恐怖のマインドコントロール・信仰の正邪

怨み

心の国境

第一章宗教の現状

宗教を否定したら人間を否定することになるのではないかといえるほど古来より人間の心と生活に宗教が関わっています

だが、この宗教こそが根底にあって人間同士が殺戮(さつりく)にまで駆り立てられていることも世界的な事実である。

宗教を悪と見るのか、必要欠かざるものとみるのか。

宗教によって心救われる人もいる一方で、宗教によって被害に遭い、また人を殺(あや)めることもある。

要は、宗教をもつことが問題なのではなく、正しい宗教かどうか、正しい法を説く宗教か指導者であるか、営利を目的としたものでしかないか否かであろう。

現代の世界の状況をみると、資本主義思想と共産・社会主義思想の二極に大きく分化されているといってよいのではないだろうか。

しかし、これまでの史実をみてのとおり、思想によって世界人類の心が平和になることはまずないと思われる。

例えば米ソの対立は思想の対立です。

世界が最終的にユートピアになるためには、根底にある宗教の対立、人種の差別による対立がなくなり、国は違えど、障壁としての心の国境がなくならないといけません。

現在行なわれている戦争の原因も、要するに根底にあるものは、宗教の対立です。

宗教の対立を解消するには、世界の人口の三分の一が正しい真理(神理)を知ればできるでしょう。

世界で問題が発生して内戦や隣国との戦いをしているところには常に宗教的背景があります。これは過去における史実も現代も変わらない。

信仰をもっている人たちのなかにもある、信仰の矛盾を感ずるというのは、その信仰が間違いであるからです。

宗教に疑問を持った人たちは立ち上がらなければなりません。

きょうここに掲載する内容は、宗教の間違いと真の正しさに気づく足掛かりになればとの思いからであります。

一、今まで無信仰であって、これから信仰しようという人への宗教選択の基準として。二、既に信仰しているが、その信仰に疑問を持っている人への気づきの道しるべとして。

信仰に疑問を持つ人へ

ふしぎな日本人

少し古い統計で申し訳ありませんが、平成12年末(2001年)現在で日本にある宗教法人の数は18万2千ほど登録されているとあります。

そして法人登録されていない宗教団体となると更にその数は膨大な数で把握しきれないでしょう。

宗教法人がこんなにたくさんあっていいのでしょうか。

日本人くらい、宗教について曖昧な民族はありません。

大抵の家には神棚があって、仏壇があって、子どもが生まれるとお宮参りをして、死ねばお寺でお葬式をして、クリスマスだというとクリスマスケーキを買ってきてメリークリスマスとケーキをほおばる。

病気だとか、不幸だというとどこかの新興宗教に入って、さらに良く当るという霊能者がいるとそこにいって拝んでもらう。

「先祖に苦しんでいる者がいるからその人を供養しなければあなたがたに災いが起きてきます。」

「子供さんの人生はそう長くはないでしょう。」

「この子の悪しき運命を変えるには徳を積むことが最も最善の方法です。」

「先ずは財を捨てることから始めなさい。」

「手持ちの預貯金の半分は寄進すれば悪業を消すことができます。」

「あなたの先祖はそれだけ他人を犠牲にして贅沢をしたのですからその因果を消すことは相当な覚悟が必要です。」

等々とこういった誘導に恐怖を感じて思いのままに操られてしまうのである。これらはご都合主義のマインドコントロールでしかない。

金の亡者となった教祖や指導者、霊能者、占い師たちは邪悪な霊達の支配下にあり、目先の当て事が非常に得意で好きであり、あの手この手で迷える人々を扇動していくのである。

人間はこの当て事にとても弱いものだ。

相談者の見えないものに対する不安感、恐怖心からご利益主義、他力本願への依存心もいいとこである。

気づいた時には結構な大枚をはたいて儲けさせてはじめて危機感をもってから気づく人もいる。

懐が寂しいどころか借金までして貢いでも気づけない被害者もいる。

人生をどう生きるかはすべて己自身の心に内蔵されていることであって、そのことに気づいた人たちは自助努力によって厳しい生活環境下にありながらも幸せを実感しています。

さて、西洋の学者が、「日本人はわからない」という原因の第一は、このような信仰に対する曖昧さだといいます。これは私のアメリカ人の友人の話でもあります。

なぜ、信仰に疑問が起こるのか

「あなたは今、幸せですか」「幸せになりたいと思いませんか」「その病気から救われたいと思いませんか」どこの宗教団体でも信者を勧誘する時にいっている言葉です。

幸せに対する考え方は定義がありません。幸せは考えるものではなく、感じるものだからです。(過去の投稿もご参照ください。)

幸せの条件とは何でしょうか? 本当の幸せ 幸せへの法則

人間はみな幸せになりたいという思いはあるのですから、その呼びかけは決して間違いではないでしょう。

だが、信者になった人がみな幸せになるかというとそうではありません。

幸せになったという人もいれば、一向に幸せにならないという人もいます。

また、最初は幸せになったという人でも、しばらくするうちに解決できない問題が起こってきて、教えられた通りにやってもうまくゆかないということが起こってきます。

その上に、寄付をしろ、信者をふやせ、冊子を買え、本を売れ、集会に出てこい等、ノルマを課せられ、いろいろな枠をはめられてそのために苦労します。

「こんなことなら信仰しない方が余程ましだった」という悩みをもっている人は実に多いのである。

悩みが起こるのは、本山や本部が悪いのか、信者が悪いのか

信者が悩みを持つと、「信心(信仰)が足らないからだ」と、どこの宗教団体でもいいます。

ほんとうにそうなのでしょうか。

本山や本部、或いは講師の方が間違っているということはないのでしょうか。

信者だけが間違っているのでしょうか。

「一所懸命にやれば疑問はなくなる」ともいいます。ほんとうにそうでしょうか。

新興宗教はなぜやめる大が多いのか

今ここで代表的な新興宗教団体の名称を挙げることは控えます。

いろいろな宗教団体がありますが、今はどこの宗教団体でも、入会する大よりは脱会する人が多いのが現状です。

なぜ、やめるのか、というと、一所懸命にやってみても疑問がなくならないからです。

熱心にやればやるほど苦しくなるからです。

それに、今の新興宗教の信仰には金がかかります。

信仰するのにそんなに金が必要なのでしょうか。

「お金のない人は信仰できない」というのが新興宗教をやめた人の口ぐせでもあります。

宗教産業となった新興宗教

私は30年ほど前に宗教団体の実態を知ることを目的に、いくつかの宗教団体を意図的に覗いてみました。その中には犯罪を犯した教団もあります。

表ざたにはならなくても、訴訟などの裁判沙汰を起こされている教団は結構あります。名前を列挙すれば一桁ではおさまりません。

そしてこれまで宗教被害にあった相談者の話しを聞いてきましたので、多くの新興宗教の内部事情も少しは把握しているのですが、実に巧妙に名目をつけて信者からお金を吸い上げます。

毎月の会費、奉納金、毎月の先祖供養、故人一人に月いくら、春と秋の彼岸の先祖供養、元日と大晦日の特別祈願、毎月の講演会費、毎月の新聞代、本代等、その外、特別の行事があるとその都度寄付をさせます。

たくさん寄付するほど功徳がある、といわれるから競争的に寄付をする盲信者。

果たしてたくさん寄付をするほど功徳があるのでしょうか。

邪悪な教団の言っていることは『口説く』であって『功徳』とはほど遠いものでしかありません。

功徳は、先ずは己の心を調えることが成されていなければならないでしょう。

心を調えるとは、自分の心にある「自我」即ち不満、愚痴、怒り、恨み、嫉み、などの不調和な想念がどれだけ捨てられているかです。

そのうえで日頃の生活で愛の実践ができているか、他に対して慈しみの心を以って実践できているか否です。

自分の名誉や、偽善のために行った善行は、真心で積む功徳とは遠く及ばない行為でしかない。

為して望まず、ただひたすらに行う。

無償の善行こそ己の心の財産となるということだ。

新興宗教をやめた人達が一様にいうのは、「こんなに金がかかっては信仰もできない」ということです。       
何故、宗教被害者に目を向けるのか

なぜ今こうして私が宗教に関して書き記すのか、そして手を差しのべているのか、それは外でもありません。

「こんなに苦しむのであったら、むしろ信仰しない方がよかった」といって、信仰したが故に苦しんでいる人に気づいてほしいからです。

それともう一つは、信仰はしたいが、どんな信仰をすればいいのかわからない、と思っている人々に、正しい人の道に気づいてほしいからです。

勿論、病気や不幸で悩んでいる人々にも望まれれば手を差し伸べます。

これまで信仰していた宗教をやめさせて平和な心で生活できている人たちがいます。

盲信、狂信していた人たちが人間らしく、自然状態で家庭生活ができるようになった事例があります。

疑問や矛盾が起こるのは、その宗教が間違っているからです

信者が疑問を持つと「信心が足りない」と指導者がいいます。

私は新興宗教団体について少しばかり研究してみました。

その結果、信者が疑問を持つのはみな、その宗教団体の教義或いは指導方針に間違いがあることがわかってきたのです。後に説明します。

過去の投稿記事を参考にしてください。

『間違った信仰の恐怖』2013年10月19日投稿

『信仰と読経にもつ疑問』2013年7月19日投稿

『神秘力と危険な宗教』2013年3月31日投稿

『邪宗教から抜け出せない理由』2013年5月6日投稿

宗教の分類

なぜ十八万五千もの宗教法人ができたのでしょうか。これからまだどれくらいふえるかわかりません。

宗教とは神仏をまつり、信ずることだと普通考えられていますが、十八万五千も神仏があり、また、これからも本尊としてまつる神仏がまだふえていくというのはいかがなものであろうか。

日本の宗教を大きく分けると五つに分類できます。

第二章宗教の分類

啓示宗教

知的宗教

民族宗教

土着民俗宗教

憑依宗教

以下説明します。

一、啓示宗教

真実の神、仏の啓示によって始められた宗教、例えば、釈迦、キリストが神仏の啓示をうけて説かれたそのままの宗教です。

啓示宗教には一貫性があります。神さまや仏さまのいわれることが途中でくるくる変るというようなことはありません。くるくる変るのは正しい神仏の教えではない証拠。

二、知的宗教

代表的な国内の知的宗教といえば「〇長の〇」です。教祖の頭脳で知的につくり上げられた宗教ですから、教義が途中でくるくる変ります。

釈迦、キリストの教えも、最初は正しかったのが、後世になってくると、説く人の知によって歪められて、説くことが変ってくるようになったといえます。

「〇〇宗」も、教祖の頭で考えてつくられた宗教ですから、説くことがくるくる変ってきています。

三、民族宗教

その民族特有の宗教、例えば日本神道がそうです。神道は日本民族特有のもので、他の民族は神道は信じません。他の民族には他の民族特有の宗教があります。

四、土着民俗宗教

その地方だけの特有の信仰があります。痔の神さま、はしかの神さま、縁結びの神さま、安産の神さま等、実にいろいろの神さまがあります。

ご神体も石であったり、木であったり、他を受け入れやすいという一面は良いのですが、日本人はなんでも神さまにして拝む癖があります。

別府の地獄湯には温泉でワニを飼っていて、そのワニは三メートル位の大きなものですが、昼寝しているワニの背中にお賽銭が一杯のっているということがありました。

大阪の阪神地下街の人工の川(トレビの川)にもお賽銭が投げ入れてあります。土着信仰は、日本人のこうした、なんでも拝むという心が生み出したもので、こんなものは、ほんとうの宗教とはいえません。

五、憑依宗教(別名霊能宗教)

日本の霊能者のなかでも、動物霊や地獄霊に憑依されている人は多い。動物霊の言葉や地獄霊の言葉が、観世音菩薩とか不動明王だとか名乗って出てきます。

動物霊や地獄霊の支配を受けていても病気治しくらいは簡単にやります。病気をよく治すからといってそれだけで信じてはなりません。盲信、狂信は必ずあとから大きなトラブルに突き落とされることになります。

その教祖が動物霊や地獄霊に憑依されているのではないかということを簡単に見分ける方法は次の通りです。

1、金銭に汚くなる。

2、傲慢になる、驕り高ぶる。

3、言うことがくるくる変る。

4、言うこととやることが一致しない。

5、いうことを聞かない者には「罰が当る」といって脅迫する。

6、肌の色が健康色でない。

7、服装が派手になる。常人と違った特別の服装をし、飾りたがる。

9、物欲が派手になる。

10、二面性があり、起伏が激しい。

このような教祖のいうことは信じないことです。

第三章 正しい宗教の判断の基準

正しい宗教であるかとうかを判断するには、まず第二章に示した宗教の分類によって判断した後、次の十ヵ条によって判断することです。

一、正しい宗教は大神殿、大殿堂を造らない。

宇宙創造の神が、人間が造った神殿の内にのみ居られると考えるのは間違いです。

二、正しい宗教は偶像を礼拝しない。

ご神体として人間の手でこしらえたものが神仏であるはずがありません。どうしても人間は祈ることにおいて対象物をほしがるけど、人間が神仏をこしらえることはできません。

三、正しい宗教は金銭で救われることを説かない。

寄付をたくさんすれば救われる、会員をふやせば救われる、本をたくさん買えば救われる、本部にお詣りするほど救われる等と説く宗教は邪教です。

四、正しい宗教は教祖を神格化しない。

教祖を神さま扱いする宗教は邪教です。人間が神さまになることは絶対にできません。

教祖が間違ったことをしても、側近は間違ったことはしていないといって信者を押さえつけます。こういった言動が教団内にあるようならその教団は間違いなく悪の巣窟になっている。

五、正しい宗教は「罰が当る」といわない。

神さまが罰を当てられることは絶対にありません。人に恐怖心を与えて信仰させようとするのは人間の都合で語られたことであって営利、名誉、地位に固執した邪教です。

六、正しい宗教は、易、人相、墓相、印相、気学等の運命学を説かない。

心が変ると運命は自然に変ります。自分の心を変えるのは自分自身です。自分が運命の主人公です。

宗教団体のなかにも現実に易や、家相、墓相、気学を駆使して霊能だとしているところが存在しています。

七、正しい宗教は説くことに一貫性がある。

説くことがクルクル変るのは正しい宗教ではありません。クルクル変るのはご都合主義です。神さまや仏さまのいわれることがクルクル変るというようなことがあるでしょうか。人間でもいうことがクルクル変る人間は信用されないでしょう。

八、正しい宗教は世襲制度をつくらない。

教祖の家柄に必ずしも立派な宗教指導者が生まれるとは限りません。白分がつくった教団を子孫に継がせようとするのは欲望からです。しかし、現実に世襲教団が存在しています。

お釈迦さまは自分の子供に釈迦教団を継がせるというようなことはされませんでした。

九、正しい宗教は儀式や護摩供養をしない。

最近、〇〇密教の〇〇宗では信者たちが白装束で祭りごとに参加し、教祖がさかんに護摩供養を説きますが、すべてお金が先に立った行事として仕組まれています。

お釈迦さまは護摩供養をしてはいけないと説かれたのです。

何百本護摩供養をしようが、己自身の心がきれいにならないと救われません。護摩供養はしなくても、心をきれいにする方法はいくらでもあります。

たくさんの金品や供物をしたからとい救われるわけではありません。

実際にこの宗教に属していた方がいくら護摩供養をしても救われることなく苦悩ししていたのですが、今は脱会もし、自分の心を取り戻して日々の安らぎと幸せを感じながら暮らしています。

安らぎは自分の心の在り方にあることを私とのカウンセリングによって気づいただけである。

正しい宗教は「水子が祟る」といわない。

水子が祟ることはありません。水子供養をさせたり、水子地蔵をまつらせたりする宗教は邪教です。そんなことに惑わされてはなりません。

『水子供養の真偽』 水子供養の因習と真偽』

まだほかにも判断の基準がありますが、例えば最初から「素直に信じなさい」といっている宗教は、おかしいところがあるから疑問を持ってはいけないというのだと考えた方が正しいのです。

信仰してしまってから聞違いだったと気づくよりも、信仰する前によく調べることです。

今まで、どんな宗教が正しいのか、その判断の基準を教えた宗教はありません。

第四章 正しい教えとは

正しい教えとは、神がつくられた大宇宙大自然の真理であり、宗教はその真理を説き、その真理に発した道徳を教え、正しい秩序ある社会をつくり、人間が幸せになる道を教えるものです。

神は生命を創造し、物質を創造し、生命は生命の法則により、それぞれ循環と因縁、因果の法によって存在せしめられることになっています。

それゆえに、生命の法則を説く宗教と、物質の法則を説く科学とは表裏一体となり、切り離すことはできないものとして存在しているのです。

これを物心一如、色心不二、心身一如ともいいます。

宗教家が大宇宙の真理を知らず、科学者もまた無知であるためにその背景に存在する意識というものを避けてきたのである。

宗教と科学とが一体であることを知ることによってはじめて真の人間性が開発され、大宇宙大生命即ち神と調和し、人々の心は安らぎ、地球上に極楽浄土が完成されるでしょう。

極大の大宇宙世界から、極微の原子世界に至るまで、一貫した法則によって支配され、その中に人は心を持って存在しています。

心とは意識であり、魂であり、霊です。

仏法によって生命の不変を説かれた釈迦も、大生命大自然の真理を説かれたキリストも、大自然の真理に到達された偉大なる先覚者であったのです。

大宇宙は神によってつくられました。

大宇宙は神の意識の表現体です。

即ち、この意識を神と表現ます。

「大宇宙の意識は智慧と慈悲とを持つ一大生命エネルギーの根源であり、万生万物を存在せしめ且つ生化しているのです。

真の正しい教え(法)とは、神がつくられた永遠不変にして普遍的な道に沿ったものでなければならないのです。

それは必ずしも宗教の世界にだけあるものではなく、私たちの毎日の生活の中に、右にも左にも上にも下にも偏りのない心で生きること。

即ち、不満や愚痴、感情的になった怒りの心を持たない、恨みや妬みのない足ることを知った生活のなかにこそあるということです。

どのような信仰をもっても、またどのような霊能者に依存しても、どのような占いをしようが、自分の感情を理性と知性によってコントロールできずに子どもに向けて暴発させるようでは信仰など何の意味も持たないだろう。

信仰は外にあるのではなく、自分の心のうちにすべてがあることを悟らなければならない。次回は明日(2月3日)に投稿(実例)を予定しております。

タイトル『霊能者の常套(じょうとう)手段・脅しの話術』

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幸せの条件とは何でしょうか?

幸せと思えることにはひとそれぞれ感じ方、思いが違うようです。きょうはこの幸せについて質問者と回答者皆さんのご意見を聴いてみたいという考えから「教えて!goo」から転載させていただきました。

参考になればと思います。

質問者投稿日時:2007/04/02 19:20

以下

私は今はもう退社しましたが、元大手金融機関でそこそこの地位まで行きました。

今は三十代前半です。収入も世間一般よりは多かったと思います。

今は独身ですが特に女性にも困ったことはありませんし、交際してきた女性も美人が多いです。
しかし、それらを楽しいと感じたことはほとんど無いです。

優越感を感じた時もありますが、幸福感とは違います。

はたから見るとうらやましがられたりしますが、当の本人は楽しくないのです。

ちなみにこれらのものを手に入れるのに楽をしていたわけではありません。

努力によって手に入れたものばかりです。

だからこそ今悩んでるのです。 努力の甲斐が無かったような気がしてしまうのです。

だから幸福の条件はお金や社会的地位でないような気がします。

もし幸福の条件がそういった表面的な成功であれば、一流大学を出て一流企業にさえ勤めれば幸福になれるということです。

しかし、現実は大企業の役員でもまれに自殺したりしますし、不幸なお金持ちもたくさんいます。

逆に人並みの生活をしていても幸せそうに見える人もいます。

「じゃあ、お金や地位を捨てれば」という人もいるでしょうが、今は先に挙げたように退社してますし、お金もボランティア、募金、奉仕、その他色々なことに使いほぼ使い切りました。

私もはた目にはけして不幸せに見えないようですが、それはただ不幸せそうな表情をしていないだけのことです。

世の中にはいつでも笑顔だった人が自殺したりして、「あの人が自殺なんて考えられない」というような事件も時々あります。

実際に当の本人が内面から幸福感に満たされるにはどうしたら良いでしょうか?

幸福の条件とは何でしょうか?

回答者A:2007/04/02 22:55

40代の男性の意見です。思ったことを率直に描きますので、気に障ったら許して下さい。
ご質問を3回読み直しました。そして感じたのは、あなたにとっての幸せって何だろうということと、あなたがされてきた努力って何だろうということです。

幸せを定義する事は出来ないと思います。

敢えて言えば、不幸せと感じていなければ、それはすべて幸せ、と言っても詭弁では無いと思います。

ですから、あなたがかつて他人が羨むような仕事と環境にあったとき、幸福を感じられなかったとしたら、それは、何らかの理由で不幸せだったからということになります。

それと間接的に結びつきますが、あなたの仰る努力って何だったんでしょうか。

もう少し正確に言うと、その目的はなんだったんでしょうか。

喩えが適切でないかもしれませんが、私の周囲には、高校に入る頃までは非常に優秀でも、そのあと全然伸びないと言う同級生が何人か居ました。

観察してみると、今まで勉強してきた理由が曖昧なのです。

例えば親が厳しいとか、負けたくない、など。

しかし、自我が芽生えた高校生は、自分自身に納得がいく論理的な説明なしには本当の意味での勉強って出来ないと思います。

即ち、伸びなかった友達は、概して一人称で語れる勉強に対する意識を持っていなかったのです。

あなたを子供と一緒にして申し訳ありませんが、ご質問を読んでいると、何か「だぶる」ものがあります。

あなたにとって努力って何の為だったのか?という問いです。

内面から幸福感に満たされる、そのための前提を見つけるのは、不可能なんではないかと思います。

毎日ちっぽけでも良いから自分自身の目的を持って仕事をする。

少しで良いから思いやりを持って女性に接する。

このように、先ず自分以外のものに気持ちを込めての何かをし、その結果、仕事や女性から予想外の成果や感謝を受け取った時、人は幸せを感じるのだと思います。

つまり、あなたには、世俗の成功を手に入れるだけの器量と努力はあったのだと思います。

しかし、それを幸せと転化するだけの、自分自身へのコミットというか、真摯な気持ちが足りなかったのではありませんか。

ですから、その足りない気持ちのままで、ボランティアをやっても、寄付をしても、幸せは感じられないのではありませんか?

むしろ、今のあなたはそれで良かったんだとすら思います。

なぜなら、それで幸せを感じてしまったら、それは、偽善、と言う事ではないかと思います。

あなたは、踏みとどまったのではありませんか?

いま、幸福と言う事に想いを馳せているあなたは、もう一度、他人に対する、そしてご自身にたいるする本当の気持ちを振り返る、チャンスが与えられているのではないかと思います。

この回答へのお礼

ありがとうございます。
私も率直に書きますが、あなた自身は幸せですか?

どんなこともそうですが、やはり言ってることが正しくても実績がある人の意見でなければ、参考にはなりません。

それは幸せも同じで幸せで無い人が諭しても説得力にかけるのです。
あなた自身はきっと幸せだから、ここに回答をしてきたんでしょうから参考にはさせて頂きます。

回答者B:2007/04/02 22:36

お金もボランティア、募金、奉仕、その他色々なことに使いほぼ使い切りました。

へえー、すごいですねー。 助けになった方も、たくさんいらっしゃると思います。

お金は何と言っても大事なものですからね。
ご質問ですが 「求めたいものがわからなければ、幸福の意味はわからない」 ってことでしょうね。
逆にいえば 「求めるものがわかっていれば、幸福でいられる」 ということですね。

お金持ちだろうが、貧乏人であろうが、そこのところは共通です。

もっと言えば 「求めるものを手に入れたと思えたときに、幸福が心に満ち溢れる」 のでしょうね。
「何が欲しいか、何を求めるか」がわからなければ幸福の意味はありませんよ。

人それぞれ違う「幸福」があるのだから、あなたはあなたの「求めるもの」に出会わないとね。
「どうすれば」ということなら 「懸命に生きろ!」ということしか、私には言えませんね。

この回答へのお礼

ありがとうございます。

回答者C:2007/04/02 20:46

他人に聞いて『ハイ。これが幸せというものです。』って答えが得られる類の問題じゃないと思う。それは貴方しか知らない事だよ。

なにかねぇ?僕もそれについてたまに考えたりするけど、答えなんて出ないんだよね。

例えば、僕は望んで手に入れたものなんて殆どないような気がする。

もしかしたら、そんなものは何もなかったのかもしれない。

でも、”今は”幸せかもしれないって思うよ。

(う~ん。もっと幸せを感じていた頃はあったけど・・・。今もまあまあ幸せ)そんなに悲惨でもなく普通に生活出来てるのは当たり前として、彼女に愛されてるのが何よりも幸せだと思う。

んで、もっと彼女と一緒にいられたら、もっと幸せだと思う。

それに向けて今は努力してる最中。

その意味では”まだ幸福に到達していない”とも言えるのかな?

僕の場合はこんな感じ。

幸せの条件は”彼女に愛される事”かな。

もっと突き詰めれば”自分が幸せを感じる事が幸せ”かな。
これってね、人によって本当に様々だと思う。

例えば、スポーツ選手とか科学者とかそういうトップを走ってる人の幸せなんて想像もつかないよ。

きっと”高みに登る事”に幸せを感じてるのかもしれない。

お金儲けに命をかけてる人なら”数字が増えるというその事”に対して幸せを感じるのかなぁ?

戦う事が好きな人は”そういうスリルや勝利”に幸せを感じるのかもしれない。

新しいのが好きな人は”未知のものに触れる事”とかかねぇ?

人によって本当に様々なんだよ。多分。

貴方はどんな事に幸せを感じる?

今まで”こんな事が心地良かった”ってのはない?

もしそれが未だにないのなら、貴方はまだ出会っていないだけなんだと思う。

それならきっとこれから出会うよ。

いつだって大事なのは貴方の気持ち、貴方が感じる事。

それがなくちゃどんな幸せも感じる事は出来ないから。

それだけは”幸福の必要条件”って言えるのかもしれない。

この回答へのお礼

確かに他人の提示した幸福の条件を満たしても幸福にはならないでしょうね。
考えるのではなく感じるように努力してみます。
ご回答、ありがとうございます。

回答者D:2007/04/02 20:35

「幸せとは」と深く追求しても、幸せは得られないと思いますよ。

幸せは探して手に入れるというよりは、今あるものをたいせつにかんじられる心だと思うのですが。

だから人によって全く違うし、 お金があっても健康であっても、 またはお金がなくて健康でなくても、 それぞれが今おかれた状況をありがたいと感じられれば幸せなんだと思います。

この回答へのお礼

なるほどと思いました。目からうろこが落ちた感じです。

確かに深く追求するから難しくなるのかもしれません。
子供の頃は無条件に楽しかったのも、頭であれこれ考えようとしなかったからかもしれません。
幸福は学問ではありませんからね。
ご回答、ありがとうございます。

回答者E:2007/04/02 20:22

割と逆の立場でしょうか、33歳で独身の女です。

たいしたキャリアもありませんし(一応手に職はある)、将来何の心配も無いほどの貯蓄もありません。(実家は割りと裕福)

ですが、とっても恵まれてると日々感じていますし、毎日幸せです。

宝くじ当ればいいなーと思って年末ジャンボとかも買ってるし。当らないけどでも、それでも幸せです。

何をおいてもって程ではないですが、そこそこ楽しめる趣味も複数ありますし、趣味を一緒に楽しめる友人もいます。

甥っ子2人はとっても可愛いし、友達も優しくて、楽しくて、本当にいい人ばかりだし、親戚も困った人もいるにはいますが、みんな私の事を愛してくれているのが解りますし、私もみんなをとっても愛してます。

もてない訳でもないですが、特に大金持ちとかみんながうらやむほどのイケメンとも付き合った事は無いです。

出来る事ならば、祖母が元気なうちに結婚式を見せてあげたいって気持ちですが、それも難しそう。

でも、毎日、「あー幸せだなー!」っていつも思うんです。

母親にはあなたの幸せは親や周りの人の努力であって、あなたは何の努力もしていない!今に苦労するに決まっているわよ!と常に怒られていますし、「そのとーり!」と理解もできてます。笑

この幸せはいつまで続くんでしょうかね、それを考えると少し怖いのも事実です。

心と身体が元気な事が幸せを感じる事が出来るのでは?(中には病気と闘いながらも毎日の幸せに感謝している方はたくさんいらっしゃると思いますが)それならば、心の元気さと、愛されて育った事でしょうか。

馬鹿じゃない!とかアホゥっていいよね!気楽で!って思われるでしょうが、私は親戚中から、友達から本当に愛されてるんですよね、職場での人間関係といい、もちろん感謝していますし、私もみんなと同じようにみんなが大好きです。

それが、私が愛されるべき人物って訳では決して無いのです。

偶然、奇跡的に親戚も、友達も職場の人もいい人達ばかりなのです。

幸せを感じる事が出来るのも、運、不運みたいなものではないのでしょうか?そのうちツキが回ってくると思いますよ。

この回答へのお礼

うらやましい限りの人生ですね。
私自身運もツキもあると思いますが、内面的なものもそういったものに左右されるのでしょうか。
しかし、現状では具体策があるわけでもないので、「そのうち」を期待するしかないかもしれませんね。

「愛」も大事かもしれませんね。
参考になります。
ありがとうございます。

回答者F:2007/04/02 19:54

「大切にしたいもの、理屈ぬきに無性に好きなもの」がある人が幸せでは? もちろん 生活の安定がないとそれは厳しいですが。

『今は独身ですが特に女性にも困ったことはありませんし、交際してきた女性も美人が多いです。しかし、それらを楽しいと感じたことはほとんど無いです。 優越感を感じた時もありますが、幸福感とは違います。』

以前の職場の知人がそういってました。 加えて虚しいと。
所謂エリートで女性も美人ばかりがよってくる。

最初、”冗談? 嫌味?”と思いましたが、どっこい、本人は真剣に悩んでました。

私は異性であって競争相手でもないし 所謂 美人でもないしどうでもいい立場?だったので 言いやすかったのかもしれませんが。

自分の得意とすることや 人との競争に勝つ、自分の努力を達成させた満足感は満たされても 小さい頃、または10代の頃から「理由とか理屈なしにコレが好き」と言うものがない人はいまいち幸福感がないのでは? と言ってみました。

彼は確かにそうだと言葉を返してきましたが、いかがでしょう?
条件とか理屈ではなく、無性に好きだってもの(なんでもいいです)を無意識に感じるしかないと思います。

アドバイスにならないと思いますが 私はそう思います。

「当の本人が内面から幸福感に満たされるにはどうしたら・・・・・。失礼ながら貴方の過去投稿(回答側)を少し拝見させていただきました 自分にも他人にも厳しい方でしょうか。 知人もそうでした。

この回答へのお礼

確かに子供のころは無条件に楽しかったです。
子供までさかのぼらなくても、学生の時でもお金や行動範囲は限られますが楽しかったように思います。

「最初、”冗談? 嫌味?”と思いましたが」
おしゃるとおりで人に相談すると「その環境でふざけてるのか!」のなるのが予測できたのでこれまでに相談したことないです。
色々とアドバイスありがとうございます。

回答者G:2007/04/02 19:39

満ち足るを知る。これに尽きるでしょう。
現代の日本人は、贅沢や様々な情報を知る事によって幸せから遠ざかっているのではないでしょうか。

この回答へのお礼

やはり贅沢なのでしょうか。
楽して手に入れたものであれば贅沢と言われてもしょうがありませんが。
けして感謝知らずの人間ではないと思いますが、まだまだ感謝が足りないのでしょうか。
結局は自分で解決していくしかありませんが、ご回答ありがとうございます。

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大量精神科薬で搬送・問われる処方箋

健康

向精神薬に関しては重要視しているテーマでもありましたので、冒頭に読売新聞2月11日(火)8時59分配信から転載させていただいた記事を紹介します。

大量精神科薬で搬送、156病院…問われる処方

精神科の薬を一度に大量に服薬した患者の搬送を受けた救急医療機関が、2012年は全国で少なくとも156病院に上り、うち約3割にあたる46病院は年間50件以上搬送されていることが、読売新聞の調査でわかった。

服薬したのはいずれも医療機関でしか処方できない薬で、抗うつ薬、睡眠薬などの処方のあり方が問われそうだ。

昨年11月、全国の救命救急センターと日本救急医学会の救急科専門医指定施設の計498病院にアンケートを送り、164病院から回答を得た(回収率33%)。

大量服薬患者を年間100件以上受けている病院も10病院あり、最も多い病院では約500件と回答した。

うつ病で処方される三環系抗うつ薬では大量服薬によって1年間で計5人が死亡したほか、52人に不整脈、23人に長時間にわたるけいれんなど、命に関わる症状が見られた。

今回このような記事を掲載させていただいた理由は、私自身も人々の健康に携わる人間としていつも心にある事案ああり、医療現場において処方される薬について皆様にお考えいただきたいという思いからであります。

きょうは私が営んでいる整体院での事例を一部だけ紹介させていただきます。

事例1

OHさん76歳女性は、無気力、頭痛、肩凝り、腰痛、手足の震顫(シンセンふるえ)不眠、動悸、ふらつき、めまい、ふぁふぁ感、食欲なし、こういった状態で私のところにおいでになった。

目に力も動きがなく伏し目がちで顔色が真っ青で血の気がない。

ここ半年ほどで悪化するだけで全く回復の兆しがみえないとのことだった。

OHさん76歳は老老介護で自分の母親90歳の世話に疲れ切って体調を崩し、内科に行って症状を話したら肩凝り用にと筋弛緩剤、食欲の出るお薬としてドグマチール、不眠への対処としてデパスマイスリー、血圧を下げるための降圧剤、骨密度が低いからとカルシューム剤、コレステロール値が高いからと降下剤、毎日これだけの薬を服用していた。

患者は医師の言うことを信じて言われるがままに食べるほどの薬を大量に服用している。

私はこのOHさんのお薬手帳を見て服用する薬の多さと、不要と思われる薬の処方に大いに疑問をもって娘さんに同席を願い提案した。

「あなたのお母さんは病気という病気が発見されていないのですからこれだけの薬は不必要だと思います。むしろ薬をやめることで体調が戻りご飯も食べられるようになり、元気になれると思いますよ。

今までお薬で改善されなくて逆に悪化しているのですからこの際お薬をやめてみられてはどうでしょうか?」

OHさんは整体後にほぐされた体に手足の温かさが戻り、頭も目も楽になったことで私の提案する減薬について半信半疑ながらも娘さんと共に受けいれてくれた。

三日後に再来院したときにはしっかり私と目を合わせて会話をしてくれた。

初診から一週間後には顔に赤みが差してきた。

お奨めの野菜スープのレシピを娘さんに作っていただき毎日美味しいと言って食べてますといった。

10日後にはご飯を食べれるまでにお腹の調子が回復してきた。

そして自分から語りだし、最初に来院したときの自分は、頭も体も意識が薄れてあまり記憶がなかったと話してくれた。

私はOHさんが服用していた薬について初めて下記のような副作用を詳細を説明した。

ここで参考までに記述しておきます。

眠りに導く催眠鎮静剤として処方される、

マイスリー

副作用、ふらつき、手足のしびれ、けいれん、頭痛、頭重感、めまい、不安、興奮などの精神神経症状、食欲不振、口やのどの渇き、吐き気・嘔吐(おうと)、下痢、腹痛、便秘などの消化器症状、動悸(どうき)、胸の圧迫感、血圧の低下などの循環器症状、倦怠感(けんたいかん)(だるさ)、力が入らないといった筋緊張低下症状、横紋筋融解症、悪性症候群、意識障害、勃起(ぼっき)障害、むくみ・夜尿・頻尿などをおこすことがあります。とされていますが、処方箋にはこのような説明がなされることはない。

不安や緊張をやわらげまた、筋肉の緊張をとる作用があるものとして処方される、

デパス

通常、神経症、うつ病、心身症(高血圧症、胃・十二指腸潰瘍)における不安・緊張・抑うつ・睡眠障害の改善、けい椎症、腰痛症、筋収縮性頭痛における筋肉のこわばりなどの改善に用いられます。

副作用

眠気、ふらつき、けん怠感、脱力感、発疹、じん麻疹、かゆみ、紅斑

・薬への欲求が抑えられない、けいれん、不眠、不安があらわれる [依存性]
・全身けん怠感、食欲不振、皮膚や白目が黄色くなる [肝機能障害、黄疸]
・発熱(37.5℃以上)、筋肉のこわばり、手足のふるえ [悪性症候群]
・手足の筋肉の痛み、しびれ、脱力感、赤褐色尿 [横紋筋融解症]
・発熱、から咳、呼吸困難 [間質性肺炎]

以上、中枢神経に働きかける向精神薬の副作用を2例だけ述べてみました。

このような副作用で苦しんでいながら薬を手放せない、減薬できない、断薬できないでいる人たちは非常に多く、私のところでもいつも考えさせられる事案が多いのです。

そして、特にこれといった特定された病態が発見されていないのに安易に薬を処方する医師の多いこと。

このような医療のありかた事態こそが現代医療の問題点であると思うのですがこのブログを訪問してくださっているあなたはどうお考えになられますか?

件(くだん)のOHさんの様子はその後順調に回復に向かっていて、とても顔色がよく、食べれなかったご飯も今は普通に食欲があり、体力もついて大分元気になってきた。

嬉しいことである。

それではここに、奥村康:順天堂大学医学部教授があるブログに掲載されたものですが、その抜粋を紹介しましょう。

コレステロールの抑制は危険

以下、

医者に行くと、総コレステロール値220以上で異常だといってコレステロール降下剤を飲まされる。すると、まずいことに鬱(うつ)になるんですね。

非常に多弁だった人が無口になったりする。そういう人が電車に飛び込むんだという話をしていたら、実際に帝京大学の精神科の先生とJR東日本が協力して、JR中央線で自殺した人を調べたんです。

その結果、9割が55~60歳で、ほとんどが男だった。それが見事に全員、コレステロール降下剤を飲んでいたという。

以上ここまで一部引用転載させていただきました。

このような記事を読むにつけ考えさせられます。

薬の異常投与

いったい何人の飛び込み自殺があったのか不明ですが、そう何人もないと思われ、「9割」という数値が出てきますから、ここは10人と考えてよいかもしれません。

そして、「ほとんどが男」と表現されていますから、「飛び込み自殺した55~60歳の男7、8人は、皆、コレステロール降下剤を飲んでいた。」といったことになりそうです。

標本数が少ないですから、飛び込み自殺とコレステロール降下剤の間に有意な相関があるとは断定できないものの、「全員がコレステロール降下剤を飲んでいた」という事実は重いです。

そして、降下剤で低コレステロールになると鬱(うつ)症状が出やすくなるのも事実ですし、鬱病者の自殺が多いというのも事実ですから、コレステロール降下剤と飛び込み自殺との間には、かなりの因果関係があることも否定しきれなくなります。実に恐ろしいことです。

コレステロール降下剤の危険性は、言われて久しいものがあります。

それにもかかわらず、日本の医療業界は、高コレステロールの判定基準を低めに設定することによって、高脂血症(今は脂質異常症)の患者を作為的に作り出し、コレステロール降下剤を野放図に投与させて、営利に走ってきたのである。

日本の医薬品市場規模は約 6.7 兆円で、その9 割弱は医療用医薬品である。

世界市場における位置づけとしては、日本の医薬品市場は世界市場の約 13%を占め、アメリカに次いで第2 位であり、世界市場の13%を占めているところが問題でもあり見逃せない事案と捉えるところだ。

そして、その“ユーザー”は圧倒的に閉経後の女性です。

女性は閉経によって総コレステロール値が280(LDL悪玉は180)を超えることが珍しくなく、米国では閉経後の女性にコレステロール降下剤を投与してはいけないと言われています。

日本人は他の民族と違って異常に高コレステロール体質であるというなら分かりますが、そのような実態は全くありませんから、“薬の異常投与”以外の何物でもありません。

ところで、コレステロールは、悪玉と善玉があって、悪玉のLDLが目の仇にされ、善玉のHDLを増やしましょうと言われていますが、決してそうとばかりもいえない。

単に肝臓から末梢へ運ばれるのがLDLであり、単に逆輸送されるのがHDLで、両者ともに欠くことができないものであって、そのバランスが取られて生命活動がなされているのです。

両者の適正濃度というものは、個人差があるのが当たり前であって、それらの濃度が普段より異常に高まってきたのであれば、その原因は、特殊な病気を除いては、出入りのバランス、つまり、栄養の過剰摂取以外に原因は求めようがなく、節度のある食事をすることで改善が図れるはずである。

栄養学に拘り過ぎてかえって美食、過食、飽食、不摂生に陥っている観がぬぐえないことが来院者をみていて多々ある。

薬を過剰投与するより、過ぎない食事、偏らない食事こそが健康づくりと指導するのが医者の役目ではなかろうか。

所が、これでは低額の初診料とわずかばかりの検査料しかお医者さんの懐に入りませんから、コレステロール降下剤の処方箋を書き続けて安定した収入を図ることになってくるのである。

れは、日本の医療制度に本質的な欠陥があるからですが、簡単に変えられるものではなく、生活習慣病をターゲットにした医療ビジネスが大流行りになってしまっているというのが実態でありましょう。

また、良心的なお医者さんにあっても、総コレステロール値が280(LDL悪玉は180)もあるような患者さんに“飲まなくていいよ”と指導した後に、万一脳梗塞や心筋梗塞で倒れたりして医療過誤で訴えられたら完全に敗訴してしまいますから、“飲まなきゃいかん”と言わざるを得ないのです。

さて、コレステロールについては、近年、個別の学会など医師サイドからも、基準値が低すぎ、これは問題だという声も出ています。

これは、幾つもの大規模な疫学調査で総コレステロール値が基準値より高い方が長生きしているという実態や高い値でも脳梗塞や心筋梗塞の危険性が高まることはほとんどないという調査結果が出ているからです。

また、患者も、その副作用がけっこうあったりしてコレステロール降下剤は危険だという情報をときどき耳にするようになり、不安を持つに至りました。

そこで、開業医が発言権を握っている日本医師会がどう動いたかというと、基準値の根本的見直しです。

従前は、総コレステロール値を基準にしていたのですが、2007年4月に、高脂血症を脂質異常症に改めるとともに、LDLとHDLに分けて、それぞれについて判定するという、複雑怪奇な物差しにし、患者をペテンに巻いて不安感を消し去るとともに、今まで総コレステロール値でもって今の基準が厳しすぎるという批判を見事にかわしてしまったのです。

定められた新基準は次のとおりです。

高LDL(悪玉)コレステロール血症 140mg/dl以上

低HDL(善玉)コレステロール血症  40mg/dl未満

事例2・医療現場から

高コレステロール治療薬で副作用

LDL(悪玉)コレステロールが200前後と高く、治療薬を飲んだところ、強い筋肉痛や疲労感があり服用をやめました。高コレステロールの食べ物は控えていますが、数値は下がらず悩んでいます。(67歳女性)

動脈硬化なければ服薬不要

佐久間 一郎先生

カレスサッポロ 北光記念クリニック所長(循環器内科)(札幌市)

これまでLDLコレステロールが高いと、心臓病や脳梗塞になりやすいとされ、数値を下げる薬を飲むよう勧められてきました。

しかし、日本人の女性の場合、LDLコレステロールが高いだけでは、これらの病気の原因となる動脈硬化は進まず、病気はあまり発症しないことが、最近の研究で分かっています。

糖尿病や高血圧ではない、喫煙はしていない、HDL(善玉)コレステロールが高いといった場合は、動脈硬化はあまり進みません。

動脈硬化があるかどうかは、首を通る()動脈を超音波(エコー検査)で調べることができます。検査を受けて動脈硬化がなければ、治療薬を服用する必要はないと言えます。

食生活でLDLコレステロールを下げるには、「飽和脂肪酸」の摂取を減らすことが大切です。

牛肉や豚肉、鶏皮、牛乳、ヨーグルト、洋菓子に多く含まれています。

低脂肪や無脂肪の乳製品を選ぶのも効果的です。

太っている場合は、体重を減らすとLDLコレステロールが下がります。

もし検査で動脈硬化が見つかり、治療薬が必要と判断された場合も、薬は数種類あります。筋肉痛などの症状が出にくいものを選ぶことは十分可能です。

糖尿病や高血圧、喫煙などの危険因子がある場合、LDLコレステロールが高いと男性よりも女性の方が動脈硬化が進みやすいことも分かっています。

コレステロールに詳しい循環器内科医などに相談してみてください。久間 一郎医師

事例3・小笠原幸子さん(77歳)

年が明けてから腰が痛くなり、ついには歩くこともままならず、ご主人のご飯支度もできない状態にまで痛み寝たきり状態となってしまったのだが、頼みの綱であるご主人も肺気腫を患っており、酸素ボンベが日常生活から離せない生活で心肺機能が低く体力もないため台所に立つことさえも満足にできないという情報が知人を介して入ってきた。

私は定休日を利用して20年ぶりに出張施術(高速で一時間)を快諾した。

幸子さん(77歳)は居間に横たわったまま寝返りさえできないでいた。

数回の訪問で回復して台所に立つようになった。

がしかし、施術中の会話からいろいろな体調不良を聞くことができた。

先ず、便秘で3~4日に一度の排便が不通になっている。

口内炎が一年の内数えるくらいしか無くなったことがなく、常に口内炎がある。

口内炎の医学的説明では、原因は細菌、ウイルス、アレルギー(歯科金属やフルーツなどの食物)、薬剤などさまざまですが、原因が特定できないものも多く、貧血など血液の病気で生じるものもあるとされています。

誘因として疲労、体力の低下、免疫異常、ビタミン欠乏、精神的ストレス、遺伝的要因、口腔清掃不良などがあげられますとなっている。

だが、殆んど毎日といっていいほど治ることがなかった口内炎が、コレステロール降下剤と、カルシューム剤、便秘薬を断薬したら数日で口内炎が完全に消失して再発していない。

これは単にビタミン不足などではなく、複数の薬が胃腸に相当な負担を強いていたということです。

ここ一年間で体重が45キロから40キロにまで激減して体力がなく何もできなくなった。

食欲が減退して頭痛が頻繁になってきた。

骨密度が低いと言われカルシューム剤を服用している。しかし骨密度が増えてはいない。

この幸子さん(77歳)は骨密度が低いと言われてカルシューム剤を服用、コレステロールがLDL(悪玉)が120で、HDL(善玉)が70ということでコレステロール降下剤を処方され医師の言葉を信じて真面目に服用していた。

だがこれは降下剤を服用するには全く値しない。

中性脂肪の数値は114ありましたがこれも薬の服用対象とはならないし不必要と思われる。

現在医療現場で言われている中性脂肪の基準値は〝40~130mg/dl〟です。

文献によって多少の前後はありますが、だいたいこの辺りです。

基本的にこの基準値以上になると、「高いですね」と言われることになるかと思いますが、多少であれば薬を服用するまでもなく、食事療法や生活習慣の改善をすることで十分に基準値内に戻ってきます。

薬を多用している現代医療ですがそれでも高脂血症は近年増えつつあり、狭心症や心筋梗塞などを発症させてしまうことがありますが、しかし、これも飽食と運動不足、偏食、過食、不摂生などが大きな要因となっている場合が多いようだ。

逆に、低過ぎるというのも問題です。 低すぎることで、甲状腺の機能に不足が生じたり、肝臓の働きにも不足が生じてしまう場合もあるからです。

しかし、中性脂肪が低いからと言って皆が病気をするということにはならならないことも知っておかなければならないだろう。

骨粗鬆症(こつそしょうしょう)カルシューム剤の副作用

幸子さん(77歳)は便秘が酷いということで、私の提案でカルシューム剤の服用を一時やめてもらったら毎日排便に行くということを報告してくれた。これがカルシューム剤の副作用でもあります。

コレステロール降下剤を断薬することで日頃の体の痛みが急速に改善され始めた。

コレステロール降下剤の副作用

コレステロール値が高くて、医師から処方されるコレステロール低下薬を飲んでいる方の場合、そのコレステロール低下薬の副作用について医師や薬剤師からくわしく説明を受けているだろうか?

ほとんどいないでしょう。

あまりくわしいことを知らされず、処方されるまま薬を飲んでいる人も少なくないのではないでしょうか。

コレステロール低下薬では、ほとんどの場合「スタチン」という薬を使っているようですが、このスタチンの投与によって、横紋筋融解症、末梢神経障害、肝機能障害、血小板減少症などの重大な副作用が現れる可能性があるので十分注意が必要ですと効能書きされているのである。

しかし、現場では一切副作用に関しては説明されることがないようだ。

横紋筋融解症 骨格筋の細胞が融解、壊死(えし)することにより、筋肉の痛みや脱力などを生じる症状です。

その際、血液中に流出した大量の筋肉の成分(ミオグロビン)により、腎臓の尿細管がダメージを受ける結果、急性腎不全を引き起こすことがあります。

この横紋筋融解症は、手足・肩・腰などの筋肉が痛んだり、手足がしびれたりし、体に力が入らなくなって歩行などの日常生活に支障をきたすようになり、重症化すると、呼吸困難になる場合があるとされています。尿の色が褐色になることも特徴です。

件(くだん)の幸子さん(77歳)にこのような説明をすることでコレステロールの断薬を実行したら筋力が戻ってきましたし、食欲も出てお腹の調子もいいと報告いただいた。

コレステロール降下剤は肝臓に負担がかかるために吐き気や、むかつきを伴うケースもあるのだということがお分かりいただけると思います。

幸子さん(77歳)老夫婦は、私のお奨め「野菜スープレシピ」を美味しいと毎日食して明るく暮らしている。このレシピには実践者からの喜びの声もいただいています。

【レシピの希望者はご連絡いただければメールでお知らせいたします】

次回臨時投稿予定・2月19日(幸せは追求して得られない)

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一滴の愛・地球こそが神殿

心の波紋一滴の愛から

一滴の愛、それは小さなものであっても波紋となって人々の心に広がっていく。

だが、どんな小さな言葉や暴力も心の傷となって深く潜在してしまう場合があります。

人間不信に陥ることによって職場での同僚や上司との人間関係に円滑さを欠くことになり、自らコミュニケーションをとることに前向きになれない。

結果、周囲から孤立して、やがて精神的疾患にまで発展して精神科に通院している若い女性の悩み相談。

この女性YMさんは、子供の頃に自分に対してほんの些細なことで怒り狂う父親が、暴力をふるうことによって子どもの心に傷を残し、成人したあとも人間不信に陥っていたことが明らかになった。

いわゆる社会でいうところのDVの傷跡である。

この女性の生まれ育った環境は、正しい愛ある子育てという言葉とは程遠い家庭環境だ。

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「幹がしっかりしていれば枝葉はどんなに揺れてもいい」

最近わたしは、とある方からこの言葉を聞いたのだが、とても耳に心地よく馴染む言葉だと感じながら聞いていた。

以前、毎月一度行っている私が主催する『心と体の健康教室』において、この言葉の意味することと似たようなことを、大地に根差す木のイラストを白板に書いて講話をしたことがあります。

私の住むところが岩手山麓で、まわりがたくさんの樹木が林立する環境であることから、春夏秋冬を通じて木の姿をウオーキングしながら観察することが楽しみとなっている。

一昨日(8日)の天候のように東京にも45年ぶりに大雪が降るような暴風は山麓生活では珍しいことではない。

木々を見ていると、風雪に耐え春を待つ姿は、「人生も各あるべし」と感動すら覚える。

先の言葉のように大地にしっかりとおろされた根は、大地から水分と養分を吸い上げ幹から大きな枝にまわり、小さな枝葉にいきわたる。

目先を飾ることに奔走した生き方は、花や実の付いた姿だけを見る人間の身勝手な視点かもしれない。

風雪に耐え、どれほど試練があっても幹がしっかりしていれば枝葉が折れても木は勇敢に生き抜く。

しかし、その幹を支えているのが大地にたくましく張り付いた根っこである。

くるみの木は毎年たくさんの実をつけることはない。

一昨年は豊作だったが去年はまったくといっていいほど実が少なかった。

どんぐりも、クリも自然の木の実は隔年で実を付けるようで、クマやリスなど食糧不足で里まで下がってくる。

誰が見ずとも木々は置かれた場所で根をしっかり大地におろして大木となり強風や雨や雪に揺れても叩かれてもジッと耐えて生きている姿には教わることがあります。

愛の徳性

家庭においては家長であるお父さんが家族を抱擁し、お母さんが太陽となって笑顔と穏やかな愛を注ぐ、これが子育ての原点ではなかろうか。

愛は、親子の愛にはじまり、兄弟愛、友情、恋愛、夫婦愛、隣人愛、人類愛へと昇華されていくものであろう。

しかし、この愛というものは心の働きのことであり、形としてみることはできないが、それでも行動することで形にすることも可能だ。

愛は、その大きさを測ることができません。

愛は、重さを測ることもできません。

どれほど科学が進歩したと言ってもその実態を分析することはできないだろう。

だが、愛は厳然として存在します。

見えないから存在しないという次元の話ではない。

愛は人類を生かしめる最大のエネルギーであり、宇宙を統(す)べる最大の力です。

そして山川草木一切のものに宿る生命と大自然の法則を機能させる源であります。

こうしてみると愛があるからこそ全大宇宙が存在するといえるでしょう。

宇宙がその摂理を貫き、全ての存在がそれぞれの命を成していくことの背後にはこの愛のエネルギーが存在します。

全ての生命活動の原点であり、霊の世界である四次元と物質の世界である3次元との間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。

見えないものを感じる私たちの感性、それは魂の根底にある心から観る反応であろう。

花を愛(め)でる心、芸術作品にみる作者の思い、これらはみな見えない心で観ているのである。

霊の世界も頂点が愛であり、それはそのまま大宇宙を統べる意識によるものであることは言うまでもないことである。

私たち人類と宇宙を統べる意識とを隔てる障壁は何も存在しないのですが、しかし、現実にはその障壁があるのは何故だろうか。

その障壁はただひとつ、私たち自身の足ることを忘れた限りない欲望という障壁でしかない。

即ち、不満、愚痴、怒り、嫉み、憎しみ、そしりなどの不調和な思いゆえである。

愛は不変の原点であり、不変の法則であります。

この愛は私たちの死さえも乗り越える力であると宣言することができます。

地上では私たちが自分一人の努力で生きているかの錯覚をもっていますが、決してそうではなく、誰の背後にもサポートしてくれる魂の友人、兄弟がいて日夜に渡って協力をしてくれているのである。

そのことを知っておかなければならず、感謝の念も忘れてはならない。

燦々と輝く太陽が沈めば夜が訪れるように、これから雪解けの季節になり、春のあとには夏が訪れるように、そして草花の種子を蒔(ま)けばやがて綺麗な花が咲くように、私たちの魂は少しずつ進化向上し、大いなる悟りに向けてステージアップしていきます。

しかし、そのことのためには日常の煩雑な渦中にあっても、時には少しの時間を割いて己の精神を静寂の中におき、己れの存在の源である神性仏性発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

日頃の些細なことに意識を向けすぎるがゆえに心に不安や恐れを宿してはいけません。

やがてはそのような心の働き癖を完全に払拭しなければなりません。

己の肉体感覚に囚われるほど自分を見失うことになります。

あなたがこの地上に生まれて以来、今日まで長きにわたってあなたを導いてきた背後の霊である魂の友人、兄弟たちが、今になって見捨てるはずがないではありませんか。

あなたが意識を向けていなかっただけです。

守護霊や指導霊は24時間あなたに意識を向けているのです。

これからもずっと支えとなるべく協力を惜しまないでしょう。

なぜなら、あなたに絶対に到達してもらわねばならない役目、仕事があるからです。

守護霊や指導霊はあなたが誕生して以来、これまでも、これからも役目を放棄することは絶対になく、決してあなたを裏切ることはありません。

守護霊や指導霊の背後には大宇宙を統べる意識、すなわち神の愛という無限のエネルギーが控えているのである。

しかし、地上の人間の圧倒的大多数は神社に神が居ると思い、仏閣に仏が居ると思い込んでいて、大宇宙を統べる意識である真の神と同調しようとしないのです。

個人の家にあっては神棚に収めたお札に礼拝したり、あるいは神社仏閣に詣でることで神仏に意識を向けたつもりでいるのです。

人間が作った物を神殿とするのではなく、大宇宙の細胞である地球こそが神殿であると心得るべきでしょう。

その地球号という神殿において私たちは魂の進歩向上を願い、且つ、行いを旨として生きなければならい。

知識で神に近づくことはできない。

地上人類76億数千万人の人々はこの地球号に集い、過去世、現世、来世と三世の流転を繰り返します。

それは他でもない、己の魂を磨き、神が人類に託したこの地球号という神殿を、神意に沿ったユートピアにせんがためであります。

世界に国々はもちろんであるが、家庭においても兄弟姉妹においても争いをしているときではないのだ。

万物は過去世、現世、来世の三世を流転するものであり、それは全生命流転の過程であり永遠に不変な法則であることを知らなければならない。

これを科学では循環の法則と表現されます。

過去世とは、私たちがかつてこの地上で人生修行した前世のことであり、過ぎ去ったあの世とこの世のできごとである。

現世とは、すべての生命と物質が同時存在する現象の世界、すなわち私たちが生きているこの世界のことです。

熱エネルギー、光エネルギー、そしてこの環境の一切はすべてエネルギーそのものであり、私たち人類生命の意識の修業の場といえるだろう。

来世とは、この世とは次元の異なった世界の事であり、この地上生命を終って肉体から離れた人々の住み暮らす世界である。

しかし、この世でもあの世でも私たちの意識、すなわち魂のステージにはそれぞれに段階があり、この段階は大宇宙を統べる唯一の存在である神の意識と私たちの心の調和度、波長の同調によってことなるものであり、霊域の違いとなって表れるのである。

このような事を知ってくると、生命の始まりであるその神の恩寵(おんちょう・神から受ける恵み、慈しみ、愛)を存分に受け入れるべく、心と魂全体を広く大きく開く方法を学ばねなりません。

見えなくても心は器です。

心を大きくすることは器を大きくすることになります。

それには偏りのない信念と信頼心と偏りのない正しいことを、偏りなく正しく学ぶ心と穏やかさと落着き、即ち静寂な心を知り、身につけなければなりません。

そうしたものによってあなたの心からにじみ出る豊かな霊囲気の中にある時、大宇宙の無限のエネルギーから無限の豊かさを受けることができます。

それが心の法則であり神の摂理なのです。

これをもって仕組みというのである。

心から受け入れ、呼吸を通じて循環する能力に応じて、光りエネルギーが入ってくるということです。

精神的、肉体的受容力が増せば、それだけ光りエネルギーも増大してきます。

人間不信に陥っている者、心に悲哀(ひあい)の念をもっている者、自らを足ることを忘れた欲望の淵に追い込んでいる者、日常の些細なことに拘り過ぎて光りを見失っている者、こういった人たちも、偏りのない正しい心の法を学ぶことによってやがては魂を取りまいていた暗雲が晴れ、春の如くの陽光が穏やかに差し込むことでしょう。

この地上に私たち人類が存在し続けるのも唯一なる神の愛があればこそです。

全ての宇宙と全ての存在を支配しているのも唯一なる神の愛です。

私たちはその愛の波長に触れたとき、自分の愛する者だけでなく、全くの肉体的他人にさへも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛はどのような境遇の人たちに対しても自然に手を差しのべさせるものです。

全ての生命の極致であり、全ての生命の基本であり、全ての生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの顕現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込んでいるのであるが、私たちが気づいていないだけである。

世界に人種差別はあっても、国境はあっても魂にはそれがありません。

あるのは人間がつくりだした差別という障壁だけである。

そのような人間の不調和なエゴ、カルマ、業が、唯一の光りエネルギーである神との間に障壁をつくりだしているだけである。

好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。

しかし、そこには心の深奥に潜んでいるはずの徳性も神聖さの顔がみえません。

好感のもてない人を愛する・・・これが魂の霊格の高さを示す真実である。

愛は行いであり、その行為はそのまま光であり、慈しみである。

愛則行

行即愛

光り則愛といえよう。

あなたに対し憎しみを抱いている人を赦すこと、

あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではなく非常に難しいことです。

しかし、私たちは常に愛の原点を心に抱いていなくてはならい。

人のできにくことをする、これが奉仕の奉仕たる所以(ゆえん)ではないだろうか。

気の毒にと思える人に優しくする、これは特別に難しいことではありません。

気心の合った人に同調し、同情する、これも難しいことではありません。

だが敵視する相手を赦し、心を尽くす、これは難しいものだ。

人間の最高の徳は愛他的思いや行為のなかにあります。

愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就すると知るが故に愛する、これです。

私の施術院においてもそうですが、愛らしい顔をした子供たちに施術してあげる、これはやさしいことです。

しかし、奇形の顔をした気の毒な人、脊椎側弯症によって背中が隆起して盛り上がってしまい、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできないだろう。

年老いた人がベッドに横たわったときに臭う下半身からの排泄後の臭気、しかし、そういった老人であるからこそ心をつくす、それが奉仕です。

真の愛は大小優劣の想いをもつのではなく、綺麗とか不浄とかの別なく、愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでなのである。

自己の為に何も求めず、要求せず、ただ施すこと。

このような愛念を理解できない人は勝手なことを言って中傷、誹謗してくれますが、私自身はどう評価されたいとも思っていない。

例えば、このブログに掲載するにはあまりにもリアル過ぎる攻撃で、送信されてきた文章(あなたには何の霊的な能力もなく、末路は哀れなものとなるであろう・・・・・・・)から受ける波動が酷い邪気に満ちているために掲載をためらっている事案もあります。

私自身はこのように脅迫してくる人に対し敵対する気持は全くなく、また霊的な能力には殆んど関心が無く、脅迫してきた人のように自らを高い霊能力者などと言ったこともなければ言うつもりもない。

ただ、私は手の届くかぎり、ご縁があり求められれば人々に手を差しのべたいと思うだけである。

このブログを訪問してくださっているあなたも、日々の生活において愛の原点を心に抱きながらも、霊の世界においては最高レベルの階層と感応するよう偏りのない生き方、努力を切望するところです。

霊的な能力を欲しがる心には必ずといってよいほど魔が入りやすい。

私たちは決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりには私たちを愛する人々、手を引き、励ましている霊が大勢取り囲んでいることを知っていただきたい。

そして更に、私たち自身の霊的成長が進めば進むほど、宇宙の意識である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解していただければと思うのです。

神というものに対して単なる信仰、間違った解釈、間違った信仰で、ただそう信じているというだけでは、厳しい試練や環境におかれたときにあっけなく崩れて去ってしまいます。

だがしかし、神に対する正しい知識に根ざした信じる心はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれるでしょう。

霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。

また霊的能力に傾倒することそのものが危険極まりないものであることは確かです。

安易に神頼みするこれまでの伝統的信仰の在り方は正しくありません。

私たちの努力によってのみ、その証を授かり、依存することより自助努力することの重要性を悟らなければなりません。

それ一つを手がかりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いであります。

なぜならばその人は宇宙の摂理と秩序が、愛と叡智(えいち)そのものであるところの霊的エネルギーによって支配されていることを悟っているからです。

人生は生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実であることは上述のとおりであります。

したがって人間は地上において暮らしても霊的存在であり、肉体をまとってはいても物質的存在ではないこと、すなわち物質的身体を具えた霊体であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

これは霊と肉体のどちらが先か、また主従関係を説いているのである。

物質界への誕生、それは測り知れない価値ある神の財産の一部を享(う)けることです。

私たちの霊体は大宇宙を統べる意識の一部であり、本質的には神性仏性を具え、根本的性質的には同種のものであり、ただ其々のステージという程度において異なるのみである。

我欲を棄て他人のために尽力するほど内部の神性仏性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成とげはじめることになります。

家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのでなく、家族愛を起点として外へ向けてのより広い愛のほうが崇高だということです。

排他的な内向的愛よりも、発展的の外向的愛、すなわち施す愛、奉仕する愛の方が上といえるでしょう。

どのような物にも上等のものとそうでないもの、明るい面と暗い面があるものです。

家族的な愛は出発点ではありますが、偏ってしまうと往々にして排他性を帯びます。

それは宗教の世界でも同じことがいえるでしょう。

自分の信仰する宗教を盲信、狂信するが故に排他的な信者と洗脳され、教団となって宗派間の争いをしているのである。

これは非常に不調和な結びつきです。

愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、一切のことを伴わずに、全てのものを愛することができることです。

このような思念と行為は、神の意識と同調する崇高な愛の実践者といえるのです。

なぜなら人間の心に蓄積しがちなエゴ、自我を滅却(めっきゃく)しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。

愛は慈悲(じひ)、同情、親切、優しさとなって表現されます。

愛はまた、滅私と犠牲の行為となって現われます。

私たちはこの世の人生を終ってあの世の霊世界いくのですが、時期がくるとなぜ再び地上へと輪廻転生するのであろうか。

多くの人たちは死を忌み嫌い不安に思い、恐怖心に陥っている者さえいるのである。

しかし、死の真の意味を知るならば、人間にとって死は有難いことであり、肉体的拘束からの自由であり、行動の自由を得ることになれるのになぜ再び地上に戻って来るのだろうか。

4次元の行動範囲の自由な世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上人間の苦悩の原因となる老いと病と数々の煩悩(ぼんのう)に別れを告げてあの世に還るのにです。

しかしそれでも地上とのあの世との間に横たわる計り知れない困難を克服してまで自ら志願して地上に転生してくるのは、地上人類への愛があるからであろう。

生命は愛のあるところに存在します。

人間は、愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。

愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たならばそれを有難く思わなければなりません。

これらの愛はすべて絶対唯一なる意識からの分霊として誰の魂にも備わっているということだ。

その愛の深さ、豊かさはとても表現し尽くせるものではない。

このように言葉を並べてもその愛の本質を悟るには至らないであろう。

何故なら、愛は行いであるからだ。

実践によってのみ愛の本質を会得するしか術はない。

地上生命を全うするまで脈打って働くあなたの心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さと寛大さはとうてい人間の言葉では表現出来るものではない。

大宇宙の意志である広大無辺な愛を知るにはそれを受け入れる器がなければならない。

それが摂理なのです。

理屈は分かってみれば簡単です。

調和と資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵(むじんぞう)です。

その受容能力を限定してしまうのは人間の限定的思考と唯物的価値観によるものです。

私たちが少しでもその受容能力を増すことができるならば、その分だけその能力を授かるでしょう。

地上を照らす太陽は生命の源であり永遠の輝きの象徴です。

同じようにあの世の霊的太陽は啓蒙(けいもう)と活力の源泉です。

4次元において私たちの魂に慈愛に満ちた光りエネルギーを与えます。

神性仏性の進歩向上は書物からは得られません。

先生が授けるものではありません。

厳密には自分自身の生活の中で実際の行為によって体得すより確かな手段はないのである。

種から目が出るように、私たちに必要な条件を生活のなかで実践していくならばやがて発芽して蕾(つぼみ)をもち、花も咲き、大木となるであろう。

私たちの魂の奥に内在する神性仏性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い生命を燃やし、己の宿命を成就するよう導いてくれる力です。

自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。

常に私たちの背後でも生涯にわたってインスピレーションというかたちで協力を惜しまない霊達がいることを忘れてはならない。

そのインスピレーションをあなた自身が精査して偏りのないものであれば信じて行動すべきである。

不安感や恐怖心は愛を信じる行動によって払拭されでしょう。

偏りのない正しい知識も不安感や恐怖心をなくすことに貢献します。

言い換えれば、恐怖心は無知から生まれるものだからです。

愛と信頼と偏りのない正しい知識のあるところに恐怖心は入り込めません。

自分自身にも他に対しても愛が未熟であれば不安感や恐怖心が己を支配してくるのである。

私たちの魂がステージアップすれば人生のいかなる試練、困難、逆境という局面に遭っても克服できぬものはないとの信念がもてるようになるものです。

これまで努力してきたあなたを愛が今になって見捨てることはありません。

あなたを取り巻く家族や友人知人、それにあなたの背後で無償の協力を惜しまない霊たち。

それは大宇宙の唯一なる存在から放たれ、貫かれる無限なる愛であり、無数のラインとターミナルを通して光輝を放ち地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となるだろう。

心が萎(な)えたときには勇気と力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。

この光りエネルギーはあなたを照らす決して消滅することのない無限供給される神の力であります。

愛が不滅であること、

死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、

多くはこの地上生命では限界があるのですが、愛の真の意義を悟るのは4次元の世界へ還ってからでしょう。

なぜなら愛の本質は霊的なものであるが故に、肉体生命の渦中にあっては困難があるということだ。

愛は魂と魂、心と心とを結びつけ、人と人を結びつけるである。

愛は神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩――愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を越えて働く光りエネルギーです。

二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきでしょう。

男性と女性とが互いに足らざるもの補い合うように宿命として定めました。

男性と女性が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに理解し合い、補足し合って一体となります。

愛は限りなく心の表現ですから、低い次元の愛から高い次元の愛まで、さまざまな形をとって表現されるでしょう。

男と女の身体的な結びから、精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な関わり、絆へと昇華されていくのである。

霊的な結びつき、即ちその魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属するでしょう。

もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となって社会活動に奉仕するであろう。

これが魂と魂との真の絆の姿です。

しかし、これはわずか70~80年の人生において巡り会い自覚して行動することは、限りなく長い過去世の転生輪廻を考えるならば奇跡に近い出来事と言えるだろう。

数千万年と数十年の違いは太陽と一握りの手に取った土の違いほどと表現すればわかるだろうか。

しかし、霊的な世界では、地上のような物理的時間、空間は何ら意味を成さないのである。

愛は親子、兄弟姉妹、親せき縁者という血縁を超えるものです。

愛は死を乗り越えます。

愛は永遠不滅の光エネルギーです。

正しい愛を実践し、結び合った者は肉体が死別しても生涯離れることなく、それぞれにエゴ執着がない場合において死後も離れることはありません。

愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは大宇宙の意識すなわち唯一なる神の意志だからである。

肉眼で見る愛ではなく、魂の中心にある心で観る愛は宇宙大に広大な光エネルギーである。

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魂の仕組み

きょうは

生と死について

唯物思考から唯心思考へ

死のもたらすもの

死ぬことは不幸であろうか

夢の世界の出来事を何故記憶していないのか

夢の体験は死後に役立つのか

夢は地上人生への忠告と死後の学習

心ある人たちよ

という標題について述べていきます。

20120222232947先ずはブログ訪問者、須藤さまからの質問(昨年)と私の返信やり取りをご紹介しておきたい。

観童様

こんにちは。寒くなりましたがお元気でいらっしゃいますか?

送付していただいた資料を興味深く読ませていただきました。

過去から現在までの人との出会いを思い返してみると、限りなく不調和で自己主張が強く、地獄界に近い人から菩薩界に近いような人まで様々な人の在り様がありました。

心に傷を残すような出会いでさえも人間という生き物を理解するための宿題だったのかもしれません。

そう思うと苦しみにも感謝を感じるようになるから不思議です。

私もそろそろ心を入れ替え、高いステージの生き方を目指さなくてはいけませんね。(かなり長い道のりになりそうです)

先生がいつもおっしゃっている中道、心の調というキーワードはいつでも迷いや闇を照らしてくれます。

少なからずこのような教えを意識しているせいか、最近は心ある方と出会うことが多くなりました。

反対に自分とは波動の合わない人、場所、団体というのも敏感に感じ取ることができるようになり、他者のエゴに巻き込まれることも少なくなりました。

エゴに慣れきっている現代人には中道を行くというのは物足りなく感じてしまうでしょうが、これを生きることで素晴しい恩寵と出会えるかもしれませんね。

質問です。

動物の転生について

例えば家畜が犬猫のようなペットや野生動物として転生することはありますか?

家畜は何度転生しても家畜で食べられてしまうだけの一生を繰り返すのなら可哀想に思うのですが。

守護霊・指導霊について

毎日の心の反省と自己浄化のときに神仏や宇宙をイメージ(ビジュアル的に)しながら行うのですが、私の守護霊様や指導霊様に関しましてどのような方なのか教えて頂けたら嬉しいです。

いつものことながら幼稚な質問ですみません。どうでも良いものはスルーしてください。

須藤

須藤様の感想は、とらえどころがよく、大事なポイントを正しく理解されていると思います。

ご指摘のように、エゴに慣れきっている現代において、私自身も心して襟を正していかねばと思うところが多々ありながら生活をしております。

さて、質問の件ですが、たとえ話をしますと、猫がどれほど転生してもトラにはなり得ません。

タンポポの花がどれほど大きくみごとに咲いていても、翌年になってひまわりの花になることはありませんね。

チンパンジーがどれほど賢くても5000年一万年経過したからといって人間になれたでしょうか。

どれほど知恵があってもゴリラが輪廻転生して人間になり得たでしょうか。

もしそうなるなら、私の過去世がゴリラということになるかもしれませんし、海のイワシかもしれません。

犬は犬であり、猫は猫であり、野生か、ペットかは大して問題ではないでしょう

生命の仕組みは細胞の原子核を中心に様々な細胞集団によって成り立ち、肉体を形成しています。

この成り立ちは環境によって多少の変化はあっても根本的に変わるものではありませんね。

これと同じように生命の根源的成り立ちにも不変の法則が働いているのです。

一度生命体として存在したものは、永久的にその輪廻を繰り返していくという法は、転変地変によって絶えない限りは、何人たりとも変えることのできない生命存在の法則なのです。

家畜は本来が野生動物であったものを人間が生活のなかに取り込んだというだけのことであって、人間の都合で野生と家畜に選り分けているだけではないでしょうか。

中国ではいまでも犬や猫を食べている地域もあると聞きます。

私たち人間には本能と感情と、智慧と理性が備わっています。

ですから可哀想だという感情がうまれてきて当然なのですが、しかし、地上生命の全ては相互関係のなかにあってはじめて成り立っていることも忘れてはなりませんね。

一つの生命体は一つの生命体の犠牲の上に存在しているという法則は神が造られた摂理と秩序でもあります。

大切なことはあらゆる生命体に対して感謝の心を忘れないことだと思うのです。

そうなると粗末にできないし、無駄にもできませんね。

昆虫は更に弱い昆虫を食べ、植物を食べて生命を維持していますし、ネズミが食べるのは昆虫であったり、木の実であったりします。

そして猫はネズミを食べます。

野生動物の世界では一見残酷なようにも感じられますが弱肉強食が繰り返されて生命活動の循環がなされていますね。

私たちは他の動物を食べていきています。

これは人類誕生と同時に古代からの食習慣です。

このことを神が否定されるでしょうか。

神には否定はありません。

肯定、それはすべてを人間のひとりひとりの意思に委ねていることであります。

人間に欠かせないのは感情に流されるのではなく、足ること知ることと、感謝の心を忘れないことですね。

須藤様の今世の課題はとなると、今の状況下でどれだけ自分の心を調和できるか否か、この一点にあると思ってよいかと思います。

これができれば、来世は全く別な環境で一歩ステージの高い人生を生き、魂の修行をすることになると思います。

それは、他の為に尽くせる人生です。

その為にどれだけ準備ができるかどうかがこの世での生き方にあると思うのです。

それをあなたの守護霊様が強くあなたの心にインスピレーションとして伝えているはずです。

浄化や心の学びに関しても、これまで指導霊が陰になりながらもあなたを支えておられることを忘れないでください。

あなたが希望すること、心に想うこと、それはあなたの守護霊様や指導霊様のあなたに寄り添った指導であったと心得ていただければよいでしょう。

観童

観童様

質問への答えをいただき自分なりに静かに感じてみました。

生命活動の循環も神の法であること、とても広大な話で今の私には理解できません。

でも、悲しんだり哀れんだりという人間感情は一旦横に置いてありのままに受け入れることから始めようと思います。

尊い命を食事としていただく時も罪悪感ではなく、「私たちのためにありがとう。」という感謝が自然に湧いてくる、これが大切ですね。

私がこの地上に降りる前、この生では心の調和を学ぶ、という約束で神からこの肉体(魂)を与えられ、その学びを実現するために守護霊さん指導霊さんが全力でサポートしてくれている。と捕らえてよいでしょうか?

先生のブログに導いてくれたのもきっとこの方達のお陰ですね。

今生の課題はとても地道なものですが、「他に尽くす人生の準備期間」としてありがたく受け入れたいです。

いつも理性と優しさに溢れた回答をいただきありがとうございます。

須藤(以上、ここまでが須藤さまとのやり取りです。)

唯物的思考から唯心的思考へ

死について

宮城県石巻市空撮写真きょうは再び東日本大震災に触れて死を考えてみたいと思います。

2011年3月11日の東日本大震災から約半月後、巨大津波で建物のほとんどが流された宮城県石巻市の空撮写真(2011年4月1日撮影)

「NHKスペシャルから転載」

シリーズ東日本大震災
亡き人との”再会”
~被災地 三度目の夏に~

多くの命を奪った東日本大震災から三度目の夏。

海辺で、墓前で、壊滅した街で・・・死者を鎮魂する行事が行われ、突然大切な人を失った人たちは、亡き人への思いを募らせる。

そうした被災地で今、「故人と再会した」「声を聞いた」「気配を感じた」といった“亡き人との再会”体験を語る人が後を絶たない。

体験した人たちを尋ねていくと、そうした体験は、「故人に一目会いたい」「死を受け入れたくない」「自分だけ生き残って申し訳ない」など、悲しみの現れであると共に、遺された人たちの生き方にも影響を与えている事が分かってきた。

医学の世界でも、遺族が、亡くなった人と再会したり、気配を感じたりするといった事例が数多く報告されており、遺族たちの口に出せない悲しみを知り、前を向くきっかけにすべく、専門家による調査も始まっている。

番組では、いま多くの被災者たちが亡き人と“再会”したという体験に静かに耳を傾ける。

その不思議な体験を、証言・写真・遺品・現場など、事実に基づいて映像化。

震災で大切な人を失った後、その存在を感じながら生きていく姿を、1人1人のかけがえのない体験を通して見つめる。(以上)

【以下は2012年3月3日 AFPからの転載記事を紹介します】

東日本大震災による大津波からまもなく1年。大きな悲劇を乗り越えようと懸命な宮城県石巻市で「幽霊」が出るという噂が飛び交っている。

前年3月に亡くなった人たちのさまよう霊が不幸をもたらすことを恐れて、修復工事が中断してしまったという現場がある。半分だけ修復されたスーパーマーケットを指して、あべ・さとしさん(64)は語る。

「工事の人が具合悪くなったって聞いたよ。そこらへん中で死んでんだもの。そういう話は一杯あるよ」

石巻の一部では、漁港としてにぎわっていた震災前の活気を取り戻しつつある場所もある。住宅が再建され、商売が再開され、子どもたちが学校へ戻って来ている。

しかし東北で犠牲となった約1万9000人のうち、およそ5分の1は石巻の住民だった。元通りになると思っている人はほとんどいない。ささき・しんいちさんは3月11日の記憶は決して消えず、その消えることのない記憶が「亡霊」を生んでいると語る。

「あの日のことはふと何度も思い出すんです。まして、どこで誰が亡くなっているか知っていれば、突然なことなんで、まだうろうろさ迷っているって思うこともあるかもね。

自分は幽霊なんて信じるほうではないんだけど、こういう風に噂がでるのは分かる」

あるタクシーの運転手は、大津波ですべてが流されてしまったところには止まりたくないとAFPの取材に語った。

乗り込んできた客が幽霊だったら・・・と思うからだという。

石巻に住むある女性は「幽霊の列」の噂を聞いたことがある。生きていた最後の瞬間の不毛な努力をなぞるかのように、幽霊たちは丘へ向かって殺到し、津波から何度も何度も逃げようとするのだという。

カウンセラーや学者たちは、大きな災害や悲劇の後の幽霊話はいたって一般的で、社会的な「癒しのプロセス」の一形態だという。

文化人類学者の船曳建夫氏は、こういった類の話が流布するのは「当然だ」と考える。

「人間は本来『死』を受け入れられないものなのです。

まして突然の、異常な形での死・・・・。年をとってベッドの上で死ぬという形でない死は昔から人間にとって最も受け入れがたい。

その社会で納得できなくてたまっているものがどう表現されるかというと、噂話であったり、まつりの中で供養するなどということになります。

社会的に共有できるものに変えるということがポイントです」

最愛の人を失った人々の一部は、魂を慰めるために神職を招いたり、お盆に霊を迎える準備などをした。

しかし、信心によっても喪失を乗り越えがたい人もいる。

日本カウンセラー学院の心理カウンセラー、池田宏治氏は「被災地の人は恐怖、不安、悲しみ、帰ってきて欲しいという気持ちなど色々な感情をもっている。

心の中で処理しきれない非常に多くの感情が霊の投影という形で現れたと考えることができます」と語る。

「(被災後の)色々な感情は溜め込んでいられなく、表現していかないといけない。

現実に適応していくために、前に進むために必要だから、起きていることでしょう」

石巻で実際に幽霊を見たと表だって話す人はほとんどいないが、荒涼とした道をさまよう幽霊を受け入れる気持ちがある人は多い。

すぎもと・ゆうこさんは、自分は特別迷信深いわけではないし、幽霊を見たこともないという。

けれど「普通に生活してた人が突然亡くなったので、受け入れたくないと思っているんでしょう。出ない方がおかしいと思います」と語った。【ここまでが転載記事です】

光の天使

さて、こうしてNHKスペシャルの記事やAFPの記事にも紹介されているように、亡くなられた人との再会について夢の世界の話しだとか、錯覚であるとか、愛する人との死別の悲しみが生み出した幻影であるというような言い方をする人もいます。

ですが、それは霊的な事実への否定的な考えであったり、霊的なことへの無知からの言葉である場合が多いものです。

スピリチュアリズム(心霊主義)という視点から申し上げれば、上記のような心霊現象は作り事でもなくまったくの事実であり、みなさんが日に三度いただく食事の如く、営みの一部であるといえるでしょう。

このような心霊現象に時の流れは関係なく、数十年はおろか、数百年以上も前に地上で生活していた人間が、様々な状況やかたちでメッセージを送ってきたり、あるいは未練や憎しみをもつ霊の場合は憑依して禍をもたらしたりするのである。

このような事実をみることによって、人間は死後も生きており、死後の世界から地上の人間にメッセージを送ってきたり、アプローチしてくる事実は否定のしようがありません。

肉体がないのに死んだ人が現れるというと、ほとんどの人は“幽霊”といって、怖がり、気味が悪い、恐ろしいとしかいわないのですが、むしろ肉体を持っている人間の方がよほど恐ろしいかもしれません。

地上の時において生活する境遇には違いがあっても、死者はあの世においてもこの地上と同じように生きているのですから、三陸の震災における霊的な体験は、ごく自然のことなのであります。

震災後には地元に残れず知人友人、親せき縁者をたどって各地に疎開する人たちもいました。

震災直後に体調が悪いと言って私のところにおいでになられた方々の中には、震災で亡くなられた方(死者)を連れてくる人たちもいたのです。

私が光を入れ始めると相談者に関わっている霊が浮霊することで相談者の体を借りて霊が泣き出したりといろいろな現象をあらわすのです。

津波にのまれ、突然の出来事にとまどいながらどれほど苦しかったであろう。

意識が薄れていく瞬間にもどれほど不本意な旅立ちをせざるをえず悔しかったであろうか。

こういった未練、悔しさがその場に己の想念をとどまらせ、地縛霊となり、地上の人間に姿を現す現象となるのです。

見えないから存在しないではなく、社会一般的には“不思議な出来事”としか言えないものかもしれませんが、このようなことはスピリチュアリズムでは、何ら珍しいことではなく、明確な理論によって説明することができるのである。

被災地では、亡くなった方の姿を見たという人が普段よりはたくさんいるのですが、通常であればそれほどこのような現象が多いわけではなく、被災後のように、死者からの働きかけを確かな形で感じた人、見た人は、それほど多くないのであります。

被災後に霊を診た、感じたという人の場合、程度の差はあっても、実は霊界からの働きかけを多少なりとも感じ取っているのです。

広く言えば「霊的能力」といえるでしょう

ですから一瞬ではあっても、霊の声を聞き、霊の姿を見ることができたのです。

霊界

死のもたらすもの
わたしたち人間は肉体という人生航路を行くための船をまとって生きているのですが、しかし、誰もがやがては“死”ということを経て次元の異なった世界へと新たな旅立ちをするときがきます。

お爺さん、お婆さんの死を見る者、父や母の死を見る者、また逆に親が子の死を見る者、孫の死を見る者、死、それは愛する妻であるかも知れず夫であるかもしれないし、恋人であるかも知れません。

死に際しては誰もが悲しみ、わが身の心も打ち砕くほどの悲劇的体験となる人もいることだろう。

そしてその悲しみと悔しさ、未練の淵から脱するのに数か月、時には何年も、掛かる人もいるのである。

仏壇の前で毎朝のように、亡くなった妻の遺影を見て泣き、アルバムを開いては泣きというように、3年もの長きにわたって泣き崩れていた老紳士の姿はあまりにも哀れでならない。

愛する人たちの姿も、心も、“死”を超えて私たちの心に生き、故人もまた次元の異なった世界で生き続けているのだ。

死ぬことは不幸であろうか

この地上は利己主義と貪欲というエゴの多い世界であり、驕り高ぶる者あり、人を辱める者あり、陥れる者ありと、その環境で生きることは私たちにとって大変な試練といえるだろう。

そのような観点からすれば、“死ぬ”ということは上述のような試練の環境から解放されて、物質的身体の中に閉じ込められていた魂(心)がそれを脱して自由の機会を得るということともいえます。

そうしてみたときに、死は、一定の試練や苦しみを卒業し解放されるという意味では、ほんとうの自分に目覚めるチャンスであると知れば、果たして死は不幸とばかりもいえないのではないだろうか。

利己主義もなく、自己保身もなく、執着する肉体もない世界、魂の成長を妨げるお金も地位も名誉もない世界に生きることが不幸であろうか。

一切の肉体的苦痛から解放された霊体(光子体)に宿り、一瞬の間に時空を超えて移動することができ、行動の自由が限りなくできる精神的豊かなあの世の生活をあなたは不幸と考えるだろうか。

但し、このような自由な行動範囲は、その魂の調和度に比例するものであり、大きな差があることも知っておかねばならない。

また、あの世に行くことは死んだ時だけということでもない。

例えば夢を見ているときも次元の異なった世界に移動しているということだ。

私たちは夢を見ているとき、その時点で肉体の制約から解放されて、睡眠中にほぐされていた心の霊的意識を発揮できるようになっているからです。

つまり、私たちの魂の仕組みは、睡眠に入ることで潜在意識(深層心理)が表面化し、逆に日常活動している表面意識が沈んで行って潜在化するということである。

睡眠を通じて表面意識と潜在意識が逆転するということがおわかりいただけるでしょうか。

ここで注目したいのは、亡くなった後に低い次元の世界に行かなければならないような霊の場合はどうだろうかということである。

下層の世界のなかの比較的上層部に位置する霊たちの場合は、自分の置かれている状況が少し理解できている霊もいるようだ。

そのような霊の場合は、地上時代の体験を思い出し、それが実際に下層の世界へ行ってからの反省と調和にどれだけプラスになるのかである。

ここでも生前の生き方の問題が自我、執着、拘りというエゴとして出てくることになる。

このように、死後に下層の世界へ引かれていく人の場合、生前中における価値観、人生観というものが不調和なものであればあるほどそ死後の己の反省は困難を極めることになるのである。

なぜなら、死後にそのような下層の環境に落ちる者たちはあい変わらず物質界とよく似ている環境下で生活することになるからです。

死後の世界は実相はというと、下層の世界ほど地上とよく似ているのである。

波長、波動が地上と同じように物質的だからであります。

高い界層になるほど波長が精妙になってくるのです。こ

れは地上において心を調和させて統一状態に持っていくことでも実感できるのです。

瞑想も正しく行えばそのことを実感する手段として有効であります。

私たちは時折、睡眠中の体験を思い出すことがあります。

私たちが睡眠に入ることで、魂(霊)がその肉体から離れると、日常のなかで活動する脳という意識の中枢から解放されます。

これは先に述べたように、眠りに入ることで表面意識が逆転して潜在し、日頃潜在している意識(魂の中心)である潜在意識が表出してくるからである。

すると私たちの意識は四次元世界の波長、現象を夢や日常の中で体験するようになってきます。

但し、それはそれぞれの魂(心)進化の程度、ステージの段階によって異なるものであるということであります。

夢の世界の出来事を何故記憶していないのか

夢を体験している間は意識が働いております。

がしかし、朝になって自分の肉体にもどり、夢の中での霊的体験を思い出そうとしても、思い出すことができません。

何故なら、私たちの魂の仕組みは、肉体を持った地上生活では90%が潜在意識であり、10%が表面意識として機能しております。

氷山

つまり、潜在意識のほうがはるかに表面意識より大きいのがお分かりになるでしょう。

わずか10%の表面意識では90%の潜在意識を受け入れることが困難な理論が理解できるかと思います。

大きいものは小さいものを収めることはできますが、小さいものが大きいものを収めることができないのできないのも道理でしょう。

夢から覚めて内容を記憶がない理由、ご理解いただけましたでしょうか。

魂(心)は器です。

器は大小様々です。

そこに人間の大きさの違いがあるのです。

しかし、ある程度まで魂が進化し、霊的にある一定以上の段階までの意識が育ち芽生えた人は、夢の世界での出来事、すなわち霊界での体験を意識できるでしょう。

夢の体験は死後に役立つのか

私のこれまでの経験から言えることですが、夢を見たことを記憶していて朝に目覚めた場合は、その夢のストーリーを客観的にみてみることで何かを示唆していることに気づかされることが多々あります。

ただの夢じゃないか」といってしまえばその通りですが、夢一つといえども何一つ無駄なことはありません。

夢には日常生活での想念が造りだした想像夢もありますが、守護霊や指導霊からのアプローチもあり、それが私たちにとって大切なメッセージ性を含んだものの場合は夢だと流してはいけないものだということがいえるでしょう。

夢は地上人生への忠告と死後の学習

睡眠状態において夢の活動は次元の高い人の場合、霊団の働きの一助となる人もいるだろうが、大抵は、死後への心の訓練といってよいでしょう。

霊界のガイドによって様々な場に案内されて経験するのであるが、そのような経験を重ねることで死後において次元の異なった世界へ移動しても戸惑うことなく馴染んでいけるのっである。

こういった霊的な経験のない人の場合は、その環境に対して適応力がつくまでに長期間の藩士時間が必要となるでしょう。

知識と経験があれば、死後は比較的スムーズに霊界入に入ることができ、しかも意識がしっかりとしています。

具体的説明をするなら、死後の目覚めは暗い睡眠から目覚めて太陽の光りが燦々と輝き照る外へ出た時と似ていると思えばよいだろう。

また、長いトンネルから抜けてまぶしい太陽光線に目が鳴れるまで時間を要することを思えばよいだろう。

霊的なことを否定する人や、何も知識のない人は、死という現象のなかで覚醒できない期間が長びいて、なかなか意識がもどらない場合があるようだ。

降霊しても反応がなく、自分が誰であるのかもわからない状態で判然としない霊もいるからである。

まだ成長していない幼児が自分のことを説明できないことに似ているといえばわかるだろうか。

生前の記憶は断片的に一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。

しかし、夢を無視してはいけません。

夢は私たちの希望の原点であります。

人生での夢、就寝での夢。

いずれにしても夢は霊的成長への出発点でもあります。

良いことを心掛けた想念は地上においても、またあの世においても、善なるエネルギーとなって伝播していき、真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。

そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるのである。

この地球号という人類を乗せた船は、今や筆舌に尽くせぬほどの暗闇におおわれているといえるでしょう。

間違った伝統や文化に根差した宗教、迷信と間違いと無知のために盲信、狂信する信者の姿は宗教の奴隷と化しております。

神の意志を正しく理解し、愛と慈しみを人々に伝える人々は多くはない。

そして、正しく人の道を説く者に対してはいつも邪の魔が立ちふさがるのである。

聖職者と言われる者たちの悪知恵と金銭への執着、既得の権力が、生ける神の声と取って代わってしまいました。

物質万能主義がその高慢な頭をもたげて驕り、高ぶり、霊的な法則である大宇宙の摂理、秩序という真理ををことごとく否定しました。

それがもたらした結果は無益な宗教戦争であり、流血・悲劇・怒り・怨恨・裏切り・不信・倦怠・心の病・絶望・惨めさ・混沌・混乱を伴った世界規模の大惨事でしかありませんでした。

しかし、地上と人類の大調和という神の意志を押し込めることはできないであろう。

何故なら、人間には魂という殊玉が神の分霊として備わっているからである。

盲信、狂信を正気に取り戻さなくてはならない。

そのためにわたしたちは執着を捨て、取り越し苦労と自暴自棄の念を捨て、自己主張をやめ、自分が欲する愛を、他を慈しむことに変えていかなくてはならないだろう。

わたしたちは人間の霊性を決して偏りのない正しい視野のもとに置いて、霊的能力を引き出させ、幼稚な唯物思想(物質中心の価値観)の間違いを暴いき、それに永遠の別れを告げていかなくてはならない。

心ある人たちよ。

わたしたちは国家権力であろうが、神社神道であろうと、教会であろうと、民族の差別であろうと、階級制度であろうと、一宗一派であろうと、不調和な論理と行動には従ってはならず、迎合することもしてはならない。

すべての人間が真の自由と、崇高にして深淵、そして純粋な意味における心(魂)の自由を得るためにである。

生きることにおいて、老いることにおいて、病気をすることにおいて、死にまつわる取り越し苦労と恐怖心をなくすために日頃から足ることを学び、自己中心をやめ、自分自身以上に他を慈しむことを実践しなければ、それが永遠の生命の循環の中で自分の役割を果たせないないのである。

さらには物質界であるこの地上生活と4次元世界である霊界との自然なつながりの障害となる心の執着を排除して、人間は本来が霊体であることを理解し、その理解のもとに真の自分を自覚していかなければならないだろう。

日々の小さな努力、積み重ねによって己の内部に宿る神性仏性が目を覚まし、神の意志が私たちのすべてを通して地上生活に発現することになってくるのです。

このブログを読んでくださっているあなたも、いつどこにいても人のため、世の中のため、人類のためを心がけていただければと願います。

自分の我を捨てるのです。

自分が正しいと主張してはなりません。

他人を裁くのではなく、何が正しいかを見極めることです。

故意の打算や敵意に対しても超然としておれるようでないといけません。

授かったあなたの能力を最大限に発揮してこそ人のために役立てるのです。

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