愚かなる心は唯一なる意識との障壁となってしまう。

これほど恐ろしい偽我はない。

人はいずれは、感覚以外の世界の住人となり、生命の尊さ、素晴らしさを認識しなければならぬものだ。

バイブルや仏教の経典を正しく指導せず、また理解せず、その心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、疑問さえもたず、無知の為せる業とは言え、逆に唯一なるものへの不敬を働いている人たちは多いのです。

このような人たちは己を偽るという最大の業を上塗りして実在界へ帰るのである。

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