先祖供養の真偽は?


姉が亡くなって一周忌を過ぎたが、気持ちが沈んで半うつ状態で毎日が哀しみの連続だという60代の女性がみえた。
『ちょくちょく姉の夢をみて辛いです。いつも供養しているんですけどね・・・・・・・』
あなたが思う供養とはどのようなものですか?
『家では毎朝、仏壇に供え物をして、経本を読み仏さんを拝んでいます。』
わかりました。ところで、あなたはお経の意味は理解しておられますか?
『いいえ、何も知りません。』
お経だけではなく、あなたが理解していないことを人に伝えることができますか?
『それはできません。』
伝えることができないと思う読経を一生懸命やる理由は何故ですか?
『菩提寺の和尚さんに、このお経は非常にいいお経だから読経して供養しなさいと聞きました。』
ところで、話は変わりますが、あなたが子供や孫たちに希望する親孝行とはどのようなものですか?』
『私は、子や孫や家族みんなが仲良く平和であれば後は何も望みません。』
今のあなたの、その思いは、あなたがあの世に行っても同じですよね?
『はい。そうです。変わりません。』
ということは、何も要りませんよね?
『はい。皆しあわせであれば、それで満足です。』
それなら、あなたがあの世に逝ったあと、意味のわからないお経をあなたのためにと子供たちに読誦(どくしょう)してほしいですか?
『いいえ、思いません。』
あなたも望まないことを今まで亡くなったお姉さんの為にと思って意味の分からないお経を唱えてきましたよね。あなた自身が望まないようなことを故人の為にすることは果たして、供養でしょうか?
亡くなったお姉さんはお経を望んでいると思いますか?お姉さんは生前にお経の意味を知っていましたか?
『・・・・・・(ー_ー)!!』
私は、あなたを追及したり、責めているのではないのですよ。本当の供養は、故人の意思を尊重して私たちがそれに応えること、思いやることだと思えませんか?
『その通りですね・・・・・』
あなたが毎日、毎日、お姉さんのことを思い悲しみ、心までうつ状態になっていたらあの世のお姉さんは、あなたの姿をみて悲しむだけなんですよ。
お姉さんが一番うれしいのは、あなたが心穏やかに健やかに生きることなんです。
数十年後にはあなたもお姉さんと同じ立場になるのですよ。その時に、あなたの子供たちや孫たちが毎日、毎日、悲しんで泣いてばかりいたら、いくら仏壇の前でお経を読誦しようが、あなたもあの世で切なく哀しくなるでしょ。
女性は大粒の涙を流して嗚咽した。
『初めて大事なことに気が付きました。』
あなたは真の供養の意味を知らなかったために間違えていただけです。これからはあなた自身が心健やかに生きることを考えてくださいね。
家族みんなが平和に暮らせていることに感謝できるなら、そのことに報いて明るく生きることです。あなたのお姉さんが望むことはそれだけです。
『はい。ありがとうございます。』
愛別離苦という言葉が意味するように、この世に命を頂いた者は必ず愛する者と離れるときがくるのです。しかし、いつまでも悲しむことは、愛する者の心にも影を落とすことになるのです。
こんなやりとりを1時間ほどしてたくさんの涙を流したが顔には笑顔が見えた。
この女性は現在、心身共に健やかに日々を過ごしておられます。
僧侶の教えではあろうが、生前に生活の習慣になかったお経に関して、故人のためということで読経しても、実際のところ殆どその用を成さないし、形とパフォーマンスにすぎない。
先祖供養は親孝行だという真意を知り、人は何のためにこの世に生れて、何の為に生きるのか、そして誰もが迎える死をどのような心構えで受け止めるのかを学び、知ることは人生を良きものにするためにも必要なことでありましょう。
人は魂の、より一層の向上のために、この地上に命をいただくのである。そしてそのことの為に逆境にあったり、試練を乗り越えたり、幸不幸を体験したりするこが欠かせないのである。
『幸せになるために生まれてきた』という人もいるが、それは、魂の向上のための一つのプロセスに過ぎない経験であるということです。
日本の国は、おおよそ葬儀は仏式であろうが、これまでの因習のために、一般的にはどこの家庭でも供養という美名のもとに仏壇の前で訳のわからないお経をあげ、線香や供物や灯明や金銭などを供えてきた。
しかし、これで個人が成仏できるか否かは全くの別問題であることは殆んどの人々がその真実を知る由もない。死者と会話するのは日常の言葉であり、その想いである。
となると、漢文を読むだけで死者も、自分自身も意味の解らない、通じない文章を読経することに意味があるのではないことは十分にお分かりであろう。
『法華経の真実を伝え先祖供養を、まごころをもって代理供養致します。』という僧侶がいたが、法華経の教えには代理の先祖供養など説いてはいないのである。
この僧侶はしっかりとビジネスをしている。このような所に真実などあろうはずがないのです。
宗教界については死者にたいする供養の在り方を疑問をもって考えさせられるが、この世で生きる人々の心を正しく導くのが宗教家や僧侶の責務ではなかろうか。
しかし、実際は真実から程遠い教え、情けないが、これが現実なのである。
仏教は哲学や学問ではないし、またそうあってはいけない。人々の生活と心に寄り添ったものでなければならないのである。
事の真実はというと、亡くなるまで何かにつけて執着して囚われていた心の人間が死んだ途端に悟って成仏することはないのです。
生前は言葉も荒く、行動も自分勝手な自己中心的な心の人間が死んだ場合、4次元世界に移行したからといっていきなり成仏はできないのです。
4次元のあの世は何段階にも分かれていて魂のクリーン度、及び執着度によって行く世界が異なります。
執着度とは不満、愚痴、怒り、妬み、恨みなどからくる心の不調和な程度のことです。
偏った心はそのまま執着となります。煩悩という言葉がそれです。
調和とは右にも左にも偏らないバランスのとれた心の状態をいいます。中道という言葉がそれです。
従って、心の不調和な人の魂は自分のレベルに沿った次元のあの世にしかいけないのである。
このような魂は、経文の意味をよく知り大悟された方ならば読経の波動に慈悲のエネルギーを乗せて死者の心に届けられるのですが、私たちがいくら形骸化したお経をあげようが心に届くことはないのです。
意味の分からないものを伝えようがないではありませんか。まして代理供養などと笑止千万である。
唯一、供養の手段としてできることは、この地上に生きている私たちが先ず、心健やかに暮らすことを故人にみせてあげることです。
この世の和気あいあいとした家族の姿や兄弟の姿、子供の姿をみることで故人の気づけば最良の供養となるのです。これがまさしく愛であり、慈悲です。
真の供養とはお経や供物にあるのではなく、私たちが不満愚痴を言わず、足ることを知って、怒ることをせずに心健やかに生きること。このような生きざまを故人、先祖に見ていただくことです。
これが最大の親孝行です。親孝行が最大の供養なのです。先祖供養は調和された家族愛にあるということ。これこそが先祖供養の真実であり、仏壇の前の勤行には非ず。
こころ
安住することなく
正しき真理をも知らず
信ずることの
定まらざるもの
かかるひとに
智慧は満つることなし
※心と言うものはいつも止まることなく動いているものだが、事の善悪、社会の秩序なども悟ることなく、まして自分自身も他人も天地の真理も信じることのできない人は、心の底から湧き出る工夫も生き方もない。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;