現代社会の病
人間誰しも夢をもち、それに向かって頑張ろうとする。夢を追うことが悪いのではない。
しかし、限りなく物質的豊かさを求めるがゆえに、月給30万円の者が、奥さんのパート収入まで当てにして4000万円のマイホーム計画を立てるという無謀を行い、結局、奥さんの病気をきっかけに家を手放すことになり借金を抱え込んでしまうということがあった。
親の援助があったとはいうが、無理な計画と思えるこのような事例は数多くあるのだが、己の分を知らず、足ることを忘れ、欲望の海に押し流され、身も心も泥沼のなかであえいでいるということである。
きょうは、現代社会の思想と病を検証してみたい。
現代の思想を大別してみると、資本主義と社会主義に分かれてくると思いますが、しかし、いずれの主義も、心を失っているように思えてならない。
それは、思想の根本が、物質経済偏重主義(偏っている)になっているからである。
人類は自ら造り出した物質文明によって、より豊かな環境を造り出そうとした。
ところが結果は、偉大な心の尊厳を忘れ去り、宗教にしても形式的宗教に心の拠り所を求めたため、生活のなかに、習慣のなかにそれが根を下ろしてしまった。
それは、自力を忘れて、他力本願の自己陶酔に陥った結果といえ、それが人々の心を支配したからであり、何ら心の安らぎを得ていないどころか、生活そのもが改善されていない。
このような実態は現代においても、否、このような現代だからこそ他への依存、物への依存が強くなっているといえる。
財産や経済力が幸福を得るためのもの、という人生観に変わってしまったとき、人間は、自らの心の偉大さを置き忘れてしまうことになるだろう。
それは、人類が、自ら造り出した ″業″ である。
人間は、肉体を持って生まれてしまうと、現実のことが全てとなり、この世だけだと思い込み、自我我欲の一生を送ってしまう。
この世の延長上に、あの世があることには目を向けようとしない人が多いのだ。
人類が、この地球という場を心のステージアップの修行場として選んだ当初は、地球は非常に調和されたユートピアだったのである。
人々の心は、神の子としての自覚に目覚め、あの世との連絡も自由にできたようだ。
しかし、種族や人口が増えるに従って、それぞれの種族保存の自我が芽生え、一部同族のグループは共同体から分離して行き、やがて自らの生活の場を確保するための境界が造られていったようである。
そして、種族の分裂によって、また細かく分かれ、生活区域が確立するにつれて、対立もまた生じたのであり、部族の長がそれぞれの部族を支配するに至ったのである。
しかし、原始共産体制は、自然から生命を守るため、互いの協力が必要であった。
人間はそこでいろいろな生活手段を考え出し、それに従って遊牧の民となり、農耕民族ができ、漁民ができるといったように、生活の場が広がって行った。
だが、生活の場が広がるに従って、人間は互いに疎遠になって行き、人類は皆同胞だということを忘れて孤立して行ったのである。
部族が大世帯になる。すると豪族が生まれる。弱い部族は亡ぼされ、強い者は、侵略によって自分の領地を拡大していくのであった。
同族間にも争いが生まれ、その闘争が武将を生み、やがて封建社会が造られ、きびしい階級制度を確立するといったことになる。
武力による戦乱が続く。弱い者は支配され、武将は勢力を拡大して行く。戦闘力の優劣が勝敗につながり、武力の強い者が、やがて国家を統一して行く。
この頃から、封建制度はさらにきびしい階級制度を造り、その支配力をゆるぎないものにして行くのである。
底辺の大衆は、その武力や権力の犠牲となり、きびしい生活に甘んじるということになる。
武力は、弱い者達の自由を奪い、行動の自由にも制限を加えるようになって行ったのだ。
日本における一向一揆など(戦国時代、浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、 商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事。)を始めとする農民一揆などは、この弱い者達の団結による闘争であった。
そうして権力者に抗しなくては、生きて行く道を閉ざされてしまうほどの悪政であったといえる。
しかし、その間にあって、商人達は、武器や食糧や衣類などを武将達に売り、商売によって経済力をたくわえていた。
あるときは、スパイになり、情報まで売って、敵味方の見境なく、商法を駆使して財を蓄積して行ったのであった。
闘争に明け暮れている武将達は、商人のよいカモとなり、やがては経済力で、逆に商人に支配されるという破目になる。
ここに、資本主義の芽が生まれ出てくるのである。
そして、経済力は大衆を支配して行くが、大衆はそのなかで、自由に目覚め、水を得た魚のように団結という組織を生んで行く。
武力は、大衆を支配してきたが、大衆の行動を制限することはできても、その心を支配することはできなかった。
そして、自らの不調和な、驕れる心によって自らを亡ぼしてしまったのである。
彼らも、人の心をつかむ努力を怠ったのではないが、誤った宗教を利用し、悪徳のその指導者と組んで、大衆をあざむき、心の束縛をはかったことはあったのだ。
しかし、正しいものではないでっち上げの宗教、他力本願宗教、人間の造り出した偶像崇拝では、所栓、人の心を救うことはできなかった。
カールーマルクス(ドイツの思想、哲学者1818-1883)のように、宗教は阿片である、ということに大衆は気がついてくるのである。
確かにマルクスの言うことも事実ではあるが、かといって唯物主義を提唱して唯心的思考を二の次にしたところにマルクスの誤りがある。
これは何を意味するかというと、私がいつもいうように、物を優先するのではなく、第一に心を調えた生き方をしなさい、ということである。
正しい神理に適ったものであるならば、人々の病める心を狡うことはできるだろうが、人間の智恵によってでっち上げられた宗教で人を救うことはできない。
また、そんな宗教に騙されるということは、私達の意識まで腐らせてしまうことである。
権力者や貴族が、悪徳宗教家達と組んで、大衆を犠牲にするような宗教は、阿片より恐ろしいものだろう。
太陽の熱、光は、すべてに平等であり、神の慈愛の現われである。
そして、宗教は、一部の特権階級の独占物ではないということだ。
大衆はしかし、自由の目覚めとともに、社会主義思想が人々の心のなかに生まれ、やがて行動に移って行くのである。
しかし、社会主義経済も、物質経済が基本であり、彼らも武将に代わって武力で支配するようになった。
自ら、団結といいながら、階級闘争のなかで、自己の立場を守るためには、他人を陥れることもする。
社会主義という思想の統一をはかるためには、きびしい弾圧をくり広げ、やがて、彼ら自身の内部にも不満が生まれてくるのである。
彼らは他を信じることができないため、心の安らぎを失い、いつ権力の座から引き下ろされるか解らないきびしい環境に生きている。
今日の友は、明日は人民の裏切者の烙印を押されて失脚してしまう。
人民という名を騙(かた)って行なった独裁者の主義主張は、やがて自らの不調和な行為に比例して、反作用が返ってくるのだ。つまり、自らを裁く日が来るのだ。
自らの正しい生活行為のなかから、人民の平和な生活を考え、身を犠牲にしても大衆を救おうとする、心に生きる指導者こそ、本来の神の子といえるだろう。
『勝てば官軍、負ければ賊軍』ということわざがあるが、その争いそのものが、万物の霊長たる人間のなすべき道ではない。
それは万物の霊長に進化する過程の動物的行為である、と自覚せねばならないだろう。
人民大衆に団結を呼びかけ、権力者や資本家達とともに闘争をあおっている指導者は、それだけで失格である。
そういうことから、日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、台湾、これら東アジアの指導者は相互に連携する協力姿勢をとらなければ平和は望めないし、責任がある。
そして、その心のなかに地位欲、権力欲や自己保存の心が芽生えたとしたなら、それはすでに大衆を偽っている者達なのである。
奪いあいすると足りないが、譲り合うと有り余ることを悟ってほしいものだ。
「正しい」心を持っている指導者であるなら、闘争の虚しさを悟っているだろう。
指導者は、人民大衆を扇動してはならないし、偽ってはならない。
争いは、相手を傷つけるにとどまらず、自らにはね返ってくるものだからだ。
作用すれば反作用が働くのは自然の法則であるが、この作用、反作用の法則を知っているならば、その行動がそのまま自らの身に返ってくるのであり、心の不安となり、苦しみを造り出すということもわかるはずだ。
正しい考えと行いであるならば、人は、皆ついてくるであろう。
闘争と破壊によって犠牲になる者は、人民大衆ではないだろうか。
軍国主義によって国を支配し、階級闘争によって、文明は発達して行くのだと教えている思想家達は、公害などの毒物を造り出し垂れ流しにして人命を危機に晒(さら)している者たちと同じ共犯者であるだろう。
人間は働ける環境に感謝する心こそ、大切なのではなかろうか。
感謝は、自らの環境で一所懸命に働き、報恩という行為によって示さなくてはならないのである。
もちろん、資本主義者を自認する指導者達も、大衆に対する考え方を謙虚な姿勢に変えなくてはならならず、大衆は、彼らに対して、働く場所を提供して貰ったことへの報恩を、愛を持って働くという行為によってしているはずである。
彼らは、その働く人々に対する感謝の心を、環境改善、職業病排除など、行為によって現わさなくてはいけない。
指導者はそして、自ら、働く人々との対話を持つべきである。寛大な指導者らしい人間性が大切ではないか、ということである。
いずれにせよ、互いに牽制し合っていては、心と心の調和にはほど遠いといえるが、これは、企業内でも国家間の外交でも同じことがいえるであろう。
資本家には、品性も教養も必要であるが、何よりやさしい心遣いが必要だといえる。
正しく、偏りのない、いわゆる中道の指導が大切だということだ。
闘争のくり返しは、労使互いの首を締めてしまうということ。
すべては、心が優先なのである。
心の交流が途絶えたとき、信頼は失われてしまうのである。
今は、社会主義者も、資本主義者も互いに心を失っているのではないだろうか。
それぞれが、自らの心をだ。
「正しい中道」を心の物差しとして生きることこそ、働く者と雇用する者の調和を生む、ということである。
人間は、心を失い、物質文明の奴隷になるに従って、人間性を失っていく。
近年、精神的疾患者が急増しているのも、元はと言えば、効率主義、経済至上主義による弊害と心不在の企業経営によるものであろう。
ある者は、心不在の肉体を不調和な地獄霊に支配され、自分で自分を制御することができなくなっている、そんな人も多いのである。
すなわち、自分であって自分でない人々だ。自分以外の者が、心のなかでささやく、こんな人々は、100%地獄霊に憑依されているのであり、分裂症というべき人々である。
分裂症やうつ病、適応障害と言われる人達と対峙してみると、ほとんどが、自分の小さな心のなかで、自己を失っている人達である。
この原因は、小さい頃からの家庭環境、両親の教育、愛情過多、愛情不足、厳しすぎる躾け、家庭内暴力、知識偏重教育などからも発生し、また自らの心に小さな枠を造ってしまった本人自身の心の傾向性にあろう。
正しい中道の生活を忘れ、恨み、妬み、そしり、怒りなどを心に持った人達の場合は、他人ばかりが悪いと思う、自らに反省のない人間の哀れな姿といわざるを得ない。
情緒を失い、狭い、自らが造り出した狭い心の世界から、脱け出すことができない人々なのである。
自信をとりもどすこと、自らの不調和の原因をとり除くこと、心の修正をすること。これをしない限り、それらの人々は、その病から救われることはない。
″中道“という心の物差しで、過去の誤りを、勇気と決断をもって修正する。
そのとき心の曇りは晴れて、不調和な苦しみの生活から解放されるということだ。
そして、正しいという、その基準は、大自然のルールが私達に教えているのである。
極端な考え方を捨てて、中道の道を歩むことこそ、自らの心に安らぎを生まれさせる何よりの方法といえよう。
先に述べた八正道、この道こそ、自らを正す人間の心の方法論であり、近道なのである。
病をすることも、堕落することも、悪に染まることも容易いことですが、病から脱することは薄紙を剥ぎ取るごとくでしか回復できないものだし、心を正すことも勇気と決断がいる、悪から遠ざかることも自身の強さが必要である。
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