エゴと人間・正しさの基準

怒り
エゴと傲慢
相手の立場や状況を考えず自分の都合だけで話す癖があり、相手の気持ちが引いていることに気づけない人。
また人間関係に毒をもたらす人はどこにでもいますし、自分の身の周りでそういう人がいることを誰でも1人や2人は知っているかもしれません。
職場の同僚であったり、上司であったり、知人として知っていたり、あるいは一緒に暮らしていたりと…。
もしこのブログを読んでいるあなたが、これまで言動に毒のある人と時間を過ごしたことがあるか、もしくは相手が余りにも寡黙すぎて自分の世界にだけ生きているような、何を考え、生きているのかさえ理解しかねるような経験があるならば、彼らがいかに理解しあえない人であるか、建設的でないか、あるいは破壊的で人を疲労させるかを、ご存じのはずです。
調和ということは大切な心の基準ではありますが、しかし、だからといって自分の心の限界を超えてまでそういった人との調和のために自己犠牲をして自分の精神を病ませることは真の意味での調和に沿うものではない。
私たちは、時にそんな人との接触をある程度は制限し、自分で身を守る必要があります。
これは逃げではなく、自分の心身の調和のためであり、相手のためでもあるのです。
重要なことは、何故、相手が言葉やその行動に毒を持っているのか、コミュニケーションを図ろうとしないのかです。
同時に私たち自身の落ち度によって相手がそのような言動になっていないのかどうかを深く知る必要があります。
相手を変えることは非常に困難であり、できないことのほうが多いのですが、自分が変わることで相手が変わっていくという状況であればまだ、その関係はまともな状況だといえるでしょう。
不要なプライド
自信と傲慢の間には言葉の意味がもつ大きな違いがあります。
自信は何かを創造し、生じさせますが、傲慢は人を萎縮させ、場をネガティブな空気にします。
傲慢な人はいつも知識や物事を誰よりも一番良く知っていて?、他人より優れていると感じで押してきます。
こういう人は周りの人をほめたたえることは決して無いでしょう。
彼らの自尊心が邪魔をするからです。
エゴと被害者意識
話しをしていていつも言葉にするのは、自分は「された、言われた、やられた」という自分は可愛そうな立場だというアピールをする人がいます。
周りにいる中で最も危険な人の1人は、いつも犠牲者ぶる人です。
こういう傾向のある人は、自分の問題や間違いに直面すると、常に非難できる他人を見つけることで自分を犠牲者にし、自分の内にある問題点を他に責任転嫁する癖に気づいていません
理不尽な上司から、溺愛を愛とはき違えている親、そして愛情のわからない両親まで、彼らは決して、自らの人生の責任を自分で取ろうとはしないのです。
エゴと支配
支配したがる人は、物知りであり、何をするにも一番合理的な方法を知っていると思っています。
しかし、常日頃はとても不安のなかで生活しているのです。
こういう人は周りの人たちの声を聴いたり、意見を求めることなどなく、周囲の人たちの自主性を持った行動をさせてはくれません。
エゴと妬み
嫉妬で悩む人は、自分の持っているものに決して満足しませんし、他人に良いこと、幸せなことがあっても、起こってもそれを素直に喜ぶことがありません。
ましてや他人が成功したり、成長したり、進歩しても、それを素直に称賛することができないのです。
彼らに何か良いことが起きるなら、自分に起きるはずだと感じていることも多いのです。
エゴとウソ
人がいる限り、ウソは存在します。
実は嘘が存在するのではなく、ウソをつく人がいるのです。
しかし、常習的にウソをつく人は、害を及ぼします。
周りの人が何を信じたら良いかわからなくなるからです。
こうなると、彼らの約束や言葉をあてにすることはできないでしょう。
こういう人は、他人についての根拠のないウソを口にし、あなたについての根も葉もないウソを他人に言うのです。
エゴと消極性
いつも怒っていて、自分を主張し、不満と、愚痴を言葉にし、何事も疑ってかかり、人を信じることができない人に心当たりはないでしょうか。
ネガティブな態度は人間関係をつくれないだけではなく、壊すような、物事に否定的な人と時間を過ごしていると、自分の活力が奪われるのがわかります。
エゴと欲望
この社会のルールは「もっと欲を出し、もっと成功し、もっと稼げ」という効率優先主義の社会構造です。
そういった欲求や向上心は、正しくもって働くことで善にもなるでしょう。
しかし、人が自分のものだけでなく、他人のものや、それと同じもの、同等のものまでを欲するようになると、足ることを忘れた偏った、執着した欲望に支配されるようになります。
エゴと批判
批判には客観的で洞察力に基づいた進歩向上のためのものと、ただの自己都合による否定的な批判があります。
批判的な人は、常に結論をすぐに決めつけます。
彼らは人の話をあまり聞きませんし、話し合いが上手ではありません。
エゴと噂(うわさ)
井戸端会議とはよくいったものです。
おしゃべりな人にとって、三面記事や他人のゴシップの情報交換は楽しく時間をつぶせる会話でしょう。
こういった世間話、噂話しは、自分の不安を鎮めるためであり、憶測と推測、事実、ウソの区別がありません。
人間関係において、うわさ話しほど破壊的なものはないでしょう。
エゴと人格
誠実さや正直さが欠けている人、盗んだり、ウソをついたり、巧みに他人を操ったりする人は、自分の目的を達成するためなら躊躇することはほとんどありませんし、見事に演じ切ります。
こういう人に邪魔者と見なされたら、もう大変、彼らは持っている力をすべて駆使して追いまわし、音を上げて立ち去るまで画策してくるでしょう。
ここまで紹介したような個性や特徴を持っている人があなたの周りにいるなら、まさに今苦しめられている最中かもしれません。
もし、そうなら先ずは苦しみを軽減するためにも距離を保つことから始めることです。
て、それでは上記の内容に関連して、きょうは「正しさ」について述べてみます。
自分は正しいと考えても、第三者が正しくないということがある場合もあるだろうし、そういう経験をされた方もおられるかと思います。
正しいと思っても実は正しくないことがある。
人はそれぞれ過去世における心の成長、調和の度合、経験、知識によって、今世におけるその尺度がどうしても違ってくるということもあるでしょう。
ほんとうの正しさの基準ということがどこにあるのか、どのようにあるべきかという、正しさのあり方について述べてみます。
私はこれまで「正しい心の在り方」についても何度か述べてきました。
正しい心の在り方は、心の目的が右にも左にも、上下にも片寄らない心(中道)にあるわけですから、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語るということが大事になってきます。
すなわち、正しさの規準は、自分の心と他との全体調和ということになります。
そうしてその調和は、より高い次元の調和を尺度とすることはいうまでもありません。
そこでその規準の例を挙げてみましょう。
その規準というのは、人によって正しさの尺度がどう違うか、心と生き方の尺度は、どの辺の尺度を指しているかということです。
どの辺の尺度かということについて、この世の価値観をちょっと離れていただいて、あの世精神段階からみてみることにします。
あの世は、大きく分けると、分かりやすく表現するならば、地獄界、幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界の六つに区分できるでしょう。
つまり、六つの区分にはそれぞれの精神段階における正しさが支配しています。
短気
地獄界
非常に拘りが強く、不満、愚痴、怒り、妬み、恨み、傲慢、などのエゴ(自我)で心を曇らせて自我のままに生きた人のいる暗黒の精神世界である。
幽界
この世界は、自分と言う立場が正しさの尺度になっています。
自分さえよければ人はどうでもというエゴの精神世界であり、自己保存の立場が強調され、自己保存を損なうものは正しくない、つまり、悪につながるという考え方です。
この世での現実の社会は、まさにこの幽界の正しさが支配している場面が多いようです。
霊的な視点からこの世をみるならば人類の約三分の一の人たちと思われますが、これは国によっては三分の二となっている治安のよくない国もあると感じられるところもあります。
霊界
この世界は、いわば持ちつ持たれつで、人に与えたものは与えられる、しかし与えたものが返ってこないと気持がスッキリしないという精神性が支配しています。
きわめて生前における常識の観念が、ここでは価値の尺度になっています。
まだまだ形や形式に拘りがある精神性が見受けられます。
緑
神界
この世界は、人から損害を与えられても人を非難しない。
人を非難する前に、まずその原因をふりかえり、二度と再びその原因をつくらないよう努力する世界。
つまり、「正しさ」の尺度を他に求める前に、自分に求め、第三者の立場で常に前向きにつとめてゆく人びとの集団、社会、これが神界の精神性をもった人々といえるでしょう。
こうみてきますと、ほんとうの正しい生き方の尺度というものが、どの精神段階にあるべきなのか、大体おわかりと思います。
地獄界は論外ですが、幽界、霊界ではなくて、やはり神界以上精神境涯になくてはならないでしょう。
もしあなたが、これまでその「正しさ」を霊界に求めていたとすれば、真に自分の心を正しく掌握することはできないと思います。
なぜかといいますと、己の心にないものは、自分の周囲に現われることがないからです。
この原理原則をまず、かみしめていただきたい。
喜びも、悲しみも、私たちの想念がっくり出しています。
つまり、思うこと、念ずることが、私たち自身をつくり出しているということです。
もう一つ大事なことは、人の心は二つとないということ。
小説や芝居を見て、悲しい場面が出たときに、あなたは笑いますか。
反対に、笑う場面に変ったとき、あなたは怒ったり、泣いたりしますか。
そういうことはまずしないでしょう。
つまり、人の心というものは、みな同じだということがいえます。
とすると、自分の心を知ることは、人の心も理解できるということです。
神界という精神境涯の尺度で已の心の動きをみつめてゆきますと、人の心がわかってきて、人の悲しみは自分の悲しみにつながり、人の喜びは自分の喜びにつながってくるものです。
しかし、エゴが強い精神境涯ほど人の心をわかってやれなくなります。
それが霊界の精神境涯であり、更に、幽界の精神境涯であり、地獄界ともなると人の心さえ忘れて動物化した精神境涯となってまったく自分だけの世界でしかありません。
托鉢
菩薩界
菩薩界の人びとは、慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。
それは幽界、霊界の心では、自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変らないことが、実感として感じられてくるからです。
つまり、人の心は一つであり、現象化した現われの世界は別々でも、人の心に二つはなく、心は天につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませるなにものでもないからです。
菩薩は、常に天の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。
つまり、菩薩の「正しさ」は、形ある人びとの間というより、人びとの毀誉褒貶(きよほうへん・ほめたり、けなしたりすること)に心を動かすことはなく、ひたすら、愛と人びとを生かすことに人生の目的を求めます。
価値の尺度は天の意識といってもよいでしょう。ウソもエゴもない人びとの心です。
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如来界
如来といわれる人の心はどうかといいますと、ここへきますと、神の意識と表裏をなすものですから、衆生済度、つまり、人々を生かし、助けるという愛と慈しみの心しかありません。
俗世間的な価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙と己の心は不離一体です。
その宇宙に不純な波動があれば、その波動を正純なものに変えなくてはなりません。
このため、一定のサイクルで降臨されて法を説き、地上に光を与えていく存在であり、偉大な光の天使です。
如来の境地まで悟って解脱すれば転生してくることはないという説をいう人もいますが、決してそんなことはありません。
正しさの規準について参考になりましたでしょうか。
あなたはどのような規準で「正しさ」を求めておられましたか。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ多くの方に読んでいただくことになります。
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