斧を見なかった木こり

木こり1

我が家では冬の暖をとるのに薪ストーブを使用している。そのために春から秋にかけて木を間伐したり、営林署の間伐丸太をもらいうけたり、その丸太をチェンソーでスライスして、それを薪割り機で程よい大きさに小割りして積み上げていく。

私にとっては、斧(おの)もチェンソーも欠かせない大事な道具である。使うたびに刃砥ぎをしていつでも使えるように、切れがいいように手入れは欠かせない。

この一連の作業は私にとっては自然と対峙できて汗を流せる楽しい時間である。

「私は、木を切るのに忙しくて、斧(おの)を見る暇がなかった」

一人の実業家が、定年後に語ったというこの言葉を、私は自戒の言葉として受けとめています。

寸暇を惜しんで、他人よりもよい木を、より速く、より多く切ることに専念し、生産したこの人が、仕事をしなくてよくなった時に見出しだのは、刃がボロボロに欠けた斧でした。

林業に携わる者にとって斧は最も大事な道具であり、自分自身でもあるが、木を切る手を時に休めて、なぜ、斧(自分)をいたわってやらなかったかを悔やんだ言葉ではないだろうか。

人は多くのものを求め、満たそうとしてひたすら働くのですが、例え、全世界を自分のものにしても、自分自身を失ったら、何の益があるだろう。

働きにおいては、大きな成果を挙げたとしても、木を切っていた斧である自分自身が、その間、心身ともにすり減っていたとしたら、本末転倒ではないだろうか。

どれほど一生懸命に働いたとしても、その働きの根本に執着という動機があれば自己を見失ってしまいかねないということだ。

『大言海』の辞書によれば、「ひま」はレジャーとしての暇ではなく、「日間」、日の光の射しこむ間と記されています。

私たちの心が、働くことでピッシリ詰まっている時、そこには日の光が射しこむ隙間がありません。忙しさには、字が示すように、ぼし、ゆとりを失わせる危険が伴います。

ある学院長が告白しています。『時折、学生がノックして部屋に入ってくることがありました。「いらっしゃい」と迎えるべきなのに、仕事に追われている時など、つい「何の用」という言葉で迎えてしまい、「別に用はないんですが、ちょっとお話ししたくて」と、すまなさそうに部屋を出てゆく学生の後ろ姿に、何度「ごめんなさい」とつぶやいたかわかりません。』と。

「働き」そのものはすばらしくても仕事の奴隷になってはいけない。

いつも木を切る斧を磨き油をさし、いたわる日間を忘れないでいたいと思う。

働くことはすばらしい。しかし、仕事の奴隷になってはいけない。

きちんとまわりが見えているだろうか?

心にゆとりがないと自分も他人もいたわれない。

心にゆとりを持つということは、必要以上にこだわりを持たないこと、自分の欲望を満足させるための執着は持たないことができていること。

斧を見ることがなかった木こりは、斧ではなく自分自身を見ることをしなかったことに気づいて悔いたのです。

私たちは衣食住のことに、より豊かさを求めてその為に働くことに一生懸命になるのですが、木こりのように自分自身を省みることには心配りしない傾向があります。

物やお金の事には努力するのですが、休めることや心磨きに努力する人は本当に少ない。休めるというのは惰眠(だみん)のことではない。

心磨きは日々意識しないと進歩はできないものです。

勝利者が勝ち取るものは敵意である。

敗れた人は苦しんで萎縮し、

心穏やかな人は、勝敗を捨てて

安らかに過ごす。
社会は、日常の暮らしを戦いの場にしています。
幼稚園の入園試験なども、子どもたちに、もう生きるか死ぬかと言うような戦いを強いている親もいる。そして競ってブランドに身を飾る。
ただでさえ、苦しむことがいっぱいあるのに、そんな余計なことまでして、苦しみを積み上げているのです。
それはあまりにも不幸な生き方です。わたしたちは「どうでもいいこと」に拘り、執着し、何とかして相手より優位に立とうとしたり、自分の強さや正しさを誇示します。

いちばん難しいことではあるが、己を知る人こそ真の勝者であろう。

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