法力(霊的能力)

人間は力というものに憧れを持っています。

権力、金力、暴力、体力、気力、瞬発力、行動力、眼力、腕力、能力、法力といったものまで、力という言葉はさまざまな意味を内在している。

意識も一種のエネルギーですから、力に憧れるのは人間である以上、当然のように思われるのですが、しかし、正しい生き方という観点からすれば″力に憧れる″ことはよいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

力は自分の分をわきまえておくことが大事であるし、それを無視した力への憧れれは、やがては必ず我が身を滅ぼすことになるだろう。

手に触れる物体(動・植・鉱物)はすべてエネルギーの集中固体化したもので、エネルギーでないものは一つもありません。その意味では人間の肉体も同じです。

こうした物質は、光、熱、電気、磁気、重力の相互作用によって、集中、分散をくりかえしています。そうして、その相互作用というものは、大宇宙の偉大なる意思、意識の働きによって離合集散をくりかえすわけですが、その目的とするところは、大宇宙の大調和にあるわけです。

集中とは固体化した状態であり、分散とは気体化した状態で科学的な説明のことです。

太陽系が秩序整然と運動をくりかえしているのも、また、私たち人間がこの地上で生活できるのも、みな、大宇宙の大調和の働きがあるからです。
さて、エネルギーそれ自体は、たとえば、湖にたまった水のように、そう大きな作用として働くわけではありませんが、湖の一角にダムをつくり、水を落下させることによって、タービンを回してはじめて電力を生み、大きな力(エネルギー)となるわけです。

このように、エネルギーというものは、なにかの意思、意識の作用があって、はじめて、その力を発揮するものですが、その目的とするところは大調和にあるのです。

しかし、物を生かすエネルギーは、いわゆる、善悪に関係なく、なにかの作用が働くことによって、大きな力となるわけです。

たとえば、原子エネルギーを平和利用に使うか、戦争兵器に使うかは、私たち人間の判断に任されているのと同じ理屈です。

次に、人間の周囲にあるさまざまな力は、各人が意思し、意識として働くことによって生じてきます。先に述べた、権力、金力、暴力、体力、気力といったものは、すべてそうです。

心に思う、念ずるから、こうした力関係が生じてくるわけです。

生まれたての赤子のように、自然のままに生かされた状態では、こうした力関係は生じてこないでしょう。

原始民族における狩猟生活をみてもわかるように、力に憧れるのは人間である以上、必然の成り行きといえますが、しかし、社会を不調和にする力は、やがて循環の法によって淘汰されます。

権力、金力、暴力といったものは、社会に歪みをつくり、争いを生むので、その離合集散はまことに目まぐるしいといえましょう。

法力というものは、同じように見えないエネルギーの集中されたものですが、法とは調和を意味し、不調和の力ではありません。

つまり、法力は、他を生かす、慈悲と愛の発意によってのみ、行使されるものです。

法力霊力魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、その中身は大分違ってくるわけで、心の歪みを持つたままで霊力を行使すると、やがて、その反動がやってきて、その人をうちのめしてしまうでしょう。

法力と魔力のちがいは、欲望という執着があるかないかであり、それは自分の心を冷静にみつめればハッキリするはずである。

どれほど素晴らしい、巧みな言葉で人を引き寄せてもその根底に欲望が潜んでいるならば営利目的な行動が見えてくるだろうし、その背後で加担する霊はみな、邪悪な霊達や、動物霊(蛇霊、狐霊)か地獄霊ばかりである。

自分では欲望はないと思っても、欲望をもってこれを行使すると、肉体的に非常に疲れを覚えるものです。

霊的能力に憧れるのは人間の願いのようですが、まず、大部分は欲望に根ざしているので注意が肝要です。

日ごろの正しい生き方をせず、不調和なままに無理に霊的能力を求めると、結局は断食や滝行、読経、荒行に走ることになるのだが、これらは相当に危険が付きまとうし、一生を棒に振る者もいるのです。

力を望まず力が生み出されるもの、それが法力というものです。

不調和な霊囲気があるため、背後の天使達が近づくことができないということは、人々の意識の次元が曇ってしまうため、どうすることもできないということなのだ。

それも、すべては人間自らの心が造り出す現象であり、その心の王国の支配者は自分自身にほかならないからである。

しかし、人間は、あらゆる体験をとおして、自ら造ったそうした不調和な混乱のなかから、人間としての調和された、正しい生き方を悟って行かなくてはならないのである。

要は、神の子としての、悟りに至る過程が、早いか遅いか、という問題になろう。

遅いということは、大きな苦しみという荷物を背負って、喘ぎ喘ぎ人生を渡って行くということだ。

このように、過去世と現世において自ら造り出した想念と行為の集約されたものが、現在の自分自身の本当の姿だというほかはないだろう。

あの世の光の天使達(守護霊、指導霊、諸天善神)は、常にこうした私達を、温かい心で見守っているということを、忘れてはならない。

この地上界に、警察とか軍隊とか、市民大衆を他の犯罪や暴力から守る職業があるように、あの世でもそうした仕事にたずさわっている天使達がいるのである。

また光の天使達のなかには、あの世と地上界の人々で、調和された丸い心を持つ人々に、不調和な地獄霊や動物霊達が、近よらないようにする役職を持つ天使達もいる。

これを、諸天善神ともいっている。

仏教でいう弁財天とか大黒天とかいうと、何か金儲けの手助けのように思っている人々が多いが、これはとんでもない間違いである。

彼らは、金儲けの協力者などではないということを、知らなくてはならないだろう。

弁財天とは、心のなかに埋没している、転生輪廻の過程に造り出された私達の智慧の宝庫を開くための協力者であり、大黒天は、肉体を持った光の天使達が、正しい法を流布するときの協力者である。

それを、現代人の多くは偶像化してしまって、これに祈れば財産に恵まれると思っている人が多いが、残念なことに、全く金儲けには縁の遠い、諸天善神なのである。

龍頭観音

また、稲荷大明神(狐霊ではない)とか、龍神、龍王といった善神もいる。

彼らは、動物霊達に、神の子としての道を教える役職にある天使達であって大宇宙、天地創造の神ではない。

したがって、神を崇拝するように諸天善神を崇拝してはならなず、心からの感謝にとどめておくべきである。

意外と龍に関心を持たれる方は多いが、能力のある方なら龍を使いとして協力してもらうことはあっても、人間は龍の下部となってはならない。

下手な憧れは、心に隙を作ることになるため危険であり、その隙に邪悪な霊達が入り込みやすくなることを知っていただきたい。

特に未熟な狐霊などは、霊的に強いものを持っているため、人々の心を不調和に導くことが多いので、盲目な人間はこの狐霊を稲荷大明神として祭ってしまっている。

狐は、稲荷大明神ではないのだということを、私達は知るべきである。

竜王達の役割は、あくまでも、万物の霊長である人間が、この地上界を去って心の豊かさを修行するため、動物達に正しい法を教えることだといえる。

そして、それは、もっともきびしい修行所であり学習であるともいえる。

なぜなら、動物達は、感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしいからである。

竜王、稲荷大明神と呼ばれている諸天は仏教でいうところの菩薩、すなわち、上段階の光の指導霊になるための修行過程である。だが、失敗する機会の多い環境ともいえる。

諸天善神にとっても蛇霊や狐霊達を指導することは非常に、むずかしい修行であり、この現象界(地上)でいうと、約三百年近くも、きびしい環境で修行しなげればならないのである。

世間では、竜神だの稲荷大明神だとかいうと、狐や蛇、竜などをいっているが、それは誤りである。

彼ら動物霊達は、盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、自分をアピールしたがりいろいろな現象を出したりする。

しかし、自我我欲にふけり、道を失ってしまうというのが非常に多いということだ。

私の所に、会社を経営する恰幅の良い女性社長がきたことがあった。

この女性社長さん、非常に自己中心的であり、傲慢な心をもっていることが読んで取れたのであるが、邪悪な信仰をもっていることもわかった。そして会社の事務所に稲荷の神棚を祀っていることもわかった。

後日談であるが、この女性社長さんの会社に勤めていた方が人生相談に見えた。まるで打ち合わせでもしたようなタイミングである。

この相談者の内容は、退職したいということと、社長の身勝手な言動に社内がいつも戦々恐々として、うつ病を発症する人や退職者が後を絶たないということだった。

そして、邪悪な信仰宗教の話し、稲荷神の神棚の話を事細かに話してくれたのだった。

およそ、狐や蛇や竜などが、私達人間の守護霊になるということは、絶対にないということを知るべきだろう。

ただ、狐や竜や蛇達が、良く正しい法を心得て、竜王達の仕事を手伝う、ということはある。

しかし彼らは、竜神でも竜王でもなく、まして、神と祭られるようなものではないということを知らなくてはならないだろう。

商売繁盛を目的に、よく狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというのは、非常に危険なことだといえよう。必ず後から問題が起きてくる。

なぜなら、狐や竜や蛇達は、人間の願いを聞くことがあるが、まずその家庭を混乱に陥れてしまうからである。

彼らを見ること、彼らと話すこと、彼らの言葉を閧くことができる者ならば良いが、何もわからない人が欲望のために神頼みの為に彼らを利用すべきではない。

祈って商売繁盛しても、人間はすぐ驕り、高ぶり、彼らにお礼をすることも感謝することも、供物することも忘れてしまう。

そんな具合だから、狐や蛇から必ず不満が出て、その家から病人が出たり、商売が左前になったりしてしまうのである。

しかし、太陽は、万生万物にどんなに熱や光を与えても、決して私達に何かの要求をするようなことはない。

神の心というものは、そんな動物霊たちとは違うのである。動物霊の多くは、慈愛がなく、欲望の塊りだからそんなことになるのだ。

私達は、気をつけなければならない。このようなものを信じている人々や、指導者の人格を良く見ることが肝要である。

怒りや妬みやそしり、我欲、情欲などを持ち、言葉と行ないの違う人々が多いからである。

私達は、欲望を満たそうとして、かえって苦しみを受けるということに気づかなくてはならないのだ。

この地上界にはあらゆる動物たちがいる。

あの世にも、魂のよりよき向上をはかって修行をしている動物から、地獄界で本能のままに、きびしい環境のなかで生き続けている多くの動物達がいるのだ。

そして彼らのなかには、この地上界で欲望に目のくらんだ人々の心のなかを乱している者も少なくない、ということを知るべきではなかろうか。

いかに諸天善神といえども、不調和な心を持った人々の心のなかに居を構えている不調和な動物霊や地獄霊、さらに増上慢の魔王や阿修羅達を支配することはできないのである。

なぜなら、人間は自らの心の支配者であり、自ら不調和な想念と行為を修正しない限り、慈愛の光明に包まれることがないからだ。

たとえ、諸天善神が、不調和な霊達を支配しても、心悪しき人々は、おのずから苦しい不調和な者達を再び三度と呼び込んでしまうということだ。

諸天善神の浄化や支配は一時の清涼剤にしかすぎないのである。すなわち根本的解決にはならないのだ。

不調和な地獄霊に支配されてしまうと、人は心定まることなく、常にイライラの連続であり、自分自身を失ってしまうのである。

肉体は、本来一人の船長(意識・魂)が支配しているのだが、その人問の心が不調和だと、地獄霊に支配されて、船長は二人にも三人にもなってしまうのである。

地獄霊達が、耳もとでささやいたり、心のなかで話しかけるために、自分であって自分ではないというような状態になってしまう。つまり精神分裂症のようになってしまうということだ。

躁鬱といった、中道の心を失った両極端な心の状態になり、自らの人格を失ってしまうものなのである。

こうなるともはや霊囲気は乱れて、不眠の状態が続き、幻覚をおこしたり、支離滅裂の言動をとるようになっていく。

日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすように、心のなかにあるものを見境いなく語ってしまう。

このような人々の日常は、鬱々とした生活で、心のなかに恨みや妬み、そしりの心が強い。

表面はおとなしいように見えても、虚栄心と自尊心は人並以上に強い人たちなのである。

そして、また、自分自身を失っており、感情の起伏がはなはだ極端になり、心の安定を欠いているのである。

鬱病の場合も、憑依されている人たちは多く、地獄霊の性格がそうさせる。

これは、幼少の頃の過保護の教育、放任教育と、両親の心の不調和、親子関係における愛情の欠如が原因となっている場合が相当数に多い。

片寄りのない、正しい親子の対話がほとんどない環境に、このような心の者たちが育てられて行くということだ。

これらの家庭環境は暗い想念におおわれて、すでに愛や慈悲の光を受けることができない、自らの心を地獄霊に売ってしまった者たちの結果なのである。

これを正しくするのには、勇気と努力によって、自らの性格を中道にもどす以外にはないということだ。

また、暗い想念におおわれた人々を、諸天善神は守ることができないのである。

これが宇宙の法則と秩序によるこの世とあの世の原理原則なのだ。

それは、この地球上が修行場であるとともに、人間には個の生命としての尊厳があるからです。

家庭生活をする人間が、心の価値を知って、互いの信頼と慈愛の行為によって、明るく生きることが大切だといえよう。

そして、憑依している地獄霊たちに、これ以上、神の子として犯してはならない、重ねてはならない罪を語って教え、離れて貰う以外にはないのである。

そのためには先ず、自分の心を一切の執着から離し調えなければならない。

常時、憑依しているのではないから、地獄霊達に、心の持ち方を教えることが大事なのである。

正しい中道の生活が、日常のなかに行為となって現われたとき、自分自身をとりもどせる ということだ。

不調和な信仰などに深入りすると、ますます彼ら地獄霊の、無慈悲な行為が現われてくるであろう。

これこそ、「さわらぬ神に祟りなし」という、ことわざのとおりなのである。

自らの心が丸く、大きく、慈愛に富んだ人々は、絶対にこのような精神的な病気にはならないだろう。

この場合は、心のなかに生じる魔から、諸天善神が守ってくれるからである。

また、この地上界に肉体を持っている光の天使達(人の道を行いによって示す人、正しく人を導く人)は、変わることない正しい生き方である道、すなわち正しい法の種を人々の心のなかに蒔き、正しい法の花を咲かせ、大調和への道に光明を与えるであろう。

しかし、現代仏教の祖であるインドのゴーダマーブッタや、キリスト教の祖であるイエスたちも悟りの境地に到達するまでの過程は、並々ならないものかあったであろう。

光の大指導霊達が現われてくるというときは、すでに正しい法の力のない、末法の混乱期である。

人々は心を失い、人間として生まれてきた目的や使命を忘れ去っているときだ。

自らの心を物質文明の奴隷としてしまい、不調和な宗教が乱立し、心を地獄霊や動物霊に売り渡している人々が多くなってしまっているときである。

人々、あるいは国々の闘争や破壊が日常茶飯事のようになっている変わり果てた世相を、末法の世というのである。

世界の国々に、災害や天変地異が次々と起こる。

家庭は乱れ、親と子の心は断絶する。

教育者は中道の教育を忘れて、思想的に片よった教育をする。

政治家は私利私欲、党利党略に走り、思想の、というより自己主張の乱立、巷での通り魔殺人、不可解な事故死、自殺、虐待、親の子殺し、職場の心無いいじめ・・・・など、列挙すれば限りない不調和な世相なのである。

しかし、不調和な人間を相手にしてはならない。

これを救うには・・・政治家も法律家も、教育者も文化人も宗教家も、私たち一般人もすべてが両極端を捨てて、中道的な判断を基本とするしかないといえる。

他人をかえりみないで、自分さえよければいい、というものの考え方をする者は、利己主義者で、自ら調和への道を閉ざして、やがては孤独な人生を送ることになろう。

それは、人間の道ではないということを知らなくてはならないのだ。

慈愛を他に与える心を忘れてはならない。

慈愛の表現にもいろいろとあるが、報いを求めないで、社会人類の幸福に結びつく行為をすることが、本当の布施の心、すなわち利他愛ということになる。

労働奉仕経済的奉仕精神的奉仕の行動が、より良い社会を築き上げて行く。

それが各人の自発的な行為にある場合はなおさらだ。

その行為は、強制でもなく、義務でもなく、人間として当然の道だからだ。

失われた心をとりもどすため、肉体を持ってこの世に出る光の大指導霊達も、一般の人間と変わることなく、両親を選んでもっとも悟りやすい環境に生まれてくるのである。

ゴーダマーブッタは慈悲の心を四十五年間も当時のインドの人々に説いた。そして平和な国土を築く目的を持って、人生の目的と使命を説いたはずだ。

それはイスラエルのちで貧しい家庭に生まれたイエスも、奴隷の子として生まれたモーゼも同じ目的をもって人々の心に愛を説いたのである。

そして、ローマの支配下にあって苦しんでいる大衆、化石化されたユダヤ教、人々の知や意の埃にまみれた、かつてのモーゼの正しい法の在り方を、愛という表現をもって救って行ったのだ。

自らの肉体は、悪魔に支配された者たちによって亡ぼされたが、復活(霊体の現象化)の現象によって弟子達の結束をはかり、正法の土台を築いたのである。

このように、地上界に、愛と慈悲を告げるため現われた光の大指導霊は、自ら厳しい環境に身を置き、人生の疑問にぶつかり、これでよいのだろうかと、その解明を自らなし、実在界(あの世)の光の天使達の協力を得て、悟りの境地に到達して行くのである。

その摂理と秩序である真理は、不変のもので、誰も否定できない統一された心の教えである。

しかしその正しい法も、歴史の経過に従って、その弟子達や学者達によって、学問的にむずかしくされ、個人の見解で変えられてしまい化石化されてしまったということである。

それは日本における仏典をみても然りである。またその歴史のなかにおける権力者や指導者達が、大衆を支配するための方便として宗教を利用する、そのような間に正しい法が歪められてきたということもある。

そうした、化石化されたの修正のため、使命を持って指導霊達が生まれてくるのだが、旧来の狂信者や盲信者達に迫害されたり、学者や権力者達によって阻害され、目的を果たすことができない場合も多い。

また、いろいろな光の天使達もやはり、使命のために肉体を持って生まれてくるが、やはり旧来の宗教的環境のなかで、正道に戻すことができないまま、実在界に帰ってしまう例も多いのである。

自ら生き神様になって、拝ませて、衆生の心はおろか自分まで執着の塊(かたまり)となってしまい、地獄界に堕ちてしまった光りの天使も少なくないということだ。

末法の世になればなるほど、混乱した不調和な宗教が人々の心を狂わせ、教祖と称するやからが造り出した紙きれや偶像や曼荼羅を拝ませてしまう。

お札の代わりにペンダントまで飛び出し、神の代名詞として高く信者に売りつけているといった例がある。

また、教祖の写真を数十万、百数十万という金銭に変えている教団もある。

教祖や、そのとり巻きとかいった連中は、大神殿であるはずの地球上に、屋上屋を重ね、浄財と称した不浄の金を集めて優雅な芸術的な建物を造り、祈る対象物を造り出して盲信者、狂信者達を迷わしている。

また何人を折伏すれば救われるとか、何人を導けば病気が治るとかいって、脅迫している。

そして、大神毆、大仏殿と称する建物を次々と全国に建設して行くのである。しかし、その贅沢な建物とは逆にオーラは灰色から暗雲の様相をみせているのである。

欲望に尽きるところを知らない、盲信者、狂信者達こそ敘われないであろう。

一心に題目を唱えれば救われる、といって朝晩の勤行をさせるとは、宗教も地に堕ちたものである。

「貧乏しているのは、前世の因縁によるものだ。この宗教に帰依して神様を祈ればその業は消える」、『一心不乱にご本尊を拝んで読経すれば人生が好転する』と信仰の押し売りをする。

しかし、貧乏しているからといっても、心まで貧しくならなければ、人間は本来豊かなのだ。

生まれてきたときは、金を持っていないし、みな裸であったはずである。曼陀羅を首からぶら下げて、生まれてきたわけでもない。

しかし皆、人間としてたくましく生活をしている。

太陽の熱と光、大自然の恵みの一切が、唯一なる存在の大慈悲の現われであり、それがまた心というものの姿ではないのか。

人間も、そのような誤った指導者達から、だまされる時代はすぎたということを、悟らなくてはならない。

私達は、神の子なのである。

一切の苦しみは、私達自身の心の在り方と行ないで修正する以外、なくならないのだ、ということを自覚しなくてはならないであろう。

それを悟ったとき、人間は救われて行くといえよう。

正しい法は、人間の智恵によっては造り出すことのできない、不変の真理なのである。

楽をして救われる道を選ぶのではなく、勇気智慧努力によって、自らの欠点を修正して苦しみの原因を除いたとき、心は光明に満たされ調和されて救われて行くということだ。

道はただひとつ、唯一なる天の心に近づき、日常生活のなかで安らぎの心を自ら造り出すことが大事ではなかろうか。

信仰をもっている人の中には神罰があたるという人もいるが、神は、罰など与えはしない。

罰は、自らの心の在り方と行為の在り方が、中道の正しい法、即ち調和された生き方をを踏みはずしたときから心に曇りを造り出し、それが唯一なるものの光をさえぎったときに、現象化されてくるのである。

つまり、罰は、自分が造り出しているということだ。

それを受けないためには、苦しみの原因を造らないようにすればよいだけである。

仏教でも、キリスト教でも、本来の教えは、人間の在り方を説いているといえよう。

そして、自らの転生輪廻をとおして、私達の心のなかには、一切の人生に対する偉大な指導書が記憶されている、ということだ。

その体験された指導書をひもとくことが大事であろう。

そのためには自分の心の内面をよく反省し、曇りを捨て、偏りのない日常生活をすることであろう。

哲学化された仏典だけが正法ではなく、仏典の正しい意味を理解して行なうことが、より重要だからである。

この世に肉体を持っている光の大指導霊達も、このような不変の真理を説くであろう。

人々は、それがまさしく原始仏教とか、原始キリスト教と全く同じものであることに、気がつくだろう。

しかし、原始仏教であるうと、原始キリスト教であろうと、それが理であるならば、現代でも通用するのが当然でもある。

インドのガンガーの河の流れが、2500年の昔も今も変わらないように、真理は不変なのである。変わってしまったのは、人間の心ではないだろうか。

正しい法は、その時代の様相に合わせて説かれて行くが、根本は全く変わってはいないのである。根本が変わるようでは正しい法とはいえないだろう。

正しい法、すなわち正法は私たち一人一人の心に存在するものである。

宇宙の摂理と秩序に沿った自然な生き方をするとき、つまり心に流れがある生き方、留まらない生き方をすということは執着しない、足ることを知るということに他ならない。

私たちは物や経済的に貧しくても心まで貧しくしてはならない。

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