音のない世界

私たちの身のまわりにはテレビやパソコン、音楽や、騒音、車は道路のあるところ、どこでも走っています。町にはいつも賑やかな音楽や広告音声と、ありとあらゆる音が聞こえている。

私たちは常に見ることや聞くことを強いられた状態で生活をしています。また思うことや考えることも強いられている部分もあるなかで、常に何らかの音の中で生きていることになります。

試してみるとわかりますが、テレビを見るときに目を閉じて声だけを聴いていると画面を見る場合よりも深く理解できることに気づきます。視覚を遮断することで想像する意識が働く。

これは画面を見ることによって目から入る情報が染められたり汚されたりすることなく音声だけがストレートに心に伝わってくるためです。

私は坐禅をする習慣をもっています。全ての電子機器の電源を切ってしばらく明かりを豆電球だけにして目に入る光を最小限度にします。ローソクの灯りが丁度よい明るさです。蛍光灯の白い照明に比べたら白熱灯やローソクの炎は眼に優しく入るのがわかるでしょう。

こうしてわずかな時間を坐禅に向けるのです。坐禅に入る前にテーマを決めて思考してみる習慣は心を成長させ生き方を変えていきます。

音声や映像のない状態では静寂のなかに心が広がっていくことを実感できます。音なき音を聴く。声なき声を聴く。

つまり静寂のなかに五官をあずけたときに広がる感覚は宇宙の鼓動として受け止めるのです。しばらく瞑想状態が深まってくると雪の降る様子が感覚的に伝わってくるのがわかります。実際は聞こえるはずのない雪の降る音を聴くのです。ちょっと抽象的で理解しにくいでしょうか。

瞑想は感性を磨きます。わずか15分でもすべての音を遮断して静かに過ごす時間を作ってみてください。必ず今まで気づかなかったことに気づき、今まで見えなかったことが見えるようになってきます。

そして道が逸れても自分で軌道修正するようになるし、脱線していた人は脱線しなくなってきます。つまり自分自身をコントロールできるようになってくるのです。そして生き方が変わってくるでしょう。見えなかったことが見えるというのはこういうことです。

人、観えざるもの己が為すこと。

人、失い易きもの己が心。

人、よく見え易きもの他人の為すこと。(観童)

自分のことへの思い煩いでいいっぱいだと、他人のことを思いやることができなくなってしまいます。病気を克服する条件は、今なにをすることが大事なのかです。原因にばかり囚われていては今必要なことがおろそかになります。

しかし、先を憂いて心を暗くしてしまうことは進歩の足を縛ることになります。

心の病は体の病を克服することと同様の心得が大事。

山にあっては山とともに。

里にあっては人とともに。

病にあっては病とともに。

何事も逆らわずともに生きる。(観童)

人生はやりなおせる

水谷修氏55歳 横浜市立高校教諭時代から夜の街を見まわり、青少年たちの非行防止のために連日の夜間パトロール活動をする。夜回り先生と呼ばれて話題になりNHKでも取り上げられた。

夜回り先生こと水谷修氏に、ある時30代後半の女性から一通の手紙が届いた。彼女は東京の繁華街に住み、中学時代に明日を失い、夜の街で仲間たちと遊びまわっていた。

その時の仲間の一人である、ある男性が末期のガンとわかり、お見舞いに病院に行ってきたことが手紙につづられていた。その彼はベッドで苦しそうに声を絞りながら、訪ねてくれた彼女にこう語りだした。

『10代の頃、俺たちは荒れていたよな。自分のことしか考えない酷い親や、俺たちを邪魔者扱いする先生たちに反発していた。池袋の夜の街でいつもつるんでいた。憶えているか?お前が中3、俺が18歳の夏休み。いつも通り、夜遅くに駅前の公園でつるんでいたら、スーツを着たおやじが近づいてきて話しかけてきたこと。

(うざい、どっか行け)っていっても、そばから離れずに、(おまえの目はきれいだな、昼の世界で働いてみないか。センスなかなかだな。どうだ洋服屋でバイトしてみないか?)と話しかけていた。

俺がブチ切れてあいつを押し倒したんだ。あいつのすっ飛んだ眼鏡を俺が踏みつぶしても、あいつはすぐに立ち上がった。(元気がいいな。ボクシングでもやってみるかい。知り合いがジムをやっているよ。)と、何事もなかったようにまた話しかけてきた。

結局はこっちが根負けして、あいつから名刺をもらって家に帰った。俺はあの人の優しい目と言葉が忘れられなくて、あの日から変わったんだ。ふてくされるのをやめて、夜間の工業高校に通って一生懸命勉強した。働いた。そして今は小さいながらも工務店の社長になった。

おまえ、夜回り先生って知っているか?あの時のおやじが、夜回り先生だったんだよ。数年前に偶然テレビであの人を見たんだ。辛い時はいつもあの人の顔を思い出した。

いつか一人前になったら、壊したメガネ代を持って(あの時の非行少年が、あんたのおかげでこうやって一人前になったよ)って、話したくて。でもこんな体になってしまって間に合いそうにもない。

頼む、昔の仲間のよしみで夜回り先生の連絡先を探してくれないか。そして、きょう俺が話した事を伝えてほしいんだ。俺の代わりに、謝ってほしいいんだ。

読み終わった夜回り先生は手紙を握りしめて泣いた。嬉しくて、哀しくて。切なくて、夜回り先生は余命幾ばくもない彼にありがとうと伝えるために病院におもむいたという。

無気力や何かに反発しながらいつもイライラして生活している人もいるが、それは子供だけではない。いい年齢のおやじでも些細なことで争っている光景を見ることがある。マナーを指摘されて逆切れするケースもあるし、なかには傷害事件にまでなることもある。年は重ねているが心が成長していないのは悲しい。

夫婦でもお互いが自分の我を通すなら心が寄り添うことはない。何かを盾にして自分を弁護したり、できない理由にしたり、やろうとしない理由にしたりする。

その何かは病気であったり、負い目であったりすることが多い。

逃げの理由が必要なだけである。

逆切れして相手に暴言を吐くのも、暴力をふるうのも根本は甘えの精神構造から発する。

愛は誰からはじまるのか。

あなたの胸からです。

いつからはじまるのか。

共にいたわるときからです。

もし私たちが謙虚ならば。

ほめられようと、けなされようと、指摘されようと気にはならない。

もし誰かが批難してもがっかりすることはない。

反対に誉めてくれたとしても自分が偉くなったように思うことはない。

 

足し算 引き算

私の学生時代は特に数学と英語が大の苦手であった。しかし、そんな自分が今は足し算も引き算も応用しながら生活している。

足し算、引き算、割り算、掛け算は何も数学だけの世界ではない。

人生から愛を引いたら何が残る。

土地から水分をひけば砂漠になるようなものだ。

引いて良いのは手を引いてやること。

引っ張ってよくないのは人の足。

足して良いのは愛。

増やして良くないのは欲。

引いていいのも欲。

かけてよいのは暖かい声。

賭けて良くないのは金。

割ってよいのは喧嘩。

割って良くないのは仲。

特に減らしてほしいのは煩悩。しかし、これが一番むずかしい。

引いてよくないのは過去。

増やさないほうがいいのは未来の心配と不安。

増やしてほしいのは通帳の数字より信用。

人生に愛がなかったら、人に生まれて親を愛することもできず、親から愛されもせず、齢ごろになっても誰も愛せず、誰にも愛されなかったら、親になって子どもを愛せず、子どもに愛されなかったら、何を見ても、花を見ても山を見ても愛する気がなかったら、人生は無味乾燥なものであろう。

渇愛(かつあい)という言葉がありますが、人生には幸せと思えることがたくさんあります。でも、愛がなければ、心は乾いたままなのかもしれません。

愛がないと思うとしたら、それは愛の対象がないのではなく、自分に愛する心、愛を感じる心が足りないのではないでしょうか。

自分を愛してくれる人、幸せにしてくれる人を探したら、なかなか見つからないかもしれません。

でも、自分が愛したい人、幸せにしたい人なら、気づかないだけで探せば見つかるのではないでしょうか。自分が幸せになりたいように人を幸せにできるようになれたら、と思います。

人を愛する心を持ち愛の行為を実践できるようになれば、きっと自分を愛してくれる人も現れると思います。

また、人を愛することを知れば、人の愛も感じやすくなるでしょう。
自分が人を愛さずに、人から愛されたいと思うのは順序が逆ではないでしょうか。

また、愛する思いがあっても、行為として表さなければ、ないのと変わりありません。
愛の対象は、人だけではありません。

たとえば、動物を愛することも、自然を愛することも、仕事を愛することも生活を愛することも、自分を愛することもできます。
愛することで重要なことは

相手のいい所・相手の存在を幸せに感じること、

相手を信じる自分であること。

相手の現在と将来の幸せを考えられること。

困難も共にできること、・・・。

何かを愛する方法は人それぞれにいろいろあると思います。
愛の幸せは一時的なものではありません。
愛するものが存在するかぎり、愛し続けることができます。
日々の生活の中に愛があれば、心に潤いを保つことができるのではないだろうか。

愛と慈しみは永遠です。

 

目的と条件

人生にとって健康は目的ではない。しかし最初の条件なのである。『武者小路実篤の言葉』

私も同感です。

健康の価値は病気して初めてわかる。しかし健康になってしまえば、もう健康のことを忘れる。忘れるところがおもしろいところでもある。
人間の目的は健康にあるのではなく、地上でなすべきことを完全になしてゆくにあるのではないか。その為の条件として健康は大事なものであると捉えています。

健康は大きな幸せの一つだと思います。
健康だから得られる幸せがたくさんあります。
ただ、そのことに気づけるのは健康を損ねた時、という人が殆どなのだと思います。そして、健康になると忘れてしまいがちなのでしょう。
病気やケガをして、健康の大切さに気づけた人は、それをいい経験として、その後の生活に活かすことができたらそれが一番いいことです。
そうでない人も、“健康だから得られる幸せ”を考えてみることで、健康の大切さに気づけたらいいのではないでしょうか。

私が思うに健康のためには、快食、快眠、快便と「栄養・休養・運動」の3つが大事だと思います。
この3つのポイントについて、現在の自分の生活を振り返ってみて、足りない所を補う対策を考えられることをお奨めする。

また、食べる喜び・休む心地好さ・体を動かす楽しみというようなものを、より意識して感じられるようになれたらいいのではないだろうか。
その際に、「健康でよかった(幸せ)」と思えたら、なおいいですね。
体の健康と同様に、心の健康も大切です。幸せになるためには、むしろ心の健康のほうが大きいと思います。

心の健康のためにも心に休養と栄養と運動が大事だと思う。
この3つをヒントに、心にいいことを考え、生活の中で実践できるようになれたらいいでしょう。
と言っても、健康のために生活するのではなく、幸せに暮らすために健康を大切にする、ということを忘れてはならないと思います。

この考え方の順序はとても重要な役割をもっています。心の健康から肉体の健康ですね。
健康のためと無理や我慢をしすぎて、生活を楽しむこと幸せを感じられることをおろそかにすることもまた偏り過ぎです。

心の休養・栄養・運動

心の回復にも休養・栄養・運動が有効だと思います。
心の休養には、やすらぎの時間をもつのがいいでしょう。自分なりのやすらげる場所/やすらげる人/やすらげる音楽などもいいでしょう。
そして大事なのは、悩みや問題から心が解放されることですね。

このような時間を意識してもって、心に休養を与えることを考えてみてはどうだろうか。
幸せを感じることは心の栄養になるでしょう。

生活の中で愉しめることや幸せを感じられることを大切にすることが大きな要素です。
悩みを抱えていたり、心が疲れている時ほど、幸せを感じられる時間と回数をいつもより増やせるように心がけられたら、と思います。

「心が動く」ということがあります。感動したり、ワクワク・ドキドキしたり、そういうことが心の運動になると思うのです。

元気が出でない時には、少しでも心が動くようなことをしてみることが有効です。
たとえば、感動できる映画を見たり、本を読んだり、芸術を鑑賞したり、自然と親しんだり、・・・。
また、将来の夢や愛する人のことを考えて、少しでもワクワク・ドキドキできたら、それもまたいいでしょう。
ここに書いたような心がけをしても、どうしても元気が出ずに、生活も辛い状態が長く続くような場合には、心に根本的傾向性の問題が潜んでいる可能性もあります。このようなときは専門分野のカウンセラーに相談してみるのも自分を知るきっかけになり新たな展開になるものです。この点についてはご相談くださってもよろしいです。

同じような環境のなかでも苦痛に感じる人や普通に過ごせる人がいるのは何故か、問題は環境以上に自分自身の感じ方、受け止め方、対応の仕方にあります。それが個性でもあり、心の傾向性でもあります。

苦しみから抜け出せないでいる場合によくあるパターンは過去を引きずって過去から抜け出せない、今の出来事にこだわり心を縛っている、未来を考えて不安をあおっているなどです。このような心の使い方は自分を苦しみのなかに埋没させます。

気づいてみると幸せは自分のなかにあったということです。

 憎しみのあるところに愛を

争いのあるところに許しを

疑いのあるところに信を

絶望のあるところに希望を

闇のあるところに光を

悲しみのあるところに喜びを

慰められるよりも慰めることを

理解されるよりも理解することを

愛をのぞむより愛することができるように生きたい。

 

欲望 理性 道徳心

農家の人が畑の脇に出している直売は今や珍しい光景ではない。

新鮮な野菜が安価で買えることが私たちにはとても有り難い。冬の時期は出さないが初夏の頃になって野菜が出始める季節になるとまた野菜や果物が並べられてにぎわう。

近所の農家の人との会話のなかで聞いた。残念ながらお金を入れないで作物だけを持ち去る人が後を絶たないという。滝沢村でもそれで逮捕者が出たことがある。農家の人は悲しいといっていた。

いい大人がわずか数百円のことで盗みをする。

陳列棚のところに大きな鏡を置いて『あなたの心を見てください。』とあったのには驚くと同時に妙に感心もした。してやったりだなと農家のお婆さんのとんちに脱帽だった。

私たちの体の中には私たちを動かしコントロールする三つの働きがあります。

一つは『からだの声』一つは『頭の声』一つは『心の声』です。

『今なら誰も見ていない、盗もう』これは体の声です。

『いや、もし誰かに見られたらまずいことになるかも』これは頭の声です。

『もし、盗んだらこの野菜を作るために汗した農家の人の心を悲しませる。ちゃんとお金を置いていこう』これは心の声です。

私たちはどの声を大事にしていくべきだろうか。言わずと決まっています。

つまり体の声は肉体の五官に支配されやすく欲望からの声と知っておく必要があります。

頭は理性の範ちゅうで働いていることも理解できるとおもいます。

心の声には道徳心があり、相手を思いやる愛があります。

そういう私には数えきれないほどの失敗があります。恥ずかしいほどのたくさんの失敗があります。多くの人も傷つけました。

だからこんな私が言いたいのは述べた三つの声を聞き分けること。そして、自分の人生の為に心の声を聞いて生きることです。

例えば健康になりたいと言いながら不必要なものを体に取り込むこと。

痩せたいと言いながら間食や美食に目がないこと。

給料が安いと不満を言いながら必要にではなく欲しいものに贅沢をすること。

せっかくボランティアをしながら不満と批判に明け暮れること。

自分が歩いてきた道なのに子供を馬鹿にして感情的に怒ってばかりのこと。

自分もやがて行く道なのに老人を邪魔もの扱いにすること。

そんな時の目は優しくない。

だから、みんな体の声ではなく心の声を聞いたら皆が笑顔をみられるのに。

あなたの言葉に元気をたくさんもらいます。

あなたの笑顔にしあわせたくさんもらいます。

ありがとう。

笑顔が元気の源

しあわせの種。

 

驕(おご)るなよ

自ら望んできたのに差し出された御馳走を食べない。

理由は御馳走をいただく前に別な物をたらふく食べてきたから。

自ら望んできたのに素晴らしいティータイムに差し出された美味しいハーブティーを飲めない。

理由はさっき缶コーヒーを2缶飲んできたばかりだから。

ある奥様から相談をいただいた。『御主人が昼夜なく酒びたりで困った。何かよい手立てはないものか』と。

しかし、どのように立派な名言も、どれほど素晴らしい改善ヒントの言葉もせっかく望んで来た相談者の心に入っていかない場合があります。

私たちの頭は考え記憶し、心で思う働きをするのですが、頭も心もある種の器のようなものです。器ですから入る量には限界があります。

悩み苦しみのなかで、どうにもならなくなって相談にみえても頭も心も満杯でおいでになりますから、いくら私が美味しいハーブティーを差し上げてもお腹に入らないのですね。

相談者の頭も心も自己中心的な価値観によって余分な知識と悩みでいっぱいなのです。そして、その余分なものを器から捨てて空にしようとしません。これでは美味しい御馳走も、美味しい飲み物もいただけないはずです。

望んでご馳走をいただきに来るのに自分の器を満杯にしてきたらその器にはご馳走をいれてあげられないし、本人も食べることができません。

改善のヒントというのは差し出したハーブティーのことです。頭も心もゆとりがないから希望のヒントを差し出しても溢れだしてしまいます。だからこそ頭も心も一度リセットしてすっきりせる必要があるのです。

これは悩んだり苦しんだりしている子供や大人に忘れなさいと言っているのではありません。一度吐き出して脇に置いてくださいといっているのです。

しかし、ヒントを生かせない人の傾向としてあるのは、これまで憶えた知識や体験、そして生活習慣のなかで間違った価値観や片寄った価値観に縛られて身動きがとれないということです。

どうしても自分自身が変わろうとせず相手を変えたがります。経験からくる価値観を手放せなければこれまでのように改善ができないまま愚痴の生活をするしかありません。このような人には言葉が聞こえてはいても心には届いていないのもよくわかる。

また返事はしてもそれを行動にできない。明日への希望やヒント、智慧はこれまでの記憶や価値観をゼロにしたときから生かされます。相談者はご主人から『驕るなよ』と一言いわれたと話していた。

確かに仕事もよくこなし、周りにも気配りし、人生経験が豊富な奥さんですが、言葉と態度で人を威圧する傾向にあった。普段は能弁なご主人も、奥さんの前ではもの言わぬ人になってしまっていたようです。自分を知ることの大切さはここにあります。

定期的に頭と心を空にしてみることがとても自分を楽にしてくれます。

今まで見えなかったことが見え始めます。

太陽のしたで冷たい空気を胸一杯に吸い込んでみてください。

無邪気に溢れた子供の顔。お年寄りの顔に刻まれた優しい年輪。

吹雪のなかで春を待つ木々。梢でさえずる野鳥の声。

このようなことに心を向けることを忘れたくない。

自分も世界も見詰め直す。私はこうして生きています。

驕(おご)り⇒思いあがること。いいきになること。

 

今を大切に生きる

過去に囚われない、先を思い悩まない。

相談者とよく話題になるのがいのちの話しです。よく聞かれることのひとつに、『あの世はあるか』という問いかけです。あなたはどう思っていますか。

私はあなたがあると思えばあるし、ないと思えばないとしか言えません。

一般的には誰も確認のしようがないというところです。しかし、実際はあります。私はわかります。 ですがそのことに関してはこの場では割愛します。

大事なことは確認のしようがない、あの世の存在の是非を問うこと以上に、いま生きているあなた自身が存在しているという事実です。これだけは疑いようのない確かな現実です。

だから私たちに大切なのは、確かな事実である今の時間をどのようにして実りあるものにして生きるか、ということです。変えることのできない過去に拘り、その亡霊に悩まされて大事な時間を汚すことや、先の話しである、あの世を思い日々悩み、今の大切な時間を浪費するのはとても勿体ないことだと思うのです。

肉眼で見えないものは認められない。手に触れないものは存在を認められないとする五官に頼った生き方をする私たちには、あの世の存在を確認する術はないのです。

であれば今を大切に精いっぱい生きることが明日の幸せにつながるでしょう。

更にもうひとつ、『死んだら人間は終わりなのか、何もないのか』という問いかけには『肉体は滅びるが、滅びないものがある』と答えます。

これは私、観童という人間の形は灰になり大地に帰り大気中にも帰るのですが、なくなったという概念にはなりません。形が変わっただけです。大きく言えば宇宙に還元されただけのことです。

その意味で地球の全ての生命体はこの繰り返しの中で生きてきました。これが私たちの定めでもあります。だからこそたくさんの汗を流し、優しさを分け与え、今をひたすら生きることが尊いのです。

私の両親は他界していますが、私の心には父も母もいます。母が休む姿や寝込んでいる姿をみたことはありません。そんな母はいつの間にか私の鏡になっていることに気づきました。

時折、父と母を思うのです。やはり人間は死んで終わりではないのです。あなたの生き方や心はやがて子孫の心に受け継がれていくのです。

一人一人の命はとても尊いものです。

『天上天下唯我独尊』天にも地にも我ただ一人の命は尊いものである。(釈迦牟尼仏)

 

死にかた勉強会

人は自分の意思でこの世に生れてきたのか、自分の意思とは別の力によってこの世に生れてきたのか、おそらく誰もわからない。そして、いずれ死にます。

私たちは死を避けて通ることはできません。死については全く選択の余地がない。

でも死の寸前までの生き方は一人一人が自由に決めることができます。

一つは『いずれ死ぬのだから何をしても無駄なことだ』と、今の楽しみだけを追う生き方。

二つは『苦しい、辛い』といって、いつも死に怯え、哀しみのなかで生涯を無為に暮らす生き方。

三つは『死は避けられないことだから、考えない方がいい』と、日々の暮らしだけの生き方。

四つは『限られた人生を、少しでも愛する家族や、人の為に、社会の為に生きたい』と、思いながら何かしら行動する生き方。どれも、それぞれに意味をもった生き方です。

このブログを読んでくれているあなたは、どのような生き方をし、選択するのでしょうか。

私自身がどれだけ結果が伴っているかと問われれば全く答を出せませんが、私は四つ目の生き方を選んでいます。

齢62歳ですが仕事も現役で働けています。これほど有り難いことはない。空いている時間を少しでも人の為に費やしたいと合間を見て、悩める人たちの話を聞かせていただいたり、月に一度の『心の教室』に向けています。

やがては私にも間違いなく死がおとずれます。死の間際には、『よく頑張ったな、御苦労さまでした。』と、自分自身に言えるような充実した生涯を過ごしたいと思います。

だから相談にくる人々に笑顔が戻ることを願い、それを楽しみにして私にできることを日々、ひたすら続けています。

愚かなときの人間、賢い人間、誠実な人間、どれも人間です。私は人間が好きなのです。

無邪気に遊んでいる子供をみると顔が緩んでしまう。

また山に入れば山が好き、海をみれば海が好き、生きとし生けるもの全ての命が素晴らしいと思う。

大人はこどもたちに死に方の手本を示さなければならない。そのためにも生き方の手本を示さなければ、こどもたちは大人になれないと思う。

死に方勉強会、これもまた人生ではなかろうか。

 

自傷行為

自らの身体を意識的あるいは無意識的に傷つける事を言う。

日本ではリストカットの子供が多い。虐待トラウマ心理的虐待及び摂食障害低い自尊心完璧主義、自己存在のアピール、愛情欲求、自己否定との相関関係によるところが大きい。

しかし、その根幹は家庭環境の影響によるところが多い事を注目しなければならない。

 生き抜いて

いのち、不思議なものです。

望まなくても与えられ、望まなくとも、いずれ失われる。

でも、ほんとうは望んで与えられたいのち。

いのち、すばらしいものです。

生きているから、たくさんの美しいものと出会え、

生きているから、多くの素晴らしい出会いを手にします。

いのち、哀しみです。

いのちを失うこと、死は

すべての人の心に、深い哀しみを刻みます。

いのち、喜びです。

新しいいのちの誕生は、

すべての人の心に無上の喜びをもたらします。

いのち、大切なものです。

私たちは、生きているからこそ、

幸せになれる。誰かを幸せにできる。

 

与えられたいのちを精いっぱい生き抜く

この頃は朝の冷え込みも厳しくなってきた。岩手山麓での朝六時。愛犬の散歩はしっかりと冬装備しないと上着を通して肌まで寒さがしみ込んでくる。

それでも来月の2月5日頃には立春を迎えます。

厳しい寒さの中でもほんの少しずつ芽を膨らませ、やがて4月には桜が春の到来を告げる。

春の強い風に耐えて雄々しく咲き誇る花びらも、風にさらされて川面に舞い落ちる花びらも、どちらも美しい。精いっぱい生き抜いた桜花の姿は潔さを想像させて私たち日本人に愛される。

桜もいのち。

いのちは、どう生れたかとか、どう失われたかの生や死で語るより、どう生きたかを習い、語りたいものと桜の散り際に思う。

人間の生れに東西南北はあっても、国の違いがあっても、心には東西南北や国の違いはない。

心には国境がありません。

去年の震災からもうすぐ一年になるが、生きたくても生きられなかった多くの尊い、いのちを思う時、哀しい、辛いという言葉で語ることは簡単ですが、

しかし、それではいけない。みんな与えられたいのちを精いっぱい生き抜く。

吹雪のなかの木々に思いを馳せてみると、生き抜くことの大切さと命の意味を私に教えてくれている。もう少しで春が来る。

自傷行為は身体を傷つけるがその前に心が傷ついている。大人はこどもたちを知らなすぎる。

かつては自分が歩いてきた道、大人は先ず自分を知らなければならない

離婚

離婚すべきか否かを迷っている若い夫婦への提言ですが、不幸な結婚は解消して新しい人生を出発した方がいい場合もある。
しかし誤解のないように。離婚を推奨する意味ではないことを言っておきたい。

人生80年の貴重な時間を憎みあいながら同じ屋根の下で暮らすことはない。
人間は誰でも失敗をするし、過ちも犯す、それなのに間違ったと思ったときに
その結婚を解消することに躊躇することはないと思っている。
しかし、それはあくまでも努力をしてそれでも「だめならば」ということである。
努力もしないで結婚生活が自分の思うように行かないからと言って、すぐに別れたほうがいいというのではよくない。
二人の関係がうまく行っているときには元気が出る。しかしまずくなれば気力を失う。
それは誰でも同じである。出来れば離婚をしないで一生を過ごせればそれに越したことはない。
それに越したことがなければ、先ず、どうすればよいかということです。
子供にしても両親が仲よいほうがいいに決まっている。
子育ては両親が仲良くしていて、且つ、押し付けの教育バカにならなければそれほど心配することはないというのが私の持論です。
ただ仲が悪いのに一緒にいるくらいなら別れたほうが子供のためだともいう側面もある。
私は離婚が子供のために悪いと思っている。

しかし両親が心を触れ合わないで緊張した空気の中で一緒に住んで子供に悪影響を与えるのはもっと良くないと思う。

最善の結婚生活を続ける方法は何か。
更に、どこで離婚に踏み切るのが望ましいかの判断基準があれば心も楽であろうと思う。

男女の離婚理由ランキング

★(1)性格の不一致(双方)

★(2)異性関係。(双方)

★(3)夫が暴力を振るう&妻が家族親族と折り合いが悪い。

★(4)夫が生活費を渡さない&妻が浪費する。

★(5)夫からの精神的虐待&妻の異常性格(感情、怒り、嫉妬)

危険信号

◎トラブルの原因を相手のせいにして自分の主張ばかりする。

◎発生した問題をいつも避けてばかりで解決の努力をしない。

◎離婚を考えている夫婦のなかで、子供の表情が暗く沈んできたり、問題を起こしたら赤信号点滅

性格の不一致という言葉を離婚の理由に挙げるのが調停の記録でもトップである。厳密に考えると地球上の人間総人口70億人、似通ったところはあっても、誰一人として同じという人間はいないであろう。性格が一致したものだけが結婚生活をうまくできるのかというと決してそんなことはない、性格の違う二人がうまくやっている夫婦は世にたくさんいる。

逆に、性格が違うからうまくいっているという夫婦がいる。

となると、性格の不一致という言葉の持つ意味はなんだろうか。

●単に価値観の独走にはなっていないか。

●あるいは価値観の押し付けにはなっていないか。

●協調性と思いやりの欠如はないのか。

●相手に求める気持ちが先になっていないか。与える愛があるか。

●受け止める姿勢ができているか。望むことが多くないか。

このような五つの事柄ができいていたなら争いも起こるはずがないし、性格の不一致という言葉で離婚理由ということにはなるはずがない。

こういったことで努力をして、どうしても無理ならば離婚も止む無し。

環境を変えて新たな人生を歩んだ方が心の調和につながるであろう。

夫の暴力

『窮鼠猫を噛むという諺がある。』追いつめられたねずみが猫にかみつくように、弱い者も追いつめられると強い者に反撃することがある。

夫婦で夫が弱い立場だとは言わないが口では妻に及ばないという人が結構いる。夫は自分に非がある場合は勿論だが、非がない場合でも理詰めでやられたら口では女に敵わないし、最後は悪いとは知りながらもブレーキが利かず手をあげてしまう場合が多いという。

もっと悪いのは自分の非を反省するでもなく悪態をついて女房に手を挙げるパターンである。これなどは弁解の余地はゼロである。

異性関係

これは離婚理由として男女ともにと言いたいが男性からの申し立ての方が多い。

古い話しですが昔は旦那様といわれた財産家の主が、経済力に物を言わせて外に妾を持っていたことはよく聞いた。

不思議なのは正妻も暗黙のうちにそれを了承していたのか、せざるを得なかったのか特別に争いを起こさず暮らしていた時代もあったのは日本だけではない。

愛のない欲望だけに暴走した関係は嫉妬と恨み、憎しみを誘い、やがて怒りが暴発することになる。

妻が家族親族と折り合いが悪い

これは妻だけを指摘するように取り上げるわけにはいかない。そういう結果に

ならざるを得ない環境の元には身近な理解者であるべき夫の不理解と非協力てき自己中心な行動が隠されている場合がある。むしろ夫が家族の中心となるべく努力をするなら妻の立場も随分と和みやすく、余分な緊張は生まれてこない。

弱い立場の妻を補う夫の立場はとても大事なのである。

夫が生活費を入れてくれない。

これはただ一つ、失業を除いては一切の言い訳はできない。弁解の余地なしである。離縁状を叩き付けられても文句はいえない。

妻が浪費する。

これは欲しいものを買うか、必要なものを買うかの金銭感覚であろうか。

経済的に余裕があれば欲しいものを時には買うも潤いをもたせる意味ではいいでしょうが、家計が苦しいのに欲しいものを買うわけにはいかないでしょう。それを浪費といえばその通りです。これは心の在り方に問題ありです。そして工夫が必要です。欲が勝ってはお金に不自由するのは当然。

夫からの精神的虐待

これは明らかに夫の心に闇が存在する。それも幼少期における抑圧と親からの精神的虐待に悲しい思いをした経験が心の中に潜在していると思われる。特にお母さんから。自分一人で解決できる問題ではないだろう。

妻の異常性格

妻の性格が異常なのか夫の心が狭すぎるのか。いずれにしてもこの問題は嫉妬が大きく存在している。

なんでもないこと、気にするようなことではない話題にさえも執拗に夫を問い詰めてくる。これはやはり尋常ではない。

このような背景には夫に問題がなければ、妻の心にトラウマが存在する。

過去の恋愛で嫉妬するような事実があって未解決のまま心にしまい込んだ。

あるいは、母親が嫉妬で夫に詰め寄っていた幼少期、社会での同僚同士での嫉妬など。嫉妬の背景には愛に飢えた心が覗える。また自己中心てき、自己保存の自意識が強く常に自分を優位に置きたいという自我が潜在する。

これは自ら率先して心の在り方を、そして愛の在り方を学ぶことが幸せにつながるであろう。

自然も人生も営みは一如。生涯にわたって波風のない日はなく、春夏秋冬のなかで生かされている。