信仰と読経にもつ疑問

読経

謙一 よりコメント: 2013年7月18日 8:41 AM

ブログを拝見してお聞きしたいことがありコメントさせていただきました。

私の実家は私が生まれる前から某宗教団体(団体名削除)に入信していて、とても信仰熱心です。
一年365日、休むことなく毎朝一時間位い読経をしている姿は異様な雰囲気があり、具合が悪くなることさえありました。
私の実家はいつも争いが絶えません。
何の為の読経なのでしょうか。矛盾を感じることばかりです。
私は、実家や兄弟からのけ者扱いされています。
信仰を持っていながら家族はいつも争いが絶えません。 現在もそうです。
実家や兄弟の信仰と読経に疑問をもっています。

返信

信仰をもつものが、仏壇に向かい、一心不乱に読経(どきょう)しているときは心が落ち着くと言い、病気が治ると言われたから読経していると言い、朝夕の勤行をしっかりやりなさいと指導されたといっては貴重な時間を読経に費やしている。

しかし、こういった人たちに限って、偏った価値観に固執して、日頃の生活では不満や愚痴、そして怒りをぶつけながら家庭内では争い事が絶えず、不調和なままに生活している傾向にある。

精神的疾患を病んでいる者が、病気が治ると言われ、毎日数時間を読経に費やすことで、ノイローゼの原因になっている夫婦仲の問題から目をそらせば、一時的に解放され苦しみが軽くなることもあるでしょう。

しかし、原因が解決したわけでない限り不安も嫉妬も恐怖心も消えてなくなるわけではなく、読経によって気をまぎらせた程度のことでしかないのだ。

このような場合は読経していないときは心が不安定であり、結果的にまた苦しみから逃れるために読経三昧に陥っていくことになるのである。

宗教はアヘンであるという言葉の意味はこのようなところにもいえるのである。

お経の中身を理解し、生活に活かすことが根本的心の調和になることを悟らなければならないということです。

読経に偏りすぎた生活は家庭生活にまで支障をきたし、異常に狂気じみた雰囲気さえ醸し出しているものだ。

仏教徒の場合、宗派によって使用する経文に多少の違いはあっても、みなさんご存知の般若心経というお経の場合は、比較的宗派を超えて読誦(どくじゅ)されているようです。

般若心経に限らず、お経の内容を、今の字句から理解するのは、現代人には、なかなかむずかしいことです。

なぜそうなってしまったか、それには、いろいろな理由があります。

一つには、神社、仏閣、仏壇の前で、神主や行者や僧侶や、一般の人々までが、言葉そのものを読誦しているからです。

またある人は、写経によって、毛筆で経文を書き写すことだけに心を奪われたからといえます。

私は、そうしたことから、永い間、お経というものに、非常に疑問を持っていました。

つまり、本当の意味が解らないから、読誦したり、写経をしているのだということもいえるでしょう。

ということは、経文の本当の意味が解ったら写経などによって書き写す必要がなくなるということになります。

お経の意味は本当は、もっと日常的な言葉で語られた内容であり、解りやすいものではないのかと思ったのです。

永い歴史を体験して人々に愛されてきた仏教は、いつの間にか、日常生活の中でそうした形式的な読経するという習慣としてしか生きていない、いわば、化石化してしまったのです。

本当の意味が解っていないから読誦すれば良いとか、写経すれば良いということになったのではないだろうか。

私は疑問に思うのですが、ゴーダマーブッダ(仏陀)の時代に、果たして今のような哲学化されたむずかしいもので、文盲同様の当時の人々を救うことができたのかどうかと。

日本に伝わってきた仏教は、インドの言葉が中国ですっかり哲学化され、漢文化されたむずかしい経文となって日本に渡来してきたものです。

そんな、仏教専門の学者や僧侶でも真に理解できない言葉で、当時のインドのカースト制度におけるシュドラー(奴隷)や、ヴェシャー(商工階級)や、クシャトリヤ(武士階級)の学問をおさめていない人々の心を救い得たのでしょうか。

私は、どうしても疑問に思うのです。

経文というものは、読誦することによってその真意を良く理解をし、日々の生活の物差しとして実践する、そのことを教えているものでしょう。

つまり、ただ読誦するだけの、唱えるだけの他力本願的読経は、仏教の根本とはいえないはずなのです。

みなさんご存じの般若心経は、その意味で、決して絵に書いた餅であってはならないと思います。

たとえ餅だとしても、食べてみなければ(生活に実践しなければ)味は解らないものです。

お経の中に書かれてある内容を、心の指針として毎日の生活のなかに実践する、これが本当の信仰であり、人の道といえるのではないでしょうか。

小乗仏教であるとか、大乗仏教であるとか、あるいは何々宗、何々流派とか色分けされたものは、仏教とはいえません。

では、真の仏教とは、ということを考えてみましよう。

仏教は、今を去ること2500有余年前、中印度を中心として、ゴータマ・ブッタの説かれたプッタースートラ(悟りへの道)それが真の道ではないか、と思います。

つまり、人間の欲望からくる煩悩はすべて心から発することであり、この煩悩をいかにすれば調和して安らかな心にすることができるのかという説いたのです。

中国の仏教にしても、日本の仏教にしても、バラモン教やヨギー・スートラ、拝火教まで混合していると考えられますし、真言宗系の護摩焚きなどという行事は、ゴーダマ・ブッダの説いた仏教の行なうことではないはずです。

特にナラジュルナ(龍樹)2~3世紀は、ゴーダマ・ブッダの説かれた四十五年間の教えを分類して、自分で理解できなかった問題は捨てて、後世に伝えたものであり、この辺に、後の仏教への誤りの原因があったといえましよう。

毎日の生活から離れた仏教は、正しいものではありません。

つまり、お経の読誦に意味があるのではなく、それを良く理解して生活の中に生かすこと、そうでないとブッダ(仏陀)の教えではないということになるでしょう。

祈りとして他力本願の読誦を行うだけで、仏陀の悟りに到達した人が果たしているでしょうか。

私は、宗教には入信することもなく、全く無関係の人生を歩んできましたが、人間としての道を求めて、すでに63年の歳月を過ごしてきており、その間、自然科学や物理学を特別学んだこともないが、生活の中で体験し、健康のあり方を多くの患者さんの臨床体験から学び、また精神の疾患についても根本は心にあることに気づき、人生の道を知りました。

その結果、気づいたのは般若心経が自然科学と全く変わっていない真理であるということでした。

つまり、大自然こそ、人生におけるわが師であると知ることができたのです。

精神的疾患によって苦しんでいる者が、病気が治ると言われ、毎日数時間を読経に費やすことでノイローゼの原因になっている夫婦仲の問題から目をそらし、一時的に解放されれば精神疾患も軽くなることもあるでしょう。

しかし、ノイローゼの原因が根本的に解決したわけでない限り、不安も嫉妬も恐怖心も消えてなくなるわけではなく、読経によって気をまぎらせた程度のことでしかないのだ。

お経の中身を理解し、生活に活かして行うことが根本的心の調和になることを悟らなければならないということです。

お経に関していえば、専門の学者や僧侶が、哲学的な知恵だけで行いを離れて解説した著書にはどうしても迫真にせまるものがなく、心と行ないを実践した自分の心の中から湧き出した想いと合致するだけの力がありません。

私は、30歳を過ぎた頃より30年の求道の経験を踏まえて、人の道がどうあるべきか、苦悩を超えて安息の生活をするにはどのような学びをし、生きることが望ましいのかを説きはじめて6年ほどになります。

人間の心の仕組みを悟り、煩悩の愚かさを知るにつけ、相談にくる老若男女の苦悩を解放することの一助になればと日々、実践するものです。

いつか折を見て「般若心経」について述べてみたいと考えております。

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