井戸掘り名人

昭和の20年代頃までの農家では自家用水や農業用水は手掘りの井戸でまかなっていたのを憶えている。私が小学生の頃、父は反対する母の心配を押切り親戚などに井戸掘りを頼まれてよく出かけていったものでした。
落盤すれば命の保証がない危険な井戸掘り。私も何度か作業を見たものだが、深さが10メートル近くにまでなると光が少ししか届かなくなり、さすがに上から見ていても怖くて足元がすくんでしまう。せいぜい1メートルぐらいの幅でスコップとツルハシだけ、そして勘だけで曲がることなく正確にまっすぐ掘り下がっていく達人技だ。
1週間から土質の状況によっては2週間ぐらいも危険と隣り合わせの作業をもくもくと続けて、ついに綺麗な澄んだ水が湧き出してくる瞬間はみんなで歓喜の声をあげていたものでした。完成すれば労いの夕食に酒盛りとなった。無賃金奉仕である。当時は助け合いの一環であったでしょうが今の時代なら考えられないことです。
井戸掘りは簡単にはいかない、粘土質の層があったり、砂利の層があったり岩盤があったりで困難を極める作業です。
このような困難な井戸掘りの完成後には命を育む澄みきった水がいただける。なんと素晴らしいことだろう。まさに生命線である。
井戸掘りも人生なら、心を掘り下げることもまた人生に必要ではないだろうか。
人生には困難がつきものです。だからこそ無限に輝く心に誰もが気づき感動するのではないだろうか。
ただ心は見えないもの、計れないものです。どれほど愛する人にも私はあなたを50センチ愛しています。私の心は100センチあります。とは言わない。この地上に存在する物ならば寸法や重量や質量を測ることができますが心は測れない。
しかし存在するから表現もできるし、行動によって心を現すことができます。
人間が人間である所以は心があるからで、心が無かったならば心ない人になってしまう。心ない人とはエゴです。
いつもではないにしても時にエゴの人になってしまう人間。だから心を掘り下げて自分の本質を見失わない為の点検が必要だろうと思うのです。
本質とは傲慢や自己主張、虚栄、貪欲、不満、愚痴、そして最悪の怒りのない善なる澄み切った心のことです。人間には悪もあるが善もあります。しかし、自分の真の善を発見するために一度、掘り下げてたどり着いてみると綺麗な澄みきった水が湧き出す自分の心を発見できます。この心の井戸は自分を生かし、他を生かす無限供給の源泉です。
この源泉にたどり着くには方法がひとつある。
日々の自分の言葉と行いを客観的にみてチェックして間違いがあれば次から同じことをしないように改めることで達成できます。このような作業を毎日10分間、休む前に静かな状態で自己点検することです。ただ最小限、次の基準がある。正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ることの三つに沿って自分を省みる必要があります。
しかし、心が大切だからといっても現実的な生活を支えているのは経済です。
日本はこれまで繁栄の一途をたどってきました。でも豊かさを求めて先を急ぐ経済的効率だけを追求して大切なことを過去に置き忘れてきたように思います。
大切なもの、それが心です。お金は必要ですが、しかしお金で幸せは買えません。幸せに単位はありません。私は幸せだとは言うが、私は10キロ幸せだとは言わない。心に単位がないのだから幸せを数値には表せない。
幸せは夫々が感じることで気づくことです。人が羨むような豊かな暮らしをしてはいるが平和でなく、争っている。反面、貧しいが家族に笑顔があって幸せを実感している人たちがいます。
幸せも心も共通するのは肉眼で見えることとは違う点です。
大事なことを失っていない家族があることに無限供給の源泉をみることができて私まで心がほっこりとしあわせになる。
このしあわせは空のように広がる。
そう。無限大に。
 

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Posted by kansindo