神の子はどんな特質・性格?Q&A

魂の輝き
Tom さまより:2013年5月25日『親子の魂と機根』へのコメント・以下
「神の子」というのは、どんな特質、性格をもち、どんな考え方、行動をするのでしょうか?

同窓会に出て、いじめっ子だったA君が今や国会議員になっていて、自分の思う社会正義の実現に励んでいるとする。昔の自分の苛めはほとんど記憶にない。
子供時代の子供らしいやんちゃ程度の認識。一方、A君に苛められてニートになったB君は、引きこもりで、同窓会に出ることもできない。
なんとかしなければと思うが、外に出ることさえ怖い。
弱かったと言えばそれまでだが、好きでニートになったのではない。そして、脱落者を非寛容な日本の表(の華々しい)社会には、永遠に参加できない。
自己実現しているA君は、「人はみな神の子」と聞けば、めでたいほど素直に、そのとおり!というかもしれない。でも、B君が同じ言葉を聞いた時、それを信じることができないだろう。
たとえB君が親や動物に優しく、家事をしていても、社会に出て活躍できない時、生まれた意味さえ疑問視する時もあるのではないでしょうか。
人は神の子と言える人は、どこか論理的には根拠のない信頼や自信がある気がする。
それと、他人の言動にも自分の言動にもこだわらない。
同じ行動をしても、ある人は、自分の中にある神性(人に普遍的にある神性)にふれたと感動し、別の人は、もっとこうできたはずという反省や自己欺瞞を見て落ち込む。同じ行動をしても、不思議なものです。
前者は自画自賛のおめでたい人ではないのか?
後者は完ぺき主義ゆえの不満だらけの人ではないのか。
前者は神性が表れ、後者は隠れてしまっているのでしょうか?

本日の返信
Tom様 コメントをくださいましてありがとうございます。返事が遅くなり失礼いたしました。
あなたの文面を拝見しまして、もっともだと思うところもありますし、また考えさせられもします。
きょうは、いただきましたご質問への私の考えを述べさせていただきます。
先ず、『神の子というのは、どんな特質性格をもち、どんな考え方、行動をするのでしょうか?』とのご質問にお答えします。
人間を比較してこの人は特別(特質)であるとか、まその性質をもっているから神の子であると分けるのではなく、また評価するものでもなく、地上の人類みな平等に神の子であると捉えております。
そうはいっても、この地上に生まれた国や環境、貧富の差、家庭状況によって違いがあるという点においては平等とはいえず、逆に不平等であります。
そういう物質的、物理的な条件の平等を意味するのではなく、人間の魂として頂いている生命そのもの、その可能性、人間のいただいた能力は無限のものであり、他の動物とは異なるものであるという意味において神の子とご理解していただければと思うのです。
平等、不平等、公平の三様は連動しながらも、私たちの生きる環境や生活において誰もが自分の置かれた環境下で経験し、そのなかで魂の成長をしていかなければならないものでしょう。
個人個人を見るのではなく、人類そのものをみたときに、人間はどのような特質を持つのかとなれば、他の動物と違うという点で創造性を持ちえて、智慧(創意工夫)があるという意味において優れているということではないでしょうか。
しかし、現実にはtomさんが御指摘のように、優れている人間であるはずの国会議員のA君のような生き方をする人もいるでしょう。
人間、過去に過ちを犯した者であったなら、悔い改めて二度と同じ過ちを犯さない生き方をし、他の人々や社会に対して自分のできるかたちをもって貢献することが肝要かと思います。
世に言うところの勝ち組、しかし、世間的に、あるいは経済的にも豊かさや地位を獲得したからといって驕れるとするならば、人として心の器が大きいとはいえず、智慧ある人間としてはあまりにもお粗末ということになるでしょう。
現実社会の中では矛盾や理不尽がたくさんあることは、日本社会に限らず人類の中にあるといったほうが的を得ているかもしれません。
その意味でいえばB君の場合も気の毒なことであり、犠牲者であるかもしれません。
しかし、人に協力を求めるなり、、人間として為すべきことに気づき、自分自身も小さな努力を重ねるなり生きなければならないでしょう。
B君に直接お会いして心の内を確認したことではないので、ここでは事の真実が解らず、深く意見を述べることは敵いません。
私はB君にはなれませんが、しかし、B君の立場がわからないでもありません。
何故なら、私自身が中学1年生のときに同級生の苛(いじ)めにあい、授業中に無抵抗な私に、一教師による一方的な感情と、自己都合による全く理不尽な暴力まで受けた経験があるからです。
それに加えて家庭環境が父親の酒乱という最悪の状態にあって、学校帰りに橋から投身自殺をしようと決心したことがあります。
しかし、私は死ねなかった。いよいよ投身という寸前に母親の顔が浮かんだからです。
学校を卒業して社会に出たものの仕事をいくつも変えており、若いときの自分は落ちこぼれた青年期といえるかもしれません。
私の場合は、働くのが嫌なのではなく、その仕事に生涯をかける気になれなかっただけのことでした。
しかし、不思議なもので、青年期の数々の失敗が今の自分をつくってくれたことは間違いのない事実であります。
幸いにして、今の仕事は自身が強く望み、就いた仕事ですが、自分では42歳で始めたこの仕事が天職だと思って惚れ込んで64歳の現在も現場で働かせていただいております。
有り難いことです。
会社員時代は理不尽な思いも経験しました。
人間は逆境に立たされた時に、愚痴をいいます。その境遇に不満をいいます。他のせいにします。恨みます。怒りをあらわにします。素直に人の言葉を聞く気にはなれません。
しかし、私は思いました。不満、愚痴、怒り、恨み、原因や責任の転嫁、これらの思いがあるほどに自分の心が苦しさから抜け出せないことになっていると。
避けて通れない現実を避けていると、いつまでも同じような問題が目の前に立ちふさがるものです。
目の前の問題を回避することも必要なときがあるように、逆に、避けてはいけない時もあります。
改善策を講じて何としても乗り越えなければならないときもあります。
私自身の言葉や行動によって周りの反応や対応にも違いが生じてくることを学ばされたと気づきました。
自分に落ち度がなくても相手の対応に納得がいかないことも多々ありましたが、しかし、そのような場合でも、つとめて冷静に、心を動揺させないで立ち居振る舞うことで大難が小難ですまされることが多いと気づきました。
人は神の子というのは宇宙大自然の営みのなかで誰もが平等に頂いた魂をもって生かされている存在だということでもあります。個人の特質のことではないと捉えております。
論理的にみることもよいのですが、シンプルに命というものをみつめますと根拠も自信も関係なく、ただ今ある命に感謝の念が湧き出るものであります。
これは、私が死線をさ迷ったときに心の底から湧き出した真摯な感情でした。
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