愛と憎しみの輪廻

いつの世も男と女であるが故に、ともに必要とし、ともに暮らしながらも行き違い掛け違い、傷つき、大切なことに気づく人もあれば、離れて別な人生をゆく者もいる。

この地上生物は、互いに相反するようなかたちをとりながら、共存関係にあるというものが実に多い。

人間も全く違う男と女が相互協力しなければ、人類は滅びるだろうし、この絶対的な仕組みは何人も侵すことができないのである。

私たち人間の心の内にある愛と憎しみは、裏表の関係であって別物ではない。

何故なら、愛も憎しみも一つの心から生まれる働きだからである。

「愛」は相手があって育むものですが、これは時間がかかるだけに、生涯を通じての人類のテーマでもある。

一方「憎しみ」は一瞬の自我感情で起こりうるもので「愛」が一転して「憎しみ」に豹変する場合がある。

愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、実は、これは身勝手で自己中心的な考えにほかならない。

押し付けの想いは真実の愛ではないし、自己都合による愛の押し付けは、拒絶と不信感を持たせ双方の間に大きな壁をつくることになるからである。

争いや憎しみは個々の持つ愛の違いから発生するものですが、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

本当の愛はこのような行き違いを超えたところに信愛として在るものであろう。

人間は何故に、争い憎しみ合うのか、自分の想いを通したいという自我がそうさせているのである。

幸不幸とはよく言うが、自分を通したい自我の強い人は幸せの心に気づくことは難しいだろう。

人間は平和で豊かなときには手に余るほどに欲張ってはいても、いざ、どん底まで落ちたり、崖っ淵の瀬戸際までくるとお互いに手を差し伸べている。

そんな光景の背景には人間が天からいただいた本性である慈しみそのものを見ることができる。

そして人間はどんなに怒ってみても憎しみを以ってしても、それで事態が好転することはない。

憎しみによってお互いが傷つく前に智慧をもって気づかなければならないであろう。

また『許すこと』も愛であろうし、如何にすれば事態が好転するのか理性と智慧を以ってすれば必ずや妙案も出てくるし、お互いが心地よく理解しあえることのなるのだ。

怒りは破壊のエネルギーであり全てを壊し、憎しみをつくり事態を悪化させるだけである。

「愛」には様々な言葉と形態があります。愛育 、 愛嬌、 愛護、 愛妻 、愛情 、愛想 、愛憎 、愛着 、愛念 、 愛欲、 愛娘(まなむすめ) 愛妻(めづま) 、渇愛、 割愛 、求愛 敬愛、 自愛 、慈愛、 純愛、 情愛 、深愛、 親愛、  溺愛、 熱愛 、博愛 、無愛、 友愛、 恋愛 、等々とたくさんあるのですが最終的には「他者を受け入れて慈しむ」ということに尽きる。

是非は別にして、「あるがままに愛しむ」「無条件に受け入れる」ことが愛の原点であることは確信する。

赤ちゃんが慈しまれて成長するのも「愛」そして、その愛を発揮する親本人自身もまた、自らが慈しまれている存在であることを確認できるということです。

大事なのは、このような他者への愛の投射によってより、自らも愛によって成立している存在であるということが確認できるということです。

愛は輪廻するのである。循環しているのである。無力な赤ちゃんにとって、親の「愛」は単なる愛情ではありません。

人として生きるために必要不可欠な空気や水のようなものです。

なければならないものです。

赤ちゃんへの「愛」の完全なる欠如は、肉体的な死に直結します。

きれいごとの愛とは無縁の、欠くべからざる欲求として「愛」は求められます。

「憎しみ」は「攻撃」の感情です。憎しみは、自分に「愛」が注がれていないことに気付いた時に発生します。

ですから、「憎しみ」は他者を破壊する感情であって、自らの存在を維持する為の他者に対する防御的攻撃ということができます。

憎しみが本能的感情であるのは明白でしょう。

このような意味合いから「憎しみ」は自己保存に原点があります。

憎しみは互いに憎しみを呼び連鎖するものです。つまり輪廻循環するのである。

愛が憎しみを生ずるというのは、執着心にほかならず自己愛を本質とするからである。

人間の心のなかにある愛、そして憎しみという煩悩、それらは武器を持ってわたしたちに襲いかかってくるわけではない。

それなのに、私たちはそれらのものを制御できず、知らず知らずのうちにその虜となり、召使いとなって煩悩の命ずるままに動かされている。

いったいなぜだろうか?

自我感情であり執着である。心に執着という重いものを持っていると軽やかで暖かい愛を与えることはできないであろう。

正真正銘の愛は、惜しみない寛大さを伴うはずです。愛と寛容はいつも共に存在する。

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運命と因縁因果のしくみ

花が咲き実がなる姿を、ひとつの結果という言葉で表現するなら、そこには当然原因があるわけですが、では原因はとなると、昨年の実が土に落ちたり、宿根があったからで、そして種や根は、土や水分、養分、光合成というがあってはじめて成長をし、やがて花が咲き実をつけることになります。

きょうは原因結果によって成されることを述べてみますが、これは人生にも当てはまる宇宙の法則ではないだろうか。

因縁因果は別の言葉でいえば循環の法則をいったものです。何故なら原因と結果は相互に関連して繰り返すものだからである。

人の心が病むにはそれだけの原因がある。悪を思えば悪、善をえば善のが返ってくることになり、この様な原因と結果の相互関係は極めて宿命的な関係であって避けることのできない性質をもっています。

前世の因縁が今世の因果をつくっているというようなことをよく言いますが、これは根拠が非常に曖昧(あいまい)で、いまの結果を見て前世を語るには余りにも無理がある。

あの世での生活が前世と今世の間で営まれており、そのときに前世の因縁をある程度修正してから人は生れてきているわけですから、その人の前世の因縁がそのまま今世の因果となることはないのです。

このようなことから、前世で泥棒をしたから今世で貧乏するとか、前世で人を殺したから今世で殺されるということはないでしょう。

また前世で夫につらく当たったから今世で夫から罵倒されたとか、暴力をうけているのだということはないのです。

ただしこのようなことは言える。前世の因縁は今世でもその縁に引きずられる要素は持っています。それがために今世でも同じようなことを繰り返してしまうことも間々あるのです。

例えば前世は職人であったけど、今世では経営者になりたい、前世では教師ではあったけど今度は政治家になりたいと生れる前に計画していた人が生まれたのちに環境や教育、思想、習慣などの様々な理由から前世の経験に引きずられて再び同じ職業に就くというようにです。

因縁因果は前世と今世についてみた場合、このように全くストレートに現れてくるものではなく、この世において作り出した因縁に因果がついてまわるということです。

これが因縁因果は循環するということの意味であり内容である。

したがって『何代前の先祖が成仏できないが為にあなたが問題をかかえているのだから先祖供養をして運を良くしなさい。』とか『あなたが前世で悪事を働いたから今世で貧乏しているのだからカルマの解消のために先祖供養して徳を積み先祖からの守護をいただきなさい』などというのは全くあたらないし、運命と因縁因果の本質から離れた、ご都合主義の話しです。

このような事をいう霊能者や拝み屋、占い師、などがいたら出入りすることはやめたほうが痛い目を見ずに済む。

さて悪質で暴利をむさぼる者が栄えて、善人がひもじい思いをするのはおかしいではないかと反論する人がいました。素朴な疑問である。

しかし、この世で如何に金銭的に栄えようが地位や名誉に評されて表面的には人生の勝ち組にみえても、その人の心の状態をみると地獄である場合が多いのです。

人生の価値をどこに置くかは人それぞれですが、経済的な豊かさや地位や名誉などの肩書に執着すると間違いなく魂はスモッグで覆われてしまい、行く先は天にとはいかない。

魂の財産は執着のない澄んだ心であり、それだけがあの世の行先を決める絶対的要素である。死んで人生が終わるのではない、まして眠るのでもない、意識は生きつづけて次元の違った世界で暮らすのである。

因縁因果はこの世の価値とする外見的なものでは推し測れない場合が少なくありません。

さて運命についてですが、文字通り命を運ぶとなります。一般的には宿命的なものように考えられていますが実際はそうではありません。

運命は自分で切り開いてゆくものであって人や環境などに押し流されるようなものであってはならないでしょう。

ただ人にはそれぞれに、この世で果たすべき役割があります。

例えば男は男としての役割、男女の相違です。才能の違いによって就く仕事の役割。器の大小による立場の役割。性格の違いによる適材適所などというようにです。

このようにしてそれぞれの要件の下で役目を果たしてゆくのですが、その限りでいえば運命は決められているといえるかもしれません。

因縁因果が宿命的な運命となって現れることは原理的には多少は言えるのですが、人間は本来自由に意思を持って自由に創造してゆくものですから、宿命的な部分に自分を翻弄されることは自分を見失ったことを意味します。

これは正しい生き方から見た場合大変な損失になります。

本来、人間としての心穏やかな日々と正しい生き方をして真の人生の意義に気づきたいならば易占いや霊能者などに自分の将来を宣託してもらうようなことはすべきではありません。

同じく営利主義の宗教団体などでその都度金品を支払い、人生相談や先祖供養を行うことの危険性は依存信仰であって、心の学習と自立心を養うには悪影響以外のなにものでもない。

やがては心身ともに蝕(むしば)まれてかえって人生を不幸にする場合が多いのである。

実際にそのような方々の相談をうけてきたが、信仰をして心が穏やかでなく、いつも迷いのなかにいる人が多いのは矛盾する宗教指導や、営利目的だけの、根本を間違ったカウンセリングなどに依存することを考え直さなければならないでしょう。

人生における答えは全て自身の心のにあることに気づかなければならない。にあるものは、あくまでもヒントであり指針であるだけです。

『真理はどこにあるのか』とよく聞かれますが、真理は自分の心のなかにあるのです。

心は天に通じているから心に真理があるのです。正しい法則は調った自分の心の中に存在し、自分の私心(我欲)を捨てて耳を傾ければ正しい答えが必ず得られるものである。

その為には自分の行いを客観的にみる習慣を身につけることで可能となる。

『一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜を行く。

暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ。

只(た)だ一燈を頼(たの)め。』

※ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、一燈とは自己の限りない向上心、執着のない心をいうのであろう。

弟子の阿難が、釈尊の最後が間近いことを知って、「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながらに訴えた。

釈尊はいわれた、阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」と。『自灯明・法灯明』

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因果と孤独な最後

妻の死に顔を見ては涙を流し、弔問客の慰めを聞いては涙し、うろたえる老人の姿。

妻に先立たれた夫のSさん80歳は、悲しみに暮れてやりきれない虚脱感に夜な夜な酒場に顔を出し、酔ってタクシーで帰宅するようになった。

『愛別離苦』愛するものと別れなければならない苦しみは誰も避けて通ることはできない。

しかし自宅は仏壇にある家内のほほ笑んだ写真だけで待つ人もなく、わびしさだけが襲ってくる。

受け入れがたい現実に淋しさが毎日のように続いた。

そんな姿を見た子供たちは、『いい年をして飲み屋に通うなんて困ったもんだ』と冷ややかな視線を送っている。

息子は県外に居住して帰れない事情があった。娘たちは皆、同じ街に居住しているから時々行き来はしているが、老いて伴侶を失った男の一人住まいは孤独に悶々とする日が多く、淋しい感情は払拭しきれないものがある。

そうして妻が亡くなった2年後に始まった症状は、小便の出が悪くなり検査をしたら前立腺ガンと診断された。進行していた。Sさんは動揺した。

宅地の一部は道路に取られ、所有の畑と山林は新幹線にとられて土地の代金が2千万円近く入ったが、家の修繕に400万円が消えた。

淋しさで出歩いた飲み屋などの遊行費と末娘の借金にせびられて大部分のお金が消えていった。

末娘の見栄を張った身の丈以上の生活には他の姉や兄も呆れていた。

ただ一人の息子Tさんにも言葉を残さず死んでいった。Sさんが亡くなったときに葬式代を支払ったら預金通帳がほぼゼロになった。

末娘以外の長女と次女は憤懣やるかたない態度で散々文句を放っていた。

Sさんの若いころの家庭は夫婦の争いが頻繁で暴力行為もあり酒びたりだった。

子供たちは戦々恐々とし悲しい思いをして育った。特に一人息子の長男Tさんが子供の頃、そんな父親に不信感を疑問をもって、布団の中で悔しさに泣く毎日だったのである。

親からは平和で優しい愛情を頂けなかったTさんではあるが、その彼も団塊世代。今は愛を持って人々に奉仕している。

Sさんは83歳で娘たちに看取られて他界したが、若いころの心不調和な生き方は老後の最後に影を落とす週末となった気の毒な生き方であり、幸せな最期とはいかなかった。

それは苦悶の死に顔に、悔いを残す表情がハッキリと見えていた。このSさん自身も婿で入ったために親戚筋からの中傷に耐えかねて酒浸りになり、うさを晴らす毎日だった気の毒な人なのである。

人生は不思議なものです。

この世の地獄をみた子供が後に穏やかな人生を歩んでいるかと思えば、幼少の頃より全てに、恵まれて何不自由なく豊かに暮らせた子供が罪を犯し、再犯を繰り返している転落の人生もある。

ここに、過去世を超えた、この世での不調和な生き方の因果を見ることができるのである。

それだけに、この世で生きることは、自らを律して足ることを忘れず、不満と愚痴と怒り、恨み、妬みの心を待たぬ強い決心と勇気が大事なのはおわかりであろう。

とは言っても、私達の日常には受け容れ難い事が起きるものです。不条理なこともあるでしょう。

御主人の両親と同居して傲慢な義父の言葉と行動にパニック症状まで発症した気の毒な奥さんもいます。

こうなると不満も出てきます。愚痴もこぼしたくなるでしょう。時には怒りさえ覚えることもあるだろう。だが、それだけでは問題の改善や解決にはならない。

自分の努力だけでどうにもならないときは環境を変えてみることも必要な場合がある。

そうすることで心の執着、不調和が改善されるのであれば離れてみることも有効な選択肢である。

我慢に我慢を重ねて心が暗くなり、恨みの気持が出てくるようなら、それは回避することも必要であろう。

『怨憎会苦』怨み、憎しみをもつ人にも会わなければならない苦しみもまた、人生にはつきものです。

人間はどのような環境で生活しようとも、、その生きる目的は、ただひとつ、魂のステージアップこの一点なのである。

登山の目的は途中を楽しむことにもありますが、究極はやはり頂上を目指すところにあります。

登山道は東西南北どの方向からでもいくつもあるように、人生の学びにも道がいくつもあります。

そして、人生の学びには登山のルールとマナーが必要なように法則と秩序が必要だ。

その学びは中道に沿った、偏りのない思念と行動することが基準でなければならない。

それは愛と慈悲が根底になければ、法則と秩序とは成り得ないのである。

すなわち人生の頂上は愛と慈悲を我がものとして自覚することである。

この頂上を体験して目覚める時にこそ、私たちは何事にも執着することなく、全くの自然体で人々と共に分かち合うことを率先して行動できるものなのです。

心はふるい立ち

はげみ、身つつしみて

おのれを調うるもの

かかる賢き人こそ

荒波もおかすすべなき

心の島をつくるべし

※辛く苦しい時も心を奮い立たせ、精進して、自分を調える人こそ、本当に賢い人であり、荒れた波も、このような人の心は打ち砕くことはできないものだ。私たちはこの様に、荒波にも打ち砕かれないような島を心に養うことだ。

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先祖供養の真偽は?

姉が亡くなって一周忌を過ぎたが、気持ちが沈んで半うつ状態で毎日が哀しみの連続だという60代の女性がみえた。

『ちょくちょく姉の夢をみて辛いです。いつも供養しているんですけどね・・・・・・・』

あなたが思う供養とはどのようなものですか?

『家では毎朝、仏壇に供え物をして、経本を読み仏さんを拝んでいます。』

わかりました。ところで、あなたはお経の意味は理解しておられますか?

『いいえ、何も知りません。』

お経だけではなく、あなたが理解していないことを人に伝えることができますか?

『それはできません。』

伝えることができないと思う読経を一生懸命やる理由は何故ですか?

『菩提寺の和尚さんに、このお経は非常にいいお経だから読経して供養しなさいと聞きました。』

ところで、話は変わりますが、あなたが子供や孫たちに希望する親孝行とはどのようなものですか?』

『私は、子や孫や家族みんなが仲良く平和であれば後は何も望みません。』

今のあなたの、その思いは、あなたがあの世に行っても同じですよね?

『はい。そうです。変わりません。』

ということは、何も要りませんよね?

『はい。皆しあわせであれば、それで満足です。』

それなら、あなたがあの世に逝ったあと、意味のわからないお経をあなたのためにと子供たちに読誦(どくしょう)してほしいですか?

『いいえ、思いません。』

あなたも望まないことを今まで亡くなったお姉さんの為にと思って意味の分からないお経を唱えてきましたよね。あなた自身が望まないようなことを故人の為にすることは果たして、供養でしょうか?

亡くなったお姉さんはお経を望んでいると思いますか?お姉さんは生前にお経の意味を知っていましたか?

『・・・・・・(ー_ー)!!』

私は、あなたを追及したり、責めているのではないのですよ。本当の供養は、故人の意思を尊重して私たちがそれに応えること、思いやることだと思えませんか?

『その通りですね・・・・・』

あなたが毎日、毎日、お姉さんのことを思い悲しみ、心までうつ状態になっていたらあの世のお姉さんは、あなたの姿をみて悲しむだけなんですよ。

お姉さんが一番うれしいのは、あなたが心穏やかに健やかに生きることなんです。

数十年後にはあなたもお姉さんと同じ立場になるのですよ。その時に、あなたの子供たちや孫たちが毎日、毎日、悲しんで泣いてばかりいたら、いくら仏壇の前でお経を読誦しようが、あなたもあの世で切なく哀しくなるでしょ。

女性は大粒の涙を流して嗚咽した。

『初めて大事なことに気が付きました。』

あなたは真の供養の意味を知らなかったために間違えていただけです。これからはあなた自身が心健やかに生きることを考えてくださいね。

家族みんなが平和に暮らせていることに感謝できるなら、そのことに報いて明るく生きることです。あなたのお姉さんが望むことはそれだけです。

『はい。ありがとうございます。』

愛別離苦という言葉が意味するように、この世に命を頂いた者は必ず愛する者と離れるときがくるのです。しかし、いつまでも悲しむことは、愛する者の心にも影を落とすことになるのです。

こんなやりとりを1時間ほどしてたくさんの涙を流したが顔には笑顔が見えた。

この女性は現在、心身共に健やかに日々を過ごしておられます。

僧侶の教えではあろうが、生前に生活の習慣になかったお経に関して、故人のためということで読経しても、実際のところ殆どその用を成さないし、形とパフォーマンスにすぎない。

先祖供養は親孝行だという真意を知り、人は何のためにこの世に生れて、何の為に生きるのか、そして誰もが迎える死をどのような心構えで受け止めるのかを学び、知ることは人生を良きものにするためにも必要なことでありましょう。

人は魂の、より一層の向上のために、この地上に命をいただくのである。そしてそのことの為に逆境にあったり、試練を乗り越えたり、幸不幸を体験したりするこが欠かせないのである。

『幸せになるために生まれてきた』という人もいるが、それは、魂の向上のための一つのプロセスに過ぎない経験であるということです。

日本の国は、おおよそ葬儀は仏式であろうが、これまでの因習のために、一般的にはどこの家庭でも供養という美名のもとに仏壇の前で訳のわからないお経をあげ、線香や供物や灯明や金銭などを供えてきた。

しかし、これで個人が成仏できるか否かは全くの別問題であることは殆んどの人々がその真実を知る由もない。死者と会話するのは日常の言葉であり、その想いである。

となると、漢文を読むだけで死者も、自分自身も意味の解らない、通じない文章を読経することに意味があるのではないことは十分にお分かりであろう。

『法華経の真実を伝え先祖供養を、まごころをもって代理供養致します。』という僧侶がいたが、法華経の教えには代理の先祖供養など説いてはいないのである。

この僧侶はしっかりとビジネスをしている。このような所に真実などあろうはずがないのです。

宗教界については死者にたいする供養の在り方を疑問をもって考えさせられるが、この世で生きる人々の心を正しく導くのが宗教家や僧侶の責務ではなかろうか。

しかし、実際は真実から程遠い教え、情けないが、これが現実なのである。

仏教は哲学や学問ではないし、またそうあってはいけない。人々の生活と心に寄り添ったものでなければならないのである。

事の真実はというと、亡くなるまで何かにつけて執着して囚われていた心の人間が死んだ途端に悟って成仏することはないのです。

生前は言葉も荒く、行動も自分勝手な自己中心的な心の人間が死んだ場合、4次元世界に移行したからといっていきなり成仏はできないのです。

4次元のあの世は何段階にも分かれていて魂のクリーン度、及び執着度によって行く世界が異なります。

執着度とは不満、愚痴、怒り、妬み、恨みなどからくる心の不調和な程度のことです。

偏った心はそのまま執着となります。煩悩という言葉がそれです。

調和とは右にも左にも偏らないバランスのとれた心の状態をいいます。中道という言葉がそれです。

従って、心の不調和な人の魂は自分のレベルに沿った次元のあの世にしかいけないのである。

このような魂は、経文の意味をよく知り大悟された方ならば読経の波動に慈悲のエネルギーを乗せて死者の心に届けられるのですが、私たちがいくら形骸化したお経をあげようが心に届くことはないのです。

意味の分からないものを伝えようがないではありませんか。まして代理供養などと笑止千万である。

唯一、供養の手段としてできることは、この地上に生きている私たちが先ず、心健やかに暮らすことを故人にみせてあげることです。

この世の和気あいあいとした家族の姿や兄弟の姿、子供の姿をみることで故人の気づけば最良の供養となるのです。これがまさしく愛であり、慈悲です。

真の供養とはお経や供物にあるのではなく、私たちが不満愚痴を言わず、足ることを知って、怒ることをせずに心健やかに生きること。このような生きざまを故人、先祖に見ていただくことです。

これが最大の親孝行です。親孝行が最大の供養なのです。先祖供養は調和された家族愛にあるということ。これこそが先祖供養の真実であり、仏壇の前の勤行には非ず。

こころ

安住することなく

正しき真理をも知らず

信ずることの

定まらざるもの

かかるひとに

智慧は満つることなし

※心と言うものはいつも止まることなく動いているものだが、事の善悪、社会の秩序なども悟ることなく、まして自分自身も他人も天地の真理も信じることのできない人は、心の底から湧き出る工夫も生き方もない。

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憑依霊との問答と供養

I・Mさん32歳。真夏の暑い日の出来事。

この女性はテレビ局の営業担当に就いており、仕事の都合で接待の為に居酒屋に入ったが、その時に背中に異様な寒気がして気分が悪かったという。

それから毎晩寝つけず、部屋の隅には人の影が見えるし、嫌な夢を見て寝汗をかき、疲れきって相談に見えた。

私は、事のいきさつを聞いていたが、途中で話しを制止して先に憑依霊を離脱させることにした。

このような場合真言を唱えるとか、お経を読誦するとか、祝詞をあげるとかすることはない。この女性憑依する霊を光りの球体で包み込んで間もなく様子が一変した。

女性は鼻水と口からはよだれを流し、四つん這いになって苦しそうだ。憑依霊は女性の体を支配し口を借りて語り出した。

『俺が悪いのじゃない。借金が苦しかったからだ・・・』

あなたは自分が死んだ理由を借金のせいにしているが、自殺をしたのではないか?

『ん・・・・首が痛い、苦しい、』喉に手をあてている。

首を吊って死んだのだな?うなずく。

『・・・パチンコで借金をした。苦しい・・』

あなたは自分の道楽のために多額の借金をつくって、その為に八方ふさがりになって、自暴自棄になり自殺をしたのだろうが、それは正しい生き方ではありません。自ら命を絶つことはいかなる理由があろうとも許されないことです。

あなたは自我のままに生きてギャンブルにはまり、身動きとれない状態まで自分を追い詰めたのです。自業自得です。

その意味ではあなた自身も、よくよく自分を省みて心改めることをしなければいつまでも今の苦しみは続くのです。

あなたは地獄にいるのです。あなたの心の在り方と生き方がそうさせているのです。

『苦しい・・助けてください。』

よろしい。あなたが天上界に行けるように計らいましょう。

私は守護霊と指導霊の協力をいただき、ガイドの媒体となって女性に憑依している男性霊の霊体と魂に慈愛の光りを照射して包んだ。いわゆる浄化である。

やがて男性霊は心身が安らぎ、女性の体から抜け出て、然るべき霊界まで私の守護霊に送り届けていただいた。

この男性の霊は、あの世の修養所ともいえる施設で、心のテージが一定の段階に達するまで、人生の一切を猛反省をすることになるだろう。

この光景の一部始終を見ていた人たちは始めてみる様子に唖然とした表情だったが、あの世と霊の存在を認識する機会になったものと思う。

このような一連の対応は私の仕事ではないし、これに生計を委ねているわけではない。当然ながらいつも奉仕活動である。一切のお礼もお断りしている。

まして宇宙エネルギーとして受ける慈愛の光は天の恩恵であり、それは金銭に換算できるものではないからです。

今回の事例でもわかるように、死後の世界、それは事実、存在するということだ。

この女性の日ごろの精神状態が非常に不調和なために、類は類を呼ぶという波長共鳴の原理とその働きによって憑依されたのである。

このようなことにならないためには、やはり、日ごろから、自分の想うこと、行うことのなかで物事に執着したり、不満や愚痴や、怒り、恨みの心を持たない生き方をすることである。

それができていれば憑依されることはない。

いずれにせよ、生きている私たちが、健康で平和な明るい家庭を築くことが、死者に対する何よりの供養だと言うことです。

更に、この地上の調和が無くして先祖とか死者の供養とは成り得ないのだということをご理解いただきたい。

死後も、現世のままの連続体だといえよう。その意味で、この世で不調和な人はあの世に逝っても、当分は心が調和できるまで時間を要することになる。時間というより年数といえる。

ただ、あの世の場合は、心的変化がこの世よりも遥かに精妙な世界なので、思うことがそのまま、現象化する世界だから、不調和な心もまた現象化するということだ。

それだけに死者や先祖に対しては、生きている人々の調和された心と行いの積み重ねによって、正しく導いてやることだ。

そのことにより彼らはやがて、自分の内に在る神性仏性を思い出し、必ず、いつの日か救われることになるのである。

その結果、子孫は災いに触れることもなく、繁栄し、平和な環境が生れてくるのだ。

供養は、感謝する心を報恩として大調和を築き上げていくこと、そこに本当の意味があるものです。

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天国と地獄の行き方

一つの家のなかに天国と地獄がある80代の老夫婦と50歳の息子夫婦4人の家族があった。子供二人は県外の学生である。

老夫婦はお爺さんが現役の頃は高給取りで、お婆さんは結構な贅沢三昧の生活をし、我を通し、いつも夫婦で言い争いをしていたようだ。80半ばを過ぎた今でも言い争いは健在のようだが、当人たちはそれが苦しみの元になっているとは気づいていない。

この家族は心が穏やかで調和された嫁さんのお陰で天国が造られているのだが、時として老夫婦だけは自己中心な言い争いで怒りをあらわにし罵倒しあって地獄をつくっている。

苦しんでいる時の私たちは、昨日のこと、過去のことに心を引かれ、また明日のこと、先のことを心配して不安な気持ちになっています。

ある程度の予定や計画に関して先のことを考えることは必要な場合もあるのですが、余りにも先のことに囚われ過ぎてしまうと苦しみとなってしまうものである。

時間には過去と現在と未来がある。そして、この地上に自分があるということは、その人には必ず過去世があったのです。

当然ながら、人間の魂には過去世、現世、来世があります。

人間は偶然に両親から生まれてきたのではない。

過去世とは、私たちが今生活しているこの現世界からいうと、あの世であり、またかつて自分が地上で生活した前世のことである。

私たちはいま苦楽の人生を学習しているが、現世に生れる前は、実在界(あの世)すなわち天上界で生活していた。地獄界からは生まれてくることはできない。

私たちはあの世とこの世を往復して輪廻するのです。

その人生における生きざまは人それぞれですが、前世において、暗い想念を持って地獄へ行き、そこから魂の浄化に努めてようやくの思いで天上界に進化した者もいるでしょう。

地獄界に堕ちた者も、死ぬ前には、人生の目的を果たせなかったが、それでもこの地上における生活があったのである。

人生の目的がなんであるかを気づけず、また知らずにあの世に還る者たちは多い。

人類共通の最大目的が魂の向上にあり、地上の楽園建設であることに悟れなくても、心の調和された人は、魂が慈愛の光りに満たされているため、その人の心の調和度に比例して天上界に返っていく。

つまり、死後におけるあの世での居住地は魂の調和度いかんにかかる摂理となっているのです。

人間は、過去の世において体験した色々な知識と記憶は魂に刻まれて、不調和なことは業となり、調和されたことは慈愛となり残っていく。

しかし、この3次元の地上に出た瞬間に、魂の90%の意識が潜在意識となってしまうために、私たちは過去世の事を思い出すことが難しくなってしまうのだ。

体験してきた、過ぎしあの世とこの世が、過去世といわれている世界ですが、これは転生輪廻していれば当然のことではないだろうか。

CDのように人間の魂、すなわち意識のなかには、厳然として、過去世の記憶が記録されているのです。

この地上界は、最も個体的な、それだけに不安定、粗雑な粒子の世界で、そこに住む人々の霊的波動の状態によって変化しやすい。

つまり、悪は不調和な霊波動を造り出して影響を与えるし、善は精妙な調和された霊波動を造り出して影響を与えることができるのである。

何故かというと、この地上界は、万物の霊長である人類が調和された地球を完成するための目的で、天の意志によって肉体を持って地上に出てきたからである。

しかし、その人間が、己自身の使命や目的を忘れてしまうために、心を乱し、物に執着し、金に執着し、名誉や地位に執着し、不調和になり、そしり、怒り、嫉み、恨み、あらゆる欲望と闘争と破壊の渦を造り出してしまう。

このような愚かさを、私たちは悟らなくてはならないだろう。

この地上界に出た先祖のなかには、地獄界に堕ちて厳しい修行を余儀なくしている者も多い。

彼らは死の際に、地上に残してきた物や人への執着心が強い者たちで、その為に地獄霊になったり、憑依霊として、同じような心を持っている地上の人間のなかに乗り込んで、この世の人心を乱したり、治安の不安定にまで影響した世相を造り出してしまうのである。

人間の心は『一念三千』と仏教では説明しています。

つまり、心の針は、その人が何を思うかによって、暗い地獄界にも、光明に満ちた天上界にも自由に通じることをいっている。

それだけに、思うこと自体、中道を根本としなくてはならない。ということはこのような理由による。

それはこの地上では魂の10%の表面意識で、五官を通して判断するために、次元の異なった世界を知ることはなかなか難しいからである。

それゆえに、この地上界は、物質と生命が混在した『不二一体』の世界であるといえよう。

あの世、すなわち地獄や天上界においては、潜在意識が90%と、この地上界とは全く逆の意識状態であるため、他人にも自分の思っていることが表面化して解ってしまう。

それだけに、あの世においては、肉体や物が無い分だけリスクも少ないが気づきも小さく、修業と言う目的を果たすことが難しいのである。

この地上に下生して肉体に乗ってしまうと、魂の90%は潜在してしまい、わずか10%の表面意識だけで盲目同然の意識であるため、他人には心のなかを知られることが少ないし、また他人を偽ることができ、それだけに、自らを正しい心の尺度で判断して行動しなくてはならない。

従って、私たちの魂の修業の場としては、この世は、あの世に比較して適しているといえよう。

本来、次元の異なった世界からの通信メッセージを、受信はできるが、それはその人の心の調和度によって大きな違いがあり、普通は非常に困難なことである。

それはこの地上3次元の場から考えても明らかである。

鏡に映っている人に声を掛けても通信はできないし、映画のスクリーンに映し出された人々に声を掛けても通信することはできないのと同じことだ。

三次元の私たち観衆からはスクリーンの人は見えてはいるが、2次元世界のスクリーンの人からは、私たち3次元の人は見ることができない。

ということは、私たち3次元の地上世界から4次元世界のあの世にコンタクトするには私たちの心が4次元世界と同等、もしくは、それ以上の霊性まで精妙にアップされなければできないということが理解できるであろう。

あの世とこの世は、このように遠いところでもあり、近いところでもある。紙一重の表裏の世界だ。

つまり、それは意識の世界であるからだ。

しかし、心(魂)の修業ということを考えれば、この地上世界には、私たちの肉体を維持、保存できる環境の一切が提供されている。

これこそ、天の心、すなわち、慈悲と愛の現れだといえよう。

私たちは、この意味で、今の環境に感謝することが当然であるし、この感謝の心を、報恩という行為にすることが人間の道なのである。

つまり、自分にできるかたちで人類のために奉仕することが大事ではなかろうかということだ。

例えば、生活ができたならば足ることを知って、余った分は、人々の為に報恩という行為で現さなければならないということです。また知恵を提供するもよかろう。体で奉仕するもよかろう。技術を提供するのもよいでしょう。

魂の向上は、心の安らぎであり、客観的には、囚われの少ない精神状態である。

心の安らぎは調和であり、調和度が増すにしたがって、この地上は、平和なユートピアとして、精妙化されていくといえよう。

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夫婦のカルマ(結婚・離婚・セックス)

社会は相互協力のなかで成り立っているものですが、夫婦として一組の男女が共に暮らすことには、最小単位の相互協力関係という意味があります。

今の人生以前に経験した人生(前世・過去世)のなかで、夫婦であったかなかったかは別として、その男女の間に大きな心のわだかまり、かげり、トラブル、あるいは溝ができてしまい、その時の人生を終えるまでにそれらを解消できなかった時、その二人の間で心(魂)に残ったものはカルマ(業)と言えます。

地上を離れてからの二人は、地上で作ってしまったカルマを解消しなければならず、あの世の霊的指導者の元で反省を促され、一定の段階に至るまでは繰り返し、繰り返し、調和のための猛反省をしなければならない。

そして、人によっては、やがて来るであろう次の人生において、これまで重ねたカルマの解消を果たすべく、再び夫婦(それが親子・兄弟姉妹等の場合もある)として出会うことを約束する場合もある。

こうして今の人生で夫婦として一組の男女が共に暮らすこととなります。結婚は単なる偶然ではないことを明言しておきましょう。

この場合、過去世でのわだかまりを解消することが目的のひとつではありますが、それだけで終わりではない。

最終的にはより一層のステージアップ(魂の向上)を成し遂げるために輪廻しているのですから。

もちろん、何も問題なく生涯を共に暮らせたらよいのですが、互いの間に“かみ合わないもの”もあるのですから、なかなかその目的は簡単には叶えられません。

むしろ、過去世で作ったカルマをさらに深めたり、解消できないままに地上を離れたり、別れたりする夫婦もあります。

地上に生きる人々は現在までそれを積み重ね、繰り返してきました。

しかし、いつの世でも、その重ねてしまったカルマを清算し、調和したつながりにまで進化しなければならないことは輪廻しても同じテーマである。

なぜなら、本来一組になる男女は、愛し愛され、それを喜び合い、さらに、肉体においても喜びを共有し、求め合い、与え合うべきものだからです。

男女という異質なものを響き合わせ、つなぐのは心の喜びであり、肉体の喜びです。それらを阻(はば)むものが互いの間にあるカルマ(自我、自己中心)なのです。

二人の間にあるカルマが解消されたこと・・・・それは互いに相手を理解し、協力的な気持ちになれたかどうかで分かります。

そしてさらに、その二人が「魂の共鳴者」として共に歩むべき相手であるならば、深い愛情を互いに感じ、互いの存在を喜び合いながら共に歩み始めることになります。

それは心の喜びのみならず、肉体のうえにも反映され、大きな喜びとともに体を重ねていくことになるでしょう。

しかしその二人が、相手を理解し、協力的な気持ちになった時、共に歩むことよりも、逆に別々の道を歩むことを選択する場合もあります。

それは「魂の意識」としては、夫婦として共に生きるべき相手ではない場合であり、夫婦となったことでそのことに気づき、双方の人生観を尊重した場合です。

そこでは心からの納得のうえで、結婚を解消する、という順を踏むことになります。

さらにはその後にそれぞれがふさわしい相手と出会うということもあるのです。

こうして考えてみますと、「離婚」ということには、もろ手を挙げて賛成とはいきませんが、否定的な感情を持つことはない、ということが分かるでしょう。

しかしながら、苦しさから逃れるためだけの「離婚」は、その人(たち)の魂の意識向上からすれば逆行するという場合もある。

苦しいものを乗り越えたあとでの別れとなるのか、再び共に歩み出すことになるのかは、乗り越えたあとになって初めて分かることなのですから。

いずれにしても「結婚」とは、スピリチュアル(霊的)な観点からすれば、互いに向き合わざるを得ない状況を地上的な形として作るもの、と言えます。

それは結果的にはその先にある喜び、つまり、本来のあるべき姿(調和)を得るための設定だと言えるでしょう。

本来異質である男女が、また生まれ育った環境の違うものどうしが、価値観の違ったものどうしが響き合い、重ね合うことの仲立ちとなるのが心の喜びであり肉体の喜びであると伝えました。
肉体の交わりは地上ならではのものです。

なぜなら、地上界は、心をものやかたち(肉体)によって表現する場であり、同時に心の喜びを、物や形(肉体)によっても味わう(実感する)ところだからです。

心から愛し合う男女であるならば、それが肉体に反映された時、共に大きな喜びを共有できるということになります。

この世における喜びの至上は肉体的な喜びのなかで最も強く、深く、大きなものが性的な喜びであり、その人の心の状態・傾向・相手との関わり方がその人のセックスに反映されているとも言えます。

しかし、肉体には肉体としての欲求や喜び(快感)があり、心とは必ずしも一致しない場合もあります。それは自我からくる自己中心的な欲望を吐き出すだけの交わりです。

だからと言って、肉体やその喜びについて否定的・批判的に思う必要はありません。

大切なのは、正しい愛の上に心が響き合う相手と肉体の喜びを共有できることが、その人にとってもお互いにとっても最も“幸せだ”ということです。

肉体だけの喜び、欲求のみに従って快楽を求めることは、「心の喜び」が伴わないのですから必ず、「虚しさ」「寂しさ」「満たされなさ」を覚えます。

その苦しさがあって初めて心を求めることに気づいていくものでしょう。

逆を言えば、心でのみつながり、響き合っている男女がいたとして、そこからさらに喜び(愛情)が深まり、また、喜び(愛情)を与え合っていけば、その反映として肉体をも重ねたい、心がひとつになるのと同じように体もひとつにしたいという欲求は、自然と高まるのです。

そしてそれが与えられない場合は、やはり「寂しさ」や「満たされなさ」は感じるのです。
肉体と心とを持って地上で生きる私たちは、肉体的快楽に執着してはいけませんが、心と体その両方の喜びを求めていくのは当然のことなのです。

今の時代はあらゆるところで心を縮め、抑え、隠し、また目をそらしてしまうという状況におかれています。

互いの心に踏み込むことを避け、また、本当の自分の姿、心を見せまいと守ることに必死です。

それがたとえ夫婦であっても、互いにありのままでいられないほどにです。

深く関わることを避ける、表面的な平和を求める、心を見ようとはしない・・・。要因はいくつもありますが、そのことによって、夫婦としての関係を薄くしていく、つまり、セックスレスにつながっていくことが多いのです。

心を求め合わないことが肉体にも反映されるのです。

しかしこれは、どちらか一方に問題があるというわけでもありません。

求めながらも心に負った傷により、そうできないこともままあることです。

いずれにしても互いに対する理解をどこまで深めようとするのか、互いに対する思いやりをどこまで深めようとするのか、さらには、向上心をどこまで強く求めていくか、それがこの問題を解消する鍵となるでしょう。

一般的には分からないことですが、「心を重ね、響き合わせて共に歩む」ことを特に二人の人生の目的とした場合に、あるいは、過去世における性的交わりが生んだカルマの解消が主な目的となっている場合には、互いが愛情を深め合い、共に生きる喜びに満たされながらも、肉体的交わりを持つことは必要としないこともあります。

この場合は、性的交渉が持てないという互いにとっての苦しさを乗り越えることで得られる心の喜びの大きさと、それによってもたらされる意識の共鳴を共有することの喜びとがあり、それがこの二人にとっては、どうしても設定上必要なことだったのだと解釈できます。

心と体との両方で喜びを共有することが何よりの幸せである場合もあれば、二人の間で生まれる前の約束として、そうではない設定を自分たちの意志で決めてくるという場合もあるということです。

愛するものより憂いが生じ、愛するものより恐れが生ずる、愛するものを離れたれば、憂いなし。どうして恐れることがあろうか。

※愛するが故に心配もし、失いたくない恐れが生じる。その愛するものに固執するから苦しくなるのだ。離れるとは執着するなということ。執着しなければ心に憂いや恐れは生じないのだ。

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迷いとカルマの循環

新たな生命の誕生は万人の人々に喜びと感動を与えてくれます。

生まれた赤ちゃんは、両親はもちろんですが、まわりの人たちの心に慈しみの想いを芽生えさせ、顔にも満面の笑みがこぼれるものです。

赤ちゃんを『無垢』と表現することがあります。確かに赤ちゃんは可愛いもので、穢れのない無垢という言葉がピッタリ馴染む表現です。

人間は、朝、睡眠から覚めて起きたら、新たな生命の誕生と何ら変わりのないほどの価値と意味のある人生のスタートでもある。それだけにきょう生きていられる事の尊さを忘れてはいけないだろう。

人間は何度も、何度も生まれ変わり、輪廻を繰り返しているのですが、この地上で心を汚してあの世に還る人もあれば、いつも心がけて綺麗に磨き調和して還る人もいます。

私たち人間の心(魂)の有様はその人の生きざまに、そのまま現れているものです。

生まれた時の無垢に業の上塗りをして還る人は、あの世で苦労することは自然の成り行きで致し方ありません。当分の間は厳しい修行、つまり心の軌道修正をするために相当に学習しなければならない。

実際のところ、無垢とはいうが、業がゼロになって真っ白で生まれてくるわけではない。

おおよそ三割程度のカルマを持って生まれてくることになる。その為に魂の個性があるということである。

さて、業(カルマ)は人によって皆それぞれに違い、また、使命や役割も異なるものであろう。正しく、偏りのない生活をすれば、

1・自分の使命がハッキリと解るのか?

2・使命を悟れば、迷いに打ち勝てるのかどうか?

きょうはこの辺のところを述べてみましょう。

先ず、業(カルマ)は執着から生れることは容易に理解できるでしょう。

自己中心のものの考え方が執着を生み、カルマをつくっていきます。

このカルマは大きく分けて三通りあります。

第一には先天的なもの。第二には両親による肉体遺伝。第三には環境によるものです。

先天性のカルマは本人の気質として現れてきます。

例えば、意思の強弱、内向型、悲観的、楽観的というようにです。こうした先天性のものは修正に手間もかかるし、よくよく日ごろに心がけて努力していかないと改善できないものである。

第二番目の肉体遺伝は、内臓諸器官の強弱、色盲、身体の部分的欠損、障害などのハンディが、ものの考え方や生活の仕方を変え、そこに執着をつくりだしていきます。

三番目は教育や思想、生活環境によってつくられるでしょう。

カルマというものは、このように片寄った考え方、見方が執着となり、その人の生活を規制し、苦しみに追い込んでゆくものです。

それだけに正しく生きることの基準が生活の中に必要になってくるし、それを実践することで心のバランスを保って維持することが可能となり安息な生活ができるようになります。

次に、人の使命は、万人が万人、一人残らずあるものです。そうしてその使命は、現在置かれているそれぞれの立場、環境の中で立派に果たしていけるものです。

使命と言うと何か特別な役割のように聞こえ、思いがちですが、本来そういう特別なものではなく、現在与えられている環境を、明るく、正しく、調和された世界にしていくことです。

現在は共働きの多い時代ですが、それでも主婦には主婦としての役割、主人は主人で外に出てその周囲を調和して働くことで家庭の安定を図ることが使命です。

それには『見ること、思うこと、語ること、働くこと、生活すること、努力すること、念じること、反省すること』のこれら八つの基準を片寄りのない心で正しく実践することで自分をつくり、人々を感化していくことです。

次に悟ったならば迷いはありません。迷う間は悟っていいないのです。ただ物事に対し方法論については考えの違いは出てくるでしょう。人々を指導したり導いたりする場合などに、いくつかの道、選択肢があるからです。

しかし、それでも最終的には一致するものです。意見が分れて統一できないということはありません。迷いは偽我の自分があるために起こるものです。

勿論、迷いの内容が夫婦間の問題とか、仕事や病気といったもので、自分で解決がつかないことがあれば、信頼できる方に相談するもよし、私も御相談に応じます。

人によっては現在の環境から離れたほうがよい、という場合もあるし、その環境に堪えようとしてかえってカルマを重ねてしまうことがあるからです。

要は、心の中にカルマの種を宿さぬことが大事なのです。何が何でも堪えぬきなさいということではないのです。

カルマと言うものはたえずグルグルと輪廻しています。そのため、なかなかそれから抜けられません。

このカルマから抜けだすためには勇気と努力、そして工夫をもってすることです。

 

きのうはきのう、きょうはきょう。昨日の苦労をきょうまで持ち越すことはありません。『一日の苦労は一日にて足れり』というように、きょうはまたきょうの運命が開けます。日々、心新たに、素直に、謙虚に歩むなら、すなわち日々是好日、毎日が新鮮で輝いた一日となるのです。お互い、新たな一日を力強く踏み出しましょう。

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『人を呪わば穴二つ』

怨み、憎しみ、嫉妬、怒りと念の仕組みについて

口を開けば不満と愚痴と恨みと怒りを露わにして、些細なことに腹を立て、上司が憎い、職場の同僚が憎い、あの人を殺してやりたい、あの人なんか死ねばいいと言っている女性が、苦しいから助けてくださいといってきた。

本人は全く苦しみの原因を解っていず、この世で地獄に堕ちている。あまりにも哀れで同情を禁じ得ない。原因は相手にある、私だけがこんな思いをしていると、被害妄想にまでなっていた。

昔から『人を呪わば穴二つ』の諺どおりで呪った人間も自ら墓穴を掘ることになる。何故なら念というものは相手に届くが自分にも返り念がくることになり苦しみや不幸、最悪は病気をしたり、頓死の原因となる。

例えば自身の心で人を恨みます。自分というものを正しく考えないで相手に言われたことや、行動に対し怒りを持って相手を恨みます。

こういうことは、言葉にしなくても自分の心の中で想っても、相手に届くし、何より自分自身も体を蝕むことになり、やがては病気さえも引き起こす結果になります。

何故なら怨みと怒りの念は破壊のエネルギーそのもので、発信者である自分の肉体さえも壊すことになる。ということは逆にいえば、慈愛の念波は相手を平和と安らぎに導きますが、その返り念は自分自身をも調和の光りで満たすことになるのです。

特に言葉の場合は、言霊(ことだま)という一つの振動を通して、相手の心の中に入ります。心の中で想っても同じで相手の心には通じます。表面的には分からないだけのことです。

それだけに私達は、この自分の想うこと、行うことの正しい基準を知って生活しなければなりません。

恨むという心の作用は、相手に対して作用しますが、しかし、反作用となって自分にまた返ってくると同時に相手の心にも毒を食べさせます。怨みの念は自分と相手を傷つけるだけの結果しかうまれないのである。

特に心が常に丸く豊かで光明に満たされている人を呪ったり、怨んだりしたら自分にはその何十倍にも反作用が起こってくるでしょう。

最悪は健康を害して倒れることになります。丸く豊かな光明に満たされた心は鏡の如くそのまま写し返すのです。

呪う悪想念は念波という振動エネルギーとして相手に届きます。しかし呪うことは地獄界の心そのもので、その世界の悪霊や動物霊と感応して憑依されることになります。

やがては地獄霊の支配下のままに人生を翻弄されて廃人同様の生き方となるでしょう。

憑依は類は類を呼ぶ同調原理の結果であることを知らねばなりません。

自分が憑依を招くのであって、霊のせいではありません。

憑依されることは家族にも悪影響が及ぶことになります。愚痴を言い怒りを持って勉強しても、物事を行っても、心も、体も、生活も、環境も今以上に進展することは難しいでしょう。厳密には人に対する愚痴も呪いとなりえることを知らねばなりません。

怒りの原因は自分の意に反した相手の言葉や行動に対応できない自身の心であり、理性領域のコントロールができず感情領域だけが暴走するために発生するものです。

怒りの根底には自己保存。自己中心がある。

『心の三毒の貪り、怒り、愚痴』の中では怒りが最も愛から遠い心です。

怒りの心と、恨みの心を持たないための努力をしなければならない。どのような方法ですれば恨みや怒りの心を待たずに生きられるか、そのヒントはこのブログの随所に記載してありますのでサイドメニューの検索にキーワードを打ち込んでお調べください。

昔、修行をしておられた修行僧が老師に問うた。『私は簡単に腹を立てるし怒るし、言葉に出してしまいます。そのことでいつも後悔してばかりですが、このような癖が直りません。どのようにすれば直せるでしょうか。』と。

老師は答えた。『今の世は戦乱の最中であるが、戦は相手の大将を討ち取ればあとはいとも容易く勝ち戦となろう。お前の何が総大将であるか分かっているだろう。その総大将を討ち取ることができたら後の兵は戦わずして降伏させることが叶うであろう。』とこのように指導された。その後、雲水は二度と再び怒ることはなくなったという。

この逸話は、修行僧が如何にすれば怒りを滅することが叶うのか自分の心を見つめて内省し、『ああそうか、総大将とは自分の心だ、この心を調えれば自分を支配したことになる』と気付いたことを日々の修行に実践して立ち直ったという事例です。

日常生活のなかで簡単に言葉を発する傾向にある人はそれを改めること。

それは相手の言葉に対し短慮に反応して言葉を出す癖を直すことです。

一呼吸の間を置いても充分に相手に伝わるし、むしろそのほうが正しい言葉、偏りの無い怒りのない言葉で相手の心に届くでしょう。

また相手の話に割り込んで話す癖も改めなければなりません。

『聴き上手が話し上手』といいます。聴き上手な人は理性が働き自己主張に走ることなく事の本質をよく見極める目(心)を持っています。

他からの意見に対し自分の価値観を押し通すことでもありません。

自己主張の心は時に攻撃的言葉を発する傾向にもあります。

自己主張や怒りの心は他愛の無い、些細なところでその顔を瞬時にだすものです。

それもまた良くも悪くも個性でもあり、心の傾向性でもあります。

これは知識では改めることは困難です。

自身の固い決心を以って、その都度改めなければ叶わないことです。

『見えざる者よ鎮めよ 走る者よ坐すがよい 病める者よ病んではならぬ』

自分自身の心も振る舞いも見えない人よ、冷静に理性をもって心を静めなさい。後先を考えず突っ走る人よ、一時やすんで周りをみなさい。病気で体が辛い人よ、心まで病んではならない。生きるも人生の修業なら、病のなかにあっても修行。死んでも修業は永遠に続く。人間の本分は心にある。

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前世の業?

近年、世界の各国で精神的不調和による事件が非常に多くなってきています。

通り魔殺人とかあるいは奇妙な事故死、無差別殺人の犠牲になったとか、自爆テロ行為までおきています。

こういう事件はまだこれから増えて来るのかもしれませんが、このような異常な死について今までの宗教指導者は「殺された人は、前世でその人を殺したから、今度は自分が殺されたので、みな前世の業だ」と説明をしている場合もあります。

しかし、ほんとうにそうでしょうか。

偶然の出来事で『あの人はたまたま運が悪かったのよ』、『偶然にその場所に居合わせただけよ』というが実際はそうとばかりもいえない。

通常は自分の心の中に、人を殺し、また人を殺すと同じような波長、非常に邪悪な想念がなかったら、私たちはそういう人に、そういう場面に出くわすこと少ないだろうし、ないだろうと思うのです。

人間の想念は私たちが理解している以上に強力な働きをしていることを深く知る人は少ないでしょう。

殺された人は、前世でその人を殺していたという事が正しいということだとしたら、人を殺した人は、前世で自分が殺されたから今度は自分がその人を殺したのだということになって、人を殺すということが正当化されることになってしまう。

このような論法で人殺しを正当化するようなことになってはいけない。

もし仮に、それが本当だとするならば、例えば、強盗に入られて物を盗られた人は、前世でその人の物を盗っていたからだということになり、人を殴っても、その人は前世で自分が殴られたから殴り返したということになって、全ての悪事が正当化されることになり、そうなればこの世は混乱して、この世からは一切の悪事は無くならない事になる。

そういう悪事を間違った論法で正当化する宗教は正しい宗教とはいえないとおもうのだがどうでしょうか。

盲目的信仰の悦に入っている人々はこのような矛盾に疑問も持たず、気づかないで狂信している人もいるでしょう。

厳密にいえば、業のあるのが人間であり、いくらかの業をもって生まれてくるのもまた人間ではあるが、出来事に対して全ての原因を、前世の業だとか先祖の業だと説いてしまうのもどうかと思うところです。

この世のことは、この世の人々の心に原因があると私は思います。

ほとんどの宗教団体が前世の業、先祖の業を説いているが、その説き方に矛盾と問題点がみつけられることが多い。

だいぶ前に私のところに50歳の男性から相談があった。『家族がめちゃくちゃで娘がひきこもり、息子がうつ病、家内は傲慢で子供たちには勉強して良い大学に入り、優良企業に就職しなさいというばかりだ』と。

『その家内は心療内科に通院している。お婆ちゃんは自殺、お爺さんはワンマンで子供たちが毛嫌いして避けている。苦しくて潰れそうだ』という。

私はこの男性に質問した。今の家庭環境や子供たちの状況はどこに原因があると思いますか?と。

男性いわく、家を建てるときに祓い清めもしてないし、神棚にも一切のお努めもしていません。

仏壇への務めもしていません。

水子供養もしていません。

先祖の因縁がこのように災いしているのかと思います。という。

いかにも利用されやすいケースに思えてなりません。

私は、はっきり伝えた。今あなたが話した事柄は霊的なこととは一切関係ありませんと。

その理由を1時間30分かけて説明した。

通り魔殺人とか、あるいは正面衝突で事故死したとか、無差別殺人の犠牲とか、家庭内の連続したトラブル内容などがあれば、疑問や不思議に思うのも当然であろうし、祟りや障りだとも考えるのだろうが、危険で偏ったものの見方をしてはならないと思います。

ではその原因はどこにあるのだろうか?

先ず人間の心は現在意識(表面の心)と潜在意識(奥底の心)とに分かれている。

表面ではどんなに立派に見えていても、心の奥底で相手を憎んだり怨んだり、また、相手が不幸になることを望んだり、あるいは「あいつを殺してやろうか」とか「あいつが死ねばいい」とか、色々と邪悪な想いを持つ人。

昔、精神病院を何回も出たり入ったりしていた息子が、斧で親や兄弟を殺したという事件もあった。

精神病者の場合その本人の意識が暗くなっている所へ自縛霊、地獄霊が憑依している。

精神病者だからといって四六時中、霊が憑依しているわけではないが、憑依している霊が離れた時はおとなしくなり、短い時間であっても正常に返る時がある。

自縛霊、地獄霊というのは、攻撃的な心、破壊的な心、相手が不幸になることを喜ぶ心、怨みの心、あるいは、自分が攻撃されるのではないか等と不調和な心を持っているから、たとえその家族が日頃はいい人達であっても、その精神病者に対して口で言わなくても「この息子には困ったものだ、早く死んでくれればいいのに」とか「殺してやりたいくらいだ」と潜在意識(心の奥底)で思うと、精神病者本人の意識はそれを感じなくても、憑いている憑依霊がその殺意を敏感に感じて「おいおい、お前は殺されるかも知れんぞ」と耳元でささやく。

誰でも自分が殺されるとなると死にたくないから、自分を守るために無意識のうちに防衛的な気持ちではあるが、動作は攻撃的になって飛びかかって行って殺すつもりはなくても、結果的には殺すと言うことになってしまうのです。

地獄霊は「お前があいつを殺さないとお前が殺されるぞ」とささやくから、自分を守るためにそうするわけで、殺人を犯した後で本人が言うのは決まって、「自分は殺すつもりはなかった」と言うことになる。

だから、そういう人達に対しては家族あるいは周囲の者は、恐れたり、忌避(きひ)したりしないで、先ず自分の心を調えて愛に満たし(自分の心を愛によって満たすとその人の心からは光が出る)、その人が愛の光に包まれて幸せになっている状態を心に描くと、自縛霊、地獄霊は光が一番にがてだから、その光に恐れをなして憑いておれなくなる。

自縛霊や地獄霊が憑いていてささやかなければその人はおとなしくしていることになる。

だから、精神病患者による家族の殺人事件の場合も、家族全部が愛の心を持って光で満たしていたら、ああいう事件は起こらなかったでしょう。

要するに、人間の運命を支配するものは、表面の現在意識よりも、奥底の潜在意識の方が強いのですから、表面はその人がどんなに立派に見えていても、取り繕っても潜在意識すなわち心の奥底で、人を鋭く切り裂いて批判したり、人を抹殺しようと思ったりすると、類は類をもって集まるという心の法則によって、殺意を持っている人と波長が合って事故に遭うということになるのです。

自分が正しいという正義感の強い人がなぜ不幸になるかというと、自分の正しさを主張する余りに自分に反対する人を憎んだり恨んだり、あるいは抹殺しようと思ったりするから反作用が自分にかえってくるということです。

あんなに立派な正しい人がどうして運が悪いのであるかという疑問を持っている人は多いと思いますが、それは潜在意識がどう思うかということが強く運命に影響して来る。

先に述べた、家族のトラブルも前世の業とか先祖の業とかいう問題ではなく、老夫婦、息子夫婦たちが自分の価値観を相手に押し付けず、自分が正しいと無理押しせずに、互いの想いを尊重することで子供たちも心が安息を得て改善できたということでしょう。

自分が正しい場合でも相手を憎んだりしたら自分にかえってくるわけですから、相手を憎んだりせずに自分の心を愛によって満たして相手が幸せになることを祈らなければならないということでしょう。

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