この世の死刑・死のない?あの世
克雄様からの質問 2015年1月17日
いつも拝見しております。
観童様のブログは考えさせられる内容のことが多く、いつも読みなおしてみたり、過去の記事を拝見しております。
質問をさせてください。
この世では立法があり、それによって秩序が保たれているところもあるのですが、法のもとに死刑判決があり、処刑される人もいます。
ところで、あの世では神の意に反するような魂でも抹殺されることはないのでしょうか?
ノアの洪水はあの世にもあると言うようなことが、とある本に書かれてありましたが、もし、そうであれば抹殺されることになるのかなとも思われますが、実際のところはどうなのでしょうか?
もうひとつだけ、双生児の魂はひとつではなく別々の魂なのでしょうか。
思考や行動がよく似ているところを見ますとどうなのかと不思議でなりません。
唐突な質問で困惑されるかも知れませんが、できる範囲で結構ですので宜しくお願い致します。
克雄様の質問へお答えします。
この世で肉体をもって生きている人間には必ず死があり肉体は朽ち果てるときがきます。
勿論、人間だけではなく、あらゆる動物、昆虫、その他の生命体には死とともに生命再生の循環がなされていることはご承知のとおりでしょう。
しかし、あの世には死はありません。
例えば、あの世の修羅界や餓鬼界というような、いわゆる地獄の世界の場合、その住人達はいつも戦い、物に飢え、心が飢餓状態のなかにあります。
こういう世界に住することになったのは、生前に非常に物欲、地位、名誉欲、いつも怒りのままに生きた人間、足ることを忘れた強欲な心をもったまま死んでいったからであります。
彼らはお互いを罵(ののし)り、ときには殺しあうのですが、殺されても間もなく再生し、同じ修羅界、餓鬼界で苦しみます。
この原理はどういうことかといいますと、先ほども述べたように、この世では肉体があるから肉体死があるのであって、あの世では霊体(あの世での肉体)と魂だけの世界ですから3次元(この世)的な肉体死がありません。
それはちょうど、私たちが夢の世界で様々な経験をするのですが、それが現実の事ではないことに、夢から覚めたときに気づくことと、とても良く似ているのです。
それでも夢の中にいるときは、夢中になっていたりするのですが、もがき苦しんだり、とても怖い夢をみて、それが現実のことのように思っているのが夢の世界です。
しかし、夢は単なる夢ではなく、次元の異なった世界に行て様々な経験をし、そこから学び取らなければならないことがたくさんあるのです。
心が調和されていれば、上記のような地獄の世界に行って怖い夢を見ることはありませんし、いわゆる天国というにふさわしい非常に調和された美しい自然環境のなかにいる自分に無上の喜びを感じることでしょう。
阿修羅の世界、餓鬼道の世界にいる諸霊たちは、本人が心を調和して、かつての足ることを忘れた煩悩から離れ、悟るまでその界にとどまることになります。
あの世は実在する世界であって、永遠に消えてなくならない世界であります。
一方、この世は諸行無常というように、時間か経つとすべて大気や土、自然環境に同化していきます。
このように、一つ一つの生命もそうですが、マクロの世界では、私たちが住んでいる地球でさえも、ある時間が経つと大宇宙のエネルギーと化してしまいます。
しかし、実在するあの世ではそういうことはありません。
仮に、ノアの洪水が起こり、人びとが水の底に沈んでも魂は死ぬことはできません。
それだけに、心不調和な者は苦しみがつづきます。
この世は病気で苦しければ鎮痛剤を使用したり、睡眠薬で眠ることができ、肉体的なその苦しみからいっとき解放されることができます。
ところがあの世はそうはいかず、その苦しみからのがれるためには、苦しみの原因をとり除くしかありません。
あの世に行っても、いまだに生前の肉体感覚に囚われてもがき苦しむ諸霊たちは特に、苦界からの解脱のために、苦界に陥った自らの心にある原因を正さなければなりません。
魂の死は永遠にめぐってきませんから、生きるための調和をはからなければなりません。
この世では、死を称して永眠といわれますが、残念なことに、あの世では永眠などということは絶対にないのです。
この世の価値観は、あの世の価値観に比べると、とても人間的であり、感情と欲望が肉体に左右されたものでもありますが、あの世の場合は、次元の高い世界ほど愛と慈しみだけがすべての世界であります。
そういう世界であるだけに、この世的な人間の価値観によって立法化された法によって人間を処刑し、抹殺するというようなことはありません。
さて、ご質問の双生児についてですが、双生児の兄弟は魂の似た者が一緒に宿ると理解してよいでしょう。
決して、一つの魂が二つに分裂して双生児となるということはありません。
現実には、双生児の兄弟は体も、考え方も、仕草も似ています。
肉体は遺伝しますから、お母さんが一緒なわけですから当然の理ですが、魂はそうではありません。
成人して一人が死ぬと、残されたもう一人がそのあとを追うように死ぬこともありますが、これは思考についても似た者同士であるように、双生児の場合はカルマも非常によく似ているので、生ばかりでなく死まで似てしまう場合が起こりうるわけです。
よく道を歩いていて、知人や友人にウリニつの人と出合い、間違って声をかけたりした経験のある人もあろうと思います。
顔、形の似た人というのはなにも双生児とはかぎらず、よくあるものです。
また、考えも、仕草も似ているという人も間々あります。
ですから双生児にかぎらず、似た人はよくみかけるものです。
双生児は同じ環境で育ち成人しますから、ますます似てきてしまっても何の不思議もありません。
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コメント一覧
私は団塊世代の男性で定年後の人生を模索している者です。
昨年こちらのサイトを知りましてから訪問して勉強させていただいております。
私の場合は、会社員として働いておりましたときに様々な問題について深く考えているひまなどないくらい忙しく、ただただ仕事を消化するだけが精一杯でした。
いまこうして退職してみますと、かつての生き方に虚しさを覚えるほど突っ走ってきた事に気づかされ心のやり場に困惑しているところもあります。
これから先の人生を考えるときに、これまでのような生き方にはしたくないという思いがあり、出家でもしようかなと考えたりします。
人間は出家しなければ悟れないものでしょうか?
私の同級生に僧侶がいます。
彼は家がお寺だから相続のために僧侶になったのであって、道を求めて僧侶になったのではないようです。
その事は、学生時代のクラスメートであった私も良く彼の気質を知っておりますから望んで出家したのではないことが理解できます。
私の家の檀家寺の住職は酒もギャンブルもやりますし、地域では有名な遊び三昧の人間です。
出家することと、心に悟りを得ることは一緒ではないと思えてなりません。
私の人生観はゆっくり、穏やかに、そして執着せずに生きたいという思いがあります。
しかし、今の自分は心に様々な迷いがあり、どのようなことから始めたら良いのかさえわからないのです。
何とぞご指導をお願い致します。