神の子はどんな特質・性格?Q&A

魂の輝き

Tom さまより:2013年5月25日『親子の魂と機根』へのコメント・以下

「神の子」というのは、どんな特質、性格をもち、どんな考え方、行動をするのでしょうか?

同窓会に出て、いじめっ子だったA君が今や国会議員になっていて、自分の思う社会正義の実現に励んでいるとする。昔の自分の苛めはほとんど記憶にない。

子供時代の子供らしいやんちゃ程度の認識。一方、A君に苛められてニートになったB君は、引きこもりで、同窓会に出ることもできない。

なんとかしなければと思うが、外に出ることさえ怖い。

弱かったと言えばそれまでだが、好きでニートになったのではない。そして、脱落者を非寛容な日本の表(の華々しい)社会には、永遠に参加できない。

自己実現しているA君は、「人はみな神の子」と聞けば、めでたいほど素直に、そのとおり!というかもしれない。でも、B君が同じ言葉を聞いた時、それを信じることができないだろう。

たとえB君が親や動物に優しく、家事をしていても、社会に出て活躍できない時、生まれた意味さえ疑問視する時もあるのではないでしょうか。

人は神の子と言える人は、どこか論理的には根拠のない信頼や自信がある気がする。

それと、他人の言動にも自分の言動にもこだわらない。

同じ行動をしても、ある人は、自分の中にある神性(人に普遍的にある神性)にふれたと感動し、別の人は、もっとこうできたはずという反省や自己欺瞞を見て落ち込む。同じ行動をしても、不思議なものです。

前者は自画自賛のおめでたい人ではないのか?

後者は完ぺき主義ゆえの不満だらけの人ではないのか。

前者は神性が表れ、後者は隠れてしまっているのでしょうか?

本日の返信

Tom様 コメントをくださいましてありがとうございます。返事が遅くなり失礼いたしました。

あなたの文面を拝見しまして、もっともだと思うところもありますし、また考えさせられもします。

きょうは、いただきましたご質問への私の考えを述べさせていただきます。

先ず、『神の子というのは、どんな特質性格をもち、どんな考え方、行動をするのでしょうか?』とのご質問にお答えします。

人間を比較してこの人は特別(特質)であるとか、まその性質をもっているから神の子であると分けるのではなく、また評価するものでもなく、地上の人類みな平等に神の子であると捉えております。

そうはいっても、この地上に生まれた国や環境、貧富の差、家庭状況によって違いがあるという点においては平等とはいえず、逆に不平等であります。

そういう物質的、物理的な条件の平等を意味するのではなく、人間の魂として頂いている生命そのもの、その可能性、人間のいただいた能力は無限のものであり、他の動物とは異なるものであるという意味において神の子とご理解していただければと思うのです。

平等、不平等、公平の三様は連動しながらも、私たちの生きる環境や生活において誰もが自分の置かれた環境下で経験し、そのなかで魂の成長をしていかなければならないものでしょう。

個人個人を見るのではなく、人類そのものをみたときに、人間はどのような特質を持つのかとなれば、他の動物と違うという点で創造性を持ちえて、智慧(創意工夫)があるという意味において優れているということではないでしょうか。

しかし、現実にはtomさんが御指摘のように、優れている人間であるはずの国会議員のA君のような生き方をする人もいるでしょう。

人間、過去に過ちを犯した者であったなら、悔い改めて二度と同じ過ちを犯さない生き方をし、他の人々や社会に対して自分のできるかたちをもって貢献することが肝要かと思います。

世に言うところの勝ち組、しかし、世間的に、あるいは経済的にも豊かさや地位を獲得したからといって驕れるとするならば、人として心の器が大きいとはいえず、智慧ある人間としてはあまりにもお粗末ということになるでしょう。

現実社会の中では矛盾や理不尽がたくさんあることは、日本社会に限らず人類の中にあるといったほうが的を得ているかもしれません。

その意味でいえばB君の場合も気の毒なことであり、犠牲者であるかもしれません。

しかし、人に協力を求めるなり、、人間として為すべきことに気づき、自分自身も小さな努力を重ねるなり生きなければならないでしょう。

B君に直接お会いして心の内を確認したことではないので、ここでは事の真実が解らず、深く意見を述べることは敵いません。

私はB君にはなれませんが、しかし、B君の立場がわからないでもありません。

何故なら、私自身が中学1年生のときに同級生の苛(いじ)めにあい、授業中に無抵抗な私に、一教師による一方的な感情と、自己都合による全く理不尽な暴力まで受けた経験があるからです。

それに加えて家庭環境が父親の酒乱という最悪の状態にあって、学校帰りに橋から投身自殺をしようと決心したことがあります。

しかし、私は死ねなかった。いよいよ投身という寸前に母親の顔が浮かんだからです。

学校を卒業して社会に出たものの仕事をいくつも変えており、若いときの自分は落ちこぼれた青年期といえるかもしれません。

私の場合は、働くのが嫌なのではなく、その仕事に生涯をかける気になれなかっただけのことでした。

しかし、不思議なもので、青年期の数々の失敗が今の自分をつくってくれたことは間違いのない事実であります。

幸いにして、今の仕事は自身が強く望み、就いた仕事ですが、自分では42歳で始めたこの仕事が天職だと思って惚れ込んで64歳の現在も現場で働かせていただいております。

有り難いことです。

会社員時代は理不尽な思いも経験しました。

人間は逆境に立たされた時に、愚痴をいいます。その境遇に不満をいいます。他のせいにします。恨みます。怒りをあらわにします。素直に人の言葉を聞く気にはなれません。

しかし、私は思いました。不満、愚痴、怒り、恨み、原因や責任の転嫁、これらの思いがあるほどに自分の心が苦しさから抜け出せないことになっていると。

避けて通れない現実を避けていると、いつまでも同じような問題が目の前に立ちふさがるものです。

目の前の問題を回避することも必要なときがあるように、逆に、避けてはいけない時もあります。

改善策を講じて何としても乗り越えなければならないときもあります。

私自身の言葉や行動によって周りの反応や対応にも違いが生じてくることを学ばされたと気づきました。

自分に落ち度がなくても相手の対応に納得がいかないことも多々ありましたが、しかし、そのような場合でも、つとめて冷静に、心を動揺させないで立ち居振る舞うことで大難が小難ですまされることが多いと気づきました。

人は神の子というのは宇宙大自然の営みのなかで誰もが平等に頂いた魂をもって生かされている存在だということでもあります。個人の特質のことではないと捉えております。

論理的にみることもよいのですが、シンプルに命というものをみつめますと根拠も自信も関係なく、ただ今ある命に感謝の念が湧き出るものであります。

これは、私が死線をさ迷ったときに心の底から湧き出した真摯な感情でした。

お問い合わせをいただきありがとうございました。

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不殺生・病者の念仏

念仏

信仰歴10年、39歳の女性S・Rさんは動物性のタンパク質、つまり肉を食べることに罪悪感と食べてはいけないという指導に疑問を持ち、心にも葛藤があった。

教祖の教導が、動物の肉をたべることは殺生につながるから良くないという指導方針の影響によるからである。

しかし、このS・Rさんには栄養バランスのとれた食事が必要である。

何故なら非結核性抗酸菌症という10万人に5人の菌によって肺に空洞ができる発症率の少ない病気ではあるが、抗生物質による治療でも改善が図れないほど難治の病気であるため、体の滋養ということが免疫力アップをはかるためにに欠かせない。

非結核性抗酸菌は免疫力の低下時に人の身体のさまざまな部位で感染症を起こすが、中でも抗酸菌による呼吸器感染症の頻度が多く、また生命にかかわるため重要視されている。

只、 結核菌と異なり非結核性抗酸菌症はヒトからヒトへの感染はおこらないとされている。

軽度の病態ならば集中治療することで回復に向かうようですが、中度、重度になると治療期間も長引き数年から十数年、人によっては生涯を通じて病気を抱えていく場合もあるようだ。

S・Rさんの場合は喀血(かっけつ)するときもあるようですから軽い症状とはいえない。

お姉さんに病気が治るからと勧められて入信して信仰を始めたS・Rさんは『南無阿弥陀仏』と念仏を唱え、さらに読経を30分~1時間ほど毎日おこなう。

病んでいる体には毎日おこなうことが負担な時もあり、義務的に行うときもあるようだ。

しかし、まったく病状は変わらず抗生物質の副作用により、腹痛、食欲不振、倦怠感、呼吸困難、発熱、胸や背中が痛いなどに苦しむのだった。

漢方薬も続けたが変化はないという。

宗教への疑問もあり相談の連絡をいただいた。

私は服用している抗生物質の種類を減らすことを提案し、丹田呼吸法を毎日行い、ウオーキングを行うことを勧め実行していただいている。

その理由は

◎抗生物質による治療で改善がみられない、副作用で内臓に負担がかかり、食欲不振、痩せ、肩、胸、背中などに疼痛があるなどリスクも大きい。

◎処方されている2種類の抗生物質を減薬することで体への負担(肺炎など)を減らす狙いと同時に自然治癒力を取り戻すことが狙い。

◎抗生物質は免疫力、自然治癒力を低下させ、合併症を引き起こすこともあり、必要最小限度にとどめておくことが望ましい。

以上の提案を受け入れて実践しているS・Rさんはまだ一カ月にしかならないが、、先ず喀血がおさまっていて、呼吸も幾分楽になってきている、歩ける距離が長くなってきている、以前より眠れるようになり、症状も少しずつ改善に向かいはじめた。

同時に、これまで行ってきたご利益があるという信仰を捨てる約束をし、自分の努力で心を調和して生きると誓ったのである。

これまでは信仰を持ちながらも罪悪感や疑問、義務感などのなかで心が晴れることもなく、慣例的に念仏や読経をしてきたのだった。

このような心の疑問や葛藤、不安、恐怖心などがいかに病気の回復を妨げているかということを病気をしている人たちには気づいてほしい。

殺生、きょうはこのことについて述べてみたいと思います。

人間がこの地上に生存するかぎり、最少限度の殺生は、まぬがれないものです。

パンを食べてはいけない、魚を獲ってはならない、動物を食べてはならないとすれば、人間は餓死するほかはありません。

動物の肉を食べずに植物だけにしなさいという宗教は存在します。

例えば、インドのヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避(きひ)するので菜食主義の人が多いのだが、しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なるという一部、矛盾するような不思議な面もある。

一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。

また上位のカースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる一方で、いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。

ところが宗派によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられたヤギなどの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。

しかし、どのような場合においても牛、特に瘤牛(こぶうし)は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。

一方、同じ牛でもスイギュウは次々と姿を変える悪魔マヒシャの化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は輸出品にされているという人間の都合による矛盾とも思えるようなところも多々うかがえるのである。

さて、本題にはいりましょう。

洋の東西を問わず、また昔も今も、神の道に参ずる者、悟りを得ようとする者のなかには、肉食は殺生の最たるものとして、これを忌避する風習がみられます。

動物を殺す、動物を食べることは、万物の霊長である人間のなすべき行為ではない、ということがそもそもの理由のようです。

では、植物は生き物ではないのでしょうか。植物なら、いくら食べてもさしつかえないも
のかどうか。

生き物という点では、植物も立派な生物なのです。

植物にもそれぞれの精霊が住んでおり、人間がその気になりさえすれば、植物の精霊と同調することも、意識を読み取ることもできるのです。

そのようなことから植物の精霊も喜怒哀楽の感情すらみせるものであり、その精神作用は非常に繊細で柔らかくもあり、逞(たくま)しくもあり動物以上ですらあります。

動物と植物との相違は、見た目が、静的であるか動的かの違いだけであり、どちらがよいの悪いのという区別は本来なにもありません。

昔の出家僧は妻帯を認めなかったようです。妻帯は煩悩を刺激するからというのがその理由のようです。

さらに、食べ物も制約しました。栄養価の高いもの、動物食はいっさい口にしません。

なぜこういうものを囗にしなかったかといえば、こうしたものは本能を刺激しやすいという生理的理由があったようです。

妻をめとらぬという前提に立てば、その前に、食べ物を制約しなければならなかったからでありましょう。

こうみてくると動物食はいけないとする思想も、その根拠をたぐれば、実は、こんなところにあったのではあるまいかと思われます。

生物界の殺生という食物連鎖は、弱肉強食を含めて本当は自然の摂理なのです。

土の中に住むバクテリヤや、何百何千という虫の生態をみるときに、そこにはいかにも悲惨な姿が演じられていますが、そのくりかえしは、自然を維持し、生物間相互の生存を助けているのです。

肉食と草食動物の比というものは、常に一定に保たれています。

もしも肉食動物が減り、草食動物のみとなれば草木の生存は失われ、草食動物の生存すらおぼつかなくなってきます。

人間は、動物界の生態をみて、人間もかくあるべしと断定しがちですが、無益な殺生はしてはならないのです。

人間をのぞく、昆虫をふくめた動物界の生存競争は、決して、不必要な殺生をしてはいません。

生存に必要なものしか、彼らは獲っていないのです。

もしも、必要以上にそれを求めれば、やがては、自分の口をふさぐことを彼らは知っているのです。

しかし本当は彼ら自身ではなくて、自然がこれを監視し、コントロールしているのです。

私たちが、植物にしろ動物にしろ、これを口にするとき、いちばん大事なことは感謝の心を持つことと、足ることを知ることです。

そうすることによって、彼ら動物や植物の地上での目的も使命も果たせたことになるからです。

人間も大自然の営みからすれば、その一部の生命体として摂理の中で生きることが望ましいことではないだろうか。

あまりにも偏りすぎた思想などの影響によって体の滋養を失うこともどうかと思うところであります。

人間の心から苦悩をなくし、安らかな生き方をするにはどのような心構えでいけばよいのかということを説き、教導するべき宗教によって、逆に心の負担になるようなら、それは本来の宗教の在り方とは言えないのではなかろうか。

人類が肉を食べてはいけないという思想は宇宙大自然の営みに沿ったものとは思えないところですが、このブログを読んでくださっているあなたはどのようにお考えでしょうか。

出家者の生き方を在家の一般家庭にそのまま持ち込み教導するところに無理が生じるということであろう。

何事も極端に偏った考えや食生活、思想、宗教なども、どこかに歪みができて心の足かせとなるのである。

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親子の魂と機根

魂

『この子はお父さんの悪い癖にそっくりでイヤね。』と、言ってはならない言葉を幼い子どもに浴びせるお母さん。こういう何気ない言葉が子どもの心を傷つけ、長じては家庭の破壊へとつながっていく。

肉体は遺伝するが、魂は遺伝するのではない。

心は子育ての影響によって形成されていくものです。

きょうは「私たちがこの地球上に何の目的を持ち、どのような使命を持って生まれてきたのであるか」ということについて見性し、自己の本質、本性について話してみたいと思います。

多くの人々の中には、両親が、自分たちの都合によって、好き勝手に私たちを生んだのだと思っている人たちもいます。

特に親子関係がうまくいかず家庭内が不調和な状態の子供の場合は子ども自身が苦しみの余り、あるいは親への反発心からそういうことを言う場合がある。

もう一つは、この地上に肉体を持ち、親、師、先輩よりうける教育、あるいは先祖や国が培ってきた歴史的な環境の中において、自分なりに、悲しみや苦しみ、喜びなど、苦楽の人生を体験して一寸先は闇の人生だと考えている人たちもいます。

いずれにしても、私たちがこの地球上に出てきた以上は、安閑(あんかん)として無為無策の人生を過ごしてよいのでしょうかということです。

人生の過程において、人は誰も悩み、苦しみ、あるいは病むことでその解決を求めたはずの信仰、その信仰に対する矛盾などを痛感していられる人たちもいるはずです。

この矛盾の根本的な原因は、私たちが肉体的な五官を通してとらえ得たもの、目を通して見たもの、耳から聞いたもの、あるいは肌で感じたものなどを、その人が学んできた教育や、思想や、あるいは習慣によって判断しているからです。

あまりにも物質文明だけが発達してしまって、私たちは本当の人間としての価値と、そしてその使命、目的というものを忘れてしまっているのが多くの現代の人々です。

あくまでも私たちは肉体を通して、感じ得たもの、あるいは想像して、心の中で思うことによって、自分なりに判断して生活をしてきています。

その結果、女性の場合は、より美しく、そして結婚をして平和な生活をしようとか、良い子を生んで立派に育てようとか、経済的な安定を得て、もっと自分自身がより以上に優雅な生活をしたいとか……。

男性の場合は、学校を出て、社会に出たならば、少なくとも社会的な地位を築いて生活環境を安定しようとか、会社に勤めている人たちは、少しでも役職を得て地位を築いてゆこうとか、それぞれ人によって違いはありますが、私たちが生まれてきた目的は果たしてそのようなものだけでしょうか。

このブログの読者自身が、「そんな馬鹿なことはない、肉体が絶対なんだ、親から頂いたこの己自身の肉体が絶対であるんだ、それ以外に何物もない」と唯物的に考えたとしたならば、心と肉体との関係についてはどのように考えているのだろうか。

心と肉体の関係を考えた事がないという方も、そこまで深くは考えていないという方も、これを機に是非一考願いたい。

ここでちょっと話しの視点を変えましょう。

私たちは、体全体の細胞が約60兆個あるといわれ、そのうち脳細胞は140億とも200億あるともいわれております。

この二百億の細胞からなる頭脳が、何事に対しても全てを記憶し、想像する能力を持ち、体を支配しているとしたならば、人間が眠っている時に、なぜ私たちの耳の穴も、鼻の穴も、ちゃんと立派にあいているのに、聴覚も、臭覚も働かないという事実を何と説明したらよいのだろうか。

現代医学においてはまだそこまでは解明しておりません。

さらにまた、学校内においても、あるいは男女関係、恋愛問題、親子の対話などの不調和により心を悩まします。

恋人にふられて悩んで身体が痩せ衰える人もあるでしょう。

なぜ悩んで私たちの肉体は疲労を感ずるのでしょうか。

これについて現代の医学も物理学も十分な説明することはできていないのです。

悩みの原因というものは、どこから発するのか、苦しみの原因は、どこから出てくるのか、しかもなぜ肉体は年とるに従って、老化現象を起こしてゆくのか、なぜ人間は死んでしまうのか、この大きな問題を追及していったならば、私たちは肉体以外に、何物かの存在があることに気づき、それを否定することはできないはずです。

ということは私たちの現在持っている肉体は、この地球という場に対して適応したもので、人間は万物の霊長として、先祖代々継承されてきて、現在の肉体を持っていることを忘れてはいけないでしょう。

そうなりますと、肉体以外に何物かがあり、人は魂ともいう、あるいは意識ともいう、精神ともいう、その根本であるところの霊というものの存在を否定できようはずがありません。

そして、今のあなたの肉体は、親から頂いたものですが、魂は親から頂いたものではないということ。

仮に、もし、魂を親から頂いたものであるとしたならば、なぜ、親が子供の心が分からず、子供が親の慈悲も分からず、親不孝という現象が起こるのでしょうか。

もし、魂を両親から頂いたものであるとしたならば、私たちはどこにいっても、意思の断絶はない筈です。

ラジオもテレビも電話機も携帯電話も、人間のつくったものです。

私たちが今スイッチを入れれば、どこの放送局もキャッチできるだけの能力を持った受信機を発明しております、あるいは映像をも映し出せるだけのものを発明しています。

しかし、これらは人間の文明生活の知恵がくり出したものです。

親と子の意思が、親と子の魂が、遺伝した同一のものであるならば、どこにいても自由自在に、心の中の思っていること、考えていること、行なっていることが、通じ合わねばならない筈です。

ということは、あなたは、魂、意識の次元ということを考えねばならないでしょう。

今の肉体舟を絶対なる基盤として考えるところに、間違いや悩みが起きてくるのです。

そうなりますと肉体以外に、また別のものがあるということを私たちは否定できない筈であります。

もし、自分の五官(眼、耳、鼻、舌、身)が全てだと思い、脳細胞の二百億個の集団が全てを思い想像し、計算もする場所であると思っていたとしても、眠ってしまったら、ただの一個の物質にしかすぎない。

しかしこの物質である私たちの肉体も、私たちの五臓六腑(ごぞうろっぷ)は少しも機能は失ってはおりませんし動いています。

といたしますと、私たちの脳細胞は五体をコントロールしている制御室にしかすぎないということに気づかなくてはなりません。

なぜ制御室であるかというと、肉体以外の、意識・魂が睡眠によって肉体から離れている時には、全く無能だということです。

眠っている時に、数学の計算ができるというのであれば、それは脳細胞が全て記憶しているということだと肯定します。しかし、その事実はありません。

私たちの感覚器官に感受された信号は脳細胞の神経繊維の中に電気的振動を起こしますが、これを脳波といっております。

この電気的振動の波動が、人間の肉体の支配者である意識・魂に通信されて記憶されているのです。

このような次元の違った意識・魂の根本というものを考えた時に、肉体はただ人生を渡っていく、一つの乗り物、すなわち船にしかすぎないということになる筈であります。

しかも、真理というものは永遠不滅であり、線香花火のように消え去るものではないのです。

肉体というものは、この地上において、己の魂を磨く乗り物にすぎず、魂というものこそ永遠不滅の己自身なのです。

眠っている時に、あなたの魂は肉体から離れて次元の違った世界へ行っています。

この地上をあなたが去る時に、還らなければならない魂の世界へ行っているのであります。

そうなりますと、私たちはまず次元の違った世界、あの世こそが真実の世界だということになるのです。

全てのものをつくり出している空の世界、仏教の根本は「空」ということが分かったならば、全て解決するとまでいわれているようですが、この「空」の根本原理根本理念ですら、現代仏教は既に忘れ去っております。

実際に存在する次元の違った意識の世界は、この地上の世界より以上に文明も進歩し、地上における原子細胞(肉体)ではなく、精妙な光子体(霊的あの世の肉体)ともいうべき、光の細胞を持った肉体の世界であるという事実、これは私たちが、仏像の光背として表現されている姿で理解ができるでしょう。

これは私たちがあの世に還る時の調和された自分の光の肉体なのです。

あたかも太陽が熱・光のエネルギーを、この地球上の万生万物に平等に与えているように、天もまた、この地上の人類はじめ万生万物に慈悲と愛の無償なる光を、全て平等に与えています。

太陽の熱・光のエネルギーは、貧乏人、金持ち、地位、名誉、そんなものに全く関係なく、平等に与えられてあるように、天の愛と慈悲もまた同じであります。

しかるに私たちは、永い歴史の中で、先祖代々伝わってきた信仰体系の中から、一所懸命に祈ることが、本当の信仰の道だと大きな間違いを犯しているのであります。

天は慈悲と愛の光を、万生万物に平等に与えていることを再認識しなくてはなりません。

だが、慈悲と愛の光をうけることのできない人が多いのです。

神の子たる己自身の本性を失ってしまっているために、恨み、妬み、誹り、自己保存、自我我欲、自己中心の暗い想念が、心の曇りをつくり、あたかも太陽が、地球上の雲によって、その光をさえぎっているように、天の光を己白身の不調和な想念と行為がさえぎってしまっているのです。

仏教は、人間がこの地球上に生まれてくると、修行のために、神の子としての自覚の90%が潜在してしまい、肉体舟の五官六根がもたらす自己保存、自我我欲の暗い想念が神の光をさえぎり、己の魂を曇らせて生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦といわれる四苦八苦の苦しみをつくってしまっていることを教えたのです。

その苦しみの原因は、全て己の清浄な心を忘れた私たちの魂・意識である心というものがつくるのである。

その苦しみの中から、己自身の反省がその魂を調和させ、平和な、執着から離れた安らぎのある人間としての本性、清浄な執着のない己自身を悟ってゆかなければならないということを教えているのです。

それを当時の無学文盲の衆生にも分かりやすく説明するために、方便をもって説いたのです。

例えば、皆さんもよくご存知の「法華経」です。インドの当時も中国の時代においても、泥沼の中に美しく咲く、あの一輪の蓮の花の姿を通して教え導きました。

多くの人々の前で、

『皆さん、あの泥沼の中をごらんなさい。あの泥の中は、虫やハエなどの汚物がいっぱい群がっている。

あの汚い泥の中に根をおろして咲く美しい、一輪の蓮の花をよく見るがよろしい。あなたたちの肉体というものは、あの泥沼のようなものなのだ。

なぜならば、眼を見れば眼糞、鼻を見れば鼻糞、囗を開けば、痰、あるいは体から出てくる汗、これも汚いものであろう。このように大小便に至るまで、人間の肉体から出るものは、何一つとしてきれいなものはないのです。

この汚い泥沼のような、人生の乗り物である肉体も、その主(あるじ)である意識、その中心である心というものが、真理を悟って執着から離れ、生老病死という根本を悟って、己自身が八つの正道を実践したならば、あの美しい蓮の花のように、あなたたちの心は、調和されて仏の心となり、安らぎの境地に到達して、苦しみから己自身を解放することができるのだ。』とこのような方便の説話をしたのであります。

これが人間の心の道しるべとして法華経のなかに説かれているのです。

しかるに、仏教もいつの間にか難しくなり、智と意の哲学的学問に変わっております。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」といったところで一般的ではなく非常に分かりにくいのです。

無学文盲の2500年前当時の衆生に説かれた、あの仏教の真理がそのような難しいものであったと思いますか。

普通の言葉で誰にでもわかるように、且つ、理解しやすく説いたのです。

私が相談者の話を聞かせていただき、アドバイスをさせていただくときにいつも思うことですが、同じ言葉でもそれを理解し、受け止められる人とそうでない人がいます。

大事なことは相談者の心がどっちの状態であるのかを私が見極めたうえで話さなければ、生きた言葉にならず徒労に終わるだけでなく、相談者の心の滋養にならないということです。

「ゴータマ様(お釈迦様)は、何によって生活しておられるのですか。私たちは、このように農耕をして米をつくって生活しております。あなたはなぜそのようにしておられますか。」と釈迦は民衆に問われました。

その時に「あなたは米をつくって生活をしているが、私はあなたたちの心に真理の種を蒔いて、その実るのを待って生活をしている。人間は米のみによって生きるのではないのだ。人間の心こそ偉大なる不変のものなのだよ」

そして更に、「あなたは今、このように肥沃(ひよく)の土地に、稲を蒔いて生活をしているが、まず稲の種を蒔くならば、あの上の方の痩せた土地に蒔くか」と聞きました。

その時に農夫は「上の方の土地は砂利が多く、そのために米は実りません。土地に養分が足りません」といいました。

釈迦は「私の説いている真理も、うけ入れる機根のない人たちに、いかに説いたところでこの真理の種は、人々の心の中に入って芽生えるものではない。」とこのようにこんこんとその農夫に説きました。

農夫は二度、三度と深々とゴーダマに礼拝をして『大事なことを悟らせていただきました。』とお礼の言葉を述べて立ち去ったのです。

お釈迦様はそのように方便を通して、その時の衆生の機根(心の段階)に応じて、真理を説いたのであります。

仏教というものが、二千五百余年の間に、本当の心の偉大性を説かず、排他的に変わってしまったのですが、本来は転生輪廻を繰り返す毎に、自ら誓って生まれてきた皆様の魂の意識の中の記憶には、連綿として、神の子としての偉大なる真実が、あまさず記録されているのです。

皆様が、一心に信仰をしていても、なぜという疑問が出てくる原因もそこにあるのです。

人間の心をふさいではなりません。

あくまでも疑問は疑問として、解答を得た時に、皆さんの心のなかに真理の芽が、芽生えてくるのです。

このような事実をよく知ったならば、私たちは次元の異なったあの世があることを否定できないでありましょう。

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そして全国からご相談のメールもいただき、及ばずながらも対応させていただけること、身に余る光栄と存じます。ありがとうございます。

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点の現世・線の過去世

謙虚

人間の驕り

『私が予算をとってこの道路をつくりました。』自分の支持基盤である自治会の席に列席した村議会議員が挨拶がてら自分の功績だと主張していたのだろうが、聴いていて心地よいものではなかった。

人は、ややもすると自分を過大評価しがちです。

それも自分がなんで在り、何をなすべきかを悟っているならまだしも、地位、名誉、知識が人より優れているという理由から、そのような偏見が生まれるとすれば、それは驕りであり、その人はなかなか大事なことに気づくことが出来ないでしょう。

大事な事とは、人間はお互いの協力のもとに助けられるている存在であるということ、即ち相互扶助によって生かされているということだ。

財源が人々の税金であるということを忘れて、『予算をとってきた』と自分の功績を自慢したがる公人は見苦しいというほかはない。

仕事は自慢するために為すのでもなく、勝ち負けのために為すものでもない。

人間は仕事を通じて己を磨くことが本来の目的あり、結果的に給料という糧を得るということである。

私たちは衣食住をみても、何一つとして自分が生み出しだしたものはなく、大自然の資源をいただき、誰かの手によってつくられることで、私たちの生活に利用できるものなっている。

人の一生は、日本人の平均寿命からいえば80年前後から、長くて百年です。

だが、本当の一生は、そんなに短いものではありません。

何億、何十億年の年輪を重ね、現在、ここに在るのです。

何億、何十億年の過去世は、潜在意識の中に沈み、容易に外には出てきません。

人はこうした過去をもって、ここに生きているのですが、そうした長い年輪と、その短かいこの世の一生とは、比べものにならないひらきがあるのです。

いまの人生を終っても地上生活が終わっただけのことであり、あの世にいけばまたあの世での修行生活が始まるのである。

この地上での短い一生の過程のなかで得た知識、地位、名誉におぼれるとすれば、これほど浅薄にして、自己を偽るものはありません。

今世のわずかな80年前後の一生を点としてみるならば、これまでの生まれ変わってきた過去世の生涯は計り知れないほど長いものであり線とみることができます。

線と点を比較してみて欲しいものです。……長さが違います。

これが私たちの人生であり、天の摂理によって成された転生輪廻の姿であります。

とすれば今世で得た知識、名誉というものが、いかに頼りないものであり、夢と幻のようなものであるかということを知るでしょう。

正しい生き方によって潜在意識から湧き出る智慧は、線のなかに内在されています。

その智慧は地上生活における知識が呼び水となることはあっても、知識そのものから生まれるものではないのです。

点のその一生を、謙虚に、素直に、正しい道に、即ち正道にもとづいた想念と行いを重ねていくうちに、なかば、忽然として現われてくるものです。

自己を過大に評価し、知識におぼれ、地位に固執した生活を習慣にしてしまっていると、こうした内在された智慧をひもとくカギを、自ら閉ざしていることになるのです。

さらに、もっと具体的に、卒直にいうならば、人の過去世は十人が十人、正しい道を学び、自分の血肉としているかというと、必ずしもそうではありません。

人は易きに流れるものでありますが、正しい道を学ばないのに、それにもとづく智慧も出てこないのも道理ではありませんか。

この世では様々な出来事があり、多くの人ともめぐり合います。過去の世において縁があり、今の世においてもその縁につながったことは、何よりも大事にしなければなりません。

しかし過去がわからず、あの世のことを、知識の範囲しか知り得ないとすれば、まず現在の自分自身を、正直に、素直に見なおすことが何よりも大切です。

自分の心に、誰もウソはいえないはずだし、そのウソのいえない自分に立ちかえり、日常生活についても、謙虚になることが、大きな気づきを早める導因となります。

己を知るには、まず何はさておき、謙虚な心から始まり、謙虚な心を持ち続けることです。

そうしてその謙虚な心の培養は、今を置いて、永遠に、そのチャンスは訪れてこないということも知ってもらいたいものです。

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医療現場の理不尽

 

怒る医師

最初に申し上げておきたい。きょうの投稿内容は、批判のために記述するのではなく、嘘偽りのない事実を知っていただくことで、読者の身に置き換えてみて、いつかはお世話になるであろう医療に対する向き合い方を考えていただければと思います。

私はこれまで、自律神経失調症、うつ病、躁うつ病、不安障害、パニック障害、統合失調症、心身症、対人恐怖症、社会恐怖症、過食症、拒食症、チック障害、テンカン、等々の精神科、及び心療内科が対応するこのような諸症状の多くの人たちと向かい合ってきました。

きょうは心療内科や精神科に通院している方々、あるいはかつて通院していた人たちのやり場のない思いと、こういった医療現場の現実について取り上げておきたい。

精神科と心療内科

心療内科の定義⇒心療内科は心身医学(心因性の肉体不調)を内科の領域において行う診療科。だから心療内科と呼ぶ。

(過敏性腸症候群、過敏性膀胱、胃潰瘍、神経性胃炎、神経性嘔吐症、狭心症、月経不順、高血圧、不整脈、緊張性頭痛、偏頭痛、慢性疼痛、関節リウマチ、気管支喘息、じん麻疹、円形脱毛症、等々)

精神科の定義⇒精神科は精神疾患(心の病気)を専門に扱う科。

(不安、抑うつ、双極性障害、パニック障害、広場恐怖症、社会恐怖症、対人恐怖症、急性ストレス障害、適応障害、心的外傷後ストレス障害、拒食症、過食症、不眠症、イライラ、幻覚、幻聴、妄想など)

精神科・心療内科の未熟

Aさん事例
『先日、心療内科で、帰りにボロ泣きしてしまうような酷い言葉を言われ続けました。
(仕事休んで一日中なにやってんですか?とか、他にも責めるような言葉が中心)

引越を期に転院したのですが、心療内科の対応でかなり気持ちが乱れてしまったため、今は緊急でまえの心療内科にもどり薬も頂いたので、気持ちも落ち着いてきました。 』

Bさんの事例

今は別の精神科で、パニック障害と診断されています。

最初に行った心療内科では、まだあまり話もしてなく、私が「最初は電車でめまいと、動悸と、」と話し始めたところで、「もういいです。」と遮断、「ようするに、仕事が嫌なんでしょ?行きたくないんでしょ?私はそんな怠けた人の味方にはなれません」と言われ、唖然・・・。

あまりにも悔しかったので、ボロボロ泣いてしまいました。

多分私が20代前半というのもあったのか、何も話してないのに勝手に仕事が嫌だと決めつけられました。

それからしばらくは、病院に行くのが怖くなりました。
メンタルクリニックという名前の場所から、まさかそんな仕打ちをうけるとは思いませんでした。

Cさんの事例

私が行った心療内科で酷い言葉を浴びせられ、今は転院しました。

元の医院は、医者自体が精神的に病んでいたので、患者に対して優しい言葉がかけられないような人でした。

開院した当時は、熱心な医者として人望もあったようでしたが、年月が経つにつれ、医者自身が病んでしまいました。

私生活が治療にも影響をするような、自己中な医者で、私も転院する前は幾度となく泣かされました。

医院は、患者のプライバシー保護のため番号で診察室に呼んでいたんですが、その呼び声が聞き取りにくく、間違えていくと「集中力がない」とか「何回も同じこと言わせるな」とか、私が「今、辛いんです。薬を替えていただけませんか。」と頼んでも「この薬で効かなかったら、もう終わりやね!」と、医師として信じられないような事を言われました。

私の両親の育て方が悪い。とかも言われました。書ききれないほど、酷いことを言われ続け最後、転院するきっかけとなった言葉が「広汎性発達障害」って言葉でした。

Dさんの事例

初めて母親に連れられて心療内科を受診したときのことです。
私が症状をつたえると、医師は『で?あんたはどうしたいわけ?』と発言されました。
1ヶ月も眠れず、食べられていない状態だったのです。
黙ってしまいました。
病院を出るまでこらえていましたが、道で大泣きし、母親を振り切って逃げました。
もちろん、薬の処方もなしです。

Eさんの事例

私はパニック障害なんですが…
主治医がパニック障害の人達のことを、「奴ら」と言いました。

「奴らは倒れる時は必ず頭を打ちつけないように、柔らかい所を探してそこへ向けて倒れる…」と。笑いながら…
転院して、他の主治医は一人で買い物に行けれない私に、「周りの人をカカシと思ったらいいじゃない?」と言いました。
思えるわけありません!

Fさんの事例

心療内科に通院しており嫌な経験をしてます。

転院前は医者との相性も良く、何でも話せる医者でした。

事情があり引越しの為に転院しました。

転院後の心療内科で、あなたは仕事が嫌いなんだな、働く事嫌いか?嫌なら他の病院に行けばいいだろ、あなたは治せない、とか、医者として言葉や対応も良くなく最悪です。

また転院したらいいか考えています。でも実際どこのの心療内科に行けば良いかどうか疑問もあり分かりません。

以上が通院された方々の極一部の事例です。

人間、気分が沈んでいたり、悩みがあったり、病気をしているときは、少しの言葉でも責められたように感じたり、突き放されるような言葉に感じてしまう事もあるものだ。

医師が攻撃的な言葉をかけるというのは全く個人的感情に走った言動であり、道義的にも、モラルの観点からしても、ましてや医師という立場にあっては、患者に与える影響も強いため、あってはならないことである。

心療内科も身体症状を対象に診察するものではあるが、特に精神科の場合は患者の心の分野に深く関わる仕事であり、どこまでメンタルケアに関わるかはその医師の姿勢にあるといえるだろう。

医学上は精神科と心療内科は定義分類されてはいるが、現実は精神科の領域である諸症状であっても心療内科に通院している人たちは多い。

上記のように通院者の声を聞くにつけ、また、公開できないような事実もあり、心ない医師の配慮に欠けた無神経な対応には驚かされるが、話を受け止めてくれることも殆んどなく、薬を取り替えるだけ、あるいは増える一方の治療法に疑問をもった人たちの窮状は本当に気の毒な状態でみえるのである。

厳しいかもしれないが、薬を大量に処方するやり方は利益優先の患者無視の対応と言わざるを得ない。

何故なら減薬の奨めと心のあり方を学ぶことによって、最終的に断薬できているからだ。

医師自身が医療従事者として偏った驕りや傲慢さを振りかざすのではなく、一人の人間としてのモラルは勿論であるが、心の在り方を学ぶ必要があると思えてならない。

医学的解釈では『うつ病』とは気分や感情の障害による身体症状であるとし、臨床現場では抗うつ薬を投与することでセロトニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の働きを促す治療が行われているが、あくまで対症療法的なものであり、原因の解明は成されていない。

薬物による治療の場合は避けられない問題として副作用というものがあるが、この副作用によって体調が低下することで朝の起床がダメになる、倦怠感が増してきた、集中力がなくなった、日中も眠気が抜けない、食事が以前より摂れないなどの症状を訴えるケースもある。

うつ病の予防するためには、普段から仕事などであまり無理をせず、十分な休養を取ることが大切ですと医学ではいいます、勿論、休養は大切です。

しかし、注目すべきは十分に休養を取れていたら発症しないのかとなると必ずしもそうではなく、また、休養をとったら回復するのかとなるとそうでもなく、同じ職場のなかで、同じ条件で働いているのに発症する人としない人があるということも見逃せない。

ここに家庭環境の問題や個人の心の傾向性(癖)という問題が潜在しています。

これは社会情勢の急激な変化や仕事だけではなく、家庭内のライフスタイルやプライベートでの人間関係などにおけるストレス、あるいは根本的には、良くも悪くも個性があり、心の傾向性(癖)という根本的原因がある。

私のところに相談にみえる方々には、これまでの精神科や、心療内科での内容とは異なる手法で、ご本人の幼少の頃からの家庭環境、親子関係、自身の心の傾向性(癖)についても深くアプローチしていくことによって、通院歴3年、5年のような人でも変わり始める。

物事に対する考え方、価値観、拘り、執着、生真面目、頑固、求めすぎ、といったことを解放することで心の負荷が徐々に解消されて、うつ病は改善できるのです。

投薬による治療を受けて、一度うつ病が治ったかにみえても、「遅れを取り戻そう」と仕事で頑張りすぎて病気が再発することもあり、復帰してこれまでより仕事量を減らしても間もなく再発するケースも多いというのが実情でもある。

となると、必ずしも仕事量の問題だけではない理由があるということになります。

やはり最終的には心の在り方心の使い方対人関係の在り方、を根本的に見直していかなければ本当の回復には至らないでしょう。

なかには夫婦のトラブルや夫婦として機能していない家庭、本来の夫婦のあり方から逸脱した状況にあり、その苦しさから宗教に救いを求める人たちも多く、そのような人たちとも対応してきた。

しかし、他力本願の教えに洗脳されて、お経を何時間も唱えることを日課としてしている人たちは多く、そのようなことで本当の意味での心の安らぎを得ることはない。

お経をあげなければ苦しい、眠れない、心が定まらない、うつ症状がひどい、お経に熱中していると楽だ、お経をあげると眠れる、こうなってくると末期症状的信仰スタイルである。

お経をあげなくても普通の生活ができるようでなければ心が安らかであるとはいえない。

お経をあげずとも安らかであるような心の学習をすることが本来の信仰でなければならないのである。

現実の生活から意識をそらしている生き方で落ち着きを取り戻せると考える読経や祈りでは、現実の生活に対応できない心を造ってしまうことになるだけで人間破壊の信仰としかならないだろう。

精神科、心療内科の薬も過ぎればアヘンと変わらないが、誤まった宗教界の教導もアヘン以上に恐ろしいものとなるから狂信、盲信の信仰とならないように疑問をもって臨むことが必要である。

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夫婦愛の本質

心の光『最近は夜の生活がありません。』こういって沈んだ表情の若い奥さま。若い世代のセックレスは健全な家庭生活を営んでいるとは言い難い。

ただ単に肉体的欲望を満たすだけではないものが夫婦の営みであるのは誰もが承知するところでありましょうし、それだけに双方の精神的繊細な部分が大切なところでもあろう。

相談者と話していると、思いやりがありながらボタンの掛け違いをしている場合もあり、誤解をしているがゆえのレスもあり、致命的な関係による場合もある。

いずれにしても、本来の夫婦愛の在り方を理解していただくことで以前の夫婦になれたといって笑顔で報告にみえられる。

愛と慈しみの言霊

ふつう一般に、愛とは男女の愛、夫婦の愛とみてしまいがちですが、愛の本質は、愛憎の愛とは違います。

もちろん夫婦の愛、男女の愛も、愛の現れといえないことはありません。

顛倒夢想と矛盾だらけの世にあって、男女の愛は、人間生活に、希望と生きがいを与える役割を果たしているからです。(※顛倒夢想、てんとうむそう、自分にとって必要なことでも好き嫌いで為さない。)

しかし、本当の愛は、神の愛をいうのです。

神の愛とは、無私なる心、いつくしみの心、なさけの心、思いやりの心です。

丁度、2000年ほど前に人々に愛を説いたイエスは、「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣(つ)がん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん……」 といわれました。

これはどういうことかというと、心の貧しいとは、おごる心のない者。

柔和とは心のおだやかなこと。

その人は地を嗣がんとは、人々の心にも安らぎをもたらし信頼をもたせるの意味。

平和ならしむる者とは、争いを好まぬことをいっており、こうした心を持った者は神の愛をうけ、天国の住者であるというのです。

このような心は、自我が強くては生まれてきませんし、無私なる心、なさけの心がなくてはでてこないのです。

慈悲の心も、無私、なさけ、思いやりでありますが、愛もやはり同じなのです。

慈悲も愛も、ともに神の光ですから、同じでなければなりません。

ただ、愛は、その根本は慈悲と同じですが、働きとしては、「許し」であり、相互扶助であろう。

もし、この地上に「許し」という免罪符(一時的な罪に対する免除)がないとするなら、人間は、原罪(人間が最初に犯した罪)というカルマ(業)から、のがれることはできません。

つまり、聖書でいう原罪とは、煩悩という神の子の神性を汚す、想念と行為をいうのです。

嫉妬、怒り、偽我、欲望……。こうした想念は、神性であるべき己の心を毒します。

しかし、人間が肉体を持ち、相対的関係のなかで生活していますと、どうしてもそうした想念にとらわれてしまいます。

そこで、地上の人間を救うために、神は、愛の光を投げ与えてくれているのです。すなわち、「許し」という光です。

人間がその原罪を認め、ザンゲし、素直な心で新生しようとするとき、神はその人に愛の手をさしのべ、その罪を許してくれるのであって、求める心がなければ成されない。

もうひとつ大事なことは「相互扶助」です。互いに助け合うことがなければ、人は一人として立つことはできません。

私たちの生活は、多くの人たちの愛の上に成り立っています。

助け合う心は地上における光です。

慈悲を、縦の光とすれば、愛は、この地上界で手を取り合って横に連なる光であるといえましょう。

夫婦で争いの絶えない家庭の場合、理由はその家庭によって様々ではあるが、いずれにしても理由の如何を問わず、自我を通しては平和は望めない。

妻に対する思いやりに欠け、言葉が足らずに心が伝えられない夫、言葉がきつくて夫のプライドを削いでしまい手をあげられる妻。

夫婦喧嘩は100%片方だけが悪いということは少ないものであることは、これまで相談者の話を聞いてきたなかでわかることである。

愛の言霊

愛とは寛容である。包容力である。許すことである。

もし、この地上に愛がなければ、人の世は、水のない砂漠をゆく旅人のように、飢えと渇きに泣き、他をかえりみるいとますらないだろう。

愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許し合う、そのなかに生きている。

愛は天の光りであり、あなたの中に宿る光なのである。

地上の灯、それが愛であろう。

闇夜にさ迷う人々の心に潤いをもたらし、生きがいを与えていくものである。

心の内から照らす愛は、正に灯台の灯といえよう。

しかし、愛に溺れてはならない。愛は自分に打ち勝つ者、向上を目指す者の心の内から輝きだすものだからだ。

闇夜(執着)の世界は自らの進路さえ迷わせる。

前途に何が立ちはだかっても解らないし、いつ足を踏み外すかも知れない。

焦燥感に襲われることだってあるだろう。

この闇夜を支配している、ならず者の群れ、下心、脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺、殺人、裏切り、不誠実などは、そのまま恐怖の世界であり、すべて満足することのない苦しみの世界である。

それは、光明を失った人々の、悪想念が作り出したものである。

闘争と破壊、暴力、武力がまかり通る世界といえよう。

慈悲深く、愛を施せる者は、自らが安らぎの心をつくり、人々の心に光明を与え、悪魔さえ支配し、正しい道、天の道をゆく者だ。

悪魔に勝る道は、慈愛の心と行い以外にないであろう。

悪魔は己の心の中に潜んでいる。

正道(執着なく調和して正しく生きる道)を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正した時、心の悪魔は滅びるであろう。

他人に打ち勝つのではない。

驕ってはならない。

己に打ち勝てる者こそ、真の勇者といえるのである。

人の魂は、転生輪廻という天のはからいから、一歩も外に出ることは不可能なのだ。

何故なら人は天の子であり、天の意識が内在されているからである。

天は無限の進化を目指し、無限の大調和を目的としている。

人の転生は、その目的のもとに永遠に続くだろう。

大自然の輪廻循環と全く同じで、人間だけが別ではないということである。

人がもし、この法則に反し、自我に身をおけば、その人は、その分量だけ、償いの労を課せられるだろう。

身の周りに様々な諸問題が発生し、不幸への道のりを歩むことになる。

これが作用と反作用の法則である。

己の人生が不幸だと思うなら、これまでの言動を省みるがよい。

人間は大自然の法に逆らって生きることはできない。

物質もまた、輪廻を繰り返している。

集中と分散という過程を通して、そのエネルギーは永遠の活動を続けるだろう。

それも、すべて外部からの縁の働きによるものだ。

原因と結果という法則を曲げることはできないだろう。

物質が変化していくという結果は外部からの縁という働きによって、はじめて為せることになるのだ。

その目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果たしている。

つまり物質は生命維持のために欠かせない存在(媒体)だということだ。

生命も物質も、このように、転生輪廻という、天の法(大宇宙の意識)の下に、天の目的を果たすために生かされ、存在しているということである。

人は目覚めているときは、肉体を自分だと思っているだろうが、眠っているときは、肉体が自分自身だと思っていない。

他からの力を受けない限り、そのときは無自覚だといえるだろう。

肉体から魂が、降りて(離脱)いるからである。

親も、兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も、何もかもわからない。

五官の機能が、何も外界から受けないからだ。

しかし、鼻の穴も、耳の穴も、ちゃんと開いている。

ただ意思を動かすことができないのである。

目が覚めて、肉体の自分を自覚し、夫や妻のあることを知り、子供のあることを知る。

ということは、自分にとっては、この世の一切のモノは、自分の意識があって初めて確認できる存在であるということだ。

自分という意識がなければ、この大宇宙も地上世界も、自分の肉体も認知することはできないだろう。

この意識こそ、天(神)に通じた、本当の己の心ということだ。

不変の魂ともいえよう。

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現代社会の病

マイホーム

人間誰しも夢をもち、それに向かって頑張ろうとする。夢を追うことが悪いのではない。

しかし、限りなく物質的豊かさを求めるがゆえに、月給30万円の者が、奥さんのパート収入まで当てにして4000万円のマイホーム計画を立てるという無謀を行い、結局、奥さんの病気をきっかけに家を手放すことになり借金を抱え込んでしまうということがあった。

親の援助があったとはいうが、無理な計画と思えるこのような事例は数多くあるのだが、己の分を知らず、足ることを忘れ、欲望の海に押し流され、身も心も泥沼のなかであえいでいるということである。

きょうは、現代社会の思想と病を検証してみたい。

現代の思想を大別してみると、資本主義と社会主義に分かれてくると思いますが、しかし、いずれの主義も、心を失っているように思えてならない。

それは、思想の根本が、物質経済偏重主義(偏っている)になっているからである。

人類は自ら造り出した物質文明によって、より豊かな環境を造り出そうとした。

ところが結果は、偉大な心の尊厳を忘れ去り、宗教にしても形式的宗教に心の拠り所を求めたため、生活のなかに、習慣のなかにそれが根を下ろしてしまった。

それは、自力を忘れて、他力本願の自己陶酔に陥った結果といえ、それが人々の心を支配したからであり、何ら心の安らぎを得ていないどころか、生活そのもが改善されていない。

このような実態は現代においても、否、このような現代だからこそ他への依存、物への依存が強くなっているといえる。

財産や経済力が幸福を得るためのもの、という人生観に変わってしまったとき、人間は、自らの心の偉大さを置き忘れてしまうことになるだろう。

それは、人類が、自ら造り出した ″業″ である。

人間は、肉体を持って生まれてしまうと、現実のことが全てとなり、この世だけだと思い込み、自我我欲の一生を送ってしまう。

この世の延長上に、あの世があることには目を向けようとしない人が多いのだ。

人類が、この地球という場を心のステージアップの修行場として選んだ当初は、地球は非常に調和されたユートピアだったのである。

人々の心は、神の子としての自覚に目覚め、あの世との連絡も自由にできたようだ。

しかし、種族や人口が増えるに従って、それぞれの種族保存の自我が芽生え、一部同族のグループは共同体から分離して行き、やがて自らの生活の場を確保するための境界が造られていったようである。

そして、種族の分裂によって、また細かく分かれ、生活区域が確立するにつれて、対立もまた生じたのであり、部族の長がそれぞれの部族を支配するに至ったのである。

しかし、原始共産体制は、自然から生命を守るため、互いの協力が必要であった。

人間はそこでいろいろな生活手段を考え出し、それに従って遊牧の民となり、農耕民族ができ、漁民ができるといったように、生活の場が広がって行った。

だが、生活の場が広がるに従って、人間は互いに疎遠になって行き、人類は皆同胞だということを忘れて孤立して行ったのである。

部族が大世帯になる。すると豪族が生まれる。弱い部族は亡ぼされ、強い者は、侵略によって自分の領地を拡大していくのであった。

同族間にも争いが生まれ、その闘争が武将を生み、やがて封建社会が造られ、きびしい階級制度を確立するといったことになる。

武力による戦乱が続く。弱い者は支配され、武将は勢力を拡大して行く。戦闘力の優劣が勝敗につながり、武力の強い者が、やがて国家を統一して行く。

この頃から、封建制度はさらにきびしい階級制度を造り、その支配力をゆるぎないものにして行くのである。

底辺の大衆は、その武力や権力の犠牲となり、きびしい生活に甘んじるということになる。

武力は、弱い者達の自由を奪い、行動の自由にも制限を加えるようになって行ったのだ。

日本における一向一揆など(戦国時代、浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、 商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事。)を始めとする農民一揆などは、この弱い者達の団結による闘争であった。

そうして権力者に抗しなくては、生きて行く道を閉ざされてしまうほどの悪政であったといえる。

しかし、その間にあって、商人達は、武器や食糧や衣類などを武将達に売り、商売によって経済力をたくわえていた。

あるときは、スパイになり、情報まで売って、敵味方の見境なく、商法を駆使して財を蓄積して行ったのであった。

闘争に明け暮れている武将達は、商人のよいカモとなり、やがては経済力で、逆に商人に支配されるという破目になる。

ここに、資本主義の芽が生まれ出てくるのである。

そして、経済力は大衆を支配して行くが、大衆はそのなかで、自由に目覚め、水を得た魚のように団結という組織を生んで行く。

武力は、大衆を支配してきたが、大衆の行動を制限することはできても、その心を支配することはできなかった。

そして、自らの不調和な、驕れる心によって自らを亡ぼしてしまったのである。

彼らも、人の心をつかむ努力を怠ったのではないが、誤った宗教を利用し、悪徳のその指導者と組んで、大衆をあざむき、心の束縛をはかったことはあったのだ。

しかし、正しいものではないでっち上げの宗教、他力本願宗教、人間の造り出した偶像崇拝では、所栓、人の心を救うことはできなかった。

カールーマルクス(ドイツの思想、哲学者1818-1883)のように、宗教は阿片である、ということに大衆は気がついてくるのである。

確かにマルクスの言うことも事実ではあるが、かといって唯物主義を提唱して唯心的思考を二の次にしたところにマルクスの誤りがある。

これは何を意味するかというと、私がいつもいうように、物を優先するのではなく、第一に心を調えた生き方をしなさい、ということである。

正しい神理に適ったものであるならば、人々の病める心を狡うことはできるだろうが、人間の智恵によってでっち上げられた宗教で人を救うことはできない。

また、そんな宗教に騙されるということは、私達の意識まで腐らせてしまうことである。

権力者や貴族が、悪徳宗教家達と組んで、大衆を犠牲にするような宗教は、阿片より恐ろしいものだろう。

太陽の熱、光は、すべてに平等であり、神の慈愛の現われである。

そして、宗教は、一部の特権階級の独占物ではないということだ。

大衆はしかし、自由の目覚めとともに、社会主義思想が人々の心のなかに生まれ、やがて行動に移って行くのである。

しかし、社会主義経済も、物質経済が基本であり、彼らも武将に代わって武力で支配するようになった。

自ら、団結といいながら、階級闘争のなかで、自己の立場を守るためには、他人を陥れることもする。

社会主義という思想の統一をはかるためには、きびしい弾圧をくり広げ、やがて、彼ら自身の内部にも不満が生まれてくるのである。

彼らは他を信じることができないため、心の安らぎを失い、いつ権力の座から引き下ろされるか解らないきびしい環境に生きている。

今日の友は、明日は人民の裏切者の烙印を押されて失脚してしまう。

人民という名を騙(かた)って行なった独裁者の主義主張は、やがて自らの不調和な行為に比例して、反作用が返ってくるのだ。つまり、自らを裁く日が来るのだ。

自らの正しい生活行為のなかから、人民の平和な生活を考え、身を犠牲にしても大衆を救おうとする、心に生きる指導者こそ、本来の神の子といえるだろう。

『勝てば官軍、負ければ賊軍』ということわざがあるが、その争いそのものが、万物の霊長たる人間のなすべき道ではない。

それは万物の霊長に進化する過程の動物的行為である、と自覚せねばならないだろう。

人民大衆に団結を呼びかけ、権力者や資本家達とともに闘争をあおっている指導者は、それだけで失格である。

そういうことから、日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、台湾、これら東アジアの指導者は相互に連携する協力姿勢をとらなければ平和は望めないし、責任がある。

そして、その心のなかに地位欲、権力欲や自己保存の心が芽生えたとしたなら、それはすでに大衆を偽っている者達なのである。

奪いあいすると足りないが、譲り合うと有り余ることを悟ってほしいものだ。

「正しい」心を持っている指導者であるなら、闘争の虚しさを悟っているだろう。

指導者は、人民大衆を扇動してはならないし、偽ってはならない。

争いは、相手を傷つけるにとどまらず、自らにはね返ってくるものだからだ。

作用すれば反作用が働くのは自然の法則であるが、この作用、反作用の法則を知っているならば、その行動がそのまま自らの身に返ってくるのであり、心の不安となり、苦しみを造り出すということもわかるはずだ。

正しい考えと行いであるならば、人は、皆ついてくるであろう。

闘争と破壊によって犠牲になる者は、人民大衆ではないだろうか。

軍国主義によって国を支配し、階級闘争によって、文明は発達して行くのだと教えている思想家達は、公害などの毒物を造り出し垂れ流しにして人命を危機に晒(さら)している者たちと同じ共犯者であるだろう。

人間は働ける環境に感謝する心こそ、大切なのではなかろうか。

感謝は、自らの環境で一所懸命に働き、報恩という行為によって示さなくてはならないのである。

もちろん、資本主義者を自認する指導者達も、大衆に対する考え方を謙虚な姿勢に変えなくてはならならず、大衆は、彼らに対して、働く場所を提供して貰ったことへの報恩を、愛を持って働くという行為によってしているはずである。

彼らは、その働く人々に対する感謝の心を、環境改善、職業病排除など、行為によって現わさなくてはいけない。

指導者はそして、自ら、働く人々との対話を持つべきである。寛大な指導者らしい人間性が大切ではないか、ということである。

いずれにせよ、互いに牽制し合っていては、心と心の調和にはほど遠いといえるが、これは、企業内でも国家間の外交でも同じことがいえるであろう。

資本家には、品性も教養も必要であるが、何よりやさしい心遣いが必要だといえる。

正しく、偏りのない、いわゆる中道の指導が大切だということだ。

闘争のくり返しは、労使互いの首を締めてしまうということ。

すべては、心が優先なのである。

心の交流が途絶えたとき、信頼は失われてしまうのである。

今は、社会主義者も、資本主義者も互いに心を失っているのではないだろうか。

それぞれが、自らの心をだ。

「正しい中道」を心の物差しとして生きることこそ、働く者と雇用する者の調和を生む、ということである。

人間は、心を失い、物質文明の奴隷になるに従って、人間性を失っていく。

近年、精神的疾患者が急増しているのも、元はと言えば、効率主義、経済至上主義による弊害と心不在の企業経営によるものであろう。

ある者は、心不在の肉体を不調和な地獄霊に支配され、自分で自分を制御することができなくなっている、そんな人も多いのである。

すなわち、自分であって自分でない人々だ。自分以外の者が、心のなかでささやく、こんな人々は、100%地獄霊に憑依されているのであり、分裂症というべき人々である。

分裂症やうつ病、適応障害と言われる人達と対峙してみると、ほとんどが、自分の小さな心のなかで、自己を失っている人達である。

この原因は、小さい頃からの家庭環境、両親の教育、愛情過多、愛情不足、厳しすぎる躾け、家庭内暴力、知識偏重教育などからも発生し、また自らの心に小さな枠を造ってしまった本人自身の心の傾向性にあろう。

正しい中道の生活を忘れ、恨み、妬み、そしり、怒りなどを心に持った人達の場合は、他人ばかりが悪いと思う、自らに反省のない人間の哀れな姿といわざるを得ない。

情緒を失い、狭い、自らが造り出した狭い心の世界から、脱け出すことができない人々なのである。

自信をとりもどすこと、自らの不調和の原因をとり除くこと、心の修正をすること。これをしない限り、それらの人々は、その病から救われることはない。

″中道“という心の物差しで、過去の誤りを、勇気と決断をもって修正する。

そのとき心の曇りは晴れて、不調和な苦しみの生活から解放されるということだ。

そして、正しいという、その基準は、大自然のルールが私達に教えているのである。

極端な考え方を捨てて、中道の道を歩むことこそ、自らの心に安らぎを生まれさせる何よりの方法といえよう。

先に述べた八正道、この道こそ、自らを正す人間の心の方法論であり、近道なのである。

病をすることも、堕落することも、悪に染まることも容易いことですが、病から脱することは薄紙を剥ぎ取るごとくでしか回復できないものだし、心を正すことも勇気と決断がいる、悪から遠ざかることも自身の強さが必要である。

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道徳と宗教の大義

光

私が小学生のときには道徳という時間があった。担任の先生は私たちに『目を閉じて聴いていなさい』と、本を読んできかせてくれた。

その担任の先生の道徳の時間が楽しみでもあり、読んでくれた本のストーリーに涙して聴いていたこともあった。

その先生は、子供たちがいき過ぎた悪さをするとゲンコツをひとつくれた。

しかし、誰もがその先生を慕っていた。現代の陰湿な暴力とは明らかに違う愛情のこもったゲンコツだった。

現代においての日本人は宗教と道徳の違いがわからない人は多い。

この違いをはっきりさせないと正しい宗教か否かの判別ができないであろうし、日本人は道徳を宗教だと思っている人も多い。

教祖や幹部指導者がそうなのですから、信者がそう信ずるのも無理もないのでしょうが、教祖が道徳の説法をして、それを宗教だといっていることはその教祖は宗教家としては?????だということになるだろう。

ここで「広辞苑」の定義紹介してみます。

宗教-神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰、行事またはそれらの関連的体系。

※これでは分かりにくいから要約します(人智の及ばない絶対的な存在や、悟った人の教えに対する信仰とその行動)

道徳-或る社会で、成員社会に対する、或いは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体。

※やはりこれではわかりにくいので要約すれば、(人々の関わりにおける行為を規制するための一般的な規範)

道徳は、正邪善悪を知り、また正善を意志し邪悪をしりぞけようとする心。

良心と同じ意味に用いるが、良心は自分の行為や心情に関係するものであり、道徳は他人の道徳意識にも関係するものであるから、厳密には同一ではない。

宗教は、神、超越的絶対者、あるいは信仰の対象とする現実世界から離れた別の次元の神聖なもの、神秘的なものと、自分一人の心のあり方とその行為を問題とするものである。

つまり、神、あるいは霊と自分とどういう関係にあり、自分がどのようにあればいいのかという、自分の心のあり方と生き方を明らかにするのが宗教だといえよう。

道徳は、この世に生まれてから死ぬまでの、生きている間だけの人と人との関係、すなわち、先祖、親、夫婦、兄弟姉妹、親戚、隣人、友人、職場の上役、同僚、部下と、自分とがどういう関係にあるのが正しいかということを教えるものであろう。

だから、厳密にいえば、先祖に対する感謝、親孝行、夫婦の調和などは本来は道徳の範囲であって宗教ではないといえる。

昭和20年、日本は戦争に負けたために、アメリカの支配下におかれ、日本古来の道徳的生き方はすべて誤りだとされ、民主主義、自由主義、男女同権、男女平等というようなことが正しいのだと教え込まれた。

こういった西洋的な主義の利点もあったが、同時に日本の文化のなかで育まれてきた伝統までも失うことになったのである。

先祖に対する感謝や親孝行などしなくてもよいと皆が考えてしまった。

それを各宗教団体がみな、先祖に対する感謝や親孝行、家庭の調和が大事であると説いたために、それを宗教であるかのように思い込んでいるというだけのことである。

いわば現在の宗教団体は、敢えていう必要もないところの人間として当然の生き方をいっているだけのことで、特別に立派な宗教的なことを説いているのではないことに気づかなければならない。

ところで、道徳の在り方には二通りある。

(1)正しい宗教を出発点として、人間として当然しなければならない、永遠に変らない人間としての生き方。

これが先祖に対する感謝、親孝行、家庭の調和、隣人愛などである。

だからこれは、たとえ時代がどのように変っても、人間はそういう生き方をしなければならないであろう。

(2)その時代の社会状勢によって決められた人間の生き方。

これは時代が変れば変るので、このようなものは、道徳というよりも民族の風習、習俗(モラル)というべきである。

たとえば、五人組制度が決められてあった徳川時代は、その制度に従わないと生きられず、それに従うことが正しいとされた。

※五人組制(江戸時代に幕府や領主が民衆を支配するための仕組みの一種で、農民や町人の家持ちの隣近所5軒を1組としてグループを作り、代表者を決めて名主の支配下に置きます。領主から法令が出ると名主から五人組の代表者に通達され、年貢(納税)を納めたり、法令を伝達したり、各組内での犯罪の取り締まりなどを5軒の組内で行った。)

古くは、女の出産や月経を不浄と見て、神前にお詣りさせなかった誤った考え方など、宗教は、なにを置いても第一に、神と人間との正しい関係の在り方を教えなければならないのである。

ところがそれを教えずに、拝むことだけ、お経や念仏、題目を唱えることだけを教えている宗教の何と多いことか、これは間違いである。

神と人間との正しい関係がわかってきた時に、人間の生きる基準としての正しい生き方である八正道が明らかになされるのである。

そうして「悟り」に入るのであるが、悟るとは、浮世離れした隠遁(いんとん)生活をすることではない。

悟るとは、次のような状態を自ら手にすることをいう。

(1)禅定(自己の内面を見極める)によって、神と人間との関係を自覚すること、霊的にも直接体験すること。

すなわち最終的には「宇宙即我」を体験し、神は唯一の一大生命力であり、創造主でもあり、智慧そのもの、慈悲そのものであることを知ること。

(2)自分の心のあり方を自分で知って、自分で自分の心のあり方を完全にコントロールできること。

そうなれば人生の目的を見失って欲望にふり廻されたり、あるいはいろいろな物事に執着したり他人の言動に自分を翻弄されたりすることはなくなるのである。

このような悟りを得るためには、争い、憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬、羨望などの心を持っていたのではできない。

調和された安らかな心を持っていないと、自分の心の動きが自分でわからないし、神と自分との関係を正しく実感することもできない。

心を深めていきたいと願うならば、外にばかり心を向けないこと、例えば、楽しみを行楽地に求めたり、喫茶店で一人の時間も時にはよいが、習慣的傾向になってはならない。

何故なら、そのような生活習慣はじっとしていることができず、また内面を見つめる深さが生まれにくく、外界の動きにばかり心を向けやすくなるからだ。

細かい話で申し訳ないが、食べ物グルメと外食傾向、不必要な衝動買いやウインドショッピング、その他諸々、自分の欲望を満喫するための時間を習慣的にしないこと心のステージアップへの条件でもある。

心を安らかにするためには先祖に対する感謝、親孝行、家庭の調和、隣人との調和、自然に対する感謝などが心要になってくるが、しかし、このことに囚われてはならず、それはあくまでも、正しい悟りを得るための前段階なのであって、それだけが宗教の目的ではないのである。

このことは派閥宗教的なことを説いているのではなく、道徳の意味を知ったうえで宗教の大義に気づかなければならないということを述べただけである。

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現代医療の功罪

医療

のりたろう より:

2013年5月13日

先生おはようございます。

いつも興味深いお話しをありがとうございます。先生の健康教室近くでしたら是非行ってみたかったです。

先生にお聞きしたいのですが私は自分や家族など病気になると自分の中途半端な知識の為にとても迷う事があります。
本当は薬も飲みたくないしレントゲンも撮りたくありません。

病気や痛みは体の使い方の見直しや心の気づきの為のメッセージだと思っていますが私が中途半端な知識のためまだまだ自然治癒力を信じきれていない事と主人の意見も大事にしたい気持ちから結局は現代医療にドップリつかる事になってしまいます。

でも心の中は疑いまるけで治療していただいてもお薬をいただいても不安だらけで小宇宙にゴミを流すような物だと安心できる事がありません。

観童先生のように知識も実践も伴われている場合病気や痛み 歯の治療などどのように現代医療と付き合われているのでしょうか?

お忙しいところ申し訳ありませんが是非ご意見を聞かせていただきたいです。よろしくお願い致します
m(__)m

のりたろう様のコメント(2013年5月13日)にお応えして。

お久しぶりにコメントいただきありがとうございます。そして、いつもブログの訪問をいただきありがとうございます。

御質問を頂いたことに関して私なりの考えとこれまで対処してきたことをお話しさせていただきます。

私は、基本的には現代医学、特に西洋医学を否定する考えはもっておりません。

西洋医学の最大の利点はといえば、外科的処置ではないでしょうか。

特に救急医療やその他の諸病に関しても、明らかに手術をしたほうが良いと判断できる事例は多々あると思います。

そのことによって多くの尊い命が拾われるケースもあります。

また、その半面、外科的な手術を為さないほうが、あるいは為すべきでない事例もあろうかと思います。

単に、病気だけをみるならば、手術をするか、しないかという問題になりますが、これには、患者様ご本人の意思や、ご家族のお考えも絡んでくるということもあり、複雑なものがあります。

薬に関しても、同じことがいえるのではないでしょうか。

必要最少限度か、もしくは、足りない程度の投薬量にすることで体本来の働きがあり免疫力が生かされることになると思うのです。

ちなみに、私の場合は、風邪をひいても高熱にならない限りは病院に行きませんし、薬も服用しません。重篤な症状でない限りは民間療法的な処置で十分足りております。

知っている脳外の先生も比較的薬を控える方ですが、単なる風邪では薬を出さず、『体を温めて休みなさい。』という対応をしています。

歯の治療ですが、実は先般、奥歯が弱ってグラグラして噛むことができない状態でしたので歯科にいってレントゲンを撮りましたが、歯の根元の骨が溶けて隙間ができていました。

歯周病によるものです。保存のできない状態なのがレントゲンをみれば明らかです。

抜歯しました。これは良い歯への感染を防ぐためにも必要な処置と受け止めております。

歯科のスタッフが『抜歯のあとはどうしますか?インプラントの方法もありますよ。』といってくれたのですが、それは丁重にお断りしました。

そこまでしたいと思いません。これは私故人の価値判断によるものです。

医療現場の先生方のご意見をいただきながら、自分の考えを定めて医療と付き合うことが肝要かと思うのです。

盲目的に医師にすべてを委ねる傾向にある人たちの場合は、大量に処方箋を出されて食事程の薬を飲んでいる場合も多々あります。

私はこれまで、来院した方々の健康状態や病院から出た処方箋の実情をみて、とても疑問を持つものです。

あくまでもアドバイスとして減薬をお奨めすることによって症状が緩和されたケースはたくさんあります。

そして断薬に至った人たちもおられます。

特に、抗生物質の服用と向精神薬の服用は相当に配慮が必要と考えております。

その根拠はとなると、副作用で改善どころか悪化しているケースが実に多いのです。

全般的に申し上げて、日本の医療現場は薬の投薬量と種類が多すぎるのではと懸念しております。

これは、私の価値観だけではなく、アメリカの医療現場と比較しての話しです。

アメリカでは医師の処方箋を複数の薬剤師で協議して必要以上の処方箋に関しては医師に見直すよう進言します。

このことによって、症状や年齢への薬の負荷を最小限度にするようなシステムが確立されているようです。

日本では医師の処方箋がすべてです。薬も複数の病院から重複する処方箋や効能、副作用など、多重的に服用している患者さんが多いですね。

私の所に相談に来院する方々は、向精神薬を何年も服用している人、病気という病気がないけど体調がすぐれないという人、整形外科で改善されない人、等々。

こういった方々にアドバイスして減薬したり、断薬したりで改善されたケースも数えきれないほどです。

健康の在り方は、患者自身の医療への認識にもありますが、それを導くべき医療現場の実態にも問題が山積しているのではないでしょうか。

悲しいことですが、営利主義に奔走している医院の風評や、上から目線で高圧的な態度で押し付ける傲慢な医師に脊椎側弯症の12歳の娘が、あの病院に行きたくないと泣いて拒否した話しなど、その他諸々の不満を患者さんから聞くにつけ、残念でならないと、いつも心が痛みます。

人間は職業で偉いのではなく、地位で偉いのではない、経済力の多寡で偉いのではないということを、先生と言われる立場にある人たちは悟らなければならないと思うのです。

先生である前に一人の人間であります。

私個人の偏見であるかないかは読者の方々のお心にお任せしたいと思います。

失礼いたしました。ありがとうございます。

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肉体細胞の意識

健康

腹式呼吸法の勧め

私が主催する『心と体の健康教室』では物心両面、つまり、肉体の健康と心の健康をメインテーマとして、参加者の体験談を交えながら、様々な角度から学習しております。

きょうは肉体的な健康のために必要な心の在り方について述べてみたい。

胃腸その他の内臓は

『私は胃が弱くて少し食べ過ぎたり、食べる物によってはむかつくし、朝、目が覚めるといつも胃が痛い』といっている人がいた。

本人はいろいろと試みていたようだが、これといった成果は得られず為す術がないというから、この人に腹式呼吸を毎日、寝る前に五分間だけしなさいと勧めたら、以来、胃が痛いと言わなくなった。

腹式呼吸の最大の良さは、吸う息によって交感神経を、吐く息によって副交感神経をというように交互に働かせ、それが心身のバランスを調えることになるという点である。

つまり、医学的にいえば、呼吸と自律神経は直結しているということだ。

特に、吸う息よりも、吐く息に意識を傾けることがポイントで、これが副交感神経、つまり、体を弛緩させる効果で、いわゆるリラックス効果である。

例えば、息を10数える間に吐く場合は5で吸うようにする。心肺機能は個人差があるから、自分のリズムで始めることが大事です。

3で息を吸う人は6で息を吐くようにすること。慣れてくると10で息を吸い込み、20で息を吐くようにもなる。この状態になると、呼吸をしているのがほとんどわからない状態にまで進歩している。

腹式呼吸のポイントは、胸を膨らませたり、肩を上げたりしないで、吐く息でお腹をへこませて、吸う息でお腹を膨らませること。

そして、意識は臍下丹田(へその下)におくことです。この呼吸法は肺や心臓をはじめ、各内臓の機能アップと注目すべきは自律神経のアンバランスを調える効果が絶大であるということです。

なぜ臍下丹田(へその下)に意識を置くのかといえば、上気した体のエネルギーを下に下げる目的と効果があるからだ。

私たちの日常生活は頭で生きる傾向にあるために、どうしてもエネルギーが上気しやすい。

禅の世界でも呼吸は重要視されているように、それを実践している僧侶は健康者が多い。

胃のなかに酸が多いと、胃酸過多になって血液まで酸性化されるのだが、そのため肉体的なアンバランスが造り出されて、諸病の原因を造り出すことにもなる。

逆に、無酸性になっても、同じことがいえるのだが、やはり調和されたものが大事であり、食物も、偏ったものは肉体的アンバランスを造り出すものだ。

その証拠に、好き嫌いの多い人々には、病弱の人々が多い。

それは、食べ物に対する感謝の心が足りないことでもあるが、食べ物を口にできることがどれだけ有り難いことであるかということを学ぶ必要があるだろう。

なぜなら、米も、麦も、魚類、牛肉、豚肉、鳥肉、野菜類、果物も、すべて生命を持っていることを理解して心に落としていないからだ。

彼らは、私達の肉体を維持するために、自らの生命を提供し、万物の霊長に身を呈しているということを、私達は忘れてはならないだろう。

その生命を投げ出して提供している者に対しては、感謝する心はもちろん、いる行為が必要だということだ。

この場合、報恩とは、それを無駄にしないということであろう。

またそれを、生活の苦しい人々に対して、差し上げることも大切なことだ。

なぜなら、私達は、血や肉や骨になってくれる動植物を無駄にしてはならないからだ。

食事のときに、合掌して食べることだけが感謝ではないし、心による感謝と、行いによる報恩が大事だということである。

また食物に対して、美食や食べすぎ、不摂生を慎まなくてはならない。

胃腸を始めとして、各諸器官にとっては、朝昼夕と、極力、定まった時間の食事が大事だということ。

寝るときになって、胃のなかに食物を送り込むことは、酷使によって胃も疲労してしまい、肉体的なアンバランスを造り出してしまうということになる。

また、何かにつけて外へ出かけ楽しむことは悪いことではないが、しかし、その都度外食をして美味しかったと喜んでは、徐々に体がふくよかになっていく。

病気をして健康の有難味を悟ったはずの人でも時と共に病んだことを忘れ、外食に舌づつみをうっているものである。

こういうと、ニヤリとして思い当たる人もいるであろうから気をつけるが良い。

心と体の健康を願う者はシンプルな食事と生活という原点を決して忘れてはならない。

人間は小宇宙という言葉をごぞんじだろうか。

太陽を中心として各惑星が相互に関連して働き太陽系を構成するように、私たちの肉体にも意識はあり、各臓器にもそれぞれに意識がある。

胃腸は胃腸としての意識を持っており、体の主(あるじ)である心の判断で勝手に食べ物を送れば、胃腸は機能することに限界が生じ、休んでしまうことがあるだろう。

やはり彼(胃腸)を大事にしてやることも、健康を保つために最も必要なことである。

また肉体の船長である魂・意識の中心の心が病んだり、知が先走ったり、肉体がついて行けない場合にも、心と肉体のバランスを崩してしまうということを私達は知っておく必要がある。

肉体も心も、不二一体である。ということは心と身体が調和されてこそ人間であるということだ。

胃腸のコンディションも、調和された心と肉体のバランスによって安定されている。

私達が呼吸している大気中の酸素の量も、21%が必要で、少なくては体の保存ができないし多すぎても良くない。

公害によって、酸素が欠乏して、肉体的な不調和を造り出している人々も多いだろう。

樹木、草、野菜などが光合成、炭酸同化作用によって外に出している酸素が欠乏しているのである。

人類は、観光地開発、宅地造成などによって、草木を除き、自然破壊を造り出し、工場や自動車の排気ガス、飛行機の排気ガス、亜硫酸ガスというように、文明が造り出した廃棄物が原因になり、調和ある大自然を破壊している。

その事実に、私達は目をそむけてはならないし、公害防止のための自分にできる行動を起こさねばならない。

小さなことではあるが、車からのタバコの吸い殻や空き缶のポイ捨ては良心に任せるところである。

近年は改善されたとはいっても、かつての日本でも文明によって造り出した廃液などが影響し、野菜、魚類まで正常ではなくなっている時期があった。

文明の利器である原発も福島の爆発によってゴーストタウン化している街や村の惨状は住人が戻ることを許さない。

人々の肉体の維持も危い現実になっているのだ。

宇宙は、すべてに調和された相互関係を与えているが、万物の霊長である人間が、それを破壊しているのである。

私達は、自らの心に眼を向けて、大自然を守らなくてはならないであろう。

嗅覚については、どうだろうか。
もし、嗅覚など必要がないとしたならば、ガス会社で事故を起こしても、私達はガスの洩れていることが解らないだろうし、ガス中毒死をしてしまう。

逆に、嗅覚が発達しすぎていたならば、どうだろうか。悪臭ばかり鼻について、これも大変であろう。生きていられないことになるかも知れない。

やはり、中道である中ほどの嗅覚によってこそ、安定した健康を保てるといえる。

仏教では、仏前に香をたく。

これは、釈迦牟尼仏の時代、またそれ以前からの習慣の名残(なごり)であるが、現代のような風呂に入る習慣がなく、人々の体臭もきつく、互いに迷惑をこうむっていたからのようだ。

特に修行者は、森や林のなかで生活をしているため、毒虫などに襲われることが多かったことから、それから身を守るため、薬草や、木の実の汁などを身体に塗っていたから、よけいに臭かったのだろう。

その体臭を避けるために、香をたいて、匂いを柔らげることが、他人に対する礼儀であり挨拶であったようだ。

水浴をしても、温浴をするということはなかっただろうから、こうした習慣が、香をたくという形式になってしまったようだ。

このように嗅覚も、中道調和されたものでなくてはならないということだ。

では視覚はどうだろうか。

私達の視覚の範囲は、虹の七色の世界だけしか見ることができない。見えない世界のほうが、はるかに多いのだ。

空中に飛び交っている電波、赤外線、紫外線など、全く見えないが、しかし、それらは存在している。

こんなふうに、肉体的、物質的世界ですら限界があり、私達は満足に見ることができないし、手さぐりの状態のなかで生きているのである。

まして、次元の異なった意識の世界などは、ほとんどの人間が見ることはできない。

あるような、ないような世界を、身に感じることはむずかしいものだ。

また私達の視覚が、赤外線や紫外線、X線などをとおして見る能力があるとしたならば、

美しく調和された自然界の色彩、景色も、全く異なった世界になってしまうことだろう。

人間の姿を、もしX線の目で見たら、皆、骸骨にしか見えないのですから、それこそ大変なことになってしまう。

やはり、極端な赤外線や紫外線をとおして見るのではなく、虹の美しい色彩の世界だけで人間はよいのである。

こうしてみてみると、神は完全なるかたちで人間を造ってくれたと畏怖するしかない。

私達には調和された、もっとも良い周波数の世界だけ見えるようになっているのだ。

これも、神意というべきであろう。

だが、私達の眼は絶対的なものではない。

大自然の、調和された色彩だけでも見ることができるということは、幸福なことである。

これも、考えようによれば、人間に与えられている特権かも知れない。

美しく花咲くのどかな春、樹林の緑濃い日射しの強い真夏の海、山、黄金色に実った稲穂が海原のように波打つ秋の田園、また紅葉の美しさ、白銀の林や森の冬景色、色とりどりの四季の美しさ、大自然の移り変わる風景は、心のなかまで豊かにさせる。

それらを、自然のままに見ることのできる眼、それはやはり調和であり、中道であるといえるのだが、それ以外に、「正しい」とする、偏りのない中道の生活を楽しみ、執着から離れ、自らにきびしく、他人に寛容な心を持って生活をしている人々は、光明に満ちて、慈愛の光に包まれるため、心が開かれて行く。

そして、心の眼が開かれると、さらに大自然の美しい光景を見ることができるのである。

さらに、次元を超えた世界の風景を始め、あの世で生活をしている人々の生活もわかるようになるのである。

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