カルト&スピリチュアルへの警鐘

 
 
真言宗系僧侶、祈祷師、拝み屋、占い師、スピリチュアルカウンセラー、霊能者、鑑定家、気功師、レイキ、等々スピリチュアルな分野やカルトに関わる人たちと会い、話し、体験もしてきた。
しかし、その能力の高低云々よりも人間性の観点からすれば称賛に値するような人物に出会うことはなかった。
浄化能力があるということで、何度にもわたって同じ人の浄化を勧めるのだが、その都度数万円のお金が必要になる。
もっともらしい理由づけで浄化は際限なく続くのだが、依存する者たちはやめることができないのだから格好の金づるでしかない。
軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに、低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、卑怯者、おしゃべり、この種の人間は危険が実に大である。
やはり、性格的に円満(霊的調和)を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。
賢明にして強力なる背後霊(守護霊、指導霊)に守られ、その指示によって行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの調和された祈りの念を持って臨むべきである。
仮にも、神仏を語る者が営利目的とする不純、不用意な言動で盲目的な人たちとの係わり合いは断じて許せぬ。
また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍(わざわい)の種子を持ち込むのみである。
節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道(霊的無常識)な性格の持ち主は低級霊にとって恰好の餌食(えじき)となる。
その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。
何故なら、人々を迷妄の道に扇動するこになるからだ。
特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、当たる、当たらない、家族しか知らないことを言ったから信じる、あるいはあなたの虚栄心の慰めを満たすような巧みな扇動、誘惑などの場合はなおのことである。
その種の人間には真に唯一なるものの訓えは決して耳に届かない。
願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界(エゴ世界)を後にして高級界の聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。
必要欠かざる条件として、真理を求める者は、肉を魂の支配下に置けるようではなければいけない。
また、真実の霊的知識に憧れる者は生活のすべての面において純粋で、心身ともに勇敢果敢で、真理の追究において一途(いちず)で、足れるを知る人間でなければならない。
純粋さ、素朴さ、一途さ、そして進歩と真理への弛(たゆ)まざる行い。こうしたものが正しい霊的知識の領域へ導いてくれるのである。
これに反し、肉体的煩悩が霊性を抑圧している者、霊的知識を卑俗的(俗っぽい、下品)な目的のために悪用せんとする利己主義者、この種の人は深刻な危険にさらされていると言える。
霊的能力にばかり興味をもつ者は移り気で、とかく神秘的なものに引かれるために、霊能者やその類を渡り歩くものだし、困った迷える盲者だ。
神秘のベールが単なる好奇心でもって突き通せるものと安直に考えるのである。
スピリチュアルなことに携わる者も、見栄(みえ)が強く、営利目的で、能力も知識もないのに、あたかもあるように見せかけ、いつの間にか無能を万能に思わせることに迷走するのである。
それが他人のものをのぞき見する悪趣味を生む。
この種の人間(邪霊集団の手先)には常に危険がつきまとう。
執着を持たずに、正しく人の道を生きることを求める真摯な探究者には何一つ危険はない。
カルトやスピリチュアルな分野において最優先されるべきは、見える、見えない、聞こえる、聞こえない、霊力の高低のあるなしではなく、その者が、他の人々の魂の向上に誠心から奉仕するかどうかだけである。
見えるに限って言うならば、幼児や少年、少女、自我心の強い者でも見える場合が多々あるのだが、しかし、人格、理性的、知性が備わったわけではないことを考えれば判断がつくであろう。
見える、見えない、聞こえる、聞こえないは素養や潜在的能力にもあるが、邪悪な霊の憑依によってもそのような現象をみせる場合が多いことを見誤ってはいけない。
根っからの悪人とはいえないまでも、自制心と規律に欠ける者、節度と調和を失える者は、邪霊による攻撃の格好の的にされやすい。
その種の人間との付き合いは避けるがよい。
同じく霊的であっても、未発達のよからぬ背後霊の都合のよい手先にされていることがよくあるからである。
不節制で、非理知的で、興奮しやすい性格の持ち主には用心するがよいだろう。
万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし、唯一なるものを語り、利用せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば。
さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は唯一なるものの媒体として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いに自らを罰することになります。
それが不変の大宇宙の摂理であり、唯一なるものの秩序なのです。
大いなる進歩向上は大いなる責任が伴うということです。
善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用(利己用)した者には、唯一なるものの意志を知りつつその実行を怠った者としての自業自得という禍が降りかかるであろう。
霊的な能力の種類、高低は、唯一なるものの意識である、愛と慈悲を証明する一つの現象と手段に過ぎないということである。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ  にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ