生かす為に・生きるために

私が生まれたのは終戦4年後の昭和24年、大分復興されたとはいっても戦争の傷跡は大きく、数えきれないほどの若者と、妻や子を残して働き盛りの男たちが戦死し、日本全体がとても貧しい時代でした。

村の大半が様々な物資や食べ物、着るものも買えない貧しい生活をしていた。

家族が生きていくために、大人たちは死に物狂いで働き、食料品とお金に困窮していた。

幸いにも実家が農家であったため食料だけは困らなかったが食事は質素なもの。

小学校のときの弁当のおかずは、たくあん漬けと梅干し、納豆が定番で、焼いたイワシが入っていれば立派なべんとうだったが、アルミ弁当の蓋(ふた)を開けると臭いがして恥ずかしかった。

現代なら起業するのが夢とか聞かれる若者の声ですが、当時の人々は、目の前にある「生きる」という目標に向かって、ひたすらに身体を動かしていたのです。

そのギリギリの生活には、リアルな人間の姿があったような気がします。

人間の汗や、家畜の放つ匂い、豚舎から糞尿まみれのたい肥を引きずり出す手伝いは当たり前のことだったし、大人たちの娯楽と言えば仲間同士で手作りの違反酒(濁酒)を飲んで手拍子、三味線、太鼓などを楽しみ歌う光景が小学生であった私の記憶に残っている。

それら全てが、生きるとはどういうことなのかを私に教えてくれました。お蔭様でどんなに辛くても働くことだけは全く苦にならない人間になれたのです。

私の幼い頃の記憶には、生きることが目的という、そんなリアルな人間の匂いが深く染み込んでいます。

そんなことを思うとき、現代社会はまるでビニールのラップで包んだように、人間の匂いやリアリティーが欠如しているように感じます。

例えば、トイレを洗わずに消臭剤を使ってトイレの匂いを消したつもりになっているより、本当は手を使って綺麗に洗い上げたほうが衛生的で気持ちがすっきりするように、身体性のないバーチャル(実体のない)な感覚が、私たちの生活を支配しています。

つまり、便利になることは決して悪いことではありません。でもラップに包まれたようなその感覚が、私たちから大切なものを奪っているような気がしてなりません。

近年、親が子を虐待するという、信じられないような痛ましい事件が増えています。

また、教師が生徒に対し、指導、躾、やる気の高揚という大義名分の元に体罰か、暴力かと論議されている。

論議自体がおかしい、体罰は暴力でしかないのである。

教師自身が育った家庭環境、学んだ学校の環境に遡って省みる必要があるのではないか。

そうしてみると、これもまた、子育てにおいてリアリティーを避けようとしてきたことに一因があるのではないかと思える。

本来、子育てとは大変に手間のかかるものです。食事をつくり、汚れものを洗濯する。怪我や病気をすれば手当をし、日常ではさまざまな躾を施さなくてはならない。

わが子が一人前に生きていけるように、親は子を、あらゆる「手間」をかけて育てるものです。

手間を掛けることと、過保護、出過ぎ、先走りは違う。

そうして手間をかけることで、さらにわが子への愛情は深まっていく。そこに、親としての喜びが生まれてくるだろう。

便利さに慣れてしまうと、手間をかけることが無駄なように思えてしまいます。

この社会は、出来上がった成功例ばかりで溢れていて、勝ち組だけが価値ある如くに美化してしまう。

人々はそこに至るまでのプロセスをできるだけ省こうと、合理化や効率主義に徹する。

でも本当は、プロセスにこそ苦労と喜びがあるのであって、豊かな人間性も育てられる。

効率主義を貫いた成功にはない、一見、無駄に思える手間暇のなかにはリアルな人間味が溢れているのである。私は、その手間暇を省きたくない。

女性は、子どもを産んだから母親になるのではなく、手間をかけて子どもを育てていくうちに、やがて母性を身につけていくものです。

となると、子どもによって母親にさせてもらえたことになる。

子どもたちが社会に出て一人前に生きていけるようにと願い父も母も、ひたすら働いていたであろうことは言葉にせずとも心に伝わってきた。そんな父母の姿が私を育んでくれたのです。

しかし、当時は手間暇をかけているだけの余裕はあろうはずがない。

でも、私の少年時代、母親たちは皆、強さをもっていました。

それは「何としてもこの子を生かしてやりたい」という強い母性があったからでしょう。

命に代えてでもというリアリティーがありました。そんな思いを母の働く背に感じていた。

私たちは、そんな母親の愛情に包まれて育ったのです。親孝行したいときに親は無し。

時は過去に戻ることはない。

時は明日に100年後になることはない。

時は今を生きることで未来につながる。

だから今をリアルに生きたい。

穏便に、事なかれ主義、面倒は嫌だ、みんなと同じに、みんながそうだから、というように社会全体が平均的な思考に右習いしてラップで包む如くリアルさを遠ざける子育てはやめて、もっと手間を惜しまずに子どもと接していかなくてはならないだろう。

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