宗教と科学の調和
今から約149年前、薩摩藩と長州藩の連合が成立し、中央集権統一国家の建設と日本資本主義の起点となった明治維新をきっかけに西洋の文化や物が勢いよく日本に流入してきました。
明治以来、日本人は何でも西洋の文化や物に影響されて、良くも悪くも化学優先の考え方が染み込んできたところもあります。
さて、自然科学に目をむけてみますと、義務教育がいきわたっていることもあり、現在では小学生でも地球が動くことを知っている子は多いことでしょう。
古代ギリシャ時代には地動説(この太陽系は太陽を中心にして地球が廻る)が正しいと信じられていたのですが、いつの頃からか天動説(地球を中心にして太陽が廻る)が説かれるようになったとあります。
その発端は、ヨーロッパにおいては、キリスト教の牧師が民衆の教育の実権を握っていて、牧師の言うことはすべて神の名によって正しいこととされているなかで、教会で天動説が説かれていたところへ、司祭、天文学者、法学者が地動説を唱えたために、こういった人たちは神を汚すものとして宗教裁判にかけられました。
そういった経緯もあり、今から約400年前の人達はみな天動説(地球のまわりを太陽が廻る)が正しいと思っていたところがあるようです。
コペルニクスに続いてガリレオ・ガリレイ(イタリアの物理学者、天文学者、哲学者)が望遠鏡を作って月面の凹凸、銀河、木星、金星、太陽の黒点などを観測し、1636年にコペルニクスが唱えた地動説が正しいことを発表しました。
そのためローマ法王から宗教裁判にかけられて、地動説を放棄しなければ死刑にするといわれ、死を免れるために法廷では放棄することを認めたのですが、ガリレイは法廷を出たとたんに、「それでも地球は廻る」といった話は有名であります。
宗教家が神の名によってと語り、科学の研究の成果を否定し、科学者は、宗教家は神の名によって正しい科学のあり方を否定して、間違ったことを民衆に教えているといい、ここに宗教と科学は完全に対立することになったわけです。
検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりはしない宗教とでは、相容れないところがはっきりしています。
人間の欲求に対して別の立場から答えを出しているわけですから、本質的には相補的なものであるといことも否めません。
科学者はスピリットワールド(霊世界)やゴッド(神)を否定して、物質の中にある法則を追及してきました。
しかし、原子物理学が発達するにつれて優秀な科学者は神の存在を認めるようになりました。
日本の湯川秀樹博士が中間子理論を発見された時の下記の言葉は有名であります。
『物質を分子、原子、素粒子と細かく分析して行くと、すべてのものは目に見えない存在になる。このことを考えると、目に見えない存在の奥に、神とでも呼ばなければほかに呼びようもないほどの、不思議な力が働いているということを、素直に認めないわけにゆかない』と。
約400年間、科学者は宇宙創造唯一の神の存在を否定してきましたが、今は偉大な科学者たちは皆、科学の発見した法則の奥に神の存在があることを肯定するようになりました。
しかし、かつてテレビ番組で放映されていた日本の科学者で、霊世界に関してはまったくもって聞く耳持たず、頭ごなしに否定をしていた人がいましたが、目に見えることしか信じることができない、科学で証明できないことは信じられない、非現実的だと豪語していたことを記憶しています。
一方では、神の名において、間違った天動説を信じ科学を否定してきた宗教家たちが、やがて天動説が間違っていたことを認め、科学者が発見したいろいろな法則を信ずるようになったわけです。
全く相反する立場にあった宗教と科学は次第に接近を深め、現在に置いては、宗教は精神的面で神を求め、科学は物質面で神を知るものであるという事がわかり、宗教と科学は一致するもので有るということが、少しずつわかってきたように思います。
色心不二、色即是空、空即是色という言葉が示すように、肉眼でみることができない世界からこの3次元世界が存在されてきたように、この世の存在もやがては次元の異なった4次元世界、すなわち見えない世界へと姿を変えていきます。
ここに宇宙の仕組みである循環の法則、つまり絶対唯一の意識が遍満しているわけです。
こうしてみるとスピリットと科学は深い関係をもち、人類社会に欠くことの出来ない物心両面の姿であり、精神と肉体、精神と物質の両文明が進むにつれて、スピリチュアリズムと科学は切り離す事の出来ないような社会に変わっていかなければと思います。
そうしてまた、科学はこの3次元現象界の時間と空間を超越して精神界に入り、正しいスピリチュアリズムの姿、あり方を実証してゆくことになるだろう日があと200年もすれば実現するのではないだろうか。
そのためには先ずもって現代の日本における殆どの宗教の在り方を他力本願(他力信仰、依存型、ご利益信仰)から、自力本願(調和された自分の想いと生き方が創造の原点)に改めなければならないでしょう。
そして宗教家自身が金や地位や名誉などの執着から離れなければ心を説く意味を成さないと思います。
私のような宗教に関してまったくのド素人にもわかる現代宗教界の多くの矛盾は、悩み苦しむ人々を更に迷走させる罪深い扇動と思えるところがあります。
宗教界は自然宇宙の法則と秩序のなかに人間の本来あるべき調和の姿を見出し、それを学びとしていくことが原点であると思うのですが、現実はあまりにも営利主義と地位に走る教団の多いことばかりが見えるのは残念でならないが、このブログを訪問してくださったあなたはどう感じておられるのでしょうか。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。
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