ペットロス症候群&依存心


15年間ともに暮らしたハスキーの愛犬テレサが11月1日朝に逝った。
早朝午前三時半、二回ほど元気のない小さな声で遠吠えのようにオオ~ンと鳴く声に私は起きて愛犬の様子をみた。まだ夜が明けない暗がりの中で、一点をみつめて動かない姿に今生の終わりを直感した。
雨の日も吹雪の日も毎朝6時には一緒に散歩してきた。犬も人間も命の尊さは変わるものではないし、家族の一員である。
感無量の気持ちで、ありがとうと言って埋葬した。
生命は無常である。
限られた命であるがゆえに、生命の尊さと美しさが際立ち、また儚さにも気付かされます。
生死によって知り得るものは何か。愛犬の追悼しながらゆっくりと考えてみた。
喜び、生命、悲しみ、淋しさ、尊厳、使命、幸せ、不幸、いたわり、愛、憎しみ、怒り、等々たくさんある。そして、悲しみや、淋しさの受けとめ方も人さまざまである。
ペットの死期が近づいたことに気づいた、ある飼い主が、愛犬が死んだときのショックに耐えるのが嫌だということで、もう一頭の子犬を飼ったという人がいた。
これは、良し悪しという意味ではないが、対象を別な方向に向けて気持ちをそらすということでもある。
本来は新たなペットを飼うことで淋しさや、悲しみを逃れるのではなく、あるがままを受け止めることが今まで飼っていたペットへの感謝ではないのかと思ったが、どうだろうか。
死を受け止めるということも人間に課せられた心の学びであると思うからだ。
ペットロスという言葉は文字通り「ペットを失う事」である。
ペットを失うと、様々な心身(精神的・身体的)の症状が起こる。
これは、ペットと共に過ごす事によって培われた深い愛着・愛情が、突然に訪れるペットの死によって行き場を無くしてしまうことによって、引き起こされる症状だと解されている。
もちろん、引き起こされる症状の程度については個人差が大きい。
たとえば、子育てを終えた熟年夫婦にとってはペットが我が子同然の存在になっていることもあり、ペットを失ったショックもまた大きいだろう。
しかし、熟年であればこそ人生経験豊富なのだから、死を謙虚に受け止める姿勢でありたい。私には死期の近づいた愛犬がいるときに次の犬を飼う気持ちはない。
ペットロス症候群とは、ペットとの死別というストレスが契機となって発症した精神疾患をいい、精神症状に付随して身体症状を伴う場合も少なくない。
最近、このような精神的・身体的障害が起こる原因として、飼い主のペットを伴侶動物コンパニオンアニマルとしての位置づけが挙げられている。
日本では2000年代頃から注目を集めるようになったが、ペット産業の盛んな米国では1990年代頃より精神疾患の契機として重要視されるようになった。
ペットの死によって悲しみや、淋しさはあって当然のことなのだが、そのことの受け止め方も心得て飼うことをしなければペットロス症候群の真の対処にはならないだろう。
ペットの死から発生する悲しみ、淋しさを長期に引きずることは精神衛生上も避けるべきだ。
この地上で生きる動物も人間も肉体には限られた寿命というものがある。
諸行は無常なものだと分かってはいても、培った愛着は簡単に断ち切れるものではないだろうが、しかし、やがて時がその悲しみを忘れさせてくれる。
心は一つのことにばかり囚われてはいられないようにできている。
執着するから苦しくなるのだが、執着しないためには、ペットの肉体に囚われず、死を受け止めるための心づくりが大事だ。
肉体は永遠ではなく有限であること。
心は永遠不滅であること。
死は旅立ちで再出発の時であり、終わりではなく転生輪廻していること。
来世に生まれ変わりがあること。動物も然りである。
これらの真実を知ることができるのは死があるからである。
浅はかなものは、身を全きものと囚われ
賢きものは、自らをよるべと覚える。
汝、如何なるにおぼえるや。
※思慮が足りず、深みもなく軽々しい者は、体が全てだと思うが、利口で賢明な者は、自分の心が拠り所だと悟っているものだ。あなたはどのように考えていますか。
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