失われない花
今朝の岩手山麓の木々は紅葉も終わり越冬にむけて葉を落としている。落ち葉を踏む足にサクサクと感触が心地よく、四季の風情がまたありがたい。
今ふと窓の外に目をやると雪が積もり始めた。初雪です。22時59分現在。
『生きているのが苦しいから死にたい』と言いつつ今なお生きている人がいます。 『体が不調だから死んだら楽だろう。』 『生きる意味が解らない。』このように言う多くの人と話をさせていただいています。
生きること、老いること、病をすること、死ぬこと、これらは他人事ではなく誰もが体験しえること、もしくは必ず通る道でもあります。
病んでみると解るのですが身の置き場がない、辛さに耐える気持ちが萎(な)えて沈む。 先が見えない、不安感と恐怖心のスクランブルで睡眠が妨げられる。寝るのが怖い、疲労感が取れない。こうなると焦り、迷いばかりが先立ち奈落の底に堕ちる思いでジレンマに陥ります。
このような心境は痛いほど理解できます。
私の場合いきなり心拍数が毎分120まで上昇して呼吸が思うようにできなくなり救急搬送されました。あらゆる検査をしたが病気という病気はまったく発見されなかった。このような事態が短期間に5回続き救急搬送された。
さすがに死を覚悟した。しかし、結局は循環器科の先生に『過労でも死ねますよ』といわれ、反省しきり。(;一_一)
曲がりなりにも健康に関わる仕事に就いていながら自分の体を休めることなく酷使した結果の自業自得です。一日12時間の労働を15年も続けたら体も悲鳴をあげて当然。生きてることが奇跡に近い。
歩くこともできず這っていた状況のなかで気づいたことは、今ある命への有り難さと身体への深謝だった。庭の大地にひれ伏し涙がとめどなく流れる。夜の空を見れば満天の星が光り輝き、故郷に思えてきて天に還りたいとも思った。しかし、まだ還れないという思いが現実に引き戻す。 やり残してることがあるから。
死線をさ迷ったこのような体験が気づかせてくれたこと。人間は心が主で体が従であるということ。この深い気づき以来、体は回復に向かいはじめた。
薄紙をはぐがごとくに。少しずつ確実に。病院から薬は戴いたが副作用が心臓にくるのがわかったから一切飲まないで養生し全快できた。私の体は薬より休息を求めていた。
心が病んでいる人の場合、様々な理由がありますが共通点のひとつに心の使い方である傾向性(習慣、癖)があります。
例えば、自己否定、ネガティブ、物や形、出来事への囚われ、周りへの必要以上の気遣い、不信感、挫折、失望、拒絶、自己中心などです。
この傾向性を改善するひとつの方法が深層心理へのアプローチ。深層心理には幼少期からの家庭環境も多大な影響を及ぼしています。深層心理へのアプローチについてはこの場は割愛させていただき、またの機会に譲ります。
糧でもあり、肥やしでもある泥水は濃いほどに蓮の花は大輪の花を咲かせる。
この泥水を置き換えてみると 苦しいこと、つらいこと、悲しいこと、淋しいこと、悔しいこと困難なこと。
しかし、人は『気づく』ことが出来れば、迷い苦しみは少なくなるか無くなり、まわりのこと、人、もの、現象のすべてに『ありがたい』と言えるようになってくる。
人生で苦難な時が来たら、それは試練。しかし、越えられない試練は与えられない。気づきへの近道として受けいれることが大切。現実をいかに否定し、拒んでも前には進めない。事実や現実は受け入れたらその先には必ず希望がみえてくる。
気づき 苦しい、つらい、悲しい、淋しい、悔しい、などのできごとを体験して超えたとき、 心に咲く決して失うことのない神々しい大輪の花。
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