他力の祈り・自力の祈り

祈り

問い合わせ、『宗教の世界では祈りという行為がつきものだと思うのですが、本来の正しい宗教の教えは自力である、といわれています。しかし祈りは、依存信仰他力につきもののように思います。

その意味から言うと他力信仰での祈りについては理解できますが、依存しない自力のなかにも「祈り」があるというのは理解できないところです。この点を、どのように理解すればよいのでしょうか。』

きょうは先ず、「祈り」の意義について考えてみます。

祈りとは、この世と、あの世では違いがあり、あの世では行為そのものを意味します。

あの世では慈悲と愛こそが至上の心となり、この世的な「祈り」というものは必要ありません。

何故かというと、行為そのものが祈りですから改めて「祈る」必要がないのです。

もっとも、あの世でも「祈る」必要のある低次元世界はあります。

ここで大事な意識について説明しておきましょう。

あの世の人の意識はこの世とちがい、全体意識の90%はひらかれ、この世での表面意識10%部分があの世では10%の潜在意識となり逆転します。

これはどういうことかといいますと、あの世では、これはいけないと思い、反省し修正すれば、ただちに、その反省にたいする結果がでて、心の浄化が非常に速く行われることになるということです。

ですから同じ祈りにしても、あの世とこの世では、その比重がちがうのです。

この地上では物質世界ですから心で思ったことが結果となって出てくるまで時間がかかります。

あの世では物質のない世界ですから心に思ったことが即座に現象化するということ。

こうしてみると、あの世とこの世では心の想念現象化する速度に違いのあることがわかるでしょう。

例えば、私たちが自分の家にいてハワイに行きたいとなると、計画をたて、旅券を買うためや、ホテルの手配をするために観光会社の窓口で手続きを行います。

そうして旅客機に乗ってハワイに向かうことになり、時間をかけて到着できるのです。

しかし、あの世では、ハワイに行こうと念ずれば瞬時に移動して地上の時間にすれば数秒で到着することができるのです。

物質世界の地上生活は物理的にも時間的にも制約された環境下で行動するのですが、あの世の一定の高次な世界では瞬間移動が可能だということです。

心に思ったことが現象として現れるのに時間が掛からないだけに、善悪がはっきりしていることが理解できるかと思います。

この地上の生活は一寸先がヤミです。通常、人間の意識量は、わずかに10%しか通常は慟いていないのですから、一時間後、一分後の自分の運命さえわからないですごしています。

それだけに、金銭に頼るか、人に頼るか、地位に頼るか、運に頼るか、神仏に頼るか、なにかに頼らないと心もとないというのが、私たち一般の人間の心でもありましょう。

このため、「祈り」はその頼りない人生の、救いの担い手として考えられ、不安な時、怖い時、窮地を脱したいとき、病気を治したいと思う時など、他力信仰の中においては、重要な位置を占めてきたといえるでしょう。

しかしながら、頼る「祈り」で人は真に救われるでしょうか。

仏壇に手を合わせながら、子供を叱りつける図は、よくみかけるところです。

昔の念仏行のなかには、人を殺しても、念仏をあげれば成仏すると勘違いしている人がいたようです。

こういう「祈り」を「祈り」といえるでしょうか。「祈り」とは、頼ることではありません。

正しい「祈り」は、正しい行為を意味します。

[祈り]の必要性は、頼るためのそれではなく、10%の意識量で生活する想念と行為にあやまちがないように、自分の心を調和させる、そのために「祈る」ものなのです。

そうして、それはまた、感謝の心となるものでなければなりません。

なぜなら、健康で、家庭が円満で、毎日の生活が調和された姿で送れるということは、大自然をはじめ、守護霊、指導霊、万生万物、先祖の諸霊の恩恵によるものであり、したがって、「祈り」は、感謝の心のあらわれとなるものであるからです。

こうみてまいりますと、「正しい真の祈り」と「他力の祈り」では、その中身が大分ちがってくるということがおわかりと思います。

他力の祈りは、宇宙意識と人間を切り離し、人間を凡愚(ぼんぐ)として扱っているのに対し、正しい真の祈りは、人間は唯一なる存在の子であり、唯一なる存在と人間は一体であるという前提に立っていることであります。

この地上生活の中で、神性仏性の己を生かすには、祈り心を通した行為しかないということです。

イエスの言葉に「汝信仰あり、われ行為あり」というのがありますが、これこそ「正しい真の祈り」であり、あやまちなき行為こそ、「祈り」の神髄である、といえるわけです。

お分かりいただけましたでしょうか。

祈りとは真言を唱えることではなく、読経することでもなく、念仏を唱えることでもなく、形やパフォーマンスを超えた愛と慈しみの心を日々の生活のなかで行うことである。

真の祈りは実践のなかにこそ生命が宿るということだ。

祈りの為に手を休める必要はない、祈りの如く愛をこめて事をなせばよい。

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