親子の魂と機根
『この子はお父さんの悪い癖にそっくりでイヤね。』と、言ってはならない言葉を幼い子どもに浴びせるお母さん。こういう何気ない言葉が子どもの心を傷つけ、長じては家庭の破壊へとつながっていく。
肉体は遺伝するが、魂は遺伝するのではない。
心は子育ての影響によって形成されていくものです。
きょうは「私たちがこの地球上に何の目的を持ち、どのような使命を持って生まれてきたのであるか」ということについて見性し、自己の本質、本性について話してみたいと思います。
多くの人々の中には、両親が、自分たちの都合によって、好き勝手に私たちを生んだのだと思っている人たちもいます。
特に親子関係がうまくいかず家庭内が不調和な状態の子供の場合は子ども自身が苦しみの余り、あるいは親への反発心からそういうことを言う場合がある。
もう一つは、この地上に肉体を持ち、親、師、先輩よりうける教育、あるいは先祖や国が培ってきた歴史的な環境の中において、自分なりに、悲しみや苦しみ、喜びなど、苦楽の人生を体験して一寸先は闇の人生だと考えている人たちもいます。
いずれにしても、私たちがこの地球上に出てきた以上は、安閑(あんかん)として無為無策の人生を過ごしてよいのでしょうかということです。
人生の過程において、人は誰も悩み、苦しみ、あるいは病むことでその解決を求めたはずの信仰、その信仰に対する矛盾などを痛感していられる人たちもいるはずです。
この矛盾の根本的な原因は、私たちが肉体的な五官を通してとらえ得たもの、目を通して見たもの、耳から聞いたもの、あるいは肌で感じたものなどを、その人が学んできた教育や、思想や、あるいは習慣によって判断しているからです。
あまりにも物質文明だけが発達してしまって、私たちは本当の人間としての価値と、そしてその使命、目的というものを忘れてしまっているのが多くの現代の人々です。
あくまでも私たちは肉体を通して、感じ得たもの、あるいは想像して、心の中で思うことによって、自分なりに判断して生活をしてきています。
その結果、女性の場合は、より美しく、そして結婚をして平和な生活をしようとか、良い子を生んで立派に育てようとか、経済的な安定を得て、もっと自分自身がより以上に優雅な生活をしたいとか……。
男性の場合は、学校を出て、社会に出たならば、少なくとも社会的な地位を築いて生活環境を安定しようとか、会社に勤めている人たちは、少しでも役職を得て地位を築いてゆこうとか、それぞれ人によって違いはありますが、私たちが生まれてきた目的は果たしてそのようなものだけでしょうか。
このブログの読者自身が、「そんな馬鹿なことはない、肉体が絶対なんだ、親から頂いたこの己自身の肉体が絶対であるんだ、それ以外に何物もない」と唯物的に考えたとしたならば、心と肉体との関係についてはどのように考えているのだろうか。
心と肉体の関係を考えた事がないという方も、そこまで深くは考えていないという方も、これを機に是非一考願いたい。
ここでちょっと話しの視点を変えましょう。
私たちは、体全体の細胞が約60兆個あるといわれ、そのうち脳細胞は140億とも200億あるともいわれております。
この二百億の細胞からなる頭脳が、何事に対しても全てを記憶し、想像する能力を持ち、体を支配しているとしたならば、人間が眠っている時に、なぜ私たちの耳の穴も、鼻の穴も、ちゃんと立派にあいているのに、聴覚も、臭覚も働かないという事実を何と説明したらよいのだろうか。
現代医学においてはまだそこまでは解明しておりません。
さらにまた、学校内においても、あるいは男女関係、恋愛問題、親子の対話などの不調和により心を悩まします。
恋人にふられて悩んで身体が痩せ衰える人もあるでしょう。
なぜ悩んで私たちの肉体は疲労を感ずるのでしょうか。
これについて現代の医学も物理学も十分な説明することはできていないのです。
悩みの原因というものは、どこから発するのか、苦しみの原因は、どこから出てくるのか、しかもなぜ肉体は年とるに従って、老化現象を起こしてゆくのか、なぜ人間は死んでしまうのか、この大きな問題を追及していったならば、私たちは肉体以外に、何物かの存在があることに気づき、それを否定することはできないはずです。
ということは私たちの現在持っている肉体は、この地球という場に対して適応したもので、人間は万物の霊長として、先祖代々継承されてきて、現在の肉体を持っていることを忘れてはいけないでしょう。
そうなりますと、肉体以外に何物かがあり、人は魂ともいう、あるいは意識ともいう、精神ともいう、その根本であるところの霊というものの存在を否定できようはずがありません。
そして、今のあなたの肉体は、親から頂いたものですが、魂は親から頂いたものではないということ。
仮に、もし、魂を親から頂いたものであるとしたならば、なぜ、親が子供の心が分からず、子供が親の慈悲も分からず、親不孝という現象が起こるのでしょうか。
もし、魂を両親から頂いたものであるとしたならば、私たちはどこにいっても、意思の断絶はない筈です。
ラジオもテレビも電話機も携帯電話も、人間のつくったものです。
私たちが今スイッチを入れれば、どこの放送局もキャッチできるだけの能力を持った受信機を発明しております、あるいは映像をも映し出せるだけのものを発明しています。
しかし、これらは人間の文明生活の知恵がくり出したものです。
親と子の意思が、親と子の魂が、遺伝した同一のものであるならば、どこにいても自由自在に、心の中の思っていること、考えていること、行なっていることが、通じ合わねばならない筈です。
ということは、あなたは、魂、意識の次元ということを考えねばならないでしょう。
今の肉体舟を絶対なる基盤として考えるところに、間違いや悩みが起きてくるのです。
そうなりますと肉体以外に、また別のものがあるということを私たちは否定できない筈であります。
もし、自分の五官(眼、耳、鼻、舌、身)が全てだと思い、脳細胞の二百億個の集団が全てを思い想像し、計算もする場所であると思っていたとしても、眠ってしまったら、ただの一個の物質にしかすぎない。
しかしこの物質である私たちの肉体も、私たちの五臓六腑(ごぞうろっぷ)は少しも機能は失ってはおりませんし動いています。
といたしますと、私たちの脳細胞は五体をコントロールしている制御室にしかすぎないということに気づかなくてはなりません。
なぜ制御室であるかというと、肉体以外の、意識・魂が睡眠によって肉体から離れている時には、全く無能だということです。
眠っている時に、数学の計算ができるというのであれば、それは脳細胞が全て記憶しているということだと肯定します。しかし、その事実はありません。
私たちの感覚器官に感受された信号は脳細胞の神経繊維の中に電気的振動を起こしますが、これを脳波といっております。
この電気的振動の波動が、人間の肉体の支配者である意識・魂に通信されて記憶されているのです。
このような次元の違った意識・魂の根本というものを考えた時に、肉体はただ人生を渡っていく、一つの乗り物、すなわち船にしかすぎないということになる筈であります。
しかも、真理というものは永遠不滅であり、線香花火のように消え去るものではないのです。
肉体というものは、この地上において、己の魂を磨く乗り物にすぎず、魂というものこそ永遠不滅の己自身なのです。
眠っている時に、あなたの魂は肉体から離れて次元の違った世界へ行っています。
この地上をあなたが去る時に、還らなければならない魂の世界へ行っているのであります。
そうなりますと、私たちはまず次元の違った世界、あの世こそが真実の世界だということになるのです。
全てのものをつくり出している空の世界、仏教の根本は「空」ということが分かったならば、全て解決するとまでいわれているようですが、この「空」の根本原理、根本理念ですら、現代仏教は既に忘れ去っております。
実際に存在する次元の違った意識の世界は、この地上の世界より以上に文明も進歩し、地上における原子細胞(肉体)ではなく、精妙な光子体(霊的あの世の肉体)ともいうべき、光の細胞を持った肉体の世界であるという事実、これは私たちが、仏像の光背として表現されている姿で理解ができるでしょう。
これは私たちがあの世に還る時の調和された自分の光の肉体なのです。
あたかも太陽が熱・光のエネルギーを、この地球上の万生万物に平等に与えているように、天もまた、この地上の人類はじめ万生万物に慈悲と愛の無償なる光を、全て平等に与えています。
太陽の熱・光のエネルギーは、貧乏人、金持ち、地位、名誉、そんなものに全く関係なく、平等に与えられてあるように、天の愛と慈悲もまた同じであります。
しかるに私たちは、永い歴史の中で、先祖代々伝わってきた信仰体系の中から、一所懸命に祈ることが、本当の信仰の道だと大きな間違いを犯しているのであります。
天は慈悲と愛の光を、万生万物に平等に与えていることを再認識しなくてはなりません。
だが、慈悲と愛の光をうけることのできない人が多いのです。
神の子たる己自身の本性を失ってしまっているために、恨み、妬み、誹り、自己保存、自我我欲、自己中心の暗い想念が、心の曇りをつくり、あたかも太陽が、地球上の雲によって、その光をさえぎっているように、天の光を己白身の不調和な想念と行為がさえぎってしまっているのです。
仏教は、人間がこの地球上に生まれてくると、修行のために、神の子としての自覚の90%が潜在してしまい、肉体舟の五官六根がもたらす自己保存、自我我欲の暗い想念が神の光をさえぎり、己の魂を曇らせて生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦といわれる四苦八苦の苦しみをつくってしまっていることを教えたのです。
その苦しみの原因は、全て己の清浄な心を忘れた私たちの魂・意識である心というものがつくるのである。
その苦しみの中から、己自身の反省がその魂を調和させ、平和な、執着から離れた安らぎのある人間としての本性、清浄な執着のない己自身を悟ってゆかなければならないということを教えているのです。
それを当時の無学文盲の衆生にも分かりやすく説明するために、方便をもって説いたのです。
例えば、皆さんもよくご存知の「法華経」です。インドの当時も中国の時代においても、泥沼の中に美しく咲く、あの一輪の蓮の花の姿を通して教え導きました。
多くの人々の前で、
『皆さん、あの泥沼の中をごらんなさい。あの泥の中は、虫やハエなどの汚物がいっぱい群がっている。
あの汚い泥の中に根をおろして咲く美しい、一輪の蓮の花をよく見るがよろしい。あなたたちの肉体というものは、あの泥沼のようなものなのだ。
なぜならば、眼を見れば眼糞、鼻を見れば鼻糞、囗を開けば、痰、あるいは体から出てくる汗、これも汚いものであろう。このように大小便に至るまで、人間の肉体から出るものは、何一つとしてきれいなものはないのです。
この汚い泥沼のような、人生の乗り物である肉体も、その主(あるじ)である意識、その中心である心というものが、真理を悟って執着から離れ、生老病死という根本を悟って、己自身が八つの正道を実践したならば、あの美しい蓮の花のように、あなたたちの心は、調和されて仏の心となり、安らぎの境地に到達して、苦しみから己自身を解放することができるのだ。』とこのような方便の説話をしたのであります。
これが人間の心の道しるべとして法華経のなかに説かれているのです。
しかるに、仏教もいつの間にか難しくなり、智と意の哲学的学問に変わっております。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」といったところで一般的ではなく非常に分かりにくいのです。
無学文盲の2500年前当時の衆生に説かれた、あの仏教の真理がそのような難しいものであったと思いますか。
普通の言葉で誰にでもわかるように、且つ、理解しやすく説いたのです。
私が相談者の話を聞かせていただき、アドバイスをさせていただくときにいつも思うことですが、同じ言葉でもそれを理解し、受け止められる人とそうでない人がいます。
大事なことは相談者の心がどっちの状態であるのかを私が見極めたうえで話さなければ、生きた言葉にならず徒労に終わるだけでなく、相談者の心の滋養にならないということです。
「ゴータマ様(お釈迦様)は、何によって生活しておられるのですか。私たちは、このように農耕をして米をつくって生活しております。あなたはなぜそのようにしておられますか。」と釈迦は民衆に問われました。
その時に「あなたは米をつくって生活をしているが、私はあなたたちの心に真理の種を蒔いて、その実るのを待って生活をしている。人間は米のみによって生きるのではないのだ。人間の心こそ偉大なる不変のものなのだよ」
そして更に、「あなたは今、このように肥沃(ひよく)の土地に、稲を蒔いて生活をしているが、まず稲の種を蒔くならば、あの上の方の痩せた土地に蒔くか」と聞きました。
その時に農夫は「上の方の土地は砂利が多く、そのために米は実りません。土地に養分が足りません」といいました。
釈迦は「私の説いている真理も、うけ入れる機根のない人たちに、いかに説いたところでこの真理の種は、人々の心の中に入って芽生えるものではない。」とこのようにこんこんとその農夫に説きました。
農夫は二度、三度と深々とゴーダマに礼拝をして『大事なことを悟らせていただきました。』とお礼の言葉を述べて立ち去ったのです。
お釈迦様はそのように方便を通して、その時の衆生の機根(心の段階)に応じて、真理を説いたのであります。
仏教というものが、二千五百余年の間に、本当の心の偉大性を説かず、排他的に変わってしまったのですが、本来は転生輪廻を繰り返す毎に、自ら誓って生まれてきた皆様の魂の意識の中の記憶には、連綿として、神の子としての偉大なる真実が、あまさず記録されているのです。
皆様が、一心に信仰をしていても、なぜという疑問が出てくる原因もそこにあるのです。
人間の心をふさいではなりません。
あくまでも疑問は疑問として、解答を得た時に、皆さんの心のなかに真理の芽が、芽生えてくるのです。
このような事実をよく知ったならば、私たちは次元の異なったあの世があることを否定できないでありましょう。
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コメント一覧
「神の子」というのは、どんな特質、性格をもち、どんな考え方、行動をするのでしょうか?
同窓会に出て、いじめっ子だったA君が今や国会議員になっていて、自分の思う社会正義の実現に励んでいるとする。昔の自分の苛めはほとんど記憶にない。子供時代の子供らしいやんちゃ程度の認識。一方、A君に苛められてニートになったB君は、引きこもりで、同窓会に出ることもできない。なんとかしなければと思うが、外に出ることさえ怖い。弱かったと言えばそれまでだが、好きでニートになったのではない。そして、脱落者を非寛容な日本の表(の華々しい)社会には、永遠に参加できない。
自己実現しているA君は、「人はみな神の子」と聞けば、めでたいほど素直に、そのとおり!というかもしれない。でも、B君が同じ言葉を聞いた時、それを信じることができないだろう。たとえB君が親や動物に優しく、家事をしていても、社会に出て活躍できない時、生まれた意味さえ疑問視する時もあるのではないでしょうか。
人は神の子と言える人は、どこか論理的には根拠のない信頼や自信がある気がする。それと、他人の言動にも自分の言動にもこだわらない。同じ行動をしても、ある人は、自分の中にある神性(人に普遍的にある神性)にふれたと感動し、別の人は、もっとこうできたはずという反省や自己欺瞞を見て落ち込む。同じ行動をしても、不思議なものです。
前者は自画自賛のおめでたい人ではないのか?後者は完ぺき主義ゆえの不満だらけの人ではないのか。前者は神性が表れ、後者は隠れてしまっているのでしょうか?