不殺生・病者の念仏

念仏

信仰歴10年、39歳の女性S・Rさんは動物性のタンパク質、つまり肉を食べることに罪悪感と食べてはいけないという指導に疑問を持ち、心にも葛藤があった。

教祖の教導が、動物の肉をたべることは殺生につながるから良くないという指導方針の影響によるからである。

しかし、このS・Rさんには栄養バランスのとれた食事が必要である。

何故なら非結核性抗酸菌症という10万人に5人の菌によって肺に空洞ができる発症率の少ない病気ではあるが、抗生物質による治療でも改善が図れないほど難治の病気であるため、体の滋養ということが免疫力アップをはかるためにに欠かせない。

非結核性抗酸菌は免疫力の低下時に人の身体のさまざまな部位で感染症を起こすが、中でも抗酸菌による呼吸器感染症の頻度が多く、また生命にかかわるため重要視されている。

只、 結核菌と異なり非結核性抗酸菌症はヒトからヒトへの感染はおこらないとされている。

軽度の病態ならば集中治療することで回復に向かうようですが、中度、重度になると治療期間も長引き数年から十数年、人によっては生涯を通じて病気を抱えていく場合もあるようだ。

S・Rさんの場合は喀血(かっけつ)するときもあるようですから軽い症状とはいえない。

お姉さんに病気が治るからと勧められて入信して信仰を始めたS・Rさんは『南無阿弥陀仏』と念仏を唱え、さらに読経を30分~1時間ほど毎日おこなう。

病んでいる体には毎日おこなうことが負担な時もあり、義務的に行うときもあるようだ。

しかし、まったく病状は変わらず抗生物質の副作用により、腹痛、食欲不振、倦怠感、呼吸困難、発熱、胸や背中が痛いなどに苦しむのだった。

漢方薬も続けたが変化はないという。

宗教への疑問もあり相談の連絡をいただいた。

私は服用している抗生物質の種類を減らすことを提案し、丹田呼吸法を毎日行い、ウオーキングを行うことを勧め実行していただいている。

その理由は

◎抗生物質による治療で改善がみられない、副作用で内臓に負担がかかり、食欲不振、痩せ、肩、胸、背中などに疼痛があるなどリスクも大きい。

◎処方されている2種類の抗生物質を減薬することで体への負担(肺炎など)を減らす狙いと同時に自然治癒力を取り戻すことが狙い。

◎抗生物質は免疫力、自然治癒力を低下させ、合併症を引き起こすこともあり、必要最小限度にとどめておくことが望ましい。

以上の提案を受け入れて実践しているS・Rさんはまだ一カ月にしかならないが、、先ず喀血がおさまっていて、呼吸も幾分楽になってきている、歩ける距離が長くなってきている、以前より眠れるようになり、症状も少しずつ改善に向かいはじめた。

同時に、これまで行ってきたご利益があるという信仰を捨てる約束をし、自分の努力で心を調和して生きると誓ったのである。

これまでは信仰を持ちながらも罪悪感や疑問、義務感などのなかで心が晴れることもなく、慣例的に念仏や読経をしてきたのだった。

このような心の疑問や葛藤、不安、恐怖心などがいかに病気の回復を妨げているかということを病気をしている人たちには気づいてほしい。

殺生、きょうはこのことについて述べてみたいと思います。

人間がこの地上に生存するかぎり、最少限度の殺生は、まぬがれないものです。

パンを食べてはいけない、魚を獲ってはならない、動物を食べてはならないとすれば、人間は餓死するほかはありません。

動物の肉を食べずに植物だけにしなさいという宗教は存在します。

例えば、インドのヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避(きひ)するので菜食主義の人が多いのだが、しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なるという一部、矛盾するような不思議な面もある。

一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。

また上位のカースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる一方で、いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。

ところが宗派によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられたヤギなどの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。

しかし、どのような場合においても牛、特に瘤牛(こぶうし)は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。

一方、同じ牛でもスイギュウは次々と姿を変える悪魔マヒシャの化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は輸出品にされているという人間の都合による矛盾とも思えるようなところも多々うかがえるのである。

さて、本題にはいりましょう。

洋の東西を問わず、また昔も今も、神の道に参ずる者、悟りを得ようとする者のなかには、肉食は殺生の最たるものとして、これを忌避する風習がみられます。

動物を殺す、動物を食べることは、万物の霊長である人間のなすべき行為ではない、ということがそもそもの理由のようです。

では、植物は生き物ではないのでしょうか。植物なら、いくら食べてもさしつかえないも
のかどうか。

生き物という点では、植物も立派な生物なのです。

植物にもそれぞれの精霊が住んでおり、人間がその気になりさえすれば、植物の精霊と同調することも、意識を読み取ることもできるのです。

そのようなことから植物の精霊も喜怒哀楽の感情すらみせるものであり、その精神作用は非常に繊細で柔らかくもあり、逞(たくま)しくもあり動物以上ですらあります。

動物と植物との相違は、見た目が、静的であるか動的かの違いだけであり、どちらがよいの悪いのという区別は本来なにもありません。

昔の出家僧は妻帯を認めなかったようです。妻帯は煩悩を刺激するからというのがその理由のようです。

さらに、食べ物も制約しました。栄養価の高いもの、動物食はいっさい口にしません。

なぜこういうものを囗にしなかったかといえば、こうしたものは本能を刺激しやすいという生理的理由があったようです。

妻をめとらぬという前提に立てば、その前に、食べ物を制約しなければならなかったからでありましょう。

こうみてくると動物食はいけないとする思想も、その根拠をたぐれば、実は、こんなところにあったのではあるまいかと思われます。

生物界の殺生という食物連鎖は、弱肉強食を含めて本当は自然の摂理なのです。

土の中に住むバクテリヤや、何百何千という虫の生態をみるときに、そこにはいかにも悲惨な姿が演じられていますが、そのくりかえしは、自然を維持し、生物間相互の生存を助けているのです。

肉食と草食動物の比というものは、常に一定に保たれています。

もしも肉食動物が減り、草食動物のみとなれば草木の生存は失われ、草食動物の生存すらおぼつかなくなってきます。

人間は、動物界の生態をみて、人間もかくあるべしと断定しがちですが、無益な殺生はしてはならないのです。

人間をのぞく、昆虫をふくめた動物界の生存競争は、決して、不必要な殺生をしてはいません。

生存に必要なものしか、彼らは獲っていないのです。

もしも、必要以上にそれを求めれば、やがては、自分の口をふさぐことを彼らは知っているのです。

しかし本当は彼ら自身ではなくて、自然がこれを監視し、コントロールしているのです。

私たちが、植物にしろ動物にしろ、これを口にするとき、いちばん大事なことは感謝の心を持つことと、足ることを知ることです。

そうすることによって、彼ら動物や植物の地上での目的も使命も果たせたことになるからです。

人間も大自然の営みからすれば、その一部の生命体として摂理の中で生きることが望ましいことではないだろうか。

あまりにも偏りすぎた思想などの影響によって体の滋養を失うこともどうかと思うところであります。

人間の心から苦悩をなくし、安らかな生き方をするにはどのような心構えでいけばよいのかということを説き、教導するべき宗教によって、逆に心の負担になるようなら、それは本来の宗教の在り方とは言えないのではなかろうか。

人類が肉を食べてはいけないという思想は宇宙大自然の営みに沿ったものとは思えないところですが、このブログを読んでくださっているあなたはどのようにお考えでしょうか。

出家者の生き方を在家の一般家庭にそのまま持ち込み教導するところに無理が生じるということであろう。

何事も極端に偏った考えや食生活、思想、宗教なども、どこかに歪みができて心の足かせとなるのである。

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