心を「素」にする

心の毒を戒める
生活をしているといつの間にか物事にとらわれていたり、散々苦しみ抜いて大切なことに気づかされ眼から鱗、というようなこともあります。
生きるということは、心にいろいろなものを纏(まと)うことだ、といっていいかもしれません。
生まれたばかりの赤ちゃんの心は無垢だといいますが、まさに無心の状態です。
無心とは自我心がないということ。自我心がないということは、拘り、執着、偏り、こういったエゴがないということです。
しかし、時間の流れとともに、赤ちゃんの心も変化していきます。
周囲を思いやったり、大切なひとを愛したり、何かに情熱を傾けたり……。
それらはこころが育ち、変化するからこそなしうることでしょう。
しかし、それと同じように、いたずらに貪ったり、他人を恨んだり、妬んだり、周囲に怒りをぶつけたり、といったことも、変化した心から生じるのです。
以前の投稿でも心の毒には触れましたが、人間の心には三毒という「貪とん」「瞋じん」「痴ち」の心も潜んでいて、何かしら不都合なことがあるとこの三毒が顔をだしてきます。
貪は文字どおり、貪ることです。
物やひとに執着し、手に入れなければ気がすまない。自分が貪ることで他人や周囲がひどい迷惑をこうむっても、いっさい頓着しないのがこれです。
欲望のままに何でも求める一方、得たものは、絶対、他人にほどこそうとはしませんし、求めるだけ求め、囲い込むだけ囲い込むのです。
瞋は怒りです。
とにかく自分の気に入らないことに対してはひたすら怒りをぶつけるのがこれ。
自分を見つめることもなく、努力することもしないで、怒りのエネルギーを爆発させる。
社会や組織には必ずと言っていいほど矛盾や不条理、不合理があるものです。
そういったことに対して、批判すべき対象や修正が必要なものは、あって当然です。
ただし、怒りを向けるばかりでは、それらは決して変わりません。
怒りを静め、理性をもって叡知を集めることで、はじめて変わることができるのです。
人の毒を食べないこと
心を曇らす元凶、瞋については、こんな逸話があります。
あるとき、弟子がお釈迦さまの批判をはじめました。
黙って聞いていたお釈迦さまは、その弟子にこう聞いたのです。
「おまえは、他人から自分が欲しくないものをあげようといわれたら、どう返答するのか?」弟子は答えました。
「そんなものはいらない、と断ります」
それを聞いたお釈迦さまは、弟子をこう諭しました。
「わたしもおまえと同じ答えをしよう。いま、おまえがわたしにいった言葉は、わたしにはいらないものだから、返そう」
相手を批判したり、攻撃したりする言葉も、怒りから生まれます。
しかし、その怒りは相手の反撃の言葉を誘うだけです。
これを反作用といいます。作用すれば反作用がつきもの。
怒りは怒りを誘い、怒りがぶつかり合い、拡散することになるります。
お釈迦様の逸話は怒りを言葉にすることの無意味さを教えています。
痴は愚かな心
やらなくてはならないことをしなかったり、他人の成功を羨んだり、何でも思い通りにしようとしたり……。ものの道理を知らなかったり、知恵がないゆえに自分が暴走したり、それが痴です。
人間が苦しむ根本的な原因は、この心の三毒にあるということをお釈迦様は2500有余年前に説いておられます。
およそいっさいの病は貪瞋痴より生ず。
まさにその通りと思います。
この三毒から離れるには、こころを”素”にすることが必要不可欠な要件だろうと思うのです。
素(す)になるとは、心が纏(まと)っているよけいなものを削ぎ落としていくのです。
元々は、だれの心にも神性仏性が備わっているのですが、この心に気づくところからすべてがスタートします。
7900b花一輪をみて「ああ綺麗だな!」と思える心がそれです。
img_4落ちてゆくのに、まだ赤々と燃えている夕日が心にどう映るか・・・・ここにも仏心があります。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ有り難く思います。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
岩手県 盛岡市 カウンセリング うつ病 パニック障害 自律神経失調症 アダルトチルドレン DV 悩み相談 無料 奉仕 スピリチュアルワーク 摂食障害 過食症 拒食症 家庭問題 仕事のモラル 人間関係 宗教被害 霊障 整体 カイロ アロマテラピ