欲望と憑依

今朝は人間の欲望が招く地獄絵的な生き方について実話をお話しさせていただきます。
つい先日、お寺の総代をしているという50歳の男性から相談を持ちかけられた。
彼は話しにくいのか遠回しな話しでなかなか本題に入ろうとしない。
私から切り出した。『選択肢は二つ、疑問と迷いがあるならそれを辞めるべきです。その人に関わって自分の学びとなり、心の修行になるのならばこれまで通り続けていいのだが。』と話したら、
相談者は『えっ、やはりそうか。わかっていましたか?』といったが実際のところ詳細について私はまったく何も知らないし解りようがない。
ただそのように口を突いて出てきた言葉が本人にとっては図星と思えたのでしょう。相談者はお寺の総代を辞めたいと思っていたらしく、それで相談にみえた。住職の汚い生き方に嫌気がさしてのようだ。
そのお寺は盛岡市内の中心地にあり、真言宗の寺院として護摩を焚き加持祈祷をするところです。しかし、護摩を焚く加持祈祷は本来、仏の教えにはないことであり仏教ではありません。
その意味でいえば、人間の心の修養には形式的な宗教のパフォーマンスは不必要です。
人間の心は自らが不満をもたず、愚痴をいわず、怒りの心を捨てて、足ることを知った生活を実践することで心の調和を図り、魂を磨くことになるのであって、護摩焚きなどの加持祈祷で心が磨かれるのではありません。
御利益を求めて加持祈祷に依存する人間の心に隙があるのです。ここに魔が入り、問題が起きてきます。依存心は他力信仰の温床となるのです。みんながそれに気づく時期なのです。
宗教的儀式に依存しては自分の心の中にある神性仏性をふさいでしまい堕落させることになるだけです。ここの真実に気づかなければなりません。真の正しい生き方は自然の法則の中にありです。
この住職は相談事や祈祷の依頼、霊的な問題に対し除霊として護摩を焚き神仏にお願いすることを生業(なりわい)として報酬を得ています。
このようなことは、良し悪しは別として全国どこにでもあることで何ら珍しいことではないが、最悪なのは住職が女性相談者とねんごろになり長年連れ添った奥様を追い出してしまったこと。
しかし、これだけで治まらない。同時複数の女性とねんごろになり、もはやブレーキが利かないらしい。いい齢(よわい)の老人であるが人間、灰になるまでということか・・・・・何とも哀れな生きざまです。
神仏を語る者に対して相談者が藁(わら)にもすがる思いで来ることをいいことにやりたい放題である。
私は過去10年以上も前に一度だけそのお寺の見聞にと思い訪ねたことがあり中を見させていただいたが、とても人が出入りするべきところではなかった。邪悪な霊とその寺院が邪気のために霊域が汚れきっていたからです。
しかし、一般的にはそのようなことはわかろうはずもないことですが、この寺に住む魔界の動物霊と未浄化な人霊はここの住職の心にある邪心と不調和な欲望が招いたものであることは私には解っている。
霊界の様々な住人達はこの地上の人間が汚れた心を持てばそれに波長の合う霊たちが忍び寄りやがて憑依してその人間の心と行動を支配するのである。
動物霊や地獄霊に憑依されると独りよがり、非常に多弁、その反対に無口、愚痴っぽい、怒りやすい、深酒、自閉的性格、うそつきなどの現象が顕著になってくる。
件(くだん)の住職は動物霊に完全に支配されて金と色欲という本能のままに貪(むさぼ)っているのです。まさに地獄絵です。
これと似たようなケースが過去25年ほど前にもあったが、その僧侶を私は一喝したことがあった。酒ばかり飲み金儲けを企んでいたからであるが、まったく道義に外れた言動にいきどうりさえ覚えた。
人間はこの世で生きた内容によって、あの世に行ったときに自分の段階(居住環境)が決まることの実態をこの住職や他の僧侶たちで知る者は少ないであろう。
これは『慣性の法則』にしたがった宇宙の摂理であって、たとえ何人といえども変えることはできません。
あの世では善と悪が心に思っただけで現象として表れるためはっきりしているのです。
3次元の物質(肉体)世界とは違い4次元は心的エネルギーだけの世界だからです。
特に神仏に関わる者たちや宗教家が不調和な欲丸出しの生き方をすれば、その責めは自らしてあの世で反省し償わなければならず、大変な地獄の苦しみに悶絶することになる。
宗教家が人の心を扇動し、間違った教えをすることは非常に罪深いことで厳罰ものであり、これがあの世の実相である。仏像や曼荼羅や教祖の写真を祭ったり、信者に売ったり、それを拝ませるなどは他力信仰の代表で決して正しいあり方ではない。
しかし、一般民衆も家庭生活でいつも不満の心を持ち感謝も報恩も理解せず行わず、愚痴を言い、怒りの心を持った不調和な生き方をしている人は間違いなく一般的霊界(天)に入ることはできない。
何故ならあの世の仕組みは自分の心のステージがどの段階かで行く居住環境(段階)が決まるからです。善を想い、善を為していかねばならない理由がおわかりでしょうか。
機会をみて『慣性の法則』についてお話をしてみたいと思います。
 

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Posted by kansindo