音のない世界
私たちの身のまわりにはテレビやパソコン、音楽や、騒音、車は道路のあるところ、どこでも走っています。町にはいつも賑やかな音楽や広告音声と、ありとあらゆる音が聞こえている。
私たちは常に見ることや聞くことを強いられた状態で生活をしています。また思うことや考えることも強いられている部分もあるなかで、常に何らかの音の中で生きていることになります。
試してみるとわかりますが、テレビを見るときに目を閉じて声だけを聴いていると画面を見る場合よりも深く理解できることに気づきます。視覚を遮断することで想像する意識が働く。
これは画面を見ることによって目から入る情報が染められたり汚されたりすることなく音声だけがストレートに心に伝わってくるためです。
私は坐禅をする習慣をもっています。全ての電子機器の電源を切ってしばらく明かりを豆電球だけにして目に入る光を最小限度にします。ローソクの灯りが丁度よい明るさです。蛍光灯の白い照明に比べたら白熱灯やローソクの炎は眼に優しく入るのがわかるでしょう。
こうしてわずかな時間を坐禅に向けるのです。坐禅に入る前にテーマを決めて思考してみる習慣は心を成長させ生き方を変えていきます。
音声や映像のない状態では静寂のなかに心が広がっていくことを実感できます。音なき音を聴く。声なき声を聴く。
つまり静寂のなかに五官をあずけたときに広がる感覚は宇宙の鼓動として受け止めるのです。しばらく瞑想状態が深まってくると雪の降る様子が感覚的に伝わってくるのがわかります。実際は聞こえるはずのない雪の降る音を聴くのです。ちょっと抽象的で理解しにくいでしょうか。
瞑想は感性を磨きます。わずか15分でもすべての音を遮断して静かに過ごす時間を作ってみてください。必ず今まで気づかなかったことに気づき、今まで見えなかったことが見えるようになってきます。
そして道が逸れても自分で軌道修正するようになるし、脱線していた人は脱線しなくなってきます。つまり自分自身をコントロールできるようになってくるのです。そして生き方が変わってくるでしょう。見えなかったことが見えるというのはこういうことです。
人、観えざるもの己が為すこと。
人、失い易きもの己が心。
人、よく見え易きもの他人の為すこと。(観童)
自分のことへの思い煩いでいいっぱいだと、他人のことを思いやることができなくなってしまいます。病気を克服する条件は、今なにをすることが大事なのかです。原因にばかり囚われていては今必要なことがおろそかになります。
しかし、先を憂いて心を暗くしてしまうことは進歩の足を縛ることになります。
心の病は体の病を克服することと同様の心得が大事。
山にあっては山とともに。
里にあっては人とともに。
病にあっては病とともに。
何事も逆らわずともに生きる。(観童)
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