魂の仕組み

きょうは
生と死について
唯物思考から唯心思考へ
死のもたらすもの
死ぬことは不幸であろうか
夢の世界の出来事を何故記憶していないのか
夢の体験は死後に役立つのか
夢は地上人生への忠告と死後の学習
心ある人たちよ
という標題について述べていきます。
20120222232947先ずはブログ訪問者、須藤さまからの質問(昨年)と私の返信やり取りをご紹介しておきたい。
観童様
こんにちは。寒くなりましたがお元気でいらっしゃいますか?
送付していただいた資料を興味深く読ませていただきました。
過去から現在までの人との出会いを思い返してみると、限りなく不調和で自己主張が強く、地獄界に近い人から菩薩界に近いような人まで様々な人の在り様がありました。
心に傷を残すような出会いでさえも人間という生き物を理解するための宿題だったのかもしれません。
そう思うと苦しみにも感謝を感じるようになるから不思議です。
私もそろそろ心を入れ替え、高いステージの生き方を目指さなくてはいけませんね。(かなり長い道のりになりそうです)
先生がいつもおっしゃっている中道、心の調というキーワードはいつでも迷いや闇を照らしてくれます。
少なからずこのような教えを意識しているせいか、最近は心ある方と出会うことが多くなりました。
反対に自分とは波動の合わない人、場所、団体というのも敏感に感じ取ることができるようになり、他者のエゴに巻き込まれることも少なくなりました。
エゴに慣れきっている現代人には中道を行くというのは物足りなく感じてしまうでしょうが、これを生きることで素晴しい恩寵と出会えるかもしれませんね。
質問です。
動物の転生について
例えば家畜が犬猫のようなペットや野生動物として転生することはありますか?
家畜は何度転生しても家畜で食べられてしまうだけの一生を繰り返すのなら可哀想に思うのですが。
守護霊・指導霊について
毎日の心の反省と自己浄化のときに神仏や宇宙をイメージ(ビジュアル的に)しながら行うのですが、私の守護霊様や指導霊様に関しましてどのような方なのか教えて頂けたら嬉しいです。
いつものことながら幼稚な質問ですみません。どうでも良いものはスルーしてください。
須藤
須藤様の感想は、とらえどころがよく、大事なポイントを正しく理解されていると思います。
ご指摘のように、エゴに慣れきっている現代において、私自身も心して襟を正していかねばと思うところが多々ありながら生活をしております。
さて、質問の件ですが、たとえ話をしますと、猫がどれほど転生してもトラにはなり得ません。
タンポポの花がどれほど大きくみごとに咲いていても、翌年になってひまわりの花になることはありませんね。
チンパンジーがどれほど賢くても5000年一万年経過したからといって人間になれたでしょうか。
どれほど知恵があってもゴリラが輪廻転生して人間になり得たでしょうか。
もしそうなるなら、私の過去世がゴリラということになるかもしれませんし、海のイワシかもしれません。
犬は犬であり、猫は猫であり、野生か、ペットかは大して問題ではないでしょう
生命の仕組みは細胞の原子核を中心に様々な細胞集団によって成り立ち、肉体を形成しています。
この成り立ちは環境によって多少の変化はあっても根本的に変わるものではありませんね。
これと同じように生命の根源的成り立ちにも不変の法則が働いているのです。
一度生命体として存在したものは、永久的にその輪廻を繰り返していくという法は、転変地変によって絶えない限りは、何人たりとも変えることのできない生命存在の法則なのです。
家畜は本来が野生動物であったものを人間が生活のなかに取り込んだというだけのことであって、人間の都合で野生と家畜に選り分けているだけではないでしょうか。
中国ではいまでも犬や猫を食べている地域もあると聞きます。
私たち人間には本能と感情と、智慧と理性が備わっています。
ですから可哀想だという感情がうまれてきて当然なのですが、しかし、地上生命の全ては相互関係のなかにあってはじめて成り立っていることも忘れてはなりませんね。
一つの生命体は一つの生命体の犠牲の上に存在しているという法則は神が造られた摂理と秩序でもあります。
大切なことはあらゆる生命体に対して感謝の心を忘れないことだと思うのです。
そうなると粗末にできないし、無駄にもできませんね。
昆虫は更に弱い昆虫を食べ、植物を食べて生命を維持していますし、ネズミが食べるのは昆虫であったり、木の実であったりします。
そして猫はネズミを食べます。
野生動物の世界では一見残酷なようにも感じられますが弱肉強食が繰り返されて生命活動の循環がなされていますね。
私たちは他の動物を食べていきています。
これは人類誕生と同時に古代からの食習慣です。
このことを神が否定されるでしょうか。
神には否定はありません。
肯定、それはすべてを人間のひとりひとりの意思に委ねていることであります。
人間に欠かせないのは感情に流されるのではなく、足ること知ることと、感謝の心を忘れないことですね。
須藤様の今世の課題はとなると、今の状況下でどれだけ自分の心を調和できるか否か、この一点にあると思ってよいかと思います。
これができれば、来世は全く別な環境で一歩ステージの高い人生を生き、魂の修行をすることになると思います。
それは、他の為に尽くせる人生です。
その為にどれだけ準備ができるかどうかがこの世での生き方にあると思うのです。
それをあなたの守護霊様が強くあなたの心にインスピレーションとして伝えているはずです。
浄化や心の学びに関しても、これまで指導霊が陰になりながらもあなたを支えておられることを忘れないでください。
あなたが希望すること、心に想うこと、それはあなたの守護霊様や指導霊様のあなたに寄り添った指導であったと心得ていただければよいでしょう。
観童
観童様
質問への答えをいただき自分なりに静かに感じてみました。
生命活動の循環も神の法であること、とても広大な話で今の私には理解できません。
でも、悲しんだり哀れんだりという人間感情は一旦横に置いてありのままに受け入れることから始めようと思います。
尊い命を食事としていただく時も罪悪感ではなく、「私たちのためにありがとう。」という感謝が自然に湧いてくる、これが大切ですね。
私がこの地上に降りる前、この生では心の調和を学ぶ、という約束で神からこの肉体(魂)を与えられ、その学びを実現するために守護霊さん指導霊さんが全力でサポートしてくれている。と捕らえてよいでしょうか?
先生のブログに導いてくれたのもきっとこの方達のお陰ですね。
今生の課題はとても地道なものですが、「他に尽くす人生の準備期間」としてありがたく受け入れたいです。
いつも理性と優しさに溢れた回答をいただきありがとうございます。
須藤(以上、ここまでが須藤さまとのやり取りです。)
唯物的思考から唯心的思考へ
死について
宮城県石巻市空撮写真きょうは再び東日本大震災に触れて死を考えてみたいと思います。
2011年3月11日の東日本大震災から約半月後、巨大津波で建物のほとんどが流された宮城県石巻市の空撮写真(2011年4月1日撮影)
「NHKスペシャルから転載」
シリーズ東日本大震災
亡き人との”再会”
~被災地 三度目の夏に~
多くの命を奪った東日本大震災から三度目の夏。
海辺で、墓前で、壊滅した街で・・・死者を鎮魂する行事が行われ、突然大切な人を失った人たちは、亡き人への思いを募らせる。
そうした被災地で今、「故人と再会した」「声を聞いた」「気配を感じた」といった“亡き人との再会”体験を語る人が後を絶たない。
体験した人たちを尋ねていくと、そうした体験は、「故人に一目会いたい」「死を受け入れたくない」「自分だけ生き残って申し訳ない」など、悲しみの現れであると共に、遺された人たちの生き方にも影響を与えている事が分かってきた。
医学の世界でも、遺族が、亡くなった人と再会したり、気配を感じたりするといった事例が数多く報告されており、遺族たちの口に出せない悲しみを知り、前を向くきっかけにすべく、専門家による調査も始まっている。
番組では、いま多くの被災者たちが亡き人と“再会”したという体験に静かに耳を傾ける。
その不思議な体験を、証言・写真・遺品・現場など、事実に基づいて映像化。
震災で大切な人を失った後、その存在を感じながら生きていく姿を、1人1人のかけがえのない体験を通して見つめる。(以上)
【以下は2012年3月3日 AFPからの転載記事を紹介します】
東日本大震災による大津波からまもなく1年。大きな悲劇を乗り越えようと懸命な宮城県石巻市で「幽霊」が出るという噂が飛び交っている。
前年3月に亡くなった人たちのさまよう霊が不幸をもたらすことを恐れて、修復工事が中断してしまったという現場がある。半分だけ修復されたスーパーマーケットを指して、あべ・さとしさん(64)は語る。
「工事の人が具合悪くなったって聞いたよ。そこらへん中で死んでんだもの。そういう話は一杯あるよ」
石巻の一部では、漁港としてにぎわっていた震災前の活気を取り戻しつつある場所もある。住宅が再建され、商売が再開され、子どもたちが学校へ戻って来ている。
しかし東北で犠牲となった約1万9000人のうち、およそ5分の1は石巻の住民だった。元通りになると思っている人はほとんどいない。ささき・しんいちさんは3月11日の記憶は決して消えず、その消えることのない記憶が「亡霊」を生んでいると語る。
「あの日のことはふと何度も思い出すんです。まして、どこで誰が亡くなっているか知っていれば、突然なことなんで、まだうろうろさ迷っているって思うこともあるかもね。
自分は幽霊なんて信じるほうではないんだけど、こういう風に噂がでるのは分かる」
あるタクシーの運転手は、大津波ですべてが流されてしまったところには止まりたくないとAFPの取材に語った。
乗り込んできた客が幽霊だったら・・・と思うからだという。
石巻に住むある女性は「幽霊の列」の噂を聞いたことがある。生きていた最後の瞬間の不毛な努力をなぞるかのように、幽霊たちは丘へ向かって殺到し、津波から何度も何度も逃げようとするのだという。
カウンセラーや学者たちは、大きな災害や悲劇の後の幽霊話はいたって一般的で、社会的な「癒しのプロセス」の一形態だという。
文化人類学者の船曳建夫氏は、こういった類の話が流布するのは「当然だ」と考える。
「人間は本来『死』を受け入れられないものなのです。
まして突然の、異常な形での死・・・・。年をとってベッドの上で死ぬという形でない死は昔から人間にとって最も受け入れがたい。
その社会で納得できなくてたまっているものがどう表現されるかというと、噂話であったり、まつりの中で供養するなどということになります。
社会的に共有できるものに変えるということがポイントです」
最愛の人を失った人々の一部は、魂を慰めるために神職を招いたり、お盆に霊を迎える準備などをした。
しかし、信心によっても喪失を乗り越えがたい人もいる。
日本カウンセラー学院の心理カウンセラー、池田宏治氏は「被災地の人は恐怖、不安、悲しみ、帰ってきて欲しいという気持ちなど色々な感情をもっている。
心の中で処理しきれない非常に多くの感情が霊の投影という形で現れたと考えることができます」と語る。
「(被災後の)色々な感情は溜め込んでいられなく、表現していかないといけない。
現実に適応していくために、前に進むために必要だから、起きていることでしょう」
石巻で実際に幽霊を見たと表だって話す人はほとんどいないが、荒涼とした道をさまよう幽霊を受け入れる気持ちがある人は多い。
すぎもと・ゆうこさんは、自分は特別迷信深いわけではないし、幽霊を見たこともないという。
けれど「普通に生活してた人が突然亡くなったので、受け入れたくないと思っているんでしょう。出ない方がおかしいと思います」と語った。【ここまでが転載記事です】
光の天使
さて、こうしてNHKスペシャルの記事やAFPの記事にも紹介されているように、亡くなられた人との再会について夢の世界の話しだとか、錯覚であるとか、愛する人との死別の悲しみが生み出した幻影であるというような言い方をする人もいます。
ですが、それは霊的な事実への否定的な考えであったり、霊的なことへの無知からの言葉である場合が多いものです。
スピリチュアリズム(心霊主義)という視点から申し上げれば、上記のような心霊現象は作り事でもなくまったくの事実であり、みなさんが日に三度いただく食事の如く、営みの一部であるといえるでしょう。
このような心霊現象に時の流れは関係なく、数十年はおろか、数百年以上も前に地上で生活していた人間が、様々な状況やかたちでメッセージを送ってきたり、あるいは未練や憎しみをもつ霊の場合は憑依して禍をもたらしたりするのである。
このような事実をみることによって、人間は死後も生きており、死後の世界から地上の人間にメッセージを送ってきたり、アプローチしてくる事実は否定のしようがありません。
肉体がないのに死んだ人が現れるというと、ほとんどの人は“幽霊”といって、怖がり、気味が悪い、恐ろしいとしかいわないのですが、むしろ肉体を持っている人間の方がよほど恐ろしいかもしれません。
地上の時において生活する境遇には違いがあっても、死者はあの世においてもこの地上と同じように生きているのですから、三陸の震災における霊的な体験は、ごく自然のことなのであります。
震災後には地元に残れず知人友人、親せき縁者をたどって各地に疎開する人たちもいました。
震災直後に体調が悪いと言って私のところにおいでになられた方々の中には、震災で亡くなられた方(死者)を連れてくる人たちもいたのです。
私が光を入れ始めると相談者に関わっている霊が浮霊することで相談者の体を借りて霊が泣き出したりといろいろな現象をあらわすのです。
津波にのまれ、突然の出来事にとまどいながらどれほど苦しかったであろう。
意識が薄れていく瞬間にもどれほど不本意な旅立ちをせざるをえず悔しかったであろうか。
こういった未練、悔しさがその場に己の想念をとどまらせ、地縛霊となり、地上の人間に姿を現す現象となるのです。
見えないから存在しないではなく、社会一般的には“不思議な出来事”としか言えないものかもしれませんが、このようなことはスピリチュアリズムでは、何ら珍しいことではなく、明確な理論によって説明することができるのである。
被災地では、亡くなった方の姿を見たという人が普段よりはたくさんいるのですが、通常であればそれほどこのような現象が多いわけではなく、被災後のように、死者からの働きかけを確かな形で感じた人、見た人は、それほど多くないのであります。
被災後に霊を診た、感じたという人の場合、程度の差はあっても、実は霊界からの働きかけを多少なりとも感じ取っているのです。
広く言えば「霊的能力」といえるでしょう
ですから一瞬ではあっても、霊の声を聞き、霊の姿を見ることができたのです。
霊界
死のもたらすもの
わたしたち人間は肉体という人生航路を行くための船をまとって生きているのですが、しかし、誰もがやがては“死”ということを経て次元の異なった世界へと新たな旅立ちをするときがきます。
お爺さん、お婆さんの死を見る者、父や母の死を見る者、また逆に親が子の死を見る者、孫の死を見る者、死、それは愛する妻であるかも知れず夫であるかもしれないし、恋人であるかも知れません。
死に際しては誰もが悲しみ、わが身の心も打ち砕くほどの悲劇的体験となる人もいることだろう。
そしてその悲しみと悔しさ、未練の淵から脱するのに数か月、時には何年も、掛かる人もいるのである。
仏壇の前で毎朝のように、亡くなった妻の遺影を見て泣き、アルバムを開いては泣きというように、3年もの長きにわたって泣き崩れていた老紳士の姿はあまりにも哀れでならない。
愛する人たちの姿も、心も、“死”を超えて私たちの心に生き、故人もまた次元の異なった世界で生き続けているのだ。
死ぬことは不幸であろうか
この地上は利己主義と貪欲というエゴの多い世界であり、驕り高ぶる者あり、人を辱める者あり、陥れる者ありと、その環境で生きることは私たちにとって大変な試練といえるだろう。
そのような観点からすれば、“死ぬ”ということは上述のような試練の環境から解放されて、物質的身体の中に閉じ込められていた魂(心)がそれを脱して自由の機会を得るということともいえます。
そうしてみたときに、死は、一定の試練や苦しみを卒業し解放されるという意味では、ほんとうの自分に目覚めるチャンスであると知れば、果たして死は不幸とばかりもいえないのではないだろうか。
利己主義もなく、自己保身もなく、執着する肉体もない世界、魂の成長を妨げるお金も地位も名誉もない世界に生きることが不幸であろうか。
一切の肉体的苦痛から解放された霊体(光子体)に宿り、一瞬の間に時空を超えて移動することができ、行動の自由が限りなくできる精神的豊かなあの世の生活をあなたは不幸と考えるだろうか。
但し、このような自由な行動範囲は、その魂の調和度に比例するものであり、大きな差があることも知っておかねばならない。
また、あの世に行くことは死んだ時だけということでもない。
例えば夢を見ているときも次元の異なった世界に移動しているということだ。
私たちは夢を見ているとき、その時点で肉体の制約から解放されて、睡眠中にほぐされていた心の霊的意識を発揮できるようになっているからです。
つまり、私たちの魂の仕組みは、睡眠に入ることで潜在意識(深層心理)が表面化し、逆に日常活動している表面意識が沈んで行って潜在化するということである。
睡眠を通じて表面意識と潜在意識が逆転するということがおわかりいただけるでしょうか。
ここで注目したいのは、亡くなった後に低い次元の世界に行かなければならないような霊の場合はどうだろうかということである。
下層の世界のなかの比較的上層部に位置する霊たちの場合は、自分の置かれている状況が少し理解できている霊もいるようだ。
そのような霊の場合は、地上時代の体験を思い出し、それが実際に下層の世界へ行ってからの反省と調和にどれだけプラスになるのかである。
ここでも生前の生き方の問題が自我、執着、拘りというエゴとして出てくることになる。
このように、死後に下層の世界へ引かれていく人の場合、生前中における価値観、人生観というものが不調和なものであればあるほどそ死後の己の反省は困難を極めることになるのである。
なぜなら、死後にそのような下層の環境に落ちる者たちはあい変わらず物質界とよく似ている環境下で生活することになるからです。
死後の世界は実相はというと、下層の世界ほど地上とよく似ているのである。
波長、波動が地上と同じように物質的だからであります。
高い界層になるほど波長が精妙になってくるのです。こ
れは地上において心を調和させて統一状態に持っていくことでも実感できるのです。
瞑想も正しく行えばそのことを実感する手段として有効であります。
私たちは時折、睡眠中の体験を思い出すことがあります。
私たちが睡眠に入ることで、魂(霊)がその肉体から離れると、日常のなかで活動する脳という意識の中枢から解放されます。
これは先に述べたように、眠りに入ることで表面意識が逆転して潜在し、日頃潜在している意識(魂の中心)である潜在意識が表出してくるからである。
すると私たちの意識は四次元世界の波長、現象を夢や日常の中で体験するようになってきます。
但し、それはそれぞれの魂(心)進化の程度、ステージの段階によって異なるものであるということであります。
夢の世界の出来事を何故記憶していないのか
夢を体験している間は意識が働いております。
がしかし、朝になって自分の肉体にもどり、夢の中での霊的体験を思い出そうとしても、思い出すことができません。
何故なら、私たちの魂の仕組みは、肉体を持った地上生活では90%が潜在意識であり、10%が表面意識として機能しております。
氷山
つまり、潜在意識のほうがはるかに表面意識より大きいのがお分かりになるでしょう。
わずか10%の表面意識では90%の潜在意識を受け入れることが困難な理論が理解できるかと思います。
大きいものは小さいものを収めることはできますが、小さいものが大きいものを収めることができないのできないのも道理でしょう。
夢から覚めて内容を記憶がない理由、ご理解いただけましたでしょうか。
魂(心)は器です。
器は大小様々です。
そこに人間の大きさの違いがあるのです。
しかし、ある程度まで魂が進化し、霊的にある一定以上の段階までの意識が育ち芽生えた人は、夢の世界での出来事、すなわち霊界での体験を意識できるでしょう。
夢の体験は死後に役立つのか
私のこれまでの経験から言えることですが、夢を見たことを記憶していて朝に目覚めた場合は、その夢のストーリーを客観的にみてみることで何かを示唆していることに気づかされることが多々あります。
ただの夢じゃないか」といってしまえばその通りですが、夢一つといえども何一つ無駄なことはありません。
夢には日常生活での想念が造りだした想像夢もありますが、守護霊や指導霊からのアプローチもあり、それが私たちにとって大切なメッセージ性を含んだものの場合は夢だと流してはいけないものだということがいえるでしょう。
夢は地上人生への忠告と死後の学習
睡眠状態において夢の活動は次元の高い人の場合、霊団の働きの一助となる人もいるだろうが、大抵は、死後への心の訓練といってよいでしょう。
霊界のガイドによって様々な場に案内されて経験するのであるが、そのような経験を重ねることで死後において次元の異なった世界へ移動しても戸惑うことなく馴染んでいけるのっである。
こういった霊的な経験のない人の場合は、その環境に対して適応力がつくまでに長期間の藩士時間が必要となるでしょう。
知識と経験があれば、死後は比較的スムーズに霊界入に入ることができ、しかも意識がしっかりとしています。
具体的説明をするなら、死後の目覚めは暗い睡眠から目覚めて太陽の光りが燦々と輝き照る外へ出た時と似ていると思えばよいだろう。
また、長いトンネルから抜けてまぶしい太陽光線に目が鳴れるまで時間を要することを思えばよいだろう。
霊的なことを否定する人や、何も知識のない人は、死という現象のなかで覚醒できない期間が長びいて、なかなか意識がもどらない場合があるようだ。
降霊しても反応がなく、自分が誰であるのかもわからない状態で判然としない霊もいるからである。
まだ成長していない幼児が自分のことを説明できないことに似ているといえばわかるだろうか。
生前の記憶は断片的に一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。
しかし、夢を無視してはいけません。
夢は私たちの希望の原点であります。
人生での夢、就寝での夢。
いずれにしても夢は霊的成長への出発点でもあります。
良いことを心掛けた想念は地上においても、またあの世においても、善なるエネルギーとなって伝播していき、真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。
そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるのである。
この地球号という人類を乗せた船は、今や筆舌に尽くせぬほどの暗闇におおわれているといえるでしょう。
間違った伝統や文化に根差した宗教、迷信と間違いと無知のために盲信、狂信する信者の姿は宗教の奴隷と化しております。
神の意志を正しく理解し、愛と慈しみを人々に伝える人々は多くはない。
そして、正しく人の道を説く者に対してはいつも邪の魔が立ちふさがるのである。
聖職者と言われる者たちの悪知恵と金銭への執着、既得の権力が、生ける神の声と取って代わってしまいました。
物質万能主義がその高慢な頭をもたげて驕り、高ぶり、霊的な法則である大宇宙の摂理、秩序という真理ををことごとく否定しました。
それがもたらした結果は無益な宗教戦争であり、流血・悲劇・怒り・怨恨・裏切り・不信・倦怠・心の病・絶望・惨めさ・混沌・混乱を伴った世界規模の大惨事でしかありませんでした。
しかし、地上と人類の大調和という神の意志を押し込めることはできないであろう。
何故なら、人間には魂という殊玉が神の分霊として備わっているからである。
盲信、狂信を正気に取り戻さなくてはならない。
そのためにわたしたちは執着を捨て、取り越し苦労と自暴自棄の念を捨て、自己主張をやめ、自分が欲する愛を、他を慈しむことに変えていかなくてはならないだろう。
わたしたちは人間の霊性を決して偏りのない正しい視野のもとに置いて、霊的能力を引き出させ、幼稚な唯物思想(物質中心の価値観)の間違いを暴いき、それに永遠の別れを告げていかなくてはならない。
心ある人たちよ。
わたしたちは国家権力であろうが、神社神道であろうと、教会であろうと、民族の差別であろうと、階級制度であろうと、一宗一派であろうと、不調和な論理と行動には従ってはならず、迎合することもしてはならない。
すべての人間が真の自由と、崇高にして深淵、そして純粋な意味における心(魂)の自由を得るためにである。
生きることにおいて、老いることにおいて、病気をすることにおいて、死にまつわる取り越し苦労と恐怖心をなくすために日頃から足ることを学び、自己中心をやめ、自分自身以上に他を慈しむことを実践しなければ、それが永遠の生命の循環の中で自分の役割を果たせないないのである。
さらには物質界であるこの地上生活と4次元世界である霊界との自然なつながりの障害となる心の執着を排除して、人間は本来が霊体であることを理解し、その理解のもとに真の自分を自覚していかなければならないだろう。
日々の小さな努力、積み重ねによって己の内部に宿る神性仏性が目を覚まし、神の意志が私たちのすべてを通して地上生活に発現することになってくるのです。
このブログを読んでくださっているあなたも、いつどこにいても人のため、世の中のため、人類のためを心がけていただければと願います。
自分の我を捨てるのです。
自分が正しいと主張してはなりません。
他人を裁くのではなく、何が正しいかを見極めることです。
故意の打算や敵意に対しても超然としておれるようでないといけません。
授かったあなたの能力を最大限に発揮してこそ人のために役立てるのです。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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