人生を拓く人生

STOLEN-CHILDHOODS3

諦めたら成長も未来もないのだが、苦痛や挫折も経験したからこそ、もたらされたものは何であろうか。

道は必ずひらける。

この。「ひらける」という言葉にあなたはどんな漢字を当てるでしょう。

開ける!か、拓ける!か、披ける!か、啓ける!か、なのだが、一般的にはやはり、拓ける、か開ける、の二文字が浮かんでくるはずである。

どちらも正しいのですが、開く方は、未だ知らぬ先、つまり未知の世界への扉を開くという意味が強く、未来形です。

これに対して拓くというのは一歩ずつ耕していくという現在進行形を示している。

開拓という熟語はこの二つの文字で成り立っているが、荒地を開拓するというふうに、自分の進んでいくと定めた道を、自分の思考と行動で切り拓いていくことでしょう

私は35歳で会社員を辞めてすぐに自営業を始め、仕事をしながらも、こつこつと医学と健康に関する専門知識を独学して準備をし、かねてからの願いであった整体を42歳で起業した。

現在65歳になったが、この仕事をスタートさせて24年目の現在も生涯を通じて現場にいたという強い気持ちが今も消えない。

幼少の頃の私は決して丈夫という体ではなかったために親の勧めもあり、その当時通学した小学校と中学校で剣道をやった。

田舎ではあったが、県内では常にトップクラスの入る剣道の名門校であったこともあり4年生から始めた豆剣士でした。

先輩や先生、OBの人たちには随分と稽古をつけてもらったが、それが丈夫ではない私の基礎体力を養ってくれたし、礼にはじまり礼に終わるという武道精神が礼節というものを学ばせてくれ、忍耐をも培ってくれたと思っている。

これまでさまざまな逆境や試練に遭遇してきましたが、なぜか厳しい状況に追い込まれたときほど私のモチベーションがアップすることが多かったし、諦めるということをしなかった。

いいにつけ悪いにつけ自分が納得するまで、成果が出なくても努力は惜しまなかった。

20代という若さと未熟と無知によって暴走して挫折も味わい、借金で首が回らなくなり、生活も非常に厳しい状況まで追い込まれたこともあった。

30代前半、まだ会社員として働いているときにに、本社の上司(常務)による不条理な言葉に完全に心が切れて失望感に打ちのめされたとき、知人に紹介をいただいて、何故か禅宗のお寺の住職に面会することになった。

住職は何も言わず私の話しをただ黙って聞き入れてくれた。

何とも言えない開放感があり、有り難くて涙が溢れるのだが抑えることができないのだが、「何なのだこの気持ちは」と自問していた。

住職は私の話しが終わるのを待って一言「捨てなさい」と言った。

しかし、私には住職の言葉の真意が解らない。

住職は言った。

自分が努力をし、社内においても業務上正しいことをしてきたのならそれだけでいいではないか、報われようが報われまいが、その事実こそが自分の財産なのだよ。

ここにきた理由が苦しみから解放されたいと願ってきたのであれば、一切を捨てなさい。

不要なものを抱えているから苦しいのだよ。

その抱えているものを捨てることができないというならば、それはあなたの欲がそうさせているだけではないのか。

解るかな・・・・・・・・?

その欲の事を自我というのだよ。

その自我はほんとうのあなたの姿ではなく、偽りのあなたの心がそうさせているのです。

そこを捨てなさいというのです。

しかし、自我の心が強ければ強いほど捨てることが難しいものです。

住職の言葉は無駄がなく、押し付けではなく、魂の奥底に響いて私の心をわしづかみにして離さない。

結果を出してきた自分が、心ない上司の放った不条理への悔しさと、自分の愚かさと、住職の深い懐の慈愛に触れて涙がとまらなかった。

省みると、私の生き方そのものが、耐えて頑張って生きてきただけに、拘りに偏っていたところが多分にあったのでした。

以来、私の心に大きなショックと疑問が投じられることになり、人生観に大きな転換がはかられはじめ、3年間、春夏秋冬、365日、休みなく早朝五時に禅堂に通って瞑想した。

価値観に変化がおきていった。

拘らない。

執着しない。

そんな生き方をしたいと願った。

苦痛、挫折、そして自信へ

私自身、たいした才能を持ち合わせたわけではなく、学問が非常に苦手であったし、とうぜん学生時代の成績は最下位ばかりであった。

ただ一つ、身体を動かして働くことは幼少の頃から苦だとは思わず、親と一緒になって田畑で働いた。

農家の仕事は尽きることがなく、限りなくあるもので、慣れてくると次にやるべき仕事がみえてくるから言われずとも自分からその作業をするようになった。

かねてより母を助けたいという思いで動いてはいたが、中学生の頃にもなると母に頼られて農作業をするようになっていた。

身についたことは大人になっても変わるものではない。

おかげでどんな逆境においても忍耐する精神力を幼少の頃に培っていたように思います。

何の取り柄もない私のような人間は、とにかく体を動かすこと、行動すること、忍耐して働くことでしか生きる術がないと思って生きてきたように思います。

私自身は微力ではあっても、決して無力ではないと信じていました。

昨日から学び、今日を精いっぱい生きていれば、必ず明日が拓けると信じてきました。

幼少の頃の悲しい思い、何もない二十代に味わった苦痛や挫折がなつかしく思い出され、あの状況をとにかく乗り越えたという自信が、私のバックボーンとなってきた。

現在、体力の衰えは実感しているが嘆くこともない。

生あるモノは枯れるか腐るしかないのだし、年を重ねてこそ初めて解ることも多々ある。

そういうときの喜びは若いときの喜びとは質の深さが異なる。

未来には、自分自身によって生み出される何かが待っている。

人生は、自分自身の心がそれを生み出すことを期待しているのだ。

もしも、自分が逃避したり、いなくなれば、その何かも、開拓されることもなく、生まれることなく消えてしまうのである。

今日できることを、明日に延ばしてはならない。

今日それを片付ければ、明日はそれが楽しみになります。

物事を成し遂げるには、成し遂げるまで失敗することでした。

よく、人の役に立ちたい、ということを聞きますが、物事がうまくいかないと思ったら、まず最初に自分がこれまで何人の人を幸せにしてきたかを考えてみたいものです。

自分の置かれた試練を乗り越えてこそ人のお役にたてることがわかります。

科学的には非常にパワーを発揮する蒸気や、電力、原子力、石油などがありますが、何より強い動力となるのは人間の意志ではないだろうか。

この意志こそが道を開拓してくれます。

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彼岸の瞑想・親の姿&子の姿

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背中を手本に生きる

文房具類を万引して捕まった子どもに、父親がいった。

「馬鹿だなあ。このぐらいのものなら、いくらでもパパが会社から持って帰ってやったのに」と。

子どもは、親や教師のいう通りにはなりませんが、親や教師のする通りになります。

ですから、子どもには、周囲によい手本がなければならない理由がこの辺にあるのでしょう。

「こうなってほしいという子どもの姿」を、親も教師も自らが示す努力をしなければならないのではと思うのですが、しかし、親も教師も同じ人間です。

子どもの教育や将来を、という名目のもとにエゴの押し付けをします。

教師も心を病んで相談に見えますし、医師が精神疾患に陥っているケースもあります。

ここで少し私事を述べさせていただきます。

既に他界した私の母は大正6年生まれ、小学校もまともにはでておりませんが、それでも読み書きをしておりましたし、時にはご詠歌を婦人部の仲間と一緒に習っていた光景が私の学生時代の記憶として残っております。

そして何よりも母の為す後ろ姿、たくましく働くその姿を見て育ちました。

文字ではなく、言葉ではなく、背中にみえる教育を頂いたと思うのです。

その母が小学生の私に「辛抱しなさい」といった時、自ら手本となっていた母の姿に、私は返す言葉がなく、ただ歯を食いしばって従っていたのでした。

母の生きる姿そのものが教育でしたし、私の心の支えでありました。

「堪忍のなる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍」という言葉があります。

母は本当に我慢強い人でしたから寝ている姿を記憶にありません。

私などにはわからない苦労を、黙って耐えていたのでしょう。

誰にでもできる我慢は、我慢のうちに入らない。

上記の「堪忍」の言葉は、ふつうなら到底できない我慢、忍耐、許しができて、初めて「堪忍」の名に値するのだという教えでしょうか。

この教えは、私の人生を何度も支えてくれました。

精一杯生きた、たくましい母も80を過ぎた頃には働きづめの身体が限界にきていたのでしょう。

身体が二周りも三周りも小さくなり、食が細くなっていく姿を帰省するたびにみると、寂しさと、感謝と、お詫びの念がこみ上げて胸が熱くなるのでした。

何も親孝行らしいことをできずにすみませんでしたと。

子どもは親や教師の「いう通り」にならない

「する通り」になる。

子どもに何かを伝えるのに言葉はいらない。

否、不要な言葉を押し付けているのが現代社会の姿かもしれません。

ただ、誠実に努力して生きていくだけでいい。

私たちが生きるために文明の利器は、たしかに「便利」「安楽」「スピード」「効率」をもたらしましたが、その反面、人間から「待つこと」「耐えること」「静かに考えること」といった時間と習性を奪ってしまったかのように思えます。

一人の少年がいました。

崩壊家庭に生まれ育ち、友人といえば、いわゆるワルばかり。

かくて自らも非行に走って刑に服している十五歳の少年。

彼は刑期を終え、今度こそはまともな生活を送りたいと考えているのですが、その方法がわからない。

そんなある日、一人のホームレスが彼の働いている作業場に来て話しかけます。

「お前は、何かにぶつかった時、反射的に行動し、それから感じ、それから考えるという順序で生きてきたのか。それともその逆の順序だったのかい」

いわれた通りの順序だったと答える少年に、ホームレスがいいました。

「だからお前は、今ここにいるのさ。これからは、逆の順序でやってみな」

この時から少年の、自分自身との戦いが始まりました。

どんな相手や物事に対しても、まず考え、次に感じ、しかる後に行動する失敗を重ねながらも、この順序を繰り返すことによって、少年はやがて、まともな道を歩む人間に変わっていったのです。

まず考え、次に感じ、その後に行動する。

考えるということは、自分と対話すること。

自分自身に語りかけ、次の行動を決めることの大切さでしょうか。

彼岸のおわりに、他界した両親を偲びながら独り瞑想したわずかな時間。

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他力本願&自力本願

 

祈祷1

他力本願という他力信仰・依存信仰

身体症状に対して、あるいは精神的な問題、疾患についても内科や精神科でもまったく改善されなかったからと、最後の神頼みとばかり霊能者のハシゴをするケースは実に多い。

勿論、ただで対処するはずもなく、数万から数十万、なかには数百万という大枚をはたいたがまったく改善は成されなかったという相談者が後を絶たない。

私個人でもそういったケースの相談が多いのですから、全国規模で考えたら恐ろしいほどの数になるのではないだろうか。

欲望だらけの霊能者は言葉巧みに扇動し、救うどころか逆に迷走させることで依存心を植え付けてしまい、不必要なことを行わせ、お金を巻き上げるというやり口は実に美味しい商売なのでしょう。

何代前の先祖が云々と誰も知りようがないこと、水子が云々と言いだしたら要注意である。

こういう輩(やから)は間違いなく末は地獄の底に身を置くことになるだろう。

ここで敢えて申し上げておきたい。

自分のこれまでの生き方を省みることもなく、あるいは自分自身に根本的な原因があるにもかかわらず、外に原因を探してそれを何とかしようとしても事態が好転することはないでしょう。

病気の問題然り、家庭の問題然り、人間関係然り、仕事の問題然り、精神疾患然りです。

他力本願(他力信仰・依存信仰)によって、現代人の心が救われることはないいと。

これは霊能者が云々の問題に限らず、仏教系、神道系、キリスト教系、その他の新興宗教すべて宗教においていえること。

例えば、法然や親鸞、日蓮の時代における人々の心は、権力に反抗できない無学、無智な者がほとんどであり、当時は南無妙法蓮華経や念仏を唱えさえすれば救われるという他力の中で、神仏の存在を知らしめ、生死の苦しみを離脱させる以外に救うことができなかったのである。

しかし果たして、神仏に己の心と身の一切を委せて悟ることができるであろうか。

祈ることのみによって本当に救われるであろうか。

己の心を無にして悟れるであろうか。

否である。

何故なら、それは神仏の存在を漠然と知るというだけの方便にしか過ぎず、悟るということは決して心を無にすることではなく、先ずは心に偏りがなく、どのような条件下においても理性と知性をもって客観的に自分を観れるところからの出発点である。

念仏を唱えて神仏に任せるということを超えて、先ずは、己自身の心の状態を知る事、自身の心に執着があることに気づいたならば、それを修正するために心の調和を図るべく、学びと実践をしていかなければ、心の苦悩も安楽な生活にもなりようがなく、ましてや悟りなど到達するはずもない。

人間は自らの意思で生きるように創られた生命体であって、ロボットではないということだ。

他力依存の心によって己自身を失っては、人間としての心の修養目的を果たすことはできないのである。

それは、偏りのない、正しい心と正しい行為の実践の中にこそ、真の調和が生まれてくるものだからです。

神仏に対し、生存し、心の修養ができる環境を与えてくれている、一切の万象万物に対し、感謝するとともに、報恩の実践をすることこそが菩薩心の現われといえる。

私達は、ややもすると他力本願(信仰、依存)という自己保存に陥りやすいのである。

正しい目的に対する想念の一念力は、努力と勇気によって生まれるものであり、己の逃避と自己保存のお題目や読経によって自分自身も人類をも幸福に導くことはできない。

それを体験した人たちからの問い合わせが、何よりも事の真実を物語っている。

大宇宙自然界に対して感謝し、人々に対しては報恩の実践行動することによって調和が成り立つのである。

だからといって仏像やご神体を祀(まつ)る必要などまったくないのである。

否、祭ってはならないし、祀るほどに真実と神仏の意識から遠ざかるばかりであるということだ。

私達には必ず生まれた瞬間から一人の守護霊が、どなたにもついてくださっているのであって、決して霊能者が『霊格の高い守護霊をつけてさしあげます』『霊格の高い守護神をつけてあげます』というように、誰かが後付けできるようなものではない。

このことは何人たりとも変えることのできない大宇宙の真実であり、仕組みなのであり、私たちが自身がそういったことを望むことが如何に愚かしいことであるかを知らねばならないのです。

常に己の心に問う生活の中にこそ、真に神性仏智を悟る道がある。

己の心を失った信仰は、正しい法の信仰とはいえないのだ。

私達は、守護霊という生命に必ず保護されているし、各人の心の調和度によっては指導霊がついている。

こうした霊に対しても心からの感謝が必要であり、その一切の協力の事実をほとんど忘れて、あるいは気づいていないから気づきが遠くなっているのである。

自分自身が求めようとする努力、その結果によって、心の世界の門戸は開かれて行くということを忘れてはならない。

また私達は、偽りの指導者の言葉や、神理を悟っていない予言者の予言などに心を惑わしてはならないし、占いなどに一喜一憂すべきではない。

相談者が質問すれば逆切れする霊能者や教祖もいるが、神仏のお告げといって予言をしたり、お札を買わせたり、お守りを強制したりする霊能者や指導者や教祖に心を売ってはならない。

彼らの指導や教義に対する吟味と、常日頃の行為を観察して、師に足る人であるかどうかを正しく思念して定めなくてはなりません。

決して己の心まで彼らに売ってはならない。

己の心は、無限の生命と宇宙を統べる意識に通じている己自身の王国である。

その己自身の心は、誰も侵害することはできない。

その王国を第三者に売り渡してしまうため、人々は自分を失い、努力することを忘れ、他力本願という依存型信仰に迷走してしまう。

神仏は自ら信じるその心の内に存在するものであって、神社仏閣や神棚、仏壇に座すものではないということをしっかりとご理解いただきたい。

努力する行為によってのみ、力も恵みも与えられるのである。

そしてその力に対する守護、指導霊の協力は常に存在している。

すなわち自力によっての努力があってこそ他力に通ずることは、原因と結果、作用と反作用という大宇宙の真理であるということだ。

人間のわずかな、小さな分別によって造られた物や建築物に神仏がいるのではない。

あの世の上段階光の大指導霊(如来)や、光の指導霊(菩薩)達は、物質経済に束縛されている人類に対して、勝手気ままな命令や、無から有が生じるような人間都合的な約束は絶対にしないものであり、己自身の努力なくして自己保存の祈りやお題目を上げるだけで、私達の幸福は得られるものではないということです。

祈ることのみによって救われるとか、ご神体を祀らせたり、何代前の先祖が供養を欲しているからこれこれの方法で供養しなさいとか、こういう約束をさせる霊能者や教祖や指導者に、私達は気をつけなくてはならない。

私たちは、自我の智と意によって、欲望失望解釈をしてはならない。

ということは物事を判断するときは常に自分本位ではなく客観的な視点から判断する習慣を忘れてはならないということです。

その原因と結果に対する思慮の中からこそ、はじめて正しい判断は生まれてくるのである。

神仏の使いのごとく自称し、そういった言葉とは裏腹に私達の心に安らぎを与えない、信徒たちの心の成長もない、読経や念仏、あるいは祈りだけの他力本願を植え付ける指導者や教祖達は、低級霊や動物霊に支配されていたりする。

また無智や偏見によって、神仏を信ずることがなくこの地球上にとり残されている、地縛霊や地獄に支配されている人々、これらに私達は迷わされてはならない。

悪霊や動物霊に支配されていることによって、その霊の影響で霊視をする者や、一時の予言をしたり、病気を治すようなことができても、より不調和な、暗い霊域に、私達の心を下げてしまうからである。

このような偽善者は、常に言葉と行為に矛盾が生じるから、その矛盾に対しては冷静に且つ即座に正しい解答を得なくてはならない。

ましてやこのような人々は、神仏と表裏一体の上段階光の大指導霊達と交信することなどできようはずがないのだが、こういう人に限って自分は仏陀の生まれ変わりだとか、メシアだとか言って自己主張を繰り返すものだ。

なぜなら、正しい法を悟った生活の中でなければ、心の調和がとれないからである。

何でもかんでも無分別に盲信する心は、はなはだ危険であるということを悟らなくてはならないのだが、何かにすがろうとする人たちほど狂信してしまう人間の弱さ、愚かさがある。

神仏は、己の心の内に存在していることを信じなくてはならない。

物質や型にとらわれてはならないのである。

決して偏りのない中道の心は、教義や指導の矛盾に我慢することではなく、正しい見解の中から正しく語ること、行うことの中に存在しているものなのである。

意志は、石のようにしてしまっては必ず歪みを造り出してしまう。

意志は常に柔軟に保って、正しい生き方の実践によってこそ悟りの一歩は開けてくる。

その行為の中で潜在意識の90%は無限大の智慧を悟り、自分自身を悟り、転生輪廻の法則を悟るのである。

肉体を持っている私達の意識は、悟りの境涯によっては見上げるほどの光子体(霊体)となってそれぞれの肉体を支配している。

また自力の調和度によっては、肉体から抜け出した光子体(霊体)とともに、次元の異なった世界に行くこともできる。

本来のあの世は安らぎのある世界であるが、しかし、低段階の世界と上段階の世界では、その霊域に、雲泥の差のあることが歴然としているのである。

低段階の世界となると、やはり自国的環境に閉じこもり、自己主張的な世界になっている。

さらに地獄界の人たちの心は、人を信じることもできず、一見、調和されているかに見えても、自分自身のことになるといがみ合うという自己保存の世界であり、安らぎなどはほとんどない。

地獄の王の権力によって支配され、心からの自由の存在はなく、平穏な生活を営むことのできない世界である。

自分自身の心を失った人々の住む不調和な世界で、慈悲も愛も存在していない。

そのような人々の心が造り出している世界なのである。

だがこうした人々も、その環境の中から反省が芽生え、いつの日か光の天使によって救われて行く。

四次元の世界は、地上とは逆に潜在意識が表面に90%出ているため、反省に対する反応は即座に現象化され、光子体(霊体)の光子量の差が反映されて出てきやすく、調和への速度も常に早い。

私たちの心の調和度は、死後に肉体に出て、それぞれの心の境涯、すなわち魂のステージに適応した世界へと進んで行く。

このように、霊界と一口に言っても、不調和な世界は相当数の段階があり、また上段階も大別されている。

天上界の上段階以上は、天使、光の天使、上段階指導霊、上上段階光の大指導霊と世界が分かれ、調和に比例した社会が構成されている。

この地上現象界は、あたかもあの世のから投影されている立体映画のようなものである。

つまりは、あの世もこの世も、肉体の構成に相違があるのみであって、その中心の魂は変わらないものなのだ。

転生輪廻における、この現象界である地上の肉体という衣と光子体(霊体)の違い、環境の違いだけなのである。

もっと厳密にいうならば、意識、すなわち魂は、生まれることもないし死ぬこともなく、増えることもないし減ることもない、それが本来の姿なのだ。

般若心経の不生不滅、不増不減という一文がそれを示している。

生まれるという言葉は、お母さんから赤ちゃんが生まれるという表現として理解はできるが、死んであの世に返ればあの世の人たちからすれば誕生でもあり、お帰りなさいである。

私達はその輪廻転生の本質を良く知り、この世的な偽りの自己表現や、偽りの神仏の信仰、偽りの判断は避けるべきで、真実の法則が全ての生命の循環のなかにあることを知らねばならない。

それは、我欲のままの偽りの人生が、自分自身の心に苦悩を背負わせることになるからである。

苦悩の本質は他によることの影響ではなく、己の心から発生するものであり、己自身によってのみしか解放できないものだ。

私達は、自分自身の支配者である心を正しく築き上げ、あらゆる現象にとらわれない不動の心を持って、自ら造り出した心の重荷を捨て去ること。

これによって安らぎと平和な環境を造り出すことができるのである。

私達は、旧来の因習を破り、己の心に存在する神仏なる 心”を信じ、その王国に秘められている宝庫を、自らの努力によってその門戸を開かなくてはならない。

宿命論や無益な論争を避け、混乱せる己の心の誘惑に打ち克たなくてはならない。

正しい生き方、法則にもとづいた実践生活の中からこそ、正しい心の制御装置が造り出されるという真理があるからである。

正しい法は、他力信仰、他力本願にあるのではなく、己自身の心の内にあることに目覚めなくてはならないだろう。

次回は『彼岸の瞑想・親の姿&子の姿』25日に投稿予定です。

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目先の利害と選択

目先の利害
 人間、執着した心があると、大事な局面で目先の利害にとらわれ、物事を判断して行動をとりやすく、本来の自分にふさわしい選択を逃して将来の発展を損なう場合が少なくない。

執着した心がある場合の弊害の一つに、目先の小さな利害にとらわれる、ということがあります。

物事を冷静にみて状況判断するという、素直な心即ち、執着のない心が働いていなければ、ついつい自分の目先の利害得失に心奪われ、それにとらわれて物事を考え、判断を下し、行動をとってゆくことになりかねないということです。

就職する時に、お金が全てと判断すれば、後には必ず不満を以って退職する結果になるであろうし、どのような職業に就いても心を成長させるチャンスを自らして見逃がすことにもなるでしょう。

社会生活のなかにおいては、お互いが利害得失を考えるというのは、これは人間としていわば当然の姿であって、それを考えつつ物事を判断し、行なうということは、きわめてあたりまえのことだと思います。

しかし、だからといって、つねに自分の利害得失だけを考え、それのみに基づいて物を判断するということになると、これはいささか目先の利害にとらわれた姿であり、そこからは物事はスムーズに運ばないのではないかと思うのです。

つまり、いつも人生につまずき、行き詰まり、挫折を繰り返し、社会を呪うようなことにもなりかねません。

自分の利害にとらわれるということは、いってみれば、その時々の自分の利益になることのみを追い求め、肯定し、損害になることはすべていみ嫌い、遠ざけ、否定する、というような姿であるともいえるでしょう。

しかし、そういう、自分のことしか考えない姿というものは、往々にして他の人々の利害を無視したり、軽視したりすることにも結びつきかねません。

したがって、とかく人々の反発、非難を受けることにもなるでしょうし、いつも人間関係において円滑さを欠く生き方になってしまう。

そこには争いを生じ、自他ともの損失を生むことにもなりかねない。

お互い人間は、相寄って共同生活を営んでいるわけですから、互いに自分一人だけの目先の利害を考えていたのでは、共同生活をスムーズに運営していくことはむつかしいでしょう。

やはり、自分の利益は当然考えるけれども、それと同時に他の人の利益についても考えるということが根底になければならない。

また全てのことにおいて、目先のことだけでなく将来にわたって益になることを考える。

仕事を通じて自分磨きをする。

あるいは将来の夢を実現するために今はこの仕事で辛抱しようという覚悟。

一見、無駄と思えるような時間や人生を過ごしている場合でも成長する為に欠かせないプロセスというものがある。

そのプロセスの中にこそ、自他の利益というものが調和した姿において満たされ、ともどもに和やかに日々をおくっていくこともできるようになるわけです。

しかしながら、お互いが執着した心をもっている場合には、ついつい自分の目先の利害にとらわれて物を考え、事を判断するということになりがちです。

人生を良きものにしている人の場合、やはり人生の岐路に立った場合に、目先の欲によって判断するのではなく、自分が何を目指しているか、何を成したいかを見失っていません。

本来は人生の選択に、正も悪もなく、あるのは時間と学びという過程ではないでしょうか。

次回は22日 月曜日『他力本願&自力本願』ということについてアップ予定です。

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三体性理論の神秘

水蒸気

きょうは少し自然科学的でスピリチュアルな話題を交えて話を進めてみたいと思います。

大自然は大きく分けて三つの組み合わせから成っています。

地上の成因は気圏、水圏、岩圏から構成され、原子は、陽電子、中性子、陰外電子から成り、電気の性質は陽性、中性、陰性の三つからできており、またあらゆる生命を生かしている地球も、太陽、月との関連において、地球自身の目的を果たしています。

大自然の組み合わせをさらに細かくみてゆくと、物質のモトは光の波動、または粒子になってしまいます。

つまりその波動、粒子の集まり具合いによって、それぞれちがった物質をつくっているというところまでたどり着きます。

たとえば炭素の陽子数は六個、中性子六個、陰外電子六個。

アルミニウムは陽子が十三個、中性子十四個、陰外電子十三個となっています。

このように性質を形にする粒子の集合の具合によって、鉄をつくり、金という物質をつくっています。

見方をかえると粒子の数、つまり、その数の変化がさまざまな物質なり、ひいては地上のの気象や春夏秋冬を形作っているといえましょう。

人間が生命体であると同時に、この地上に適応した肉体を所有するかぎりは、こういった大自然の仕組み、組み合わせからはみ出ることはできないでしょう。

三体制理論は、大自然の原理にもとづいて展開するものですが、人間の生命もまたこの理論のもとにみるならば一人一人の生命の担った人生というものの目的や使命も明らかとなってきます。

だが、大事なことは正しい人間の在り方、法則というものを知らずして、三体制のみに走ることは危険この上もないということです。

なぜかというと、人間はこの世に己の心の修養をするために生まれてきているのです。

同時に、すべての人類とこの世を調和させるために、その目的と使命を担って存在しているものだからです。

したがってそれを自覚せずに、三体制の理論のみにふりまわされることは、形作って魂はいらずの類になってしまうでしょう。

三体制を応用して第三者の運命を予見する、あるいは性格判断を見ることはできます。

しかし、詳細については割愛しておきます。

人間としての義務、責任、使命というものを後回しにして、三体制の応用のみに身をまかせるとすれば、これは巷の″占い”と少しも変わらないことになるからです。

正しい法則を実践する者の行く手は、地上のカルマや運命の良し悪しもあるが、実はそれを超えてゆくものなのです。

正しい法則は、地上の狭い視野から、大宇宙の已に帰ってゆく法則なのです。

東西南北は地上の任意の点に立ったときにいえるものですが、大宇宙からみると東も西もありません。

正法しい法則による生き方が身についてくると、三体理論ではわからぬ諸現象の原因を知ることができます。

さらに三体理論の応用範囲も広がってきます。

三体性理論はあくまで現実の諸現象の仕組みをいうものであって、現実の応用ではありません。

この点を間違えてはなりません。

正しい法則を実践する者は、三体理論を超えるものでなくてはならないということです。

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供養

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秋のお彼岸は9月20日~26日までの7日間ですが、もうすぐです。

春の御彼岸、お盆、秋彼岸、お正月という行事が近付くと、決まって何かしら原因の特定できない、体調が悪く辛い思いをする人もがいます。

その人たちは毎年、毎年そういった時期が来ると何故そうなるのかは分からぬままですが、この辺の事情を霊的な視点から述べてみましょう。

あの世の人たち(霊人)は、自分が生前に行ってきた通りの行動をあの世にいってもまだ続けようとする人もいますし、子孫にも自分への供養を期待する、魂ステージの低い霊達もいるのです。

古来の伝統によって成されてきた供養の習慣を私たちが行うことによって、またそのことをお盆や彼岸、お正月などの時期に意識することによって霊界の故人、先祖たちも同調し騒ぎ出すのである。

このような霊波動が地上で生活する敏感な人の場合は、身体のさまざまな不調となって表れるから辛いということになってくる。

したがって、そういう人を浄化してやると、これまでの辛い身体症状がスウーと抜ける。

霊界の住人達は、良くも悪くも、この世の人間の想念、意識のあり方によって影響を受ける存在であるということを知っておかなくてはならない。

丁度この時期でありますから、きょうは供養について少し霊的な視点から述べてみましょう。

供養というと、昔からとか、先祖の霊に物を供える、お香を焚く、読経をするご法事をすることのように思われ、そういう習慣を行ってきていますが、本当はこれでは供養にならないのです。

供養の意義は「先祖の霊よ安かれ」とする子孫の祈り心でなければならないからであります。

物を供え、それでよしとする考えほど安易なものはなく、真の供養からほど遠いものはない。

私たちが現在こうして肉体を持って生きていられること自体、親、その親と、それぞれの先祖が私たちを生み育ててくれたからであり、それに対する感謝の心は、報恩となって形(行い)の上に現われてこなければ意味がありません。

どこの親も、子どもが健やかに暮らしていればそれを最大の喜びとするのが人情ではなかろうか。

ということは、このブログを読んでくださっているあなたがあの世に行った場合、あなたの子ども、孫たち、すなわち子孫が心身ともに健やかに、幸せに生活している姿をみたならどれほど喜びであり、安心の境涯になれることでしょうか。

子孫の祈り心という供養の真意はそれゆえに、生前、学びもぜず、理解もしていない哲学的な経文の読経をすることではなく、物を供えるということではなく、まず家庭の和合、調和にあるといえる。

人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によって、あの世で生活をはじめます。

世間の人は、肉体が灰となれば人の魂まで無に帰すと思っている人もいますが、それは間違いです。

人間の予知能力、天才児、霊の存在についてなど、その例は枚挙にいとまがないし、こうした諸現象は程度の差こそあれ人間である以上誰しも備わっています。

また知ることも出来ます。

こうした諸現象は、すべてこの世の人の心と、あの世の霊とが作用しておこるものです。

魂の永遠不滅と、転生輪廻ということも単に人間の願望としてではなく、事実として存在するのです。

あの世は三次元ではなく、四次元以上、多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できても、ある人には全然わからぬということもあり得ますが、だからといって否定できるものでは決してないのです。

法事で物を供えることは、本来、気安めにすぎませんが、死ねば無になると思いながらも、物を供えるその心を省みたり、確かめたことがあるでしょうか。

家庭の和合、調和が先祖の最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊が、その子孫の家庭をたえず見守っており、もしも先祖の霊が地獄に堕ちて自分を失っていたとしても、子孫の調和ある家庭をながめることにより、己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからであります。

つまり、親や先祖の霊達に安心していただけるような生き方を示すこと、実践することです。

子の幸せを思わぬ親はないはずです。

しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥ない自分になろうとするのは人情ではないでしょうか。

あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはありません。

もちろん、なかには例外がありましょう。

生前の心の不調和とその行いによって地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぎます。

類は類をもって集まるの喩で、その霊は自分と同じ思想、価値観、考えを持った人に助けを求め、いわゆる、憑依作用となって人の体、実際には意識に憑いてしまいます。

邪悪な宗教団体、カルト教団に属している人が、同じ宗教に入信していた故人に憑依される事例があるのはこういう事情があるためです。

すると憑かれたその人は、言動に感情の起伏が強く現れたり病気をしたり、精神的な疾患に陥ったり、自殺したりする場合もあります。

意外と思われるかもしれませんが、霊的な場として大変なのは精神病院、次に心療内科です。

特に精神病院の場合は、看護師さんたち自身が精神疾患に陥っているケースが多々あり、相談にみえる方もありますし、実際に精神科に勤務する看護師さんたちの告白でその実態を知ることにもなりました。

それと、本来秘密裏になっている精神科の医師の自殺者が間々見受けられることも霊的な視点からは無視できない重大な事案であります。

医師自身がよほど心の調和を図っていないと未成仏な霊たちによって徐々に蝕まれていくでしょう。

これらの原因は不調和な地獄霊たちの霊波動、及び、憑依による悪影響そのものである。

地上が調和されると、あの世の地獄も調和されます。

あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではありません。

先祖の供養というものは、このように、まず個々の家庭が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを知って頂きたいと思います。

とある会社の社長さんが社内の問題を相談に見えたときにたまたま話の流れから話した。

「家内はよく気がつくし、我が家の仏壇の給仕もよくやってくれています。先祖を大事にするという意味ではしっかりやってくれています」と。

それはそれで良いことではありますが、しかし、その奥様がなぜ会社に顔を出した時に特定の女性社員に対し辛く当たり、且つ、嫉妬に狂った言動をして社員からも不信感を買い、専務である息子からも注意をされるような非常識なことをするのですか?

先祖を供養しようという気持ちが本物ならば、会社の人間に対して心をくだき、人間としての良識ある行動をするのが役員としての奥様の立場ではないのですか?

愚かな嫉妬によって会社の空気を乱している人間が、先祖供養かなにかわかりませんが、因習のままに仏壇に水を上げようが、お香を炊こうが、そんなことはどれほどの供養にもなりませんよ。

と、厳しい言葉であったでしょうが70代という人生の先輩でもあり、地位もある方に進言させてもらったことがあった。

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拘りを捨てて学ぶ心

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子どもたちをみているとその純粋で、且つ、すなおな好奇心の強さに感心してしまう。

さまざまなことに興味をもち、何でも遊びにしてしまい吸収していく姿は、白紙のキャンバスに絵が完成されていくようなものかもしれない。

時とともに全体像がみえてくるからだ。

素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心ではないだろうか

何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、そのような心構えをもって人生を過ごしてゆくならば、月日とともに色々なことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。

そうしますと、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。

例えば、他の人々と日常ふつうの会話を交わしている際でも、何の気もなしにただ話をしているだけであれば、その場限りのものとなってしまうでしょう。

けれども、そういう際にも、勉強する態度というか、学ぶ心というものを保っていたとするならば、相手のふとしたことばの中から気づかされ、学ばせられるようなものを見つけ出すこともあると思います。

自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中からいろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。

これは私自身の実感でもあります。

お互いが学んだり勉強したりするのは、学校においてだけとは限らないことはもちろんですが、人生の各面で勉強できるかできないかということは、こういう学ぶ心の有無によって左右されてくると思います。

もしこういう学ぶ心がなければ、何を見ても、何をしても、ただそれだけのことに終わってしまいます。

人と会って話をしても、人々の姿、世の動きなどを見ても、ただ話をするだけ、見るだけに終わってしまう場合が多いのではないでしょうか。

たとえば、思わず、何か人の気にさわるようなことを口に出していってしまったとします。

この場合、相手と気まずくなったり、あるいはケンカになったりもしかねません。

けれども、その後の考え方なり身の処し方が大事だと思います。

つまり、学ぶ心をもっている人ならば、自分の非をさとって直ちにわびるでしょうし、あのようなことを囗に出していってはいけないのだな、ということを自分なりに悟り、二度と再びそういうことをいわないよう常々心がけるようになるでしょう。

だから、そういう失敗を再びくり返すことは防げるだろうと思いますし、心の広いというか、懐が深い、というような人間になっていくことができるでしょう。

しかしながら、学ぶ心がない場合には、別にそういう姿から何かを気づいて改めるということもないでしょうし、再び同じようなあやまちをくり返すことでしょう。

そこには進歩なり成長がなく、他の人たちとの協調性にも欠け、あるいは人間関係につまづきやすく、どうしても孤立しやすい状況になりがちということがあります。

これはもちろん、自分自身の体験だけに限ることではなく、他の人の失敗や社会のいろいろなできごとを見ても同様でしょう。

つまり学ぶ心がなければそれらを他山の石とするといったことができにくいと思われます。(他山の石とは、他人のどんな言動でも、たとえそれが誤っていたり劣っていたりした場合でも、自分の知徳を磨いたり反省の材料とすることができるというたとえ)

また反対に、他の人々が何かしら優れた方法を実行していたり、いいアイデアをもっていた場合などでも、それに気づきにくく、したがって、それを自分にとり入れて活用するというようなことも、十分できないのではないかと思うのです。

だから、学ぶ心というものがなければ、結局は、自分自身が成長、向上しないばかりでなく、自分の属する共同生活の向上発展を妨げてしまうことにもなり、且つ、孤立する傾向にもあるのです。

頑なに自分の思考や価値観に拘らず、もっと自由な心、あるいは白紙の状態で物事に臨むというぐらいの気概があってもよいのではないでしょうか。

したがって、こういう学ぶ心というものを養っていくことが、お互い人間にとって非常に大切なことの一つといえると思います。

学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。

だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。

学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、この学ぶ心というものも、実は、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。

というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、吸収すべきは何でも吸収する心だからです。

したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。

すでに字が書かれているから、もう絵を書いてはいけない、というようなこともありません。

また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、というようなこともないわけです。

字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。

この受け入れる、という心になるには白紙にすること、すなわちこれまで述べたように必要以上の拘りを、先ずは捨てることから始めなければならないでしょう。

こうして素直な心になれば、おのずと、人といわず物といわず、また物事いっさいに対して、つねに学ぶ心で相対するようになれると思うのです。

人と話をすればその話の中から何らかのヒントを得るとか、また何らかの物、たとえば路傍の草木をみてもその動きや姿の中から何かを感じるとか、日々これ勉強、学びである、といったことにもなってゆくのではないでしょうか。

要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。

いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も生まれてくるでしょう。

素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さというようなものもあらわれてくるのではないかと思います。

社会生活、会社において、いつもうまくいかず職を変える人もいますが、そのような人の場合、必ずしも職種だけの問題ではなく、案外、根底には人間関係においてスムーズにいかず、ぎくしゃくすることで精神的に参ってしまい退職するということが多々あります。

一般的に、差ほど心に重く受け止めるほどのことでもないような内容でも、人によってはどうしても3のものを6や8にも受け止めて長期にわたって引きずって苦しんでいるという場合があります。

そして、重く受け止めていた6や8のことについて本人と話し合ってみますと、やはり不要なことを抱えている場合が殆どです。

これは価値観の相違という問題だけではなく、思考の癖でもあり、傾向性ともいえるもので、根底には必要以上の拘り、執着が根差しているものです。

何事に関しても、相手の言葉や行動に過敏に反応して、それを長期に心に抱えているという実情がみえてきます。

せっかく就職できた会社を、職種は良かったのに、といいながら辞めてしまうという背景にある人間関係への苦手意識、不得手なコミュニケーション、こういった社会生活、人間関係をスムーズにできない理由の根本にみえてくるもの、それが拘りであり、執着というケースが少なくない。

人生、すなわち心を白紙にして人の道を生きること、これはそのまま、すなおな心の学びだと思うのです。

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飛び込む勇気

やる気ビジネスマン

tom のコメント: 2014年9月1日 7:33 PM

私も似た状況なので、非常にKA様に共感します。
KA様はどうかわかりませんが、私の問題は、観童様のアドバイスにある、次のことが存外できないからです。
・外に出て行動すること。
・汗を流すこと。

私は、仕事を探しています。過去の失敗(サービス残業が多いだけでなく、他人のせいにすることが多い雰囲気)から、「どこでも働けるところならいい!ありがたい!」とは思えなくて、あれこれ探しますが、なかなか見つかりません。

やっと見つけても、相手の方が、こちらを望みません。

そうやって時間はどんどん過ぎていきます。

お店や面接に行った会社のオフィスの状態などを見て、「ああ、こうやったら、もっとすっきりするのになあ、もっと感じがいいのになあ」などと思うこともあります。

ということは、自分にはやる気があるし、もっとよくするためのアイデアがあるんじゃないかと思います。

でも、会社(特に個人経営や中小企業)はだいたい、上の人の言うことを聞く従順な人がお好みではないでしょうか?

まあ、確かに、いちいち逆らう人間なら困りますが。

自分のような意見を言う人間は意見が正当でも好かれないと思います。

私も、仕事の効率とかは考えても、社長、部長、係長の機嫌を損ねないようにとは考えないから、微妙な人間関係を無視しているのかもしれませんが。

「謙虚さがない」証拠なのかもしれませんが、社内の人間関係(上の人への)に主に気を配って、できる改善をしないなんて、もったないないというのが正直な気持ちです。

人のために働きたいし、もっと効率よく、もっとよりよく働けると思えるアイデアがあるかもしれません。

でも、そうするための入り口にさえもたどり着けないので、自分がこの社会ではだめな人間であると落ち込んで行きます。

 

Tom様。コメントをありがとうございます。

あなたがおっしゃるように、あなたにはやる気がある!ということが文章から良くみてとれます。

ようやく探し当てたと思っても不採用となったりということは結構よくあることかと思います。

それとまた同じように、採用となったからといって働いてみると必ずしも100%自分の希望するような内容であるとは限らないでしょう。

働いて生活の糧を得るということは楽ではありませんね。

「意見を言う」これは日頃良く働いている人間が発展的、且つ、建設的な意見として、場とタイミングを考慮したうえでいうならば、そんなに無下にもされないのではないでしょうか。

それでも意見を無視、無下にするようならばその職場、あるいは上司は所詮それまでの人間でしかないということかと思います。

求人情報、あるいはハローワークの情報上での判断は大切でありますが、もっと大切なことは、先ず職に就いてみる勇気かとも思うのですがいかがでしょうか。

案外考えていたよりも居心地が良かったり、新たな発見があって働き甲斐があるかもしれません。

同じ業界での転職なら比較的ノウハウやスキルが継続的に活用できるかもしれませんが、それでは仕事をする、あるいはできる人間としての幅が広がらないと考え、あえて異なる環境に飛び込むことも有りだと思うのです。

前職時代にどんなに活躍し高いポジションに就いていた人でも、異なる環境に飛び込んだ時はまったくの一年生であり素人です。

誰かが懇切丁寧に手取り足取り教えてくれるわけではありません。

むしろ、前職時代の経歴が凄い人であればあるほど入社早々活躍してくれるだろうぐらいの期待はされているかもしれません。

しかし、現実問題として、何かしらアクションを起こさなければ事の進展はありません。

それに、一緒に仕事をする人たちとの良好な人間関係を創り上げることも大きな課題であり、その課題から遠ざかるほどに、本当の意味でのいい仕事ができないかと思うのです。

世の中には、経営者から期待され鳴り物で入社した大物転職者たちが、その組織の社風・文化を理解できず、良好な人間関係を創り上げることもできずに短期間のうちに去っていくというケースもあります。

こうしてみると組織の中で働くということの原点には根本的なところで人間関係ということが必要欠かざる課題であることがわかります。

どこの企業でもスキルアップと効率アップの社員教育やミーティングは頻繁に行われているようですが、最も重要な社員同士がどのようにして人間関係を築いていくかということの教育は非常に希少なものでしかないように思います。

tomさんのように、やる気もあり、アイデアも湧き出してくる、スキルのある人間が決心しないのは勿体ないと思うのです。

tomさん。先ずは飛び込んでみてはどうでしょうか。

観童

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退職・引きこもりからの脱出

うつ病今回は相談者の協力のもと、そのやり取りを掲載の快諾をちょうだいしました。

相談者、KA様のような体験は決して他人事ではなく、この社会、競争と効率、合理化によって働く場を失うにとどまらず、再就職さえも思うにまかせず、立場的な弱者が淘汰されていく社会構造が厳しく私たちの前に立ちふさがります。

定年まで正社員として働けることで生活の安定が図られ、それが結果的に社会経済を潤してきた日本の経済発展の仕組みがありました。

しかし、近代社会は派遣社員という不安定な立場でしか働けない人たちが多く、2014年3月31日 – 現在2社以上の派遣会社に登録している人がほぼ7割(68.3%)です。

その理由としては 、「派遣先を紹介してもらえる可能性が. 高まるから」です。

富める者と貧しき者、勝ち組と負け組が社会のなかにあって、立場の弱いものに眼を向けることをしない社会、そして人々、他人事であってはならないでしょう。

以下

2016年8月13日 受信

観童さまはじめまして。私、KA(男性・38歳)と申します。

ひょんなことから、観童さんのブログに出会い、その後事あるごとに拝見させて頂いております。

ありがとうございます。

現在、自分の力だけでは、もういっぱいいっぱいの状況でして、観童さんのお力をお貸し頂ければと思い、今日はご連絡させて頂きました。

今から4年前に仕事を辞めてから、徐々に引きこもりがちになり、現在に至ります。

その間、本当に全く外出できない期間が丸1年あり、その1年に関しては記憶もほとんどありません。

現在は、週に1日程度外出できるような状況にあります。

ですが、今のままでは、とても働けるような状況ではありませんし、年齢のこともあり、何とかこの状況を変えたいと切実に思っております。

お忙しい毎日かと思いますが、ご指導頂ければ幸いです。

どうぞよろしくお願い致します。 KA

 

同日返信

KA様。

いつもブログを訪問していただきありがとうございます。

四年前に仕事を辞めた経緯を詳しくお話しいただけませんか?

それと、あなたが外に出掛けられない原因はなんでしょうか?

観童

8月17日 受信

観童さま。

先日は、お盆休みのなか、ご連絡してしまい、大変申し訳ありませんでした。

そして、お忙しいなか、ご返信頂きありがとうございました。

まず、四年前に仕事を辞めた経緯ですが、当時、私は契約社員として働いていたのですが、その年の三月に契約期間が満了になること、そして自分のなかでも、やりきった感がありましたので、契約更新は可能な状況ではありましたが、辞めるという決断を下しました。

しかし、今振り返ってみますと、次の方向性が決まっていない状態で、辞めるという選択をしたことは、少し軽率だったと思います。

次に、なぜ外出できないのか・・・仕事を辞める辺りからでしょうか、以前観童さんがブログでも書いておられた、潔癖症の症状が出てきました。

実は、中学生の時にも、同じような経験をしているのですが、その時は、ある日突然嘘のように潔癖症の症状が消え、その後、時々軽い症状が出ることはありましたが、生活に支障をきたす程のものではありませんでした。

さて、仕事を辞めた辺りから出た潔癖症ですが、その後だんだん症状が重くなっていき、今後のことを考える余裕もなくなっていくことで、だんだん気力もなくなっていき、死んだらどうなるんだろうとか、何のために生きるのかといった思いも出てくるようになり、だんだん外出する機会も減ってきました。

現在は、以前に比べると、だいぶ楽にはなりましたが、いつも霧がかかっているような感じで、体も重く、なかなか晴れやかな気持ちになれない日々が続いております。

それでは、どうぞよろしくお願い致します。 KA

 

8月19日 返信

KA様

仕事を辞めるあたりから潔癖症の症状がでてきたということですが、ちょうど仕事を辞めるあたりは、あなた自身のなかにも疲れであったり、ストレスであったりと溜まっていたものがあったのではありませんか。

仕事を辞めるということは、時間がたっぷりあるわけですから、体よりも頭で考え込んでしまうことのほうが多いはずです。

実はこのことが非常に心身のバランスを崩してしまうことにつながっていくのです。

人間は程よく動き、休み、思考するということの繰り返しのなかで健全に生きるようにできています。

どれが突出してもバランスを崩すきっかけになるものです。

潔癖症の場合、突き詰めていきますと、その根底にあるのは拘りです。

不要な事に拘っている自分を正しく自分自身が理解しているかどうか。

先ずは、この辺のところを省みてはいかがでしょうか。

何事にも、拘っている自分が認められたならば、あとはそれを改善していく為の手法に従って少しずつ実践していくことです。

苦しみは心の滞りによって発生するものです。

心も循環しなくては健全とはいえないでしょう。

観童

 

8月21日 受信

観童さま。

お忙しいなか、ご連絡頂きありがとうございます。

メール拝見させて頂きました。

観童さんの仰る通り、体よりも、頭で考え込んでばかりおりました。

暇な時間がありすぎると、人間というものは、ろくなことを考えないものですね。

始めは、小さな拘りであったものが、雪だるま式にだんだん大きくなって、それに縛られ、身動きが取れなくなってしまう。

結局、自分で自分のことを苦しめていたように思います。

観童さんのアドバイス通り、まずは、不要な事に拘っている自分を正しく自分自身が理解しているかどうか、そのことについて省みるところから始めたいと思います。

そして、程よく動き、休み、思考するという生活サイクルを実践したいと思います。

以前、ブログで、『心から喜べる仕事、誰かの役に立てる仕事、喜びを共有できる仕事を必ずみつける。それが私の「夢」でした。』と書かれていましたが、私にも、同じ想いが今あります。

同じ記事で、『我欲は捨ててもよいが希望は捨ててはいけない』とも、書かれていました。

私も、希望を捨てず、頑張っていきたいと思います。

今後とも、ご指導どうぞよろしくお願い致します。 KA

 

23日 返信

KA様のメールを拝見していて思う事。

とても文章表現が上手だということ。

これだけ要点をまとめ、言葉にし、ブログの読解力もあり、捉えどころが良い。

そういうあなたが何故、小さな拘りを大きくしてしまい、自分自身を縛って身動きがとれなくしてしまうのでしょうか。

実は、このことに関しても既にあなたは答えを持っておられます。

ですからあなたにアドバイスできることは、これまで申し上げたとおりでございます。

あとは、あなた自身の生活をシンプルにすること。

シンプルにするとは余分なものを捨てることです。

捨てるとは、物のこと以上に、心のなかのゴミを整理してしまうことです。

これをするために外に出て行動すること。

汗を流すこと。

食べること。

眠ること。

時間に起床すること。

太陽を浴びること。

でしょう。

あなたが言うように、「心から喜べる仕事、誰かの役に立てる仕事、喜びを共有できる仕事を必ずみつける。」ということが夢であれば尚更のこと、あなたの場合は中ではなく、外にでることをしなくてはならないでしょう。

どれほど素晴らしい夢や希望を持ってはいても、自分を愛せず、自分が幸せを実感できず、人の役に立とうというのは無理がありますし、正しい生き方とはいえません。

是非、行動してください。

小さな一歩を踏み出し、実践してください。

そういった継続こそが自分の人生を真に豊かなものにするのです。

失礼いたしました。

観童

 

 

8月27日 受信

観童さま。

先日は、お忙しいなか、ご連絡頂きありがとうございました。

今回も、頂いたメール、何度も読ませて頂きました。

『文章表現が上手・・・』そのようなこと、今まで言われたことがありませんでしたので、驚きとともに、嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございます。

そして、今回も心に響く助言を頂き、ありがとうございます。

今週の月曜日に、観童さんがブログで書いて下さった記事のなかの文章で、

『花が無心に咲くところに、゛精いっぱい゛のよろこびを他に与える事実を感じます。』
この文章と、今回頂いた助言には、すごく通ずるものがあるように感じられ、今回頂いた助言に対する理解がより深まったように思います。

今回頂いた助言も、是非、実践していきたいと思います。

ブログへの掲載についてですが、私自身、今まで皆様と観童さんのやりとりから、多くのことを学ばせて頂いておりますし、掲載して頂くことは全く問題ありません。

少しでも、皆様のお役に立てれば幸いです。

今回は、お忙しいなか、貴重な時間を割いて、ご相談にのって頂き、ありがとうございました。

今回頂いたメールと観童さんのブログを心の指針にして、これから一歩ずつ進んでいければと思います。
KA

KA様。掲載を快諾くださいましてほんとうにありがとうございました。この場を借りて心から感謝を申し上げます。感謝

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