出家と悟り
AKIO様の質問 平成27年1月20日
私は団塊世代の男性で定年後の人生を模索している者です。
昨年こちらのサイトを知りましてから訪問して勉強させていただいております。
私の場合は、会社員として働いておりましたときに様々な問題について深く考えているひまなどないくらい忙しく、ただただ仕事を消化するだけが精一杯でした。
いまこうして退職してみますと、かつての生き方に虚しさを覚えるほど突っ走ってきた事に気づかされ心のやり場に困惑しているところもあります。
これから先の人生を考えるときに、これまでのような生き方にはしたくないという思いがあり、出家でもしようかなと考えたりします。
人間は出家しなければ悟れないものでしょうか?
私の同級生に僧侶がいます。
彼は家がお寺だから相続のために僧侶になったのであって、道を求めて僧侶になったのではないようです。
その事は、学生時代のクラスメートであった私も良く彼の気質を知っておりますから望んで出家したのではないことが理解できます。
また、私の家の檀家寺の住職は酒もギャンブルもやりますし、地域では有名な遊び三昧の人間です。
出家することと、心に悟りを得ることは一緒ではないと思えてなりません。
私の人生観はゆっくり、穏やかに、そして執着せずに生きたいという思いがあります。
しかし、今の自分は心に様々な迷いがあり、どのようなことから始めたら良いのかさえわからないのです。
何とぞご指導をお願い致します。
AKIO様の質問にお答えします。
あなたのメール内容を拝見して、定年まで必死に働いてこられた様子がうかがえてとても他人ごととは思えず、よくぞ勤めあげられましたと称賛したいと心から思います。
それだけにやり遂げた後の虚脱感といいましょうか、ひとつの目標を失ったことによる心の隙間に、はっきりとご自分でも気付かれたのではありませんか。
出家という言葉を口にするあなたは、実はとても自分自身の心の動きというものに対して探究心がある方なのでは思うのですがどうでしょうか。
その証拠に、「かつての生き方に虚しさを覚えるほど突っ走ってきた」ということをいっておられます。
こうしてみると、あなたの心の内では、物やお金や地位による充足感ではなく、ほんとうの心の安心、平和、そして調和というものを求めておられるのではありませんか。
それでは、あなたのご質問にありました、出家と悟りということについて、とても大きく重要な問題ですが触れてみたいと思います。
インドのブッダ(釈迦)の時代は、家庭を捨てて出家しました。
出家することによって、人間のあり方の理解をより深めていったことは事実だと思います。
在家のままだと、家庭や社会に対する責任や義務が生じてきて、それが心をしばります。
人間の心と人間社会の理解を深める思索なり、瞑想も容易でありません。
ことに人間は環境に流される性質を持っていますので、心を縛るもろもろのわずらわしさから逃がれたいと、誰しも考えると思います。
だが、よく考えてみたいのですが、人間は社会的生物です。
社会を離れて人間の生活はないし、第一それでは生きる意味が非常に希薄になってしまいます。
人間との関わりを絶った孤島に一人で生活するとなれば、その時点で悟るとか、悟らないとかの必要性が起こってくるかどうかです。
人の心が自己保存に流れ、エゴに執着するのも、人と人との関係のなかで生まれてくるものでしょう。
つまり、社会生活があるから、悩みや苦しみが生じてくるわけです。
人と人との関係を断ち切り、一人生きるなどということは、すでに、それ自体、人間否定の考えであり、山にこもって世俗を離れ、仙人生活で仮りに悟ったとしても、いったいその悟りはなにを意味しているのでしょう。
悟るということは、具体的には、個人と全体とのつながりを知り、個人と全体をよりよく生かす調和の生活行為しかないではないでしょうか。
社会生活を離れて個と全体を知ったとしても、それを社会に生かさなければ、なんにもならないと思うのです。
インド時代の出家には、さまざまな理由があったと思います。
まず、当時は戦乱の時代であり、カースト制度という人種差別があり、今日のように治安が保たれた家庭生活を営むことがむずかしかった。
そのため、家庭を持つより独身を通すとか、出家して俗界を離れることに、人びとの心が向いたことは容易に推測できます。
ことに当時は、僧侶を頂点として制度化されたカーストがとられ、盗賊でも出家僧を襲うことはなかったようです。
出家僧はなにひとつ物を持っていませんでしたから、襲う必要がなかったともいえましたが、ともかく、食べ物でも山に行けばたくさんあったようだし、村や町に出れば、村人たちが布施してくれました。
ですから、生活があまり困らないし、着るものも黄衣一枚あればこと足りたし、寝るところは洞窟か大木の下でもすごせたわけです。
気候は日本とちがい、年中温暖でしたから、生活が非常に楽だったことでしょう。
このような状況から、男子ばかりか、女子までも出家したのです。
釈迦集団も女子の出家を認め、身の安全をはかってやったこともあったようです。
といって、釈迦集団が出家だけを目的として、身一つの生活だけをよしとし、社会生活からまったく隔絶してしまったかいいますと、そうではなく、村や町に出て、伝道して迷い、悩める人びとを導いていったわけです。
つまり伝道という仕事を積極的に行ない、在家信仰を推進しようとしたのです。
そうして社会の平和を求めて歩いたわけです。
一人山にこもり、社会生活を離れて、悟ることのみを目的としたものではなく、悟りは、第一段階の目的であり、悟ることによって、第二段階の社会の平和を目ざしたのです。
この点を間違え、悟ることが最終目標と考えたら大変です。
また出家しなければ悟れないという考えも間違いでしょう。
在家にあっても立派に悟ることができるし、また在家のなかで、ごく普通の生活をし、自分を調和させ、人びとを調和させることが人間のあり方でしょう。
気をつけなければならないことは、既成観念にとらわれず、五官六根に翻弄されぬ自己を確立するよう努力していきたいものです。
出家して僧職にあっても煩悩のままに酒やギャンブルと遊戯三昧と世間にみられるなら世も末です。
人はそれぞれに役目を担って生まれてきているはずで、万人が万人、一人残らずあるものだと思います。
そうしてその使命は、現在置かれているそれぞれの立場、環境の中で立派に果たしていけるものではないでしょうか。
役目と言うと何か特別な役割のように聞こえ、思いがちですが、本来そういう特別なものではなく、現在自分に与えられている環境を、明るく、正しく、調和された世界にしていくことで新たな人生が開けてくるものでしょう。
人間は、朝、睡眠から覚めて起きたら、新たな生命の誕生と何ら変わりのないほどの価値と意味のある人生のスタートできます。
それだけにきょう生きていられる事の尊さに感謝の心を忘れてはいけないと思いながら生活していきたいものです。
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