憑依霊と偽善

蛇霊に支配された霊能者

自律神経失調症で体調がすぐれず、めまい、ふらつき、吐き気があり、外に出かける度に具合が悪くて大変だと相談にみえた方がいた。

顔の血色も悪く具合が悪そうだ。この男性、自律神経失調症による体調不良の可能性は私の見る限りでは、ほぼゼロに近いだろうと思われた。

具合の悪い時は遠隔操作で除霊をしてもらったり、宇宙のエネルギーを注入してもらっているというが、しかし、この男性は蛇霊に憑依されている。これでは具合が悪くて当然のことであろう。

一回1~2分の遠隔除霊、遠隔エネルギー注入はそれぞれ各五千円也。毎月4~5回もお願いすれば、いい金づるだろう。実際のところ症状は全く改善されていないのである。

この男性の症状である、めまい、ふらつき、の根本的な原因は頸椎の捻じれにあった。勿論、改善されたことはいうまでもない。だが問題がもう一つ潜んでいた。

私は、聞いた。あなたは蛇が好きですか?と。

『嫌いです。』

しかし、蛇に憑依されていますね。

『私が、蛇に絡まれたり、追いかけられる夢を見るのはそのせいですか?』

その通りです。あなたに憑依している蛇は、あなたが除霊をしてもらっている方からもらったものです。これからも連絡を取り、除霊をお願いするうちは、この状態が続きますよ。関わってはいけない人です。

『除霊してもらったのに憑依されるのですか?』

そうです。霊能者自身が、蛇霊に憑依されていますから、そういうことがおこるのですよ。霊能者を支配している蛇霊の配下のものたちがあなたに憑依するのです。それに、あなたの霊能者依存の心が蛇霊の憑依を呼んだのです。

『どうすれば、解決できますか?』

先ず、霊能者へ依存心を完全に断つこと。あなたの不調和な怒りの心を改めて調和することです。それができれば蛇霊の憑依はなくなります。

以後、この男性は、憑依の原理、不調和な心の修正に努めて大分体調も良くなり、怖い夢もみなくなったが、まだまだこれから心の在り方を学ばなくてはならない。

この男性の憑依霊を遠隔除霊し、遠隔エネルギーのチューニングをすると言って惑わし、霊的パフォーマンスをした霊能者?の心には偽善と自分を誇示する気持、驕り、自己主張、金銭への執着が強くあることが、はっきりと感じ取れた。

憑依霊

憑依霊とは、地獄に堕ちた霊がその環境に耐えきれずに、この地上界で生活している不調和な暗い想念を持っている人間の意識に憑依している霊をいう。

憑依という現象は、類は類を呼ぶという法則に従って、私たちの心は、あらゆる次元の世界にも通じてしまうために起こるのだ。

このような法則を『一念三千』といいます。自分の心次第でどのような次元の世界にも通じるおちうことである。

憑依霊は、かつてこの地上界で体を持って生活していた人々や動物、生物である。

しかし、憑依は、いかなる理由があろうとも許されないことであり、あの世と、この世の秩序、ルールを破って地上人間に憑依することは許し難い罪なのだ。

彼らは真理(宇宙大自然の法則、人間の心の法則)を悟らず、人間として生れて来た目的、使命(自分の為すべき事)を忘れてエゴイズムに堕ち、或いは限りない金銭欲、或いは権力欲、地位欲に甘んじて恥じない者たちである。

勿論、他者への感謝の心などなく、他をかえりみず、天の恩恵にも、その愛や、慈悲も拒否して信じない。ある者は、心ない思想を妄信し、闘争と破壊に自己を売り、欲望を果たすための暴力、権力を振るう、言行不一致の不調和な人生を送った霊である。

神仏の名の下に、それを語り、金銭など私利私欲を貪り、矛盾の多い教義を正しい法のごとく説き、妄信者、狂信者をつくりだしている教祖、霊能者、霊能者オタク、そして、信者たちも生きながら地獄界に堕ちている人々であるといえよう。

除霊と称しても、その実態は地獄霊を憑依させ、金銭を手にすることに奔走している巷の霊能者もどきも多い。その実態は非常に精神的に心の深さもなく、幼稚極まりないことを語り人々を惑わしている。

朝晩の勤行や行事に疑問を持ちながら、信仰という生活のなかでも、その実態が安らぎを失い、神罰、仏罰を恐れると言うような教えは正しい信仰ではないのだ。

心で思っていることと、行いとが伴わない生活をしてきた人々の霊。このような人々が、真理(宇宙大自然の法則、人間の心の法則)を悟らないため不調和な想念行為の人生を送って、この地上界を去り、慣性の法則によって死後にも生前と同じ意識レベルの世界に行ってしまう。

その世界は、生前の世界より厳しい地獄界で、それ以上の苦しい生活が再現され、その環境の生活の中で反省し、神仏の子たる自覚を悟らなくてはならないのである。

しかし、彼らは耐えられずに地獄から逃げ出す。そしてこの地上界の同様な人々の、暗い想念を造り出している意識に憑依して生活をする。

泥酔した人も憑依されている場合が多く、酒は良薬のうちは良いが、狂気の水に変わってしまうと、憑依霊の媒体になることが多いのだ。節度が必要なのである。

自分が、長い年月の間に造り出してしまった『心の癖』に打ち克ち、新しい自分を造り出すことが真実実践の第一歩である。

自分に甘く、他人に厳しい行為を求める人は自己中心的であり、自己保存の強い人です。

また、自己にきびしく、他人に慈悲深い優しい行為をする人々の心が本物の仏心である。

仏心の持ち主には、不調和な霊は憑依することができない。

何故ならば、心に曇りがなく天の光りに覆われているからである。

そして、心に拘りや、執着がなく、調和された地上人間と、不満、愚痴、怒り、妬み、驕り、傲慢などの不調和なあの世の霊の波長は同通することがないために憑依はおこらない。

恨み、嫉みの強い人々には、不調和で未浄化な動物霊が憑いている場合がほとんどで、その人が、よく生活を反省してみると、肉体的さまざまな現象となっていたことに気づくことができる。

病気の原因として、このような邪悪な霊の憑依によるものも多い事は否定できない事実なのだ。

こうした憑依霊を除くには、その霊に対して、憑依が悪であることを良く説得するとともに、憑依されている者も、自ら正しい生き方の法則に適った心の持ち方を生活に実践する以外にはない。

一時的に憑依を外しても、本人の心が不調和であれば、また再び地獄霊を呼び込んで憑依されるのである。

自分の心の支配者はあくまで自分以外にないからだ。

人々の心は、その想念の針が指した世界に通じていることを忘れてはならない。

調和された緑と花の楽園にいきたければ、いま心を調える為に学習と実践をすることだ。

極寒で暗闇の、まったく光のない、肌をかきむしられ、得体のしれない生き物のに襲われ、淋しく、呼吸さえも苦しい世界にいきたければ人を恨み、妬み、愚痴を言い、怒りを表わし、人間として、夫として、妻として、親として、為すべきことを放棄すればよい。

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自我

両親を縁として、この地上に生れて来た私たちは、やがて自我が芽生えてきます。

自我とは、いったい何でしょうか。また自我は、心の領域のどの部分なのだろうか。

きょうは、自我についてのみ深く検証してみようと思います。

自我という言葉は、非常に抽象的で誤解を招きやすいのですが、ここでは個性の魂という意味で広く捉えていただきます。

したがって、この自我偽我善我真我の三つに区分して考えた方が理解は早いでしょう。

ただ、その前に、通常は、他人と自分の関係のなかで、はじめて自分が意識されるものであることを理解しなければならない。

対象があり、相関関係のなかで自分の存在が意識できるということです。

その意味で、生れたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識に目覚めていません。

3ヵ月、半年、一年と経って、はじめて親と自分、つまり周囲の対象のなかで、自分の存在を自覚するわけです。

さて、そこで、自我のなかの偽我は、対象のなかの自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分である。

俗にエゴともいい、他人の不幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず、心の中は苦しみに満ちてきます。

これまで老若男女、多くの人たちが私の指導を受けて、心のエゴから脱して平和な暮らしができるようになっている。

しかし、私のカウンセリングや『心の教室』での講演、ブログ、などで学んでいるにもかかわらず、去年と今年の違いが見えず、全く成長できないでいる人もいるのである。

このような人は、一時的、つまりその場だけの知識で理解したつもりに終始しているし、学んだことを生活に実践することもなく、生活を改めることをしないで愚痴を繰り返すのである。

反面、遠く県外にいて面識がなくてもブログで学び、メールでのアドバイスを謙虚に受け止めて実践し、夫婦が和合し、子どもたちにも良い結果が現れて、家庭調和の大切さに気付いた人たちもいるのだ。

心の苦しみの本質は、心が小さければ小さいほど、ものが良く見えず、ものの判断が自由にできないから、いつも問題にぶち当たり、悩みます。

仏教ではこれを称して煩悩といっています。煩悩という迷いの原因は、すべてのことに対する執着、とらわれ、小さな心だといっているわけです。

次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、皆と手を取り合い、愛に生きなければならない、各人めいめいが、勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用という関係のなかで生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首をしめてしまうということがわかっている心をいうのである。

助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ、自分を生かし、皆を生かすことだと理解することが善我なのだ。

すべからく人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことです。これから外れると、その外れた分量だけ自分が苦しむようになっています。これが心の仕組みなのである。

次の真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分は本来一つのもので、別々ではない、現れの世界(物質的この世)では別々でも、天の子としての心は一つであり、そうして、すべての万物は、天の心の中で生かされ、生きている、という自覚の心です。

この場合の心は、大我というものであり、慈悲と愛一筋に生きるものです。宇宙即我、それは、真我の現れです。

さて、それでは、これらの心は、心のどの領域にあたるのでしょうか。

心の領域である本能、感情、理性、知性の機能が、単独で意思につながる時、偽我となって現れます。

感情が単独で意思につながれば、例えば、怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現れるため、破壊につながっていきます。

知性が単独で意思につながると冷酷な人間になります。

善我の心は、反省によって自覚されます。従って、各人の想念の働きは、感情から単独で意思につながる行動とはならず、想念は各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現れます。

それですから、先ず、私たちの心は、反省によって偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束されてきます。つまり、安らぎある生活ができてくるわけです。

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人生の妙薬

傲慢

十数年間、仲のよい二人の女友達がいた。一人は相手の歩調に合わせることを知っている穏やかなタイプのAさん、誰にでもフレンドリーに接する物怖じしない自己主張の強いタイプのBさん。

この二人は、些細なことから仲たがいすることになって以来、お付き合いは消滅した。Bさんの強烈な言ってはならないような一言が人のよいAさんの心を打ちのめしたのだった。

人間、さしたる問題のないときは仲良くいられるが、何か事が起こると自分の主張をし、自分のことを省みず、相手を攻撃してしまうこともある。

人間は順調なときには見えない一面が、問題勃発したときにはっきりと表面化するものだ。人間性や、人格の評価は困難なときに、どのように対応するか、生きるかで評価が決まるのである。

いつの世も家庭内でのトラブルや社会の中での人間関係、仕事上のトラブル、そして病気による心の浮き沈みや死に直面した人、経済的な悩みなどの諸問題に懸命に努力をしながら生きる人もいるし、不満や愚痴に明け暮れている者もいます。

少し順調にいっている時は油断しやすく心に隙ができやすいために驕りや傲慢な言動になりやすいのも人間であろうし、そのことによって事態が悪化することも多々あります。『好事、魔が多し』という言葉が如実にそれを言い表している。

逆境の中にあれば、周りみな妙薬』という言葉があります。逆境の時の苦労、辛抱はすべて後になって自分の糧、肥やしになるものだということですが、しかし逆境の渦中にあるときは、苦しさゆえになかなかそのことに気づけないものだ。

かといって逆に順境のときには驕りから多くのものを失いやすく、やはりそのことに気づけないものである。

良い時こそ自分の足元をしっかり見据えて生活していかないと、必ず落とし穴に落ちることを身を以て体験することになるだろう。

人生に試練はつきもの、逆境のときには不満や愚痴や怒りをあらわにし、またそれを人にぶっつける生き方は更に自分に返ってくるし、結果はますます自分の環境を悪化させるだけである。

しかし、このような時こそが人間の器を成長させるチャンスでもあることは間違いない。

成功するものと、しないものを二分するものがあるとすれば、それは才能ではなく逆境や試練から学べるかどうかではないだろうか。

私自身、いま思えば人生の岐路は生きる過程においてあらゆる場面で遭遇してきたが、逆境や試練を乗り越えず避けてきたら今の私はなかったと確信するに至ったのである。

逆境が偉業を成すこともある。逆境や不遇の状況に置かれていると、つい後ろ向きな考えになってしまうものです。

ですが歴史上にも、身近な人のなかにも、環境が恵まれない中で自身の分を知り心安らかに、ひたすら努力して生きる人もいるし、偉業を成した人もいる。

先人たちの不遇や逆境を学びの糧とする生き方は多くのことを気づかせてくれますが、いざ自分がそのような環境にあるとき教訓を実践できなければ所詮、絵に描いた餅で終わることになる。

人生には、幸せな運命もあれば、禍や不幸や様々なトラブルもやってきますが、『思考は現実化する』つまり人間は自分が考えているような人間になるということだ。

『原因と結果の法則』は古来より因果律として真理が説かれてきたが、全ては私たちの心の為せる業(わざ)であって心は創造の達人といえるだろう。

私たちは心があり、その心によって思いという力を用いて自分の人生を形づくり、そのなかで様々な喜びやまた悲しみを自分で生み出しています。

その人生や喜怒哀楽を生み出すプロセスはの三つからである。

で色々思うこと。

で色々しゃべること。

で色々やること。

ということは、思いと、言葉と、行動で

    行動 このように心が発信元だということがわかります。

そしてこの心、口、体の三つの中でも、最も重要なのはです。

なぜなら、口や体の行いは、心が元になっているからです。

人間は心が思わないことを言ったりしないし、心が思わないことをやったりもしないでしょう。

口が悪いことを言ったら、それは心が命じたこと。

体が悪いことをしたら、やはり心が命じたからです。

その意味で心の想念の仕方を言葉や体より心を重要視するのは大切なことです。

未来の自分を知らんと欲すれば、現在の自分を見よです。

秋に豊かな作物を望む自分が今、何をしているのか。

「未来の運命を知りたければ、現在の自分の思いと姿を見つめたい。」

本当の自分の心はどんな姿をしているのか。
「自分のことは自分が一番よく知っている」と、みんな思いがちです。
ところが、本当は、自分ほどよくわからないものはありません。

たとえば、ギリシャのデルフォイの神殿には、2000年以上昔から、「汝自身を知れ」という格言が刻まれているとされています。それほど、自分自身とはわからないものなのでしょう。

日本でも、ことわざに「なくて七癖」と言われますが、どんなに癖のない人でも七つの癖があるといいます。これを私は、心の傾向性といっている。

では、「自分の癖はどんなくせ?」と聞かれたら、すぐ答えられるでしょうか。
おそらく即答できない人が多いでしょう。

「じゃあ、あの人のくせは?」と聞くと、「あの人なら、あれとあれとあれと……」
といった具合にいくらでも指摘できます。

私たちは、人のことはわかりますが、自分についてはまったくの無知なのです。

自分自身がわからなければ、私たちは本当の意味での向上も進歩もありませんから、気づきもないでしょうし足元にある幸せにも、心の内にある幸せにも気付けないでしょう。

人間生きている以上は幸福にならなければなりませんが、先ずは真実の自己を知ることが非常に重要なことです。

約1000年前の源信和尚は、『よもすがら仏の道に入りぬれば 我が心にぞ たずねいりぬる』という歌をよんでいます。

夜を徹して一筋に仏の教えを学べば自分の心にたどり着くということですが、最後は自分の心が知らされてくるのです。かつてお釈迦様が悟られて如来となられたように。

では、真実の自分の姿をどのように知ればいいのだろうか。

世の中には、自分の心をうつす鏡が3枚あると言われます。
1―他人という鏡

2―自分という鏡

3―覚者という鏡
の3枚です。

では、これらは一体どんな鏡で、それぞれ、どんな自分の姿が映し出されているのだろうか。

1-他人の言動はあなたを反映した結果の行動。

2-常に自分を客観的に見れる自分。

3-1、2、から自分の心を省みて偏らず中道の心にできたとき、一切の執着から離れて宇宙即我の境涯になった自分。

人生の妙薬は逆境や試練の中にもあるが、自己を知ることで、永遠の妙薬を手に入れることができるのである。

浅はかで愚かな者たちは、

自分自身にたいして敵のように振る舞う。

悪い行ないをして、苦難の結果を得る。

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心の富・希望と安らぎの光り

自信喪失・うつ病・自我・言霊

アンドリュー・ソロモンというアメリカの作家がいます。彼は自分のうつ病体験を『真昼の悪魔―うつ病の解剖学』という著書に記していますが、その中で、うつになって失った最も大切なものは友人であると告白している。

医学博士の高田明和氏も『生きながら死んでいた私』と言い、多くの友人を失ったと著書で告白しています。

高田氏は医師としてアメリカの留学生活を終えて日本に帰ったとき、同期生たちの出世、研究室や大学の教授になっていたかつての仲間と周囲の環境にカルチャーショックを受け『どうして生きていけばよいのか』と悩み、自分を劣ると卑下し、次第にうつになっていった時期の苦しい経験は忘れられないとある。

このときの高田氏は他人と自分を比較した価値観に囚われていたのである。相対的価値観というのは自分と他人を、あるいは他人同士を比較してしまうところに問題があり、そのことが苦悩の原点となるため非常に危険をはらんでいるものだ。

鬱になると、非常に不安になる。自責の念が強くなり、いつも自分を責める、過去の栄光に拘る、人に会うのが嫌になる、光が苦手になる、高い音がダメになる、恐怖心がある、悲しみが襲ってくる、外に出るのが嫌になる、過去に拘る、愚痴をいいやすい、怒りやすい、死を意識する、眠ることが怖い、朝の起床が辛い、睡眠が浅い、怖い夢を見る、体が重い、倦怠感が強い、食事がとれない、薬に依存している、等々これまでにない感情が表出してくる。

『そんなに気にすることないよ、』『自分を責めないで』『大丈夫だから』などと言ってもらいたいと思うようになる。

高田氏も、あまりの苦しさに誰かれ構わず電話をして苦境を話し、相手の迷惑もかえりみず、くどくどと気持ちを訴えたといい、友人と食事をするときなどは酒の勢いを借りて変なことを言い、後から『なぜあんなことを言ってしまったか』と激しい後悔に襲われた。

そのことで再び電話をして弁解をするから、一層、あいては遠ざけるように離れていった。高田氏のうつ病の理由の一つは自信喪失だというが、これは周囲と自分を比較したことが原因であることはいうまでもない。

人と比較して自分が優位であれば満足していられるが、相手が優位だと嫉みや、自分への卑下につながる、これは間違いなくエゴ(自我心)である。

私の所に、うつ病で相談にみえた青年の言葉が証明するように、『認められたい!』がために何かをするのではなく、何かをしたことが認められたということにならなければ心が病むことになろう。

認められたいという思いに囚われているということは、自己主張の気持が背景に強くあり、そのような気持ちはいつも周りの反応に様子をうかがい、他の目を気にした行動をすることになる。これでは心が疲れて当然なのだ。

私たちは自分と他人を比較した考えを持つべきではない。

自信の喪失や卑下は高田氏が言うように『自分を信じる』という気持ちが失われ『心が無くなった』という感じが一番言い表しているということになりかねないからだ。

氏は友人の精神科医に相談して薬物療法を試みたが悪化するだけで薬の副作用にも苦しんだ末に意を決して断薬し、学生時代に経験した禅に再度の救いを求めた。

しかし、禅に対する捉え方を心得違いして教条的(守るべき教え、規則、知識偏重の理解)に解釈したためにかえって迷うことも味わったのである。

結局、迷い苦しみの末に一念発起、『溺れる者藁にもすがる』の気持ちで『全ては良くなる』、『悪い事は起こらない』と毎日何度も念じ続けたといいます。

前向きな言葉、明るい言葉、積極的な言葉に頼り続けていくことで自分の心が楽になり体が癒えていくことを実感できたということです。

『何をしたか』は大事ですが、これが全てではない。『何を思ったか』『何を言葉にしたか』も大事であることを、立ち直ってみて確信が持てたと言いきっています。

言葉の力は頭で解釈する以上に素晴らしい結果が現実となって顕れることを高田氏は、『言霊』の力は自分のうつ病を立ち直らせたと紹介している。

うつ病のために心身ともに弱っていった高田氏は藁にもすがる思いで、あっちこっちの禅僧の老師方を訪ね歩き質問をした。

仏教では因果律(原因と結果の法則)を説いていますが『良い言葉を発すればよいことがありますか?』と。しかし、誰一人とし明確な答えをされた老師方はいなかった。

結局、外に答えを求めて歩いても答えがないと知り、自分で乗り切るしかないと決心した瞬間であった。不思議なもので、この時に自分の心が軽くなったことを深く実感したという。

このような高田氏の経験をみればわかるように、依存心が強いうちは、決して悩み、苦しみの解放がないということだ。

人からアドバイスをもらうことはできるが、実践して乗り越えるのは自分自身であるということである。

しかし、正しいアドバイスも本人の心が頑(かたく)なになっていたり、何かに執着していれば、必要なものが心に届くことはない。

うつ病を患う人たちは総じて真面目な人間ではあるが、想い、考え方が偏りすぎているという共通点がある。健康な人以上に、自我心、執着、自己中心、相対的価値観、こだわり、といった心の軌道修正が必要なのである。

事実、この心の傾向性に気づき、修正できた人たちは、うつ病から解放されていく。そして、私のカウンセリングは心療内科や精神科のそれとは全く違うと相談者自身がいう。

『全ては良くなる』、『悪い事は起こらない』こうは言ってもこの世の中いいことばかりではない、現実は辛いことの方が多い。言葉だけの空回りではないのかと思うだろうが、実際にこれを言葉にするとその瞬間にホットした安心感から安らげたといいます。

地獄から自らの力で這い上がった高田氏の言葉には真実がある。知識ではない。

これが逆に『自分はダメだ、何もいいことなんかない、全ては悪くなる』と思ったり、言葉にしたらどうだろうか。ほぼ間違いなく気分が落ちていくだろう。

『冷暖自知』という言葉がある。冷たさも暖かさも自分の手で触れてみればわかるように、塩の辛さ、砂糖の甘さは学問知識では理解できないが、なめてみればすぐ分かる。

言葉の力は疑念を挟むより実践してみるとわかる。それが言霊です。

失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。自分の心を奮い立たせる最高の妙薬、それが言霊である。

言葉の力は、何も宗教の世界だけの特権ではない。

これまで成功された先駆者たちの信念には必ず心から発する良い言霊として実践から湧き出た前向きな生き方、つまり積極思想がある。

努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。

しかし、努力したことが全て報われるとは限らないだろうが、成功した者は皆すべからく逆境と苦労を乗り越えて努力している!

私は、経済的な富や地位や名誉を得たものを成功者とは言わない。私がいう成功者とは心の富に気づいた人のことである。

言葉は大切に使いたい。

希望と安らぎを与える光として。

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心の置きどころ(逆境を乗り越えて)

逆境を乗り越えて

同じ環境の中で、同じように苦しく辛い体験をしても、自分の人生は何て「幸せな人生」だと感じる人もいれば、とても 「不幸な人生」だと感じる人もいる。

ということは幸せか、不幸かは環境や条件ではなく「自分の心」が決めていることになります。
自分に都合が悪いと人のせいにしたり、相手を批判したり、責めたりしがちなのもまた人間。

私たちは「苦しい体験」をすることで心は痛みますが、受けとめ方を変えると心も体も楽になることに気付かされます。

お母さんのお腹にいる段階で、片足のないことが分かった赤ちゃんがいた。この子のお母さんは、片足がなくても産むと決心して産んだ。

この子は小さい時から『諦めない心』を母親から教えられ、高校からレスリングを始め、学生チャンピオンになった。片足がなければレスリングは限りなく不可能に近い、しかし、この子は可能にしたのである。

片足の子は、『貧乏だったから、家も失いました。でも僕の魂はどんなことがあろうとも屈しません・・・。足が一本無くても、そこから何かを学びなさいと、神様が言ったのだと思う。』と言った。

母子家庭のでもあり、母親が働きづめで倒れたとき、この子は大学を辞めようとしたが、母親が、『レスリングも大学も辞めるな。』と言ったという。

この子はレスリングの練習を集中的に短時間で切り上げて、そのあとバイトをして大学を卒業した。現在は、子どもたちにレスリングを教えながら著書も出版したという。

この子のように、とても厳しいハンデくを背負いながら「恨みの心」ではなく「感謝の心」で受けとめられることが出来れば、夢も実現し、幸せな人生、つまり、明るく、健やかで、穏やかな人生を送ることが出来るのではないだろうか。

このような生き方は胸が熱くなるほどこの上なく感動をします。恨みや憎しみにはない、遥かに大きく深い慈愛を感じる出来事です。考えさせられます。

人間、如何なる環境や境遇にあっても『心の置き所』は大切なものである。

善い行いも、悪い行いも、その行為に対する報い(結果)は、影が形に従うように必ずついてまわるものです。

人間の恨みは、自身が執着の原因に気づき、それから離れ他を許すことでしか静まらない。

怒りや憎しみの心は破壊のエネルギーとして自分を壊し、他に働き現実のものとなる。しかし、この破壊エネルギーが自分へ還ってくることに気づく人は少ない。

『善悪の報いは影の形に随(したが)うが如し』

自分が行ったことの全ての結果は自分の影のようについてまわるものだということです。

海は地球の約80%近くを占める広大な面積。海は多くの生命が育まれる源でもありその恩恵は計り知れないものです。

その水平線の彼方に顔を出す太陽の輝きは、それ以上に私たちに多くの恵を施してやまない。そんな太陽から学ぶ愛の本当の姿は無償という言葉で心に響き広がります。

心から嬉しいとき、どうしようもなく悲しい時、やりきれないほど淋しい時に涙をながすことは悪い事ではないし、恥ずかしいことでもない。

涙を流せば心の曇りを一緒に流してくれる。 空の雲もやがて雨となった後には澄み切った晴れの大空が広がるように。

だから涙を流すことはとても必要なこと。

涙は心に元気と勇気を取り戻してくれる。

涙は命の源。 元気を育む一滴の海

涙は世界で一番ちいさな海である。

人間、走っても、歩いても、一日は一日。走ってばかりじゃ疲れきってしまうし、動かなければ進めない。

歩いたり、走ってみたり、立ち止まってみたりで自分のペースで過ごせればそれでいいではないか。急がず、たゆまず。

どんなに体が辛く、心が萎えても、どんなに自分に嫌気がさしたり、自分を否定したりしても、自分を必要としている人がいる。必ずいる。

みな必要だからこの世に生まれてきたのであって、必要でない人は誰もいない。

身体の病気、心の病気で動けない、動けないのは、実は天がくれた休息の時間。

心を休めることは自分を省みることである。

昇る朝日や、しずむ夕日に照らされてみると、生きることの勇気や淋しさ、悲しみを強く心に感じるのは心が生きているから。

太陽から頂くもの、海からいただくものは、いつも無言の働きかけ。

静かに向き合わないと、そのことには気づけないで過ぎてしまう。

動いてばかり、つっ走ってばかりじゃ気づかない。

無言の働きかけは太陽だけではない。お月様も同じ。満月も、三日月もとてもきれいです。たとえ雲で見えなくても綺麗な月は存在しているのである。

野の花一輪だって、誰に注目されずとも、ひっそりと花を咲かせている。

そう思うと身の周りの全てが愛おしく有り難く思えてくる。

『朝の陽に 何がおわすか しらねども ただ有り難く 涙あふるる』

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信仰への逃避

信仰にも逃避してはならない

人生80年としても山あり谷あり、平和なときより、悩み苦しみのときの方が多い人たちもいるだろう。だが、人間には越えられない試練はない。

だから現実を改善しようとする努力を放棄して、この人生にあきらめをつけて信仰するというのは心の内面の逃避でもある。盲信狂信の信仰はこういうところから始まる。

また「あきらめさせる」という信仰は正しい信仰ではない。依存心を持たせる信仰も然りである。

多くの信仰者の中には、家庭にいろいろな問題を抱えていても、自分の心を変えようともせず、家庭の人間関係を改善しようともせず、心が苦しければ苦しいほど信仰に夢中になって、信仰という場で心を慰めて一時的に心を解放するという人達がある。

そんな信仰は一生続けてみても問題の解決にはならない。

家が面白くないから、夫婦の間が面白くないからといって、そこを逃げ出してお互いに似たり寄ったりの境遇に同情しあって仲良くしようというのは人生の厳しさから逃れようとする甘えである。

真剣に物事を改善、解決しようと願うなら自分自身のこれまでの生き方を省みることから始めることだ。

真の正道(執着のない調和された心の生き方)を知らない指導者達は、甘えで求めてくるものを純粋な信仰だと思って受け入れて、結果的には完全な人生の逃避者にしてしまうのである。

念仏やお題目を唱えさせる宗教もそうであるし、教祖という個人を崇拝させる宗教もそうである。

想念は正しく使わないと幸福にならない

中学生頃から体調が崩れ始めて病院に行ったら、うつ病だと診断されて服薬治療を始めて15年経過したが、現在もまったく症状は改善されていないといって駆け込んできた30歳の女性。

背後にキツネの霊が隠れている。いつも死にたい、殺したいと頭の中で声が聞こえて気が付けば、包丁を手にもって立っているところを家族に発見されて事なきを得ていた。

私は、同行したお母さんに質問してみた。家の神棚には稲荷神社のお札がありますかと。『はい。某稲荷神社のお札と三か所の神社のお札が入っています。』ということだった。

某稲荷神社でたむろしている野狐の霊だったのである。自分たちのご利益求めのために参拝や、そのような動機から祭る稲荷神社のお札は、野狐霊を招くことになるから、信仰については、よくよく気を付けなければならない。

家内安全も、健康成就も、商売繁盛も自分たちの努力でできることばかりであるのに、神社や神棚に向かって願い事をする必要などないのだ。

同時に、この若いうつ病の女性は真面目を過ぎて生真面目、頑固な心を持っているところが見えたので、それを修正できればうつ病が治ることを伝え、心の癖を軌道修正する必要が何より大事であることを提案し、心の学習をする約束をして帰って行った。

野狐の霊に憑依された原因は、この女性の、物事に拘り過ぎる癖、頑固で不調和な心に根本的な原因があったのである。

信仰を始めたが悩み事が改善されない、トラブルが続いている、不幸だという人は想念の正しい使い方がわかっていないし、間違っているのである。

誰しも、自分は不幸になりたいと思って生活している人は一人もないのに、むしろ、幸福になりたいと思って生活をしているのに、出てきた結果は不幸という結果であって、どうしてこうなったのかわからないという人が一杯いる。

そういう人達は想念の正しい使い方を知らなかったのである。ということは、正しい想念の使い方をすれば、幸せと思えるようになるし、そのように変化していくということです。

プラスの想念とマイナスの想念

マイナスの想念というのは、思えば思うほど自分を不幸にする想念であり、プラスの想念とは、思うことによって自分が幸福になる想念である。

心のエネルギーは誰でも同じように与えられている。それを幸福になるプラスの方向に働かせるか、不幸になるようにマイナスの方向に働かせるかを決定するのは自分である。

砂漠の砂地にはまり込んだ自動車は、いくらエンジンをかけても車輪は空転するだけで益々深みにはまってゆくだけである。そこから抜け出そうと思っていくらアクセルを踏み込んでも無駄なことである。

この砂地から抜け出すには、それだけの工夫と準備があれば抜け出せるだろう。

人生も然り、我々が心を働かせるならば、少しでも自分の人生がプラスになるように働かせなければ損であろう。

思ってもどうにもならないことを、思えば何とかなるように錯覚して、一生懸命に思ってみてもどうにもならないことはどうにもならないのである。これを迷いという。

ところが現実を直視して勇気を持って現実を改善しようとせず、心の中で逃避して観念的な夢を追う人は心のエネルギーを空転させて現実を益々不幸にしてしまうのだ。

例えば
* 女に生まれて損をした、男に生まれればよかった。
* もっと美人(美男子)に生まれればよかった。
* もっと金持ちの家に生まれればよかった。
* もっと背が高く生まれればよかった。
* もっと頭がよければよかった。
* もっと別な女(男)の人と結婚すればよかった。

等々考えていくら心のエネルギーを使ってみても現実はどうとも変えることは出来ないし、思えば思うほど不幸だという感情が強くなってゆくだけである。

女の人が「男に生まれればよかった」と、いくら思ったからといっても女の人が男になることは絶対にできないし、この夫(妻)とでなく別な人と結婚していたらと心の中でいくら考えて架空の幸福な夢を描いてみたって、目の前にいるのは現実に結婚した夫(妻)でしかない。

変えたいと願っても変えられないことを宿命というのである。運命は自分の努力で変えることができるものだ。

頭がどうであろうと、家柄がどうであろうと、育ちがどうであろうと、そういう現象的なことにとらわれてはならない。

愛とは心と心、魂と魂との一体感である。

魂だけが実在であるということに気づいて、その実在である魂と、その魂の乗りものとして現象的に現われている現実の妻や、夫の全てを愛さなければならないことに気づくことだ。

心の中の観念的な架空の夢をなくした時に夫婦が調和できるであろう。

そうした現実の努力の上に魂は磨かれ成長して大きく豊かになってゆくのである。

観念的な現実に即した、行為の伴わない夢は、心のエネルギーの無駄使いであって、その架空の想像の夢がどんなに壮大であっても、その夢によって魂が大きく成長することはないのである。

「大いなる夢を描け」と言っている宗教家があるが、現実とはならない観念的、且つ、空想的な夢を描かせることは人々の心のエネルギーを浪費させることになる。

あなたが幸福になるためには、現実逃避の心をなくして現実生活の上に調和を実現しなければならないのである。

それができてくると先が見えるようにもなるだろう。

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心の言霊(メッセージ)

科学ではすべての動物、植物、鉱物は振動(波動)エネルギーを発しているとしています。ということは存在するもの全部がエネルギーを発しているということです。

通常、私たちが体の五官で感知できることは、ごく限られた部分で、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぎ分けるもの、舌で味わえるもの、皮膚で感じられるものであることは周知のとおりである。

ところが普段、気づかないではいるが実際には五官以外の感覚が働いているのです。

会話のやり取りでお互いが思うこと、感じることのなかで、心地よさ、いらだつこと、安らぐこと、怒ること、悲しむことなど、これらはみな肉体五官とは別に、言葉に心が反応した結果のことです。

言葉という意味を持った音声に反応したのです。音声は振動(波動)そのものです。意味を含んだ言葉は相手の心に入って反応を起こすきっかけになります。

言霊(ことだま)ともいいます。ですから温かい言葉や、思いやりや、優しい言葉は人を癒すこともあり、また逆に、言葉で相手の心を傷つけることもあります。

言葉という意味を持った音声は振動数として働くものだということは明白です。言葉は心から発するものであるが、その心は天からいただいた不滅のエネルギーである。

一方、宇宙大自然の支配者である只一つの天(神)は、公平にして無私、人もまた、平等にして差別のない心の所有者である。

それなのに、人の世は能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の違い、生れた環境の別があり、人によって喜怒哀楽にも相違が出ているのは何故だろうか。

働くものとその義務を怠る者、行動する者と傍観する者、学ぶ者と享楽に溺れる者、昨日を引きずる者と明日を憂いる者、また今日を生きる者、健康な者と病弱な者、自分に厳しい者と人を責めて裁く者がいる。

愛情深い者と薄い者、和合を旨とする者と争いの種をまく者、謙虚な人と自分を高く見せようとする者、責任を果たそうとする者と依頼心の強い者、足ることを知る者と欲深き者、・・・。

こうした相違が、平等であるべき人間に不平等を造り出している。しかし、天は人間を決して不平等に扱っていない。

自らの心に想うことと行うことの調和度がその人をつくり、心正しい者たちには、光明が射し、安らぎに包まれるのである。

ちょうど、青天の太陽の光が、万象万物の生育のエネルギーへと変わるように、人間の心のエネルギーもさまざまのものを育てる。

暗い心は、モヤシのように暗い環境のなかで、光りをさえぎって人間を育ててしまう。それでも天は平等に慈愛の光りを注いでいる。

その慈愛の光りを受けるか受けないかは、その人の心と行いによるだろう。

愛の言霊

愛とは寛容である。包容力である。許すことである。

もし、この地上に愛がなければ、人の世は、水のない砂漠をゆく旅人のように、飢えと渇きに泣き、他をかえりみるいとますらないだろう。

愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許し合う、そのなかに生きている。

愛は天の光りであり、あなたの中に宿る光なのである。

地上の灯、それが愛であろう。

闇夜にさ迷う人々の心に潤いをもたらし、生きがいを与えていくものである。

心の内から照らす愛は、正に灯台の灯といえよう。

しかし、愛に溺れてはならない。愛は自分に打ち勝つ者、向上を目指す者の心の内から輝きだすものだからだ。

闇夜(執着)の世界は自らの進路さえ迷わせる。前途に何が立ちはだかっても解らないし、いつ足を踏み外すかも知れない。焦燥感に襲われることだってあるだろう。

この闇夜を支配している、ならず者の群れ、脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺、殺人、裏切り、不誠実などは、そのまま恐怖の世界であり、すべて満足することのない苦しみの世界である。

それは、光明を失った人々の、悪想念が作り出したものである。

闘争と破壊、暴力、武力がまかり通る世界といえよう。

慈悲深く、愛を施せる者は、自らが安らぎの心をつくり、人々の心に光明を与え、悪魔さえ支配する正しい道、天の道をゆく者だ。

悪魔に勝る道は、慈愛の心と行い以外にないであろう。悪魔は己の心の中に潜んでいる。

正道(執着なく調和して正しく生きる道)を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正した時、心の悪魔は滅びるであろう。

己に打ち勝てる者こそ、真の勇者といえるのである。

人の魂は、転生輪廻という天のはからいから、一歩も外に出ることは不可能なのだ。何故なら人は天の子であり、天の意識が内在されているからだ。

天は無限の進化を目指し、無限の大調和を目的としている。人の転生は、その目的のもとに永遠に続くだろう。

大自然の輪廻と全く同じで、人間だけが別ではないということである。

人がもし、この法則に反し、自我に身をおけば、その人は、その分量だけ、償いの労を課せられるだろう。身の周りに様々な諸問題が発生し、不幸への道のりを歩むことになる。

これが作用と反作用の法則である。人間は大自然の法に逆らって生きることはできない。

物質もまた、輪廻を繰り返している。集中と分散という過程を通して、そのエネルギーは永遠の活動を続けるだろう。それも、すべて外部からの縁の働きによるものだ。

原因と結果という法則を曲げることはできないだろう。物質が変化していくという結果は外部からの縁という働きによって、はじめて為せることになるのだ。

その目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果たしている。つまり物質は生命維持のために欠かせない存在(媒体)だということだ。

生命も物質も、このように、転生輪廻という、天の法(大宇宙の意識)の下に、天の目的を果たすために生かされ、存在しているということである。

人は目覚めているときは、肉体を自分だと思っているだろう。眠っているときは、肉体が自分自身だと思っていない。

他からの力を受けない限り、そのときは無自覚だといえるだろう。肉体から魂が、降りて(離脱)いるからである。

親も、兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も、何もかもわからない。五官の機能が、何も外界から受けないからだ。

しかし、鼻の穴も、耳の穴も、ちゃんと開いている。ただ意思を動かすことができないのである。目が覚めて、肉体の自分を自覚し、夫や妻のあることを知り、子供のあることを知る。

ということは、自分にとっては、この世の一切のモノは、自分の意識があって初めて確認できる存在であるということだ。

自分という意識がなければ、この大宇宙も地上世界も、自分の肉体も認知することはできないだろう。

この意識こそ、天に通じた、本当の己の心ということだ。

不変の魂ともいえよう。

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戒名への疑問

 

きょうは戒名について述べてみます。

戒名は戒(いましめ)を受け出家して得度し、仏門に入った者に与えられる名前であって、法名(ほうみょう)、ともいわれている。

この制度は現代仏教の発祥地インドにはなく、中国、日本で行われるようになったものだ。

本来、戒名はこのように生前に授けられるものであったが、後世になると、死者に対して、葬儀を行う際に僧侶がつける、いわば死後の名前という認識が通常となった。

これは後代、生前になんら仏教に入信していない者も、死後は仏教帰依(きえ)者として扱い、形式的に授戒作法を行い、仏門に属する者と同様に葬儀を執行したことに由来するのだが、ここには個人の意思に関係なく、お寺や僧侶たち、遺族の都合や見栄、、世間体などの都合などもあるだろう。

戒名は一般に、男性の場合は法名の下に大居士(だいこじ)、居士禅定門(ぜんじょうもん)、信男(しんなん)、信士(しんじ)と付ける。

女性の場合は大姉(だいし)、禅定尼(に)、信尼(しんに)、信女(しんにょ)。

子供には童子(どうじ)、禅童子(ぜんどうじ)、孩児(がいじ)、童女孩女(がいにょ)などの位号をつけている。

とくに高貴な身分の人にはや、院殿(いんでん)、寺殿(じでん)などをつける傾向にあるが、各宗派によってそれぞれの伝承がある。

但し、この戒名をつけるにあたっては、これまでトラブルこそ少ないが苦情や批判が多いのが現状である。僧侶やお寺からの請求があって高額な戒名に戸惑っているからである。

近年は葬儀(参照)に関しても価値観が変わってきており様々な簡略化、簡素化した形態、形式が新たに生まれてきている。

ここで、私のところに問い合わせのあった戒名に関する様々な質問の内容を紹介します。

1・お釈迦様は民衆に戒名をつけたのか?またそれを有料にしたか?

(釈迦の時代に戒名はない、勿論、金銭で戒名をやり取りなどしていない。

インドから仏教の伝わった当時の中国では自分の名前を他人に知られることを好まず、そのため実名の他に あざな、字 を付けてそれを使う社会的習慣があった。

出家の際には僧侶としての戒律を守ることを誓うと共に、「 あざな 」 を付ける習慣から 仏弟子、つまり釈迦の弟子になった 「 しるし 」 として、師から新しい名前を授けられた。それが戒名の起源です。)

2・戒名の格付けであの世の居住地が決まるのか?

(葬儀仏教と揶揄(やゆ)される現代の仏教界を表した質問だけに、見逃すことができない問題である。

この世の人間の都合で付けられた戒名の格付けによってあの世の天国、地獄が決まるならば、全く宇宙の法則あの世の仕組みは粗末なものとしかいえないだろう。

どれほど格の高い戒名を付けても地獄でのた打ち回っている者が現実にいるのである。

あの世の段階的居住地は、自身の心の調和度で決まるものだ。

人間性(霊格)の段階(参照)その意味でいえば、地位の高い人ほど権力や名誉、名声や金に執着して心を曇らせて地獄に落ちているのは、人間の愚かな業としかいいようがない。)

3・戒名がなければ成仏できないか?

(死にゆくものが戒名をつけてもらえなければ成仏できないとなると、世界の死者のほとんどは成仏できないことになる。戒名は日本独自の文化に過ぎない因習といえるだろう。

仏壇に向かった時でも一般的に故人を呼ぶときは戒名で呼ぶことはない、慣れ親しんだ本名で呼びかけたり、お父さん、お母さん、であろう。

実際に降霊する場合でもそうだ、○年○月○日に亡くなられた○○花子さんの夫であった○○太郎さんの霊よ、と呼びかけるだけで降りてくる。大宇宙と霊界の法則からいえば戒名は必要ないといえよう。)

4・戒名は個人(故人)の徳を讃えることになるか?

(戒名を付けるから徳を讃えることになり、付けなければ讃えることにならないとするなら、戒名という文化のない国々の人たち、故人たちは徳を讃えられないことになります。

故人の徳を讃えるということは後世の人たちの心に残っている故人の人間性や人格、霊格、為したことに対して称賛する行為であろう。事の本質は戒名にあるのではない。)

5・死後の戒名は自分で付けることは可能か?

(最近は自分で戒名を決めて、死後にこれを位牌に書き込んでほしいという人がいるようです。そのこと自体は何ら問題があるわけではない。葬儀会社や菩提寺の住職に相談可能である。)

6・死後も自分の名前でよいと考えていますが、それでは駄目ですか?

(本来はそうあることが望ましいことでしょう。後はそのことによって遺族の方々がトラブルにならないように根回しをしておく必要があるでしょう。)

7・豪華に葬式しないとあの世に行けないの?

(私の母は自分の葬式は質素に慎ましくやってほしい、何も要らないと時々話していたが、母の生きざまが質素そのものであったし、その通りに祭壇も最低限のものにして送った。それでも母は天上界にて生活しています。葬儀は遺族の見栄や世間体に対する思い込み、拘りが強いほど豪華で高額なものになるだけである。)

8・戒名を付けないと地獄に落ちるの?

(地獄に落ちる人の真実の原因は、生前の足ることを忘れた欲望、不満だらけの心、愚痴をいって自分の心を汚し、人に毒を食べさせた生き方、エゴからくる怒りの心、このような不調和な人生を閉じたことによるのである。)

9・戒名がないと何となく不安な気分なのですが、実際のところはどうなのでしょうか?(日本の、これまでの葬儀は必ずしも正しいことばかりではなく、現代の価値観にはそぐわないところもあります。

伝統や文化、しきたり、というものは、時代時代によって変化をしていくものですが、古い因習を変えるということは、これまでの慣れ親しんできた流れを変えることですから、当然そこには抵抗という心の反作用が生じるでしょう。

最終的には個人の価値観をどのように行動に移すかということに尽きます。戒名もひとつの形ではありますが、霊的には何ら意味を成さないものであることは事実である。)

戒名の格付け事例

「院居士・院大姉」 100万円超

「居士・大姉」 30~50万円程度

「信士・信女」 15~30万円程度

自殺は遺憾であるが作家、川端康成氏の戒名(文鏡院殿孤山康成大居士

此処に記載した金額は下限、上限もこの限りではないし、お布施(料金)や名称も宗派で異なります。地域や寺、宗派によりけりです。

遺族としては、故人を思う気持ちがありますから、ケチりたくないでしょうし、そんな弱みを突くこともできるだろう。宗教ビジネスは利益率が高くおいしいと言った人がいた。

神道の葬儀は戒名料にあたるものは無し。神葬祭に悪評が少ないのはこの辺の事情もあるのだろう。

出家ってどういうこと?

出家とは、家を捨て、家族と別れ、財産を捨てて、自己の修行のために仏の道に入ることが本来の出家であったが、現代ではビジネスとしての出家?と宗教が増えている。だから出家はしても財産は捨てないし、手放さない^_^;

院号・院殿号(生前に寺院や宗派に対して多大な貢献をした者、あるいは社会的に高い貢献をした者に贈られる号ということになっている。)

道号(戒名の上に付ける。字(あざな)に相当する呼び名という説など諸説ある。中国で生まれ、それが禅僧によって日本に伝わり、戒名の上に付けられるようになった。)

位号(戒名の下に付けられる居士や大姉という文字のことであり、性別や年齢、功徳報恩などにより異なる)

信士・信女(仏教信者として戒を保つ成人の男女に対して付けられる。成人とする年齢については、諸説あるが、18歳以上とするのが一般的。宗派により、清士・清女、清浄士・清浄女、善士・善女などとなっている。)

童子・童女(未成年の内に亡くなった剃髪・得度をしていない者に対して付けられる。       未成年とする年齢については、諸説あるが、18歳未満、4、5歳から17歳に付けるのが一般的。)

戒名の意味(院号や道号に付けられる漢字で、その人が生前どのような人物であったかが大まかに含んだ文字をあてる。 死亡してから戒名を付ける場合、遺族に故人が生前どのような人物であったか聞き、そこから戒名を決められる事が多い(例:優しい人であったなら「優」の字が付く等)。 また、生前の名前から1文字ないし2文字漢字を取る事も多い。)

戒名料(布施)の問題(前述のように日本では死後に戒名をつけるのが一般化してきましたが、その際に高額な戒名料を要求されたり、その額によって戒名に差がつけられたりする事例があり、仏教界の内部からも批判が出ていることもあります。戒名に執着すると結局は金がかかることになるのだ。)

しかし戦後、そこまでの貢献をしていない人物に対しても、本人もしくはその遺族からの依頼により、院号や院殿号を望む者が増えたのである。

そのため院号を望む場合は、相応する布施をした者に対して付ける号となり、戒名の高額化につながった。

本来は生前に授戒して戒名が授けられ、その者の布施行により寺や院が建てられ、その故人の戒名を採って寺や院の名が付けられるという順序であった。

院号は本来、大寺における塔頭の「○○院」などと付くものであった。にもかかわらず金銭によって「院号」を買う者が増えたことが、またそれにより戒名を付けてしまった先代の各住持などの判断が、「戒名料」という風習を生むに至った。

結果的に、「戒名料」の額によって戒名の文字数が増えるという「戒名の相場」という概念が出来上がり、戒名が宗教ビジネスの一環になるという問題が起こっている。

戒名については寺の都合や遺族の都合なども絡み金銭に対する欲望や、遺族たちの虚栄心なども拍車をかける原因となってきたのだ。

個人の供養や天国に昇ることには何ら関係のない戒名であるが、全ては欲絡みの問題に過ぎないのである。

この機会に戒名について考えてみるのも、やがてゆく道の障害回避に参考となるのではと思うのである。

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知識と智慧の続編

心の波動を感じるということは、その人の心にある、自我心や驕(おご)り、怒り、自己中心などの不調和な波動のことだ。

何故、それを感じるのだろう。前回に続き今回も知識と智慧について、踏み込んで述べていきます。最後までお付き合いください。

さて、人の潜在意識層には、皆それぞれの魂の守護霊がいてその人を守っている。そして、その人の生れてからの人生を、その守護霊は全部知っている。

私の守護霊は寡黙な方であるが、私に間違った判断や不調和な言動があると、厳しい指導をしてくるし、大事な局面では、しっかりと、正しい方向を示し導いてくれる。

このようなことで分るように、ただ単に学んだ知識からは、このようなことは生じてこないだろう。

今世の知識以前の生きた経験がそれを教えてくれるのである。

人には皆、過去世がある。転生輪廻の生きた経験が、人それぞれの潜在意識に内在されている。

その内在意識が、心の窓を開くことによって、流れ出てくるのだ。

既述したように、心の窓は、正道(執着のない調和された正しい生き方)に適った生活をすることによって開く。

すると、その人の過去世で経験されたものが、表面意識に流れ出てきて、人生の水先案内をしてくれるのだ。

もちろん、人の過去世はまちまちである。正道を学んだものもおれば、欲望の中で一生を終えた者もいよう。

従って、心の窓を開いたからと言って、何でもかんでも分るとは言えない。

大都会に住んでいる人に麦をつくれといっても、それはできない相談であろう。過去で経験しないものはわからない。

しかし、こういうことは言えるだろう。毎日の生活が、正道に適っており、そうして常に努力を惜しまない人であれば、守護霊の他に指導霊がついて、その人の努力に応じた必要なものを与えてくれる。

それは必ずしも物に限ったことではなく、智慧として与えられることもあるのだ。

だから、過去世で経験がない事をやろうとしているからといっても、心配するには及ばない。

また潜在意識を開くことを霊道を開くというが、霊道が開かない人でも、その人の経験の度合いに応じた智慧は湧いてくる。

その人の毎日の生活が正道に沿った生活をしていればそうなるのである。

智慧の他に、悪知恵というのがあります。世間には悪知恵を働かす者が非常に多く、そのためにいつの世も常に不安と混迷から抜け出せない。

悪知恵は、悪魔とか、動物霊が人の意識を支配すると湧いてくる。

自己保存、我欲、人のことはどうでもよい、という考え方が強くなると、こうした者が憑依してくる。

悪魔や動物霊が憑くと、病気にもなりやすく、医者に行っても、なかなか治らないが、そうした病気という現象のほかに、人の心をあやつる、威張りたがる、人のものを横取りする、独占したがる、人情酷薄、ということもあるだろう。

人も十人十色ならば、悪霊や動物霊もさまざまなのだ。

仏教でいうところの仏智、それに守護指導霊から湧いてくる智慧は調和である。

人を生かす智慧である。

人を陥れる悪知恵ではないのだ。

私たちはこの点を良く知って、正道に適った生活をしなければならない。

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知識と智慧

「知識」と「智慧」の違いを説明してください!お願いします。という質問が、あるサイトに投稿されていました。それに対する回答者の答えが下記の通りです。

回答、『上座部では、四諦で遍智により・実践する六波羅蜜の修行の一つです。
大乗では、智は色の源であり、諸法の本性を照達するのが智慧とします。

知識は、知覚での獲得であり、その調和で創造するのが智慧と言えます。
これを般若と言い、末法到来を信じる者と、そうでない者でも異なります。

浄土真宗の場合、教行信証では真実を正しく見抜く智慧と理解します。
般若を離れ、阿弥陀如来の、はからいにすべてを頼るのが智慧なのです。

大乗で末法に耐えようとの教義は、乱れた世でも信仰心がある証しです。
ただし、仏教の日本的な昇華であり、素朴な原始仏教とは異なりますね。

ここまでが回答者の文章ですが、経文に詳しい方か、宗教に熱心な方か僧侶の答えだろうと思うのですが、あなたはこの文章を理解できるだろうか?一般的にはこれではよくわかりませんね。

それではここで私の、『知識と智慧』に対する解釈を述べてみます。以下

知識と智慧についてはこれを同じように理解する人は少ないだろう。だが、この二つのかけ離れた違いはとなると、誰もが、考え込むかもしれない。

つまり、ここからここまでが知識であり、そのほかは智慧だということはなかなか区別がつけがたいからだ。

智慧とは、これまで想ったこと、行ったことによって積み重ねられ内在されたものが生きた経験として湧き出るもので、臨機応変に応用ができる。

知識は、この世で学んだ諸々の知識そのものをいう。広辞苑が知識の本であるように。

高校や大学で学んだ知識が実生活にどれほど応用ができるのかとなると、まず十のうち、一つか二つである。

学者や特殊な業務の研究者ならともかく、社会に出た人の応用範囲は、本当に微々たるものにすぎないし、知識を実生活に活かそうとすると、大抵は失敗する。

大学教授や学者が政治や事業をやったのをみるとわかるように成功した例は極めて少ないことをみたら分かりやすいだろう。

私の経営する治療院に弟子入り志願してきた人たちは20名を以上になる。その人たちの中には国家資格を持った者たちもいたが、専門学校での実践経験が少ないのと、国家資格を取得するためだけに知識優先の詰め込みをしてきたことによって、現場では頭でっかちで技術面の習得に支障をきたす場面がある。

逆に何の専門的な知識も資格もなく真っ白な状態の者に実践指導すると非常に吸収が早く、技術の習得が早いし応用がきくのである。

このように生活の場は生き物と同じであり、知識偏重の傾向より、体の感性や本人が持ち得ている智慧を生かした実践のほうが成果をみられる場合が多い。

昨日の知識はきょうには役立たない事の方が多いのである。

今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げてはいる。

しかし、医学の進歩とともに、新しい病気が増えて新種の病気が現れ、医学がそれに追いつかないというのが現状のようだ。

これについてある人物は言っている。医学の進歩があったから、これまで未発見の病気が発見されたのだ。

もともとそうした病気があったけれども、医学が幼稚だったから分からなかったのだと。またこれまでの医学は治療医学であって予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たない、ともいう。

私は医学を否定するものではない。医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。

ただ病気の7~8割近くは、物理的な治療では治らぬことが多い。何故かというと心が病気をつくっているからである。病名も数千種類もあるが、その中の7割は不必要な病名だと医学界では言われているのである。

新種の病気が医学の進歩と並行して現れてくるのは人間の心が、モノを生み出し、時代と共に欲望の方向が変化しているからだ。

これまでの医学は、物理的治療のみにウエイトが置かれていて、人間の心についての理解が欠けていたことは医学者自身が認めるところだ。

しかし、近年は精神医学を重要視して取り組む姿勢が徐々にではあるが、世界的にも注目されて進みつつあるようだ。

業界は物理化学としての医学は進んできたが、病気の間口は、時代の変化とともに広がっていくため、医学と病気は絶え間のない競争関係におかれているといえるだろう。

私がここで言いたいことは、知識と現実についてである。医学といういわば科学知識の頂点をゆく学問すらも、病気という現実の前には多くの問題を抱えているという事実である。

学問、知識にはある一定の限界がある。私たちの生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない、といって学問知識の必要性は今更述べるまでもないが、要は私たちの毎日の経験が、私たちの実生活を活かしているということである。

いうなれば毎日の経験から生みだされた生活の智慧が、私たちを支えているのである。

どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。その何かとは経験である。経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。

『昔から、覚えるより慣れろ。』という諺があるが、どんな職業でも一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。

大学を出て就職してもスグには役に立たない。大学を出たからと言って、十人が十人、指導的地位に立つとは限らない。小学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなしていく人もいる。

こうした例はその人の経験と努力によって得られたものだ。実社会での生活の智慧が、それを実現させたと言えるだろう。

本来、智慧とは何か。智慧とは生きた経験の集積である。その集積が縁にふれ、折にふれて、時々刻々変化する事象に対して、通常はヒラメキきとなって、人によってはもっと具体的に、適切な判断となって現れてくるものだ。

智慧は、知識や頭脳の働きからは生まれてこない。智慧は、心から生じてくる。

頭にいっぱい知識が詰まっていると、逆に智慧は生じ難い。知識が智慧の湧出を押さえてしまうからだ。

智慧の宝庫は、潜在意識にある。潜在意識が開くと、智慧が流れだしてくる。

仏智という言葉があるが、仏智とは潜在意識の奥底から泉となって、表面意識に流れ出した偉大な波動であり光である。

見えない世界を感じ、五官で判断がつかない問題が解けてきて、日常生活をより豊かにしてくれるものだ。

私は僧侶でもなければ宗教家でもないし、霊能者でもない、仏教に関する専門知識など持ちえているわけでもありません。健康に携わる市井の人間にすぎないが、電話やメールで相談を受けるその瞬間でも、話したことも、会ったこともない人の心の波動を感じてしまうのである。

心の波動を感じるということは、その人の心にある、自我心や驕(おご)り、怒り、自己中心などの不調和な波動のことだ。

何故、それを感じるのだろう。

この続きは次回にゆずることにしよう。長文にお付き合いくださって、ありがとうございます。

こころ安住することなく

正しき真理をも知らず

信ずることの

定まらざるもの

かかるひとに

智慧は満つることなし

心と言うものはいつも止まることなく動いているものだが、事の善悪、社会の秩序なども悟ることなく、まして自分自身も他人も天地の真理も信じることのできない人は、心の底から湧き出る工夫も生き方もない。

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