末期ガン医師の情熱

東京電力福島第1原発から北に約25キロ。

東日本大震災で大きな被害を受けた福島県南相馬市の原町中央産婦人科医院で、末期がん患者でもある高橋亨平(きょうへい)院長(74)が、厳しい闘病生活を送りながら、週1回のペースで診療を続けている。

5月には「余命半年」の宣告を受けた。それから約7カ月たった師走。確実に迫る死を意識しつつ、今も復興への思いを絶やすことなく活動している。産経新聞から(取材・西尾美穂子)

◆激しい副作用

約2時間の昼休みが終わり、午後2時から始まった午後の部の診療。淡いピンク色のじゅうたんが敷かれた院内を、看護師がせわしなく動き回り、待合室にいた数人の患者を次々に診察室へ案内し始める。

「今日はどうしましたか」。白い椅子に深く腰掛けた老医師は、優しくささやくような声で患者に話しかけると、患者の病状や悩みにじっくり耳を傾けた。

震災から2カ月後の昨年5月、大腸がんに侵され、肝臓と肺にも転移していることが判明。今年5月末には医師から「余命半年」の宣告を受けた。

宣告を受けたときと比べて体重は激減。診察の機会は日を追うごとに少なくなり、別の医師に任せることも多くなった。しかし、今でも週1回、数時間のペースで診療を続けており、本人が診察する時間帯は、患者がにわかに増える。

「今日は、亨平先生に診てもらえる」。“噂”を聞きつけた住民が集まってくる。分娩(ぶんべん)は11月以降、行っていないが、つい最近も、妊婦に「ここで産みたかった」と泣かれた。

数週間に1回程度は、片道約60キロの福島市にある病院に向かい、抗がん剤治療を受ける。

診療中に、ポロシャツの胸ポケットに抗がん剤入りの容器を忍ばせ、伸びた管の先の針から絶えず体内に薬を投与することもある。

足には冷えを防ぐための靴下を3枚履き、薬の副作用で時折、どっと出てくる汗を首にかけたタオルでぬぐう。

痛み、吐き気、倦怠(けんたい)感…。患者を診ていると、ふと「私の方がつらいんじゃないか」「重症人が健康人を診ているのではないか」と思うこともある。だが、患者には心配をかけたくない。診療では「悟られないように」と平穏を装う。

◆最後のお願い

震災後も、がん発覚後も南相馬市にとどまり診療を続けた。「人間である以上、つらいなんて言っていられない。震災で亡くなった人を思えば、私はまだまし」。今もその覚悟は変わっていない。

しかし、病魔は容赦なく老体に襲いかかる。

8月初め、「体中がしっちゃかめっちゃかになるような」すさまじい副作用に襲われた。吐き気が止まらず一晩で体重が3キロも減少、「一つ一つの細胞がしぼんでいく感覚」を覚えた。「こりゃ重篤だ。いつ死んでもおかしくないな」。このころから、死をはっきりと意識した。

同月中旬にインターネットのホームページで自分の現状を訴え、“私の最後のお願い”として後継者を募った。「この地域でも、子供たちに賢く生きれば安全に生きられることを教えてあげられる人間味のある医者に引き継いでほしい」

訴えから約3カ月後の11月、願いは届き、来年から新たな男性医師(43)を常勤として迎えることが決まった。震災以降自らに課した「南相馬の医療を守る」という役割は一段落し、一つ肩の荷が下りた。

残るは復興への思いだ。8月にほかの医師とともに設立した放射能の除染方法について話し合う研究会に今も参加。若手の育成や被曝医療の発展について率直に意見する。

「南相馬、そして日本の復興のため、まだまだやり残したことがある」

心に宿した情熱は、まだまだ消えることはない。(以上ここまで)

私は高橋亨平院長の死に際してもつづく情熱、使命観に感動して医師として、人間として尊敬に値すると心服し掲載させていただいた。

医師として、人間として倫理観も道徳心も忘れ犯罪を犯す者、患者を金儲けの道具としている傲慢な語り口の者、このような者は一部の人間ではあるが悲しいことである。

医は仁術という言葉を医師ならば誰もが知っているはずである。技術を超えた患者えの対応、それは心の通った、患者に寄り添った信頼関係であろう。仁術とは人の道に他ならない。

高橋亨平院長先生の深い志に、ただ頭の下がる思いがする。

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即身成仏

六十七歳になる男性の質問であった。

『死後の人間の世界は、宇宙生命と同化するという話しもあるが本当の姿どのようなものなのか。』

それは、即身成仏の姿と、即心成仏の姿に分かれるが、たしかに身すなわち肉体舟は、大自然界の土や空気に同化してしまうだろう。

しかし、事実は、この地球上に執着する、わが肉体こそ絶対だ。体がすべてだ。死んだら何もかも終わりだ。死にたくない。思い残すことも多い。こうした者達によって地獄界が展開されているのである。

墓に使っている、石塔にも同じことがいえるであろう。

人間は、この地上界の習慣によって、墓こそ死後のわが住居と思い続けている人にとっては、その場所が地獄界で彼らの住処になってしまうものだ。

80歳の老婆の話しであるが、私は死んだらあのお墓に入る、あそこが私の居場所だといってやたらにお墓に拘っている。

このような人たちの死後はとなると宇宙生命に同化する悟りには、ほど遠い者達である。

新しい光子体(あの世の肉体舟)と、現世の原子肉体舟が分離して、使い物にならなくなった動かない肉体を眺めて、「今まで良く私とともに、現象界(地上界)にあって活動をしてくれた。ありがとう」と感謝できるような人々の肉体舟は、大宇宙体の一部に同化されるだろう。

それは、肉体舟の船長である魂が主人であるという、永遠に変わらない自分自身の死を悟っている人であるからだ。

そうした人達は、もはや、墓にも、いわんや石塔にも、塔婆にも執着はなく、天上界が自らの帰り着く場所だと悟り、自らの善なる心の想念によって光明に満ちた天国を造り出しているからである。

しかし、同化しても、私達の個性は存在している。自らの心の支配者は変わりないということだ。

この姿こそは、即身成仏ならぬ即心成仏といえるだろう。

丁度、蒸発した水蒸気が熱の縁や圧力の縁によって、水という集団から個々の分子に離れても、また上空で冷却されて、熱粒子の収縮によって雨や雪に変わり、大地に降りるもの、大海に降りるものとあるが、そこで同化しても、水一滴一滴の分子の生命は失われることなく、他の水と集団調和されている、ということである。

このように同化されていても、熱粒子が膨張して水の分子が分離されれば、再び大空のなかに舞い上がり、永遠の輪廻をくり返して行くだろう。

この循環こそ大自然の調和の姿そのものであろう。

その過程には、植物や動物の体内を通過するものから、大地のなかで生き続けるものまでその形態は多岐にわたるのです。

それでもH2Oという個性を失ってはならないのである。

私達も、肉体舟が即身成仏されて、大自然界、大宇宙体に同化されれば、当然私達の不変的な生命である魂、その中心の心も、宇宙生命に同化して即心成仏されるものだ。

転生輪廻の法則は、万生万物に適応されるのであって、人間だけではない。

時間の長短の区分はあっても、間違いなく私達もそれをくり返してきているのである。

私達は、一時たりとも、転生輪廻の軌道をとめることはできない。

今という時間をとめられないようにだ。

そして私達は、この転生輪廻の過程を通して、あらゆる体験を経て、より豊かな心を造り出して行くものなのである。

つまり、同化作用と、分離作用がくり返されているということだ。人間の生命も大宇宙の循環の法則と共にあるということがお分かりだろうか。

すべてが、自ら造り出した″縁″によって、それはなされているのである。

しかし。たとえ天上界や地獄界に行っても、私達は、この地上界にいるときと同様に、ちゃんとしたあの世の肉体(光子体)を持って生活をしているのである。

決して、魂がふわふわしているのではない。空中に浮いてうろうろしているのではないのである。

特に地獄界などには、文明の差があり、電灯はおろか、灯明もないじめじめとした世界の非文明の地で生活している者も多いのである。まさに暗黒の世界なのだ。

荒れた環境の世に出た人々は、心を失いやすく、物質や権力などの欲望に支配されて、人生の価値を忘れがちになる。

心を失うということは、肉体的に現われてくる諸現象だけが絶対だと思い、肉体舟の船長である自分、永久に変わることのない自分を忘れてしまうということである。

それはまた、現世だけが絶対と思い込んで、不調和な生活を送ってしまう人々なのだ。

あの世などない、神も仏もあるものかと思って、今世だけの生活を、私利私欲のままに送ってしまう人のいかに多いことか。

不生、不滅、不増、不減、すなわち私達の魂は、生まれることも滅することも、増えることも減ることもない永遠の生命であり、生とか死とかは、肉体舟の乗り替えにすぎないということである。

心と行ないが、拘りを捨て、執着せず、正しい生活をしていれば、光子体(あの世での肉体)の光りが、その心の調和度に比例して輝き、段階的生活環境が与えられるのだ。

幽界、霊界は、日本にも他の国々にも存在するが、住んでいる場所も、同様な環境が、その人々の想念によって造り出されている。

そこは、この地上界よりはるかに調和されている世界であり、この世界においても、自己というものがあって、個性がはっきりとしている。

この現象界で生活していたときと殆んど同じ仕事をしている場合が多いといえよう。

そして、心の状態によって段階が存在している。現象界においてなした想念と行為の集約された姿といえよう。

また、肉体的な先祖や肉親達と住んでいる場合も多い。しかし、心の調和度が進化するに従って、次の次元に進化して行くのが、私達の生命なのである。

幽界から霊界、霊界から神界と進化するに従って、霊域は精妙になり、光明に満たされて行く。

神界では、人類は皆兄弟だということを悟る。

魂の転生輪廻の事実を悟っている者が、そうした段階を通って住んでいる世界である。

その神界には、魂の兄弟達の存在があり、それぞれ自我心(エゴ)がなく、心と心の大調和がなされている。

そして、それぞれの、専門的な分野で研究が続けられている。学者や博士の多い世界である。

地上界で、自らの目的に向かって一心に研究努力している人に霊感を与えてくれる指導霊には、この人達が多い。

医学や、天文、物理、科学、哲学、文学など、一切のエキスパートが、百般の研究を続けている世界なのである。

智が優先している嫌いはあるだろうが、地球上とは比較にならないほど文明が進歩している。

この世界にも段階があって、上段階になると、動物達に、神の子としての道を教え導いている光りの天使達がいる。

ヨギー・スートラや、日本の修験者達が多い。○○の命などと威張って、霊媒などに出てくる者のなかには、動物霊が多いが、そのほかは仙人界や天狗界の者達といっても良いだろう。

真理らしきことをいうが、果たして自分がそれを実践しているかどうかは疑わしい。

心眼の開かれている者から見れば、彼らの実体は解かってしまうということである。

机を動かしたり、物を引きよせたりする場合において働く霊達のなかには、狐などを使ったりする場合もある。

また、地獄霊や動物霊なども、物理的な現象を見せることがあるけれども、その力を利用して、地上界の人々にもっともらしいことを強制したり、脅迫したりする。

そして、神の名をかたり、罰が当たるといって、人々の心に枷(かせ)をはめ、翻弄したりすることが多い。言うことと行なうことに矛盾が多い。

彼らの霊域に包まれて、地獄霊に支配されたり動物霊に支配されている人々は、自分自身を失ってしまうものだ。ほとんどが、多重人格者や、統一障害、気違い同様になってしまうだろう。

このような地獄霊に支配されてしまうと、まず肉体的に不調和になって、身体中が重く、夜になると元気になり、昼間は腑脱けのようになってしまう。

それは、昼間は、人間が活動し、霊域の振動が乱れているため、彼らも近よりにくいということである。

地獄霊達は、多くの人々が寝静まっているとき不調和な者達の肉体を支配することが多いのだ。

常に心がイライラしている人が、憑依されると、ほとんど人格が変わってしまう。

しかし、霊界、神界の住人達が肉体を支配しても地獄霊のような苦痛はない。それは、調和された霊体だからである。

神界の上段階から、上段階光りの大指導霊(菩薩)がいる調和された世界があり、そこにいる者は、心を悟っている者達である。

心は慈悲と愛に満ち満ちて、地上界、天上界の衆生を導いている。

さらに、宇宙はわれなりと悟り、一切の執着から離れ、人類は皆兄弟だという境地に達している者達で、神と表裏一体の、上上段階光りの大指導霊がいる。

過去においては、イエス、モーゼ、ゴーダマブッダが、その代表的な大指導霊である。

如来ともいっている。後光(オーラ)の量が、他の菩薩や天使達より大きい。

如来は、執着から離れているため、身に着けている物も質素で、すべてに悟っている。

人間は、死んでしばらくの間は、意識不明のような状態が続くが、やがて死を悟り、死後の世界に入って行くのだ。

悟っている者達は、一旦、天上界の収容所に入り、人生の反省期間を経てから、その人の心の調和度によって行くべき道が定まるのである。

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善と悪の追究

今まさに世界は争いの渦中にあり愛と欲望が、善と悪、独占とゆずりあい、侵略と防衛がしのぎを削っている。

そいうなかだからこそ実在界(あの世)からは、偽りのない正しい生き方を世に知らしめるために特別の努力が為されている。

地上界と実在界(あの世)の光の天使たちによる働きかけである。

それが敵対者の大軍による無差別的な抵抗に遭遇している。ことに宗教、政治の腐敗には邪悪なものたちが背後で暗躍して操っている。

世界の歴史を振り返ると常に善と悪との闘争の物語であった。

片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪、そして霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。

時として、今がまさにその時期の一つであるが、尋常ならぬ努力が払われているのである。

光の天使たちが一段と勢力を強めて集結し、善なる人間を動かし、正しい知識と道を広める。

しかし、恐るべきは調和された正しい生き方からの離脱者であり偽善者であり、ご都合主義者である。

かくの如き人種に惑わされてはならない。が、真の道ゆえに誘惑に負けてはならない。

とはいっても、悩める人々にとっては何をもって真の道、生き方とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのだろうかとなると、現実は真剣に求めながらなお活路を見出せぬ人々が多いのである。

しかし、切に求めるならば最後に見出せぬ人はいない。その道のりが長く久しき人々もあろう。

地上を去り、ある程度の高き界へ到りてようやく光明を見出す人もあるかも知れぬ。

試練とはよくいったものだ。私たちは霊性の向上過程において逆境を試される。

そして相応(ふさわ)しき者にのみが魂に普遍なる慈愛の光明を授けられる。

一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。

適性あっての前進である。忍耐の必要なる所以である。

言葉を雄弁にならべて『解りました。』と言った次ぎの日には感情的になり、怒りをあらわにして子供にあたり散らしている愚かな親になってしまうのは自我心以外のなにものでもない。

多くを雄弁に語り、他のせいにしているうちは解ったことにはならないのである。

『どうして怒ってしまうのか自分でも抑えがききません。この怒りはどうしようもありません。』というのだが、一体何故に真の道に抵抗しようとするのか、怒りを静寂に導くのは愛のうえに根差した理性だけなのだ。

怒りが込み上げてきたときは、この理性を心に意識することで静寂が得られるということを肝に銘じておかなければならない。

過去、この地上界にて、光の天使たちが遭遇せる障害に比べれば、いま怒れる者たちや、私たちの障害など物の数でないことを知らなければならない。

かのローマ帝政の末期における放蕩(ほうとう)と肉欲と卑俗(ひぞく)と悪徳とに浸り切った地域から、心ある人たちでさえも恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもし、いま怒れるあなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。

その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであったであろう。

肉欲、ただ肉欲のみであったのだ。

心ある人たちもはその光景を正視できずに逃げ去り、その喘(あえ)ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。

実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かったことであろう。

世をあげて、わずかな心ある者たちを侮辱、軽蔑し、その者たちの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、天使たちを愚弄(ぐろう)し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。

まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。

このような悪の巣窟(そうくつ)さえも唯一なる存在意識と、その使者は愛と慈悲によって見事に清め許てくれるものを、いま怒れる者たち、執着する者たち、不満と愚痴をいう者たちは、わずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは・・・・。

天上界による地上人類のための支援が人間みずからの無知と強情と不調和ゆえに何度も挫折してきたのであるが、しかし終わりではない。続くのである。

地上人類が己の内にある神々しい霊性に悟りを得るまで。

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選ばれる背後霊

『どのような霊が背後の霊として指導するのですか?』という質問があった。

先ず、守護霊ですが、私たちが地上に生まれた時から、その肉体生命が終わるまで生涯において変わることのない見えざるパートナとして補佐してくれる存在である。

さて背後霊(指導霊)たちはどのようにして選ばれてくるのだろうか。

背後霊(指導霊)は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。

確かに指導するという目的で背後から協力する場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。

が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。

また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。

また、性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。

反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために相応しい地上の人間を選ぶという場合もある。これはステージの高い霊が好む手段である。

己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。覚悟の決断と言えるだろう。

人間は地上に生れてしまうと、肉体五官に執着、翻弄されやすいものだということです。

背後の霊は、その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。

中には霊的に強い絆、親和力によって結ばれる場合もある。

地上的縁の名残りで結ばれることもある。

また何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊(指導霊)が入れ替わることがしばしばある。

そうして指導霊として働いた霊が再び地上に下生するのはどの程度の霊だろうかとなると、主として地球に最も近い霊界の下層階、中層階、上層階の三階の者たちである。

これらは地上人間との連絡が取り易いからである。

霊格の高い者が背後につくのは地上人間が霊媒的素質に似たものをもつ者に限られるのだが、しかし、この場合も地上人間の心が安定して調和された者でなければ背後霊の使命を果すことはできない。

ステージの高い指導霊、また守護霊は、その人の自主性を無視して勝手に強制的に指導するというようなことはしない。

その人が間違った暗い考えをしているのを、無理矢理に強制して明るい正しい考え方をするようにはしないのです。

霊格(人格)の高い魂をもって生まれた人間であっても、欲心に負けて、心を暗くして暗黒の世界へ堕ちるものもいるのである。

すべて人には心の自由が与えられているからです。自主性に委ねられているからである。

どんな人も、自分の心の悟り以上には偉大ではあり得ないのですから、自分を偉大に見せる必要もないし、誇示する必要もない。

自分を偉大にするには、自分で自分の心(魂)を偉大に成長させる以外ないだろう。

そして、日一日と自分自身を成長させる為に、宇宙意識と調和し、波長共鳴する実践の方法として、先ずは正しい調和の実践法(八正道)という心を調える宝がありますから実践してみてはどうだろうか。

高級な指導霊や、あなたの守護霊は、その人を悟らせるように霊感(インスピレーション)を与えようと日夜努力しているのである。

肉眼で確認できなくても生涯のパートナーは誰の心にも背後にもいる。

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あなたもできる意識の覚醒

霊的意識の覚醒は使命達成への第一歩。

私達は、誰もが神の子であり、人の心が理解できるようになり、さまざまな能力を発揮できる潜在的力を持っている。

ただ、その能力は人それぞれに内容も強弱も違いがあるだけだ。

この能力は、自らの想念と行為により、心の曇りを取り去ることによってできるものである。

しかし多くの人々は、神性、仏性を忘れているため、自分の心は自分以外には解らないと思っているが、決してそんなことはない。

心がの扉が開かれると相手の心の状態がわかるようになるからだ。

それには、日々の生活行為を反省する心が必要であり、心と行為の間違いが修正できていってこそ可能となるのである。

しかし自分の心を偽り、隠す人の場合はどのような悩み苦しみを持ってきても救うことはできないし、正しい意識の覚醒はできない。

このような人たちは自らを偽り、安息な生活を避け、人生の正しい道を逸脱した生き方を選んでいることになる。

真理は、誰も崩すことはできない。たとえ、一時暴力や権力によって否定されても、太陽が東から出て西へ沈むように、それはいつの日か迷える人々の心に、華燭(かしょく)の光となって安らぎを与えることだろう。

人間は誰もが潜在的に人生に対して真実の道を求めている。

真実に沿った法則の学びは人々の心を洗い、人生の価値を知り、人間は肉体舟に乗って今も航海しているという魂修行の途中であることを各人が認識されるであろう。

その過程において霊的意識の覚醒を自覚する人もいるのであるが、しかし大切なことは、霊的な道が開かれたことが悟りではなく、さらに現世において、より以上の使命を達することが覚醒した人々の修行である、ということだ。

霊的な覚醒は、正しい法(生き方)へのスタート地点であるにすぎない。

そして霊的な覚醒は永遠の生命(魂)を悟るための実証であり、決して欲望を満たすための道具にしてはならない。

むしろその後、己にきびしく、他人に寛容な心を持って、「実るほど頭の下がる稲穂かな」の諺のように、謙虚な心と行動をもって自己を律することが道(正道)である。

人間は、他の人より特技があったり、地位、名誉、家柄によって、優越感を持ったり増上慢になり勝ちである。

人はそうなったとき、心はすでに没落の一歩を辿っているということを知らなくてはならない。

良いことも、悪いことも、作用と反作用の法則は人生の理(ことわり)であり、厳然として生きているということだ。

人の心の針は、一念三千いずれの世界にも通じ、幸福になるのも不幸になるのもすべて自分が造り出す想念行為の結果の故である、と心に銘記すべきである。

意識とは魂のことをいう。

この意識は、私達の肉体舟の支配者であり、永久に変わることのない本当の自分自身である。

あの世とこの世を転生輪廻し、その環境に適応した肉体を持って、自分の魂を磨き、神仏の体である現象界(地上)を平和な安らぎのあるユートピアにするため、私達はこの世の肉体舟に乗っているのである。

昔から、魂という問題については、多くの人々によって語られ、私もまた聞かされてきたのであるが、実体は、あるようでないようで、はっきりと確信することはできなかった。

私は、現在まで本当の自分を追いかけてきたが、魂の問題については幾度も壁にぶつかったり、探求をやめようかと思ったこともある。

しかし魂という問題に関しては、宗教的な教義のなかで学問や形式で知ることは不可能だ、とわかった。

なぜなら、宗教的な智で、学んだ哲学で、このことを知ることができるなら、現代のような仏教哲学を説く人間、キリスト教を説く人間たちが皆、悟って霊的に覚醒しているはずである。

そのようにして真に悟り、真に霊的な覚醒をした人たちが仏教やキリスト教を説いてきたなら現代の宗教はもっと崇高な世界になっていただろう。

私は、正しい生活行為、即ち、偏りのない中道の生き方、執着のない行為のなかに調和した人の道があることを確信するに至ったのである。

奇跡的な現象が起こらなくなったことにしても、その原因は、人々の心が物質的、経済的な欲望に執着し、歪んで、神性の自覚を失い、偉大な智恵を出すことができなくなったことに起因している。

ということは一切の囚われ、我欲を捨てて人間本来の心になったときに再び奇跡はおこるのだ。

なぜ人間は考えることができるのだろうか、なぜ悩んで疲労するのだろうか、私達はなぜ眠っているとき聞くことも見ることもできないのか、などとさまざまな疑問がある。

起きているときと眠っているときの相違など、疑問はいつ果てることもない探求が続く。

私達が肉体こそ自分自身である、と思っていたことや、肉体先祖が私達の魂の提供者であるという説が、私の中で覆(くつが)えされていった。

分かったことは、肉体はこの現象界に適応するように唯一なる存在が造り、魂の修行舟として本能を私達に与え、子孫保存を計ったことなどであり、次元の異なる意識の世界こそ実在界の世界で、この現象界は実在界の修行場というふうなことだった。

私達は、自分自身を、その魂を、より高次元に進化させるためには、苦楽という人生航路が必要である。

肉体に乗ってしまうと、人間としての使命はおろか、肉体自体の眼、耳、鼻、舌、身、という五官に翻弄され、肉体の支配者は煩悩に覆われて自分自身を忘れる。

あの世で約束してきたことを、棒に振ってしまう人々が非常に多いのである。

先祖や家柄、地位、名誉、自分自身の肉体に執着を持ってしまう。まことに、愚かなる者は人間、といえる。

意識こそ、魂こそ、本当の自分自身であることを知り、肉体的な五官によって客観的にとらえた現象のみで己を忘れてはならない。

物質にはエネルギーが共存している。

仕事をなし得る能力を、エネルギーといっているが、私達はそれを見ることはできない。

そのエネルギー粒子の集中された物質については、計量や実験、データ、数学的に算出し、客観的にとらえることはできる。

しかし、肉体的な要素についてはその姿を目視することができるが、意識を肉眼で見ることは心眼の開かれた人以外には不可能である。

だが見ることができないのに、私達は精神的に悩んだとき、なぜ疲労するのだろうか。

私達は、肉体労働によって疲労することは当然である、という感覚がある。

しかし、疲労するということは、エネルギーを消費していることである。

肉体労働によって消費されたエネルギーは、動物、植物、鉱物のエネルギーを吸収することによって回復する。

唾液によって食道から胃の中に入り、胃液とともに消化されて血や肉や骨に変わって行く。

このとき、唾線から口中に分泌される消化液は、小さな消化を助ける黴菌である。

この黴菌は非常に微小なもので、恐らく私達の胃の中を広大な宇宙と思っていることだろう。

あたかも私達が広大な宇宙を眺めて驚いているように、肉体の細胞集団を、銀河系宇宙と同じように見ているかも分からない。

この小さな黴菌が一つ不調和を起こしても、私達の体は変調をきたすだろう。

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成功を求めない生き方

書店をのぞいてみると、成功する方法、金持ちになる方法、有名になる方法、仕事がうまく行く方法など、ありとあらゆる成功哲学、啓発系書籍が溢れている。

そしてベストセラーになっている書籍もたくさんあります。

これらの成功哲学は宗教がベースとなったアメリカ的な西洋思想で、歴史を経る過程で、この社会の中でいかに富を得て成功し、活躍するかという現代成功哲学へと変容していきました。

しかし、私自身は、ビジネス書で提唱されている現代成功哲学には少し懐疑的な部分があります。

それは、本来の目的である霊性の追求と向上という要素が、世俗化の過程で抜け落ちてしまっているからです。

逆に言えば、その要素を復元させることで、圧倒的な成功哲学の方法論を確立することができるのですが、そうなってしまうと、もはや世俗的な意味での成功を希求する度合いが低下するため、成功の意味そのものが変化してしまうかもしれません。

そういう意味で、言い方が極端かもしれませんが、現代成功哲学、自己啓発、ビジネス書が提唱している世界観は、本質を失った、唯物的、経済偏重主義であるといえるだろう。

そして、それらの多くが目指しているものは、本来の霊性の追究ではなく、全く逆のエゴイズムの拡大、自我肥大でしかありません。

言い換えれば、金儲けをするためだけのハウツー本に偏っているということだ。

幼児的な万能感をいかに拡大するか、そのために世界をいかに制御するかという低次元の欲望に囚われている方法論です。

およそ欠いてはならず、メインとしなければならない霊性の向上について述べられているハウツー本は殆ど見当たらない。

当然、これらの方法論を実践しても、ほとんどはうまく行きません。

もしうまくいっても、あらゆるトラブルに巻き込まれるでしょう。

本質(心)を失った儲け主義偏重の偽物は、人を本当の幸せには導かないからです。

もちろん、成功哲学や自己啓発の中にも、本質を失っていない方法論はあると思います。

幼児的な願望を実現させるのではなく、自我意識を超越し、大いなるもの、霊性のステージアップへと人を真に導いていくものもあるでしょう。

しかしそれは、万に一つの本当に稀なる存在です。

誰もが成功、成功と経済的富だけを追求し、それが人生の成功者のごとく書き記すのだが、なぜ私たちは成功しなければならないのでしょうか。

それは目指すべきものなのだろうか?

本質を失った成功は、不幸への入り口です。

そんな偽のおもちゃを得るために、大切な人生を費やすような生き方ではなく、私たちは、真の成功を求めるべきであろう。

私が提唱する真の成功とは、世俗的な成功を求めることをやめることから始まるのです。

成功して、有名になって、チヤホヤされたい。

権力を得て、人を自由にコントロールしたい。

金と地位にまみれて、快楽しかない日々の生活。

それは一時の喜びを与えてくれるかもしれませんが、しかし、それは深い虚しさと共にあり、消えることがないであろう。

その虚しさから逃れるために、さらなる快楽を求める。そのために多くの人々に迷惑をかける。

しかし、どれほど物質的な富や名声や権力を得ても、死と共にすべてのものを失います。

物質的、世俗的快楽が大きいほど、それを失う恐怖は増大します。

死に際してはなおさらである。

圧倒的な虚しさと表裏一体である快楽を追及し、すべてを失う恐怖に慄(おのの)き、多くの人から批難と軽蔑と恨みの念を買い、死んでいく人生。

これが私たちが憧れる成功者の人生なのだろうか。

こういう現実をしっかりと見据えて、私たちの真の成功とは一体何かを自分の力で見出さなければならないと思います。

それは、どこかの教祖やグルやカウンセラーが教えてくれるものではなく、自分の人生で、自分の経験から少しずつ学んでいくものだということです。

もちろん、成功しても虚しいのだと気づくために、世俗的な成功を体験しなければならない人生もあるだろうという意味では、そういう人生を否定することはできない。

しかし、ビジネス書が提唱しているような方法論では、そういう世俗的な成功すら体験できようはずがない。

本一冊で金儲けができるほど世間の風は優しくはないものだ。

近年のアメリカにおいては、成功者の奉仕活動をする風潮が拡大してきていることをみても自分のためだけの富がいかに虚しいものであるかを知った人たちの活動であることが理解できるだろう。

自我の力というのは、わずかなものでしかありません。

成功を求める生き方は、自我肥大をベースにしていると言っても過言ではない。

たとえ潜在意識や無意識という言葉を使おうとも、本当の意味で潜在的な力を使うことはほとんど出来ないのである。

潜在的な力は、自我の範囲にはないため、自分が成功して、有名になって、現象をコントロールしたいという、相反する欲望がある限り、その力は顕現して来ないのです。

自我を超越する方向にあるのは、成功ではなく、「自然」です。

ここでいう自然とは私心がない事。私心とはバランスのとれた精神状態のことである。

バランスのとれた心が潜在意識を正しく、強く働かしめるのです。

すべてが自然に流れていく…そこに我欲、執着はなく、どのような小さなことにも心底から感謝の意志を表現していき、拡大のためだけの欲望追及もありません。

偽の成功は、拡大を追及する。
真の成功は、本質を追及する。

偽の成功は、我を拡大する。
真の成功は、我を滅する。

偽と真は方向性が真逆なのです。

そして、真の成功への道を進むなら、偽物つまり、我欲を捨てなければなりません。
相反するように聞こえるであろうが、世俗的な成功を追及することをやめ、意識の方向性を感謝と調和、すなわち、足ることを知って執着しない生き方、働きに変えたときに始めて活路が見えてくるものである。

成功を求めない生き方が、人を真の成功へと導くでしょう。

そこには我はなく、自然(調和)だけが圧倒的な存在として躍動しています。

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現世と来世の相違

あの世があるだろうかという疑問に対し、『この世だけだ、死んだらおしまいだよ。何もないよ。』と思っている人も多い。

ただ生命の永遠は肉体子孫を通して保存されるので、そういう意味での永遠性を肯定するという考え方が殆どのようだ。見えないものは信じないという考え方が背景にある。

このような人々は唯物的な考え方に支配され、正しい生命の転生を知っていない人達だと
いえよう。

確かに肉体は親から、先祖からいただいたものであるが、先祖が魂・心まで与えたとしたなら、なぜ同じ母親から生まれた兄弟姉妹が財産問題で争ったりするのだろうか。

親と子の不調和な対立が起こり、あげくの果てに殺し合いまでに発 展するのだろうか。

子供が親の心と同じならば、世の中にはよくある例だが、 親の思っていることすべてを理解し親不孝などしないだろう。

親ができなかったことを、子供に託し、勉強勉強と自分の分身の様に教育する。

その子が親と同じ魂・心なら、なぜノイローゼになったり、親不孝をするのだろう。

そしてあれだけ面倒を見てやったのに裏切ったと愚痴をこぼす親がいる。

私はこのような説を信ずるわけにはゆかない。

両親の縁によって人生航路の肉体をいただき、育ててもらったが、親は魂・心まで与えたのではないということだ。

子供は子供としての個性を持つ。ましてや心まで一つだ、なんてこともないのである。

親子は、たがいに話し合って理解し、通じ合うものである。

親として淋しいだろうが、これが現実であり、子供は子供としての人生を、そして新しい自己完成への学習の場として現世を選んだのである。

すでに次元のちがったあの世でお互いに約束したことを忘れているだけなのである。

心の仕組みやその働きを良く理解し、偏りのない生活をすれば、人間はその事実を知ることが出来るのです。

心の問題は、多分に主観的であり、経験のない場合は理解しにくい面が多いと思う。

しかし経験がないからといって、これを否定することは、科学する現代人にしては正しい態度ではない。

古来から多くの聖者が、普通の常識では考えられないような奇跡、徳行を実践し、衆生を救ってきた。

右の頬を打たば、左をも向けよ、といったイエス・キリストの心情は、現代人には容易に理解できないだろう。

この言葉の真意は、ただ単に、非暴力や無抵抗を言っているのでも、犠牲的精神を訴えているのでもなく、相手に自分が何をしているのか気づかせるということの大切さを教示しているものでしょう。

その根底には、どのような弾圧や迫害にも屈しない、人類に対する深く広い愛があるからである。

一方、モーゼの大奇跡は、今日では神話の一つに数えられ、学者によってはモーゼを架空の人物としか扱っていない人もあるようだ。

また、仏陀の悟りについても、語りつがれた創作のようにみている人もおり、理解できない事柄は、すべて捨ててしまうようである。

今日、残されている文献の多くは、虚構と真実が入り雑り、真偽の判断がつけ難くなっているが、三次元的理解を超えたこうした徳行、奇跡というものを考えたならば、三次元以上の高次元の作用のあることを推量することができると思う。

三次元の現世の肉体に乗っている時は、私達の意識は、通常10%くらいしか表面に出ていないために、一寸先がわからず、盲目の人生を歩んで苦楽を体験することになる。

しかし、肉体舟から降りている時(眠っている時や、心が調和されて魂が肉体から離れている時)は、次元の違った世界に行っているため、私達の肉体の付属品である、眼、鼻、耳、舌、身の五官の作用は、人それぞれそれによってちがうが、外部からの振動には全く無関心であろう。

したがって記憶すら働いていない、といってもよいであろう。

記憶がないということは、一切の記憶は決して私達の脳細胞の中にあるのではないという
ことであり、肉体の船長さんである意識、すなわち魂ということになろう。

どんな喜怒哀楽があっても、眠ってしまえば、その時は忘れている。

これは三次元の肉体から離れ四次元以降に魂が移動しているために、各人の意識の90%が表面に出、10%が潜在して、はっきりと現象化して来ないからといえるだろう。

就眠は肉体と意識、つまり肉体の生命が人生航路の修行に耐え得るために行なうものである。

これは光の線、すなわち霊子線のようなもので、四次元以降多次元の世界にコンタクトされ、その光の線を通して、魂があの世である実在界(四次元以降)にかえっていくことなのである。

死は肉体が人生航路に耐えられなくなった時であり、肉体と意識を結んでいる霊子線は完全に切断されてしまうものだ。

二度と肉体を支配して三次元空間で活動することは不可能である。

船長を失った肉体舟は次第に朽ち果て、大自然界に還っていく。

一方、肉体を離れた魂は、四次元の乗り舟である光子体ともいうべき精妙なボディーを持っている。

生前における私達の原子肉体は、この光子体と共に生活しているのであるから、死は両者の訣別といってもいいわけだ。

私達の心の在り方によって、私達の意識は四次元以降多次元の世界にも通じるし、反対に、同じ四次元でも、非常に暗い世界にも通じてしまう。

慈悲と愛の心で人々に接している魂は、光のあふれた多次元の世界に通じ、自己保存、自我我欲の強い人々は、心が暗いスモッグによって覆われ、光をさえぎってしまうために、後光(オーラ)も暗く、苦しみ悲しみの中であえぎ、地獄界に通じている。

あの世の地獄界は、餓鬼、阿修羅、畜生、煉獄、無間地獄というように、恐ろしい世界である。

美しい心の状態によって、非物質的な精妙な霊囲気をつくり出している天上界は、この世の三次元の不安定な固体的天体の地球を包んでいる。

地上界に住んでいる人々の心と行ないが中道の調和された生活であれば、地球は、さらに光明化され、ユートピア完成の時期が早まろう。

地上界の人類は永い歳月を通して、混乱した闘争と破壊の業をつくり出してきたが、これまで非常に多面的であった思想も、社会主義と資本主義の二極にわかれ、ようやく調和への光明に向かって、進んでいるといえよう。

ある意味では、現在の混乱した社会は、人類が体験しなくてはならない業といえよう。

いずれにせよ、経済力、権力、武力によって支配しようとする人々の多くは、たとえ一時の支配はできても、人間本来の神性仏性である心の自由を支配することは出来ない。

人間の生活環境の経済的ルールが変わっても、やがては自由平等の、人類は皆兄弟という慈愛の心が平和な世界国家を完成して行くであろう。

人類はそのための厳しい学習を体験しているわけである。心のない思想はいたずらに、社会を混乱におとし入れ、人心を迷わせ不幸にするだけである。

心まで腐ってしまった思想家とその実践者は、最も厳しい煉獄地獄でその間違いに気がつくまで修行する。

その修行を他に転嫁することは出来ない。

この現象界(3次元)は、無から有を生ぜしめることは不可能なことである。

有から縁によって有が生ずることは、3次元世界において崩すことの出来ない現象であり法則だ。

私達の五官で感じないから無いという考えは、非常に愚かしいのである。

人間の生活の知識によってつくり出された物質文明は、公害という副産物を蒔き散らした。

大気の中に、窒素酸化物や硫化物その他の光化学スモッグという生物生存に危険な毒物をつくり出してしまった。

私達の肉体も両親の縁により、またその魂も次元の異なった世界において、因を結び、その縁生によって、この地上で有から有が生じたのである。

エネルギー不滅の法則も、質量不変の法則も、まったく有から有が生じ、その有が形を変えて現象化するに過ぎないということを示している。

私達の心と行ないについても、同じことがいえる。

苦しみ、悲しみ、喜びの原因は、すべて、五官と心がつくり出したもので、無から有が生
じるものではない。

想念は、現象を生み出す能力を持っているからである。

肉体的、精神的な諸現象は、そのために相互関係にあるということだ。

仏教でいう色心不二という意味を思い出して欲しい。

両者は別々には存在していないし、相互に関係し合いながら、現象を造り出しているわけである。

現代医学の殆どが肉体的条件だけを追究して一切の病気を治そうとしている。しかしそれは誤りである。

現代物理学の分野はすでに一つのある大きな壁にぶち当り、アルベルト・アインシュタインによる96年前の相対性理論、107年前の特殊相対性理論以上のものが出てこないではないか。

私達の肉体諸器官は、胃は胃として、心臓は心臓としての意識を持っているし、肉体の調和のために、各諸器官はそれぞれの使命を持って活動を続けている。

肉体の船長さんである魂と肉体意識の相互関係の大調和が、もっとも大事であり、病気はこの両者の不調和が原因なのである。

現代人にみられるノイローゼ、うつ病などの精神的疾患という病気も、肉体と心の不調和が原因になっている。

それは、偏ったものの見方、自己中心的な考え、そして心の中に不調和な想念をつめ込んで吐き出すことの出来ない情緒不安定な生活の積み重ねの結果、生じてくるもので、地獄霊や動物霊の憑依によって、人格が変わってしまっている人もいる。

暗い、しめっぽい場所にゴキブリやうじが湧く。このように明るい太陽のもとでは生きられない生物がある。

それと同じように心と行ないの正しい人々には、心の中に曇りがないため、明るさを避ける彼らは近づくことが出来ないのだ。

このようにして、三次元の物の世界と四次元以降の心の世界とは、切り離して考えることはできないということだ。

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カルト&スピリチュアルへの警鐘

 

 

真言宗系僧侶、祈祷師、拝み屋、占い師、スピリチュアルカウンセラー、霊能者、鑑定家、気功師、レイキ、等々スピリチュアルな分野やカルトに関わる人たちと会い、話し、体験もしてきた。

しかし、その能力の高低云々よりも人間性の観点からすれば称賛に値するような人物に出会うことはなかった。

浄化能力があるということで、何度にもわたって同じ人の浄化を勧めるのだが、その都度数万円のお金が必要になる。

もっともらしい理由づけで浄化は際限なく続くのだが、依存する者たちはやめることができないのだから格好の金づるでしかない。

軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに、低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、卑怯者、おしゃべり、この種の人間は危険が実に大である。

やはり、性格的に円満(霊的調和)を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。

賢明にして強力なる背後霊(守護霊、指導霊)に守られ、その指示によって行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの調和された祈りの念を持って臨むべきである。

仮にも、神仏を語る者が営利目的とする不純、不用意な言動で盲目的な人たちとの係わり合いは断じて許せぬ。

また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍(わざわい)の種子を持ち込むのみである。

節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道(霊的無常識)な性格の持ち主は低級霊にとって恰好の餌食(えじき)となる。

その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。

何故なら、人々を迷妄の道に扇動するこになるからだ。

特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、当たる、当たらない、家族しか知らないことを言ったから信じる、あるいはあなたの虚栄心の慰めを満たすような巧みな扇動、誘惑などの場合はなおのことである。

その種の人間には真に唯一なるものの訓えは決して耳に届かない。

願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界(エゴ世界)を後にして高級界の聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。

必要欠かざる条件として、真理を求める者は、肉を魂の支配下に置けるようではなければいけない。

また、真実の霊的知識に憧れる者は生活のすべての面において純粋で、心身ともに勇敢果敢で、真理の追究において一途(いちず)で、足れるを知る人間でなければならない。

純粋さ、素朴さ、一途さ、そして進歩と真理への弛(たゆ)まざる行い。こうしたものが正しい霊的知識の領域へ導いてくれるのである。

これに反し、肉体的煩悩が霊性を抑圧している者、霊的知識を卑俗的(俗っぽい、下品)な目的のために悪用せんとする利己主義者、この種の人は深刻な危険にさらされていると言える。

霊的能力にばかり興味をもつ者は移り気で、とかく神秘的なものに引かれるために、霊能者やその類を渡り歩くものだし、困った迷える盲者だ。

神秘のベールが単なる好奇心でもって突き通せるものと安直に考えるのである。

スピリチュアルなことに携わる者も、見栄(みえ)が強く、営利目的で、能力も知識もないのに、あたかもあるように見せかけ、いつの間にか無能を万能に思わせることに迷走するのである。

それが他人のものをのぞき見する悪趣味を生む。

この種の人間(邪霊集団の手先)には常に危険がつきまとう。

執着を持たずに、正しく人の道を生きることを求める真摯な探究者には何一つ危険はない。

カルトやスピリチュアルな分野において最優先されるべきは、見える、見えない、聞こえる、聞こえない、霊力の高低のあるなしではなく、その者が、他の人々の魂の向上に誠心から奉仕するかどうかだけである。

見えるに限って言うならば、幼児や少年、少女、自我心の強い者でも見える場合が多々あるのだが、しかし、人格、理性的、知性が備わったわけではないことを考えれば判断がつくであろう。

見える、見えない、聞こえる、聞こえないは素養や潜在的能力にもあるが、邪悪な霊の憑依によってもそのような現象をみせる場合が多いことを見誤ってはいけない。

根っからの悪人とはいえないまでも、自制心と規律に欠ける者、節度と調和を失える者は、邪霊による攻撃の格好の的にされやすい。

その種の人間との付き合いは避けるがよい。

同じく霊的であっても、未発達のよからぬ背後霊の都合のよい手先にされていることがよくあるからである。

不節制で、非理知的で、興奮しやすい性格の持ち主には用心するがよいだろう。

万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし、唯一なるものを語り、利用せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば。

さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は唯一なるものの媒体として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いに自らを罰することになります。

それが不変の大宇宙の摂理であり、唯一なるものの秩序なのです。

大いなる進歩向上は大いなる責任が伴うということです。

善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用(利己用)した者には、唯一なるものの意志を知りつつその実行を怠った者としての自業自得という禍が降りかかるであろう。

霊的な能力の種類、高低は、唯一なるものの意識である、愛と慈悲を証明する一つの現象と手段に過ぎないということである。

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法力(霊的能力)

人間は力というものに憧れを持っています。

権力、金力、暴力、体力、気力、瞬発力、行動力、眼力、腕力、能力、法力といったものまで、力という言葉はさまざまな意味を内在している。

意識も一種のエネルギーですから、力に憧れるのは人間である以上、当然のように思われるのですが、しかし、正しい生き方という観点からすれば″力に憧れる″ことはよいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

力は自分の分をわきまえておくことが大事であるし、それを無視した力への憧れれは、やがては必ず我が身を滅ぼすことになるだろう。

手に触れる物体(動・植・鉱物)はすべてエネルギーの集中固体化したもので、エネルギーでないものは一つもありません。その意味では人間の肉体も同じです。

こうした物質は、光、熱、電気、磁気、重力の相互作用によって、集中、分散をくりかえしています。そうして、その相互作用というものは、大宇宙の偉大なる意思、意識の働きによって離合集散をくりかえすわけですが、その目的とするところは、大宇宙の大調和にあるわけです。

集中とは固体化した状態であり、分散とは気体化した状態で科学的な説明のことです。

太陽系が秩序整然と運動をくりかえしているのも、また、私たち人間がこの地上で生活できるのも、みな、大宇宙の大調和の働きがあるからです。

さて、エネルギーそれ自体は、たとえば、湖にたまった水のように、そう大きな作用として働くわけではありませんが、湖の一角にダムをつくり、水を落下させることによって、タービンを回してはじめて電力を生み、大きな力(エネルギー)となるわけです。

このように、エネルギーというものは、なにかの意思、意識の作用があって、はじめて、その力を発揮するものですが、その目的とするところは大調和にあるのです。

しかし、物を生かすエネルギーは、いわゆる、善悪に関係なく、なにかの作用が働くことによって、大きな力となるわけです。

たとえば、原子エネルギーを平和利用に使うか、戦争兵器に使うかは、私たち人間の判断に任されているのと同じ理屈です。

次に、人間の周囲にあるさまざまな力は、各人が意思し、意識として働くことによって生じてきます。先に述べた、権力、金力、暴力、体力、気力といったものは、すべてそうです。

心に思う、念ずるから、こうした力関係が生じてくるわけです。

生まれたての赤子のように、自然のままに生かされた状態では、こうした力関係は生じてこないでしょう。

原始民族における狩猟生活をみてもわかるように、力に憧れるのは人間である以上、必然の成り行きといえますが、しかし、社会を不調和にする力は、やがて循環の法によって淘汰されます。

権力、金力、暴力といったものは、社会に歪みをつくり、争いを生むので、その離合集散はまことに目まぐるしいといえましょう。

法力というものは、同じように見えないエネルギーの集中されたものですが、法とは調和を意味し、不調和の力ではありません。

つまり、法力は、他を生かす、慈悲と愛の発意によってのみ、行使されるものです。

法力霊力魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、その中身は大分違ってくるわけで、心の歪みを持つたままで霊力を行使すると、やがて、その反動がやってきて、その人をうちのめしてしまうでしょう。

法力と魔力のちがいは、欲望という執着があるかないかであり、それは自分の心を冷静にみつめればハッキリするはずである。

どれほど素晴らしい、巧みな言葉で人を引き寄せてもその根底に欲望が潜んでいるならば営利目的な行動が見えてくるだろうし、その背後で加担する霊はみな、邪悪な霊達や、動物霊(蛇霊、狐霊)か地獄霊ばかりである。

自分では欲望はないと思っても、欲望をもってこれを行使すると、肉体的に非常に疲れを覚えるものです。

霊的能力に憧れるのは人間の願いのようですが、まず、大部分は欲望に根ざしているので注意が肝要です。

日ごろの正しい生き方をせず、不調和なままに無理に霊的能力を求めると、結局は断食や滝行、読経、荒行に走ることになるのだが、これらは相当に危険が付きまとうし、一生を棒に振る者もいるのです。

力を望まず力が生み出されるもの、それが法力というものです。

不調和な霊囲気があるため、背後の天使達が近づくことができないということは、人々の意識の次元が曇ってしまうため、どうすることもできないということなのだ。

それも、すべては人間自らの心が造り出す現象であり、その心の王国の支配者は自分自身にほかならないからである。

しかし、人間は、あらゆる体験をとおして、自ら造ったそうした不調和な混乱のなかから、人間としての調和された、正しい生き方を悟って行かなくてはならないのである。

要は、神の子としての、悟りに至る過程が、早いか遅いか、という問題になろう。

遅いということは、大きな苦しみという荷物を背負って、喘ぎ喘ぎ人生を渡って行くということだ。

このように、過去世と現世において自ら造り出した想念と行為の集約されたものが、現在の自分自身の本当の姿だというほかはないだろう。

あの世の光の天使達(守護霊、指導霊、諸天善神)は、常にこうした私達を、温かい心で見守っているということを、忘れてはならない。

この地上界に、警察とか軍隊とか、市民大衆を他の犯罪や暴力から守る職業があるように、あの世でもそうした仕事にたずさわっている天使達がいるのである。

また光の天使達のなかには、あの世と地上界の人々で、調和された丸い心を持つ人々に、不調和な地獄霊や動物霊達が、近よらないようにする役職を持つ天使達もいる。

これを、諸天善神ともいっている。

仏教でいう弁財天とか大黒天とかいうと、何か金儲けの手助けのように思っている人々が多いが、これはとんでもない間違いである。

彼らは、金儲けの協力者などではないということを、知らなくてはならないだろう。

弁財天とは、心のなかに埋没している、転生輪廻の過程に造り出された私達の智慧の宝庫を開くための協力者であり、大黒天は、肉体を持った光の天使達が、正しい法を流布するときの協力者である。

それを、現代人の多くは偶像化してしまって、これに祈れば財産に恵まれると思っている人が多いが、残念なことに、全く金儲けには縁の遠い、諸天善神なのである。

龍頭観音

また、稲荷大明神(狐霊ではない)とか、龍神、龍王といった善神もいる。

彼らは、動物霊達に、神の子としての道を教える役職にある天使達であって大宇宙、天地創造の神ではない。

したがって、神を崇拝するように諸天善神を崇拝してはならなず、心からの感謝にとどめておくべきである。

意外と龍に関心を持たれる方は多いが、能力のある方なら龍を使いとして協力してもらうことはあっても、人間は龍の下部となってはならない。

下手な憧れは、心に隙を作ることになるため危険であり、その隙に邪悪な霊達が入り込みやすくなることを知っていただきたい。

特に未熟な狐霊などは、霊的に強いものを持っているため、人々の心を不調和に導くことが多いので、盲目な人間はこの狐霊を稲荷大明神として祭ってしまっている。

狐は、稲荷大明神ではないのだということを、私達は知るべきである。

竜王達の役割は、あくまでも、万物の霊長である人間が、この地上界を去って心の豊かさを修行するため、動物達に正しい法を教えることだといえる。

そして、それは、もっともきびしい修行所であり学習であるともいえる。

なぜなら、動物達は、感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしいからである。

竜王、稲荷大明神と呼ばれている諸天は仏教でいうところの菩薩、すなわち、上段階の光の指導霊になるための修行過程である。だが、失敗する機会の多い環境ともいえる。

諸天善神にとっても蛇霊や狐霊達を指導することは非常に、むずかしい修行であり、この現象界(地上)でいうと、約三百年近くも、きびしい環境で修行しなげればならないのである。

世間では、竜神だの稲荷大明神だとかいうと、狐や蛇、竜などをいっているが、それは誤りである。

彼ら動物霊達は、盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、自分をアピールしたがりいろいろな現象を出したりする。

しかし、自我我欲にふけり、道を失ってしまうというのが非常に多いということだ。

私の所に、会社を経営する恰幅の良い女性社長がきたことがあった。

この女性社長さん、非常に自己中心的であり、傲慢な心をもっていることが読んで取れたのであるが、邪悪な信仰をもっていることもわかった。そして会社の事務所に稲荷の神棚を祀っていることもわかった。

後日談であるが、この女性社長さんの会社に勤めていた方が人生相談に見えた。まるで打ち合わせでもしたようなタイミングである。

この相談者の内容は、退職したいということと、社長の身勝手な言動に社内がいつも戦々恐々として、うつ病を発症する人や退職者が後を絶たないということだった。

そして、邪悪な信仰宗教の話し、稲荷神の神棚の話を事細かに話してくれたのだった。

およそ、狐や蛇や竜などが、私達人間の守護霊になるということは、絶対にないということを知るべきだろう。

ただ、狐や竜や蛇達が、良く正しい法を心得て、竜王達の仕事を手伝う、ということはある。

しかし彼らは、竜神でも竜王でもなく、まして、神と祭られるようなものではないということを知らなくてはならないだろう。

商売繁盛を目的に、よく狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというのは、非常に危険なことだといえよう。必ず後から問題が起きてくる。

なぜなら、狐や竜や蛇達は、人間の願いを聞くことがあるが、まずその家庭を混乱に陥れてしまうからである。

彼らを見ること、彼らと話すこと、彼らの言葉を閧くことができる者ならば良いが、何もわからない人が欲望のために神頼みの為に彼らを利用すべきではない。

祈って商売繁盛しても、人間はすぐ驕り、高ぶり、彼らにお礼をすることも感謝することも、供物することも忘れてしまう。

そんな具合だから、狐や蛇から必ず不満が出て、その家から病人が出たり、商売が左前になったりしてしまうのである。

しかし、太陽は、万生万物にどんなに熱や光を与えても、決して私達に何かの要求をするようなことはない。

神の心というものは、そんな動物霊たちとは違うのである。動物霊の多くは、慈愛がなく、欲望の塊りだからそんなことになるのだ。

私達は、気をつけなければならない。このようなものを信じている人々や、指導者の人格を良く見ることが肝要である。

怒りや妬みやそしり、我欲、情欲などを持ち、言葉と行ないの違う人々が多いからである。

私達は、欲望を満たそうとして、かえって苦しみを受けるということに気づかなくてはならないのだ。

この地上界にはあらゆる動物たちがいる。

あの世にも、魂のよりよき向上をはかって修行をしている動物から、地獄界で本能のままに、きびしい環境のなかで生き続けている多くの動物達がいるのだ。

そして彼らのなかには、この地上界で欲望に目のくらんだ人々の心のなかを乱している者も少なくない、ということを知るべきではなかろうか。

いかに諸天善神といえども、不調和な心を持った人々の心のなかに居を構えている不調和な動物霊や地獄霊、さらに増上慢の魔王や阿修羅達を支配することはできないのである。

なぜなら、人間は自らの心の支配者であり、自ら不調和な想念と行為を修正しない限り、慈愛の光明に包まれることがないからだ。

たとえ、諸天善神が、不調和な霊達を支配しても、心悪しき人々は、おのずから苦しい不調和な者達を再び三度と呼び込んでしまうということだ。

諸天善神の浄化や支配は一時の清涼剤にしかすぎないのである。すなわち根本的解決にはならないのだ。

不調和な地獄霊に支配されてしまうと、人は心定まることなく、常にイライラの連続であり、自分自身を失ってしまうのである。

肉体は、本来一人の船長(意識・魂)が支配しているのだが、その人問の心が不調和だと、地獄霊に支配されて、船長は二人にも三人にもなってしまうのである。

地獄霊達が、耳もとでささやいたり、心のなかで話しかけるために、自分であって自分ではないというような状態になってしまう。つまり精神分裂症のようになってしまうということだ。

躁鬱といった、中道の心を失った両極端な心の状態になり、自らの人格を失ってしまうものなのである。

こうなるともはや霊囲気は乱れて、不眠の状態が続き、幻覚をおこしたり、支離滅裂の言動をとるようになっていく。

日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすように、心のなかにあるものを見境いなく語ってしまう。

このような人々の日常は、鬱々とした生活で、心のなかに恨みや妬み、そしりの心が強い。

表面はおとなしいように見えても、虚栄心と自尊心は人並以上に強い人たちなのである。

そして、また、自分自身を失っており、感情の起伏がはなはだ極端になり、心の安定を欠いているのである。

鬱病の場合も、憑依されている人たちは多く、地獄霊の性格がそうさせる。

これは、幼少の頃の過保護の教育、放任教育と、両親の心の不調和、親子関係における愛情の欠如が原因となっている場合が相当数に多い。

片寄りのない、正しい親子の対話がほとんどない環境に、このような心の者たちが育てられて行くということだ。

これらの家庭環境は暗い想念におおわれて、すでに愛や慈悲の光を受けることができない、自らの心を地獄霊に売ってしまった者たちの結果なのである。

これを正しくするのには、勇気と努力によって、自らの性格を中道にもどす以外にはないということだ。

また、暗い想念におおわれた人々を、諸天善神は守ることができないのである。

これが宇宙の法則と秩序によるこの世とあの世の原理原則なのだ。

それは、この地球上が修行場であるとともに、人間には個の生命としての尊厳があるからです。

家庭生活をする人間が、心の価値を知って、互いの信頼と慈愛の行為によって、明るく生きることが大切だといえよう。

そして、憑依している地獄霊たちに、これ以上、神の子として犯してはならない、重ねてはならない罪を語って教え、離れて貰う以外にはないのである。

そのためには先ず、自分の心を一切の執着から離し調えなければならない。

常時、憑依しているのではないから、地獄霊達に、心の持ち方を教えることが大事なのである。

正しい中道の生活が、日常のなかに行為となって現われたとき、自分自身をとりもどせる ということだ。

不調和な信仰などに深入りすると、ますます彼ら地獄霊の、無慈悲な行為が現われてくるであろう。

これこそ、「さわらぬ神に祟りなし」という、ことわざのとおりなのである。

自らの心が丸く、大きく、慈愛に富んだ人々は、絶対にこのような精神的な病気にはならないだろう。

この場合は、心のなかに生じる魔から、諸天善神が守ってくれるからである。

また、この地上界に肉体を持っている光の天使達(人の道を行いによって示す人、正しく人を導く人)は、変わることない正しい生き方である道、すなわち正しい法の種を人々の心のなかに蒔き、正しい法の花を咲かせ、大調和への道に光明を与えるであろう。

しかし、現代仏教の祖であるインドのゴーダマーブッタや、キリスト教の祖であるイエスたちも悟りの境地に到達するまでの過程は、並々ならないものかあったであろう。

光の大指導霊達が現われてくるというときは、すでに正しい法の力のない、末法の混乱期である。

人々は心を失い、人間として生まれてきた目的や使命を忘れ去っているときだ。

自らの心を物質文明の奴隷としてしまい、不調和な宗教が乱立し、心を地獄霊や動物霊に売り渡している人々が多くなってしまっているときである。

人々、あるいは国々の闘争や破壊が日常茶飯事のようになっている変わり果てた世相を、末法の世というのである。

世界の国々に、災害や天変地異が次々と起こる。

家庭は乱れ、親と子の心は断絶する。

教育者は中道の教育を忘れて、思想的に片よった教育をする。

政治家は私利私欲、党利党略に走り、思想の、というより自己主張の乱立、巷での通り魔殺人、不可解な事故死、自殺、虐待、親の子殺し、職場の心無いいじめ・・・・など、列挙すれば限りない不調和な世相なのである。

しかし、不調和な人間を相手にしてはならない。

これを救うには・・・政治家も法律家も、教育者も文化人も宗教家も、私たち一般人もすべてが両極端を捨てて、中道的な判断を基本とするしかないといえる。

他人をかえりみないで、自分さえよければいい、というものの考え方をする者は、利己主義者で、自ら調和への道を閉ざして、やがては孤独な人生を送ることになろう。

それは、人間の道ではないということを知らなくてはならないのだ。

慈愛を他に与える心を忘れてはならない。

慈愛の表現にもいろいろとあるが、報いを求めないで、社会人類の幸福に結びつく行為をすることが、本当の布施の心、すなわち利他愛ということになる。

労働奉仕経済的奉仕精神的奉仕の行動が、より良い社会を築き上げて行く。

それが各人の自発的な行為にある場合はなおさらだ。

その行為は、強制でもなく、義務でもなく、人間として当然の道だからだ。

失われた心をとりもどすため、肉体を持ってこの世に出る光の大指導霊達も、一般の人間と変わることなく、両親を選んでもっとも悟りやすい環境に生まれてくるのである。

ゴーダマーブッタは慈悲の心を四十五年間も当時のインドの人々に説いた。そして平和な国土を築く目的を持って、人生の目的と使命を説いたはずだ。

それはイスラエルのちで貧しい家庭に生まれたイエスも、奴隷の子として生まれたモーゼも同じ目的をもって人々の心に愛を説いたのである。

そして、ローマの支配下にあって苦しんでいる大衆、化石化されたユダヤ教、人々の知や意の埃にまみれた、かつてのモーゼの正しい法の在り方を、愛という表現をもって救って行ったのだ。

自らの肉体は、悪魔に支配された者たちによって亡ぼされたが、復活(霊体の現象化)の現象によって弟子達の結束をはかり、正法の土台を築いたのである。

このように、地上界に、愛と慈悲を告げるため現われた光の大指導霊は、自ら厳しい環境に身を置き、人生の疑問にぶつかり、これでよいのだろうかと、その解明を自らなし、実在界(あの世)の光の天使達の協力を得て、悟りの境地に到達して行くのである。

その摂理と秩序である真理は、不変のもので、誰も否定できない統一された心の教えである。

しかしその正しい法も、歴史の経過に従って、その弟子達や学者達によって、学問的にむずかしくされ、個人の見解で変えられてしまい化石化されてしまったということである。

それは日本における仏典をみても然りである。またその歴史のなかにおける権力者や指導者達が、大衆を支配するための方便として宗教を利用する、そのような間に正しい法が歪められてきたということもある。

そうした、化石化されたの修正のため、使命を持って指導霊達が生まれてくるのだが、旧来の狂信者や盲信者達に迫害されたり、学者や権力者達によって阻害され、目的を果たすことができない場合も多い。

また、いろいろな光の天使達もやはり、使命のために肉体を持って生まれてくるが、やはり旧来の宗教的環境のなかで、正道に戻すことができないまま、実在界に帰ってしまう例も多いのである。

自ら生き神様になって、拝ませて、衆生の心はおろか自分まで執着の塊(かたまり)となってしまい、地獄界に堕ちてしまった光りの天使も少なくないということだ。

末法の世になればなるほど、混乱した不調和な宗教が人々の心を狂わせ、教祖と称するやからが造り出した紙きれや偶像や曼荼羅を拝ませてしまう。

お札の代わりにペンダントまで飛び出し、神の代名詞として高く信者に売りつけているといった例がある。

また、教祖の写真を数十万、百数十万という金銭に変えている教団もある。

教祖や、そのとり巻きとかいった連中は、大神殿であるはずの地球上に、屋上屋を重ね、浄財と称した不浄の金を集めて優雅な芸術的な建物を造り、祈る対象物を造り出して盲信者、狂信者達を迷わしている。

また何人を折伏すれば救われるとか、何人を導けば病気が治るとかいって、脅迫している。

そして、大神毆、大仏殿と称する建物を次々と全国に建設して行くのである。しかし、その贅沢な建物とは逆にオーラは灰色から暗雲の様相をみせているのである。

欲望に尽きるところを知らない、盲信者、狂信者達こそ敘われないであろう。

一心に題目を唱えれば救われる、といって朝晩の勤行をさせるとは、宗教も地に堕ちたものである。

「貧乏しているのは、前世の因縁によるものだ。この宗教に帰依して神様を祈ればその業は消える」、『一心不乱にご本尊を拝んで読経すれば人生が好転する』と信仰の押し売りをする。

しかし、貧乏しているからといっても、心まで貧しくならなければ、人間は本来豊かなのだ。

生まれてきたときは、金を持っていないし、みな裸であったはずである。曼陀羅を首からぶら下げて、生まれてきたわけでもない。

しかし皆、人間としてたくましく生活をしている。

太陽の熱と光、大自然の恵みの一切が、唯一なる存在の大慈悲の現われであり、それがまた心というものの姿ではないのか。

人間も、そのような誤った指導者達から、だまされる時代はすぎたということを、悟らなくてはならない。

私達は、神の子なのである。

一切の苦しみは、私達自身の心の在り方と行ないで修正する以外、なくならないのだ、ということを自覚しなくてはならないであろう。

それを悟ったとき、人間は救われて行くといえよう。

正しい法は、人間の智恵によっては造り出すことのできない、不変の真理なのである。

楽をして救われる道を選ぶのではなく、勇気智慧努力によって、自らの欠点を修正して苦しみの原因を除いたとき、心は光明に満たされ調和されて救われて行くということだ。

道はただひとつ、唯一なる天の心に近づき、日常生活のなかで安らぎの心を自ら造り出すことが大事ではなかろうか。

信仰をもっている人の中には神罰があたるという人もいるが、神は、罰など与えはしない。

罰は、自らの心の在り方と行為の在り方が、中道の正しい法、即ち調和された生き方をを踏みはずしたときから心に曇りを造り出し、それが唯一なるものの光をさえぎったときに、現象化されてくるのである。

つまり、罰は、自分が造り出しているということだ。

それを受けないためには、苦しみの原因を造らないようにすればよいだけである。

仏教でも、キリスト教でも、本来の教えは、人間の在り方を説いているといえよう。

そして、自らの転生輪廻をとおして、私達の心のなかには、一切の人生に対する偉大な指導書が記憶されている、ということだ。

その体験された指導書をひもとくことが大事であろう。

そのためには自分の心の内面をよく反省し、曇りを捨て、偏りのない日常生活をすることであろう。

哲学化された仏典だけが正法ではなく、仏典の正しい意味を理解して行なうことが、より重要だからである。

この世に肉体を持っている光の大指導霊達も、このような不変の真理を説くであろう。

人々は、それがまさしく原始仏教とか、原始キリスト教と全く同じものであることに、気がつくだろう。

しかし、原始仏教であるうと、原始キリスト教であろうと、それが理であるならば、現代でも通用するのが当然でもある。

インドのガンガーの河の流れが、2500年の昔も今も変わらないように、真理は不変なのである。変わってしまったのは、人間の心ではないだろうか。

正しい法は、その時代の様相に合わせて説かれて行くが、根本は全く変わってはいないのである。根本が変わるようでは正しい法とはいえないだろう。

正しい法、すなわち正法は私たち一人一人の心に存在するものである。

宇宙の摂理と秩序に沿った自然な生き方をするとき、つまり心に流れがある生き方、留まらない生き方をすということは執着しない、足ることを知るということに他ならない。

私たちは物や経済的に貧しくても心まで貧しくしてはならない。

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見返りを求めるならやめなさい。

『何の挨拶もなし』、『お礼の形もない』と不満をあらわに批判している言葉を聞いたことがある。

私たち人間の『心』はみな肉体をまとって生まれてきます。

また、いろいろな動物がいますが、知性と理性という心をもっているのは人間だけです。

知性は学ぶことで高まるし、理性は内面性を高めることで感情的になる心を冷静にしてくれる働きをします。

人間は心を持っているが故に、喜びもすれば、悲しみ、苦しみもします。

この苦しみを「煩悩」とも呼びます。

人を嫌う気持ちや嫉妬、怒りといった嫌な心が自分の胸のなかにあり、メラメラと燃えているのである。

煩悩の数は三千あるとされています。三千とは無限という意味を持っています。

無限の煩悩の炎がメラメラと心のなかに燃えているわけですから苦しいはずです。

燃えると灰もススも溜まりますから心が曇ります。

心が曇った分だけ周りが見えなくなります。

この苦しみから逃れるには、どうすればいいのか。

それは「いいことをして、悪いことはしない」に尽きる。

そんなこと当たり前だとおもうでしょう。そうです、こんなことは幼い子どもでも知っています。

ところが、3歳の子どもでも知っているようなことが、70歳80歳になってもできない。

煩悩の炎を抑えることができない。これが「人間」というものであり業の姿です。

私のもとには多くの相談者が訪ねてきたり、問い合わせをしてきます。

内容はさまざまですが、多くの悩みの根本にあるのは「自分はこれだけがんばったのに、それに相応しい見返りをもらっていない」という気持ちです。

「子どものことを最優先にしてきて、やっと一人前になったと思ったら若い彼女の言いなりで情けない」という親。

「夫の両親と20年以上も同居して、嫁として我慢ばかりさせられてきたけど感謝の言葉ひとつない」と苦しい心を打ち明けた後に、「いったい私は何をしてきたんでしょう」と囗を揃えて言うのである。

まさに煩悩の炎がメラメラと燃えている状態です。

そんな時、私は「見返りを求めるぐらいなら、やってあげるのをやめなさい」と答えます。

「自分の愛を受け入れてほしい」と言いながら実は愛を求めている。

「自分の がんばりを認めてほしい」

厳しいかも知れないが「これだけのことをした自分に報いてほしい」という気持ちは、自己愛です。

自分中心の愛の押しつけで、愛を求める自分であって、本当に相手のことを思っているわけではないのである。

本当の愛とは、相手が欲しているものを与え、欲しないものは与えないことです。

つまり、自分が欲することを相手に施す、尽くす、与えるということです。

自分が欲していることは、大抵は相手も欲しているものである。

これも言うのは簡単ですが、なかなかできないものです。

なぜなら人間は常に自分の利益を中心に物事を考えがちだからだ。

嫉妬も大きな煩悩です。

あなたも、仕事に恋愛に、あるいは育児にと、夫として、妻として、あるいは父として、母として、とても忙しい毎日を過ごしていることでしょう。

すべてをちゃんとこなしたいと、一生懸命がんばっている人も多いと思います。

それなのに相手が認めてくれないという気持ちが膨らんでくる。

そうなると不満や愚痴や怒り、嫉妬、恨みなどのドグマ(独断、偏見)が心を支配し出すのです。

心がある限り煩悩は消えてなくなることはないだろうが、しかし、心を「飼い慣らす」ことはできます。

小さな気付きを生活に活かし、継続的に実践することである。

「人はなぜ生きていかねばならないのでしょう」と尋ねられれば、私は「愛するためにです。」と答えます。

そして更に、人類の最終目的は『魂の向上と地上平和の建設です。』といいます。

人間は魂の向上と地上の楽園建設を目的に生き、そして、愛から許すことや許されることに気づかされるのです。

愛するために生まれてくるのです。

人生の根本は「愛」です。

そして「愛」とは何かといえば、相手の心を思いやること。

想像力も必要です。

想像力は水や肥料をやらなければ育ちません。

水や肥料とは、本や音楽など文化といわれるものや、さまざまな教育を受け学ぶこと。

しかし、知識偏重主義に陥ってはならない。そうなると温かみのない冷たい人間になるからだ。

意識することで、誰でも想像力を自分で育てることができます。

しかし、最も重要なことは、行うこと、体験すること、失敗することです。

それが人間の心を豊かにしてくれるのです。

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