道徳と宗教の大義

光

私が小学生のときには道徳という時間があった。担任の先生は私たちに『目を閉じて聴いていなさい』と、本を読んできかせてくれた。

その担任の先生の道徳の時間が楽しみでもあり、読んでくれた本のストーリーに涙して聴いていたこともあった。

その先生は、子供たちがいき過ぎた悪さをするとゲンコツをひとつくれた。

しかし、誰もがその先生を慕っていた。現代の陰湿な暴力とは明らかに違う愛情のこもったゲンコツだった。

現代においての日本人は宗教と道徳の違いがわからない人は多い。

この違いをはっきりさせないと正しい宗教か否かの判別ができないであろうし、日本人は道徳を宗教だと思っている人も多い。

教祖や幹部指導者がそうなのですから、信者がそう信ずるのも無理もないのでしょうが、教祖が道徳の説法をして、それを宗教だといっていることはその教祖は宗教家としては?????だということになるだろう。

ここで「広辞苑」の定義紹介してみます。

宗教-神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰、行事またはそれらの関連的体系。

※これでは分かりにくいから要約します(人智の及ばない絶対的な存在や、悟った人の教えに対する信仰とその行動)

道徳-或る社会で、成員社会に対する、或いは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体。

※やはりこれではわかりにくいので要約すれば、(人々の関わりにおける行為を規制するための一般的な規範)

道徳は、正邪善悪を知り、また正善を意志し邪悪をしりぞけようとする心。

良心と同じ意味に用いるが、良心は自分の行為や心情に関係するものであり、道徳は他人の道徳意識にも関係するものであるから、厳密には同一ではない。

宗教は、神、超越的絶対者、あるいは信仰の対象とする現実世界から離れた別の次元の神聖なもの、神秘的なものと、自分一人の心のあり方とその行為を問題とするものである。

つまり、神、あるいは霊と自分とどういう関係にあり、自分がどのようにあればいいのかという、自分の心のあり方と生き方を明らかにするのが宗教だといえよう。

道徳は、この世に生まれてから死ぬまでの、生きている間だけの人と人との関係、すなわち、先祖、親、夫婦、兄弟姉妹、親戚、隣人、友人、職場の上役、同僚、部下と、自分とがどういう関係にあるのが正しいかということを教えるものであろう。

だから、厳密にいえば、先祖に対する感謝、親孝行、夫婦の調和などは本来は道徳の範囲であって宗教ではないといえる。

昭和20年、日本は戦争に負けたために、アメリカの支配下におかれ、日本古来の道徳的生き方はすべて誤りだとされ、民主主義、自由主義、男女同権、男女平等というようなことが正しいのだと教え込まれた。

こういった西洋的な主義の利点もあったが、同時に日本の文化のなかで育まれてきた伝統までも失うことになったのである。

先祖に対する感謝や親孝行などしなくてもよいと皆が考えてしまった。

それを各宗教団体がみな、先祖に対する感謝や親孝行、家庭の調和が大事であると説いたために、それを宗教であるかのように思い込んでいるというだけのことである。

いわば現在の宗教団体は、敢えていう必要もないところの人間として当然の生き方をいっているだけのことで、特別に立派な宗教的なことを説いているのではないことに気づかなければならない。

ところで、道徳の在り方には二通りある。

(1)正しい宗教を出発点として、人間として当然しなければならない、永遠に変らない人間としての生き方。

これが先祖に対する感謝、親孝行、家庭の調和、隣人愛などである。

だからこれは、たとえ時代がどのように変っても、人間はそういう生き方をしなければならないであろう。

(2)その時代の社会状勢によって決められた人間の生き方。

これは時代が変れば変るので、このようなものは、道徳というよりも民族の風習、習俗(モラル)というべきである。

たとえば、五人組制度が決められてあった徳川時代は、その制度に従わないと生きられず、それに従うことが正しいとされた。

※五人組制(江戸時代に幕府や領主が民衆を支配するための仕組みの一種で、農民や町人の家持ちの隣近所5軒を1組としてグループを作り、代表者を決めて名主の支配下に置きます。領主から法令が出ると名主から五人組の代表者に通達され、年貢(納税)を納めたり、法令を伝達したり、各組内での犯罪の取り締まりなどを5軒の組内で行った。)

古くは、女の出産や月経を不浄と見て、神前にお詣りさせなかった誤った考え方など、宗教は、なにを置いても第一に、神と人間との正しい関係の在り方を教えなければならないのである。

ところがそれを教えずに、拝むことだけ、お経や念仏、題目を唱えることだけを教えている宗教の何と多いことか、これは間違いである。

神と人間との正しい関係がわかってきた時に、人間の生きる基準としての正しい生き方である八正道が明らかになされるのである。

そうして「悟り」に入るのであるが、悟るとは、浮世離れした隠遁(いんとん)生活をすることではない。

悟るとは、次のような状態を自ら手にすることをいう。

(1)禅定(自己の内面を見極める)によって、神と人間との関係を自覚すること、霊的にも直接体験すること。

すなわち最終的には「宇宙即我」を体験し、神は唯一の一大生命力であり、創造主でもあり、智慧そのもの、慈悲そのものであることを知ること。

(2)自分の心のあり方を自分で知って、自分で自分の心のあり方を完全にコントロールできること。

そうなれば人生の目的を見失って欲望にふり廻されたり、あるいはいろいろな物事に執着したり他人の言動に自分を翻弄されたりすることはなくなるのである。

このような悟りを得るためには、争い、憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬、羨望などの心を持っていたのではできない。

調和された安らかな心を持っていないと、自分の心の動きが自分でわからないし、神と自分との関係を正しく実感することもできない。

心を深めていきたいと願うならば、外にばかり心を向けないこと、例えば、楽しみを行楽地に求めたり、喫茶店で一人の時間も時にはよいが、習慣的傾向になってはならない。

何故なら、そのような生活習慣はじっとしていることができず、また内面を見つめる深さが生まれにくく、外界の動きにばかり心を向けやすくなるからだ。

細かい話で申し訳ないが、食べ物グルメと外食傾向、不必要な衝動買いやウインドショッピング、その他諸々、自分の欲望を満喫するための時間を習慣的にしないこと心のステージアップへの条件でもある。

心を安らかにするためには先祖に対する感謝、親孝行、家庭の調和、隣人との調和、自然に対する感謝などが心要になってくるが、しかし、このことに囚われてはならず、それはあくまでも、正しい悟りを得るための前段階なのであって、それだけが宗教の目的ではないのである。

このことは派閥宗教的なことを説いているのではなく、道徳の意味を知ったうえで宗教の大義に気づかなければならないということを述べただけである。

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