自我


両親を縁として、この地上に生れて来た私たちは、やがて自我が芽生えてきます。
自我とは、いったい何でしょうか。また自我は、心の領域のどの部分なのだろうか。
きょうは、自我についてのみ深く検証してみようと思います。
自我という言葉は、非常に抽象的で誤解を招きやすいのですが、ここでは個性の魂という意味で広く捉えていただきます。
したがって、この自我偽我善我真我の三つに区分して考えた方が理解は早いでしょう。
ただ、その前に、通常は、他人と自分の関係のなかで、はじめて自分が意識されるものであることを理解しなければならない。
対象があり、相関関係のなかで自分の存在が意識できるということです。
その意味で、生れたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識に目覚めていません。
3ヵ月、半年、一年と経って、はじめて親と自分、つまり周囲の対象のなかで、自分の存在を自覚するわけです。
さて、そこで、自我のなかの偽我は、対象のなかの自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分である。
俗にエゴともいい、他人の不幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず、心の中は苦しみに満ちてきます。
これまで老若男女、多くの人たちが私の指導を受けて、心のエゴから脱して平和な暮らしができるようになっている。
しかし、私のカウンセリングや『心の教室』での講演、ブログ、などで学んでいるにもかかわらず、去年と今年の違いが見えず、全く成長できないでいる人もいるのである。
このような人は、一時的、つまりその場だけの知識で理解したつもりに終始しているし、学んだことを生活に実践することもなく、生活を改めることをしないで愚痴を繰り返すのである。
反面、遠く県外にいて面識がなくてもブログで学び、メールでのアドバイスを謙虚に受け止めて実践し、夫婦が和合し、子どもたちにも良い結果が現れて、家庭調和の大切さに気付いた人たちもいるのだ。
心の苦しみの本質は、心が小さければ小さいほど、ものが良く見えず、ものの判断が自由にできないから、いつも問題にぶち当たり、悩みます。
仏教ではこれを称して煩悩といっています。煩悩という迷いの原因は、すべてのことに対する執着、とらわれ、小さな心だといっているわけです。
次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、皆と手を取り合い、愛に生きなければならない、各人めいめいが、勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用という関係のなかで生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首をしめてしまうということがわかっている心をいうのである。
助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ、自分を生かし、皆を生かすことだと理解することが善我なのだ。
すべからく人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことです。これから外れると、その外れた分量だけ自分が苦しむようになっています。これが心の仕組みなのである。
次の真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分は本来一つのもので、別々ではない、現れの世界(物質的この世)では別々でも、天の子としての心は一つであり、そうして、すべての万物は、天の心の中で生かされ、生きている、という自覚の心です。
この場合の心は、大我というものであり、慈悲と愛一筋に生きるものです。宇宙即我、それは、真我の現れです。
さて、それでは、これらの心は、心のどの領域にあたるのでしょうか。
心の領域である本能、感情、理性、知性の機能が、単独で意思につながる時、偽我となって現れます。
感情が単独で意思につながれば、例えば、怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現れるため、破壊につながっていきます。
知性が単独で意思につながると冷酷な人間になります。
善我の心は、反省によって自覚されます。従って、各人の想念の働きは、感情から単独で意思につながる行動とはならず、想念は各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現れます。
それですから、先ず、私たちの心は、反省によって偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束されてきます。つまり、安らぎある生活ができてくるわけです。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。