損得勘定と人間の虚飾
心が苦しく体調まで崩して毎日が生き地獄だと言って相談にみえれば親身になって受け答えをする。
しかし、根本的原因となっている自分の悪しき想念、心の在り方に気づいている人は非常に少ない。
謙虚さがあり、素直さが残っている人の場合、問題解決も早く、苦悩からの解放も早い。
問題は謙虚さ素直さの欠落している自我心の強い人の場合、どれほど美味しい食事を与えても美味しいと言えない心の癖の修正に相当の時を要するということだ。
美味しい食事とは、その人の心の修正に必要不可欠な材料であり、スパイスのこと。
過去における偉大な聖者たちは宇宙の摂理と人間の魂の関わりを至純なるものとし、霊性を目覚めさせ、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間の自我のなかにある虚飾を改めるべく法を説いた。
愛と慈悲を表現する言葉がどれほど違っていても、その真意は何ら変わることなく貫かれた摂理として、あるいは秩序として不動の根本原理であるはずだが、現代の宗教界はそれが欠落している。
そんな宗教の教えによって、人間は親へのうわべだけの義務、愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務感だけで、己に不都合なことは他の兄弟姉妹に押し付け、自らは損得勘定を忘れない。
信仰をもつ者が組織や教団内では善人の顔をみせ、家庭では不満や愚痴、怒りを露わにしている。こんな話はどこにでもあることで、さして珍しい事でもないが、しかし、他人事ではない。
私たちは、心からの情愛と、身体の授け親への感謝と報恩、そして、宇宙の絶対唯一なる存在に対する無償の惜しみなき施しの精神が原点であることを忘れてはならないだろう。
お分かりいただけたであろうか。親と他の人々に対する感謝と報恩の行いが愛の原点であり、神の意に沿う生き方であるという意味です。
うわべのみの慣例主義に代わって真心よりの施しこそが自他の心を通わせる唯一の方法でなければならない。
損得勘定を忘れぬ義務感だけの施し。
質素ではあるが自分にできる最大限の真心をもって施す。
いずれが正しく、より美しいであろうか。言わずとも知れたことである。量や大きさの問題ではない。どれだけ心を込めたかである。
宗教を学ぶことでこれまで以上に執着心を強くする者たち、信者同士の地位争い、教団内の嫉妬、名誉に囚われ、偽善を行う者、衣食住に執着して生活を荒廃させる者、守銭奴となって人を欺く者、しかし、人は皆、どれほど執着しようが皆、死の過程を経て肉体から離れる。
すると目隠しをされていたベールが取り払われ、それまで良しとしていた生き方や信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるのだが、目隠しをされている今はそれが判らない。
人間は、驕りと、傲慢と、貪りのと、偽りのなかで生きている。しかし、このように魂を曇らせたままに実在界(霊界)に還ることは避けなければならない。
目隠しとは、3次元的価値のことであり、肉体五官による価値観のことだ。
この肉体五官に価値観をもっているうちは心の目が開くことがないし、霊性への気づきもない。
この地上では偽りもまかり通るが、霊界に入ると物質のない、肉体のない世界であるために霊体と魂が丸見えで、嘘も欺瞞(ぎまん)も、偽善も、執着も、何もかも、そのままの心が現象化するのである。
したがって、この地上生活における心には善と悪が同時に存在するが、霊界においては善悪が分離していて別次元となり、ハッキリしているのだ。
人間は宗教をむやみに哲学的な難解なものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではないし、難解であってはならない。
本来はシンプルな心の法則であって、人間に授けられた限りある知性によって十分に包括し得るものである。
宗教は、いたずらに哲学的で難解な方便を、神の啓示と称して信徒らを迷わせ、教えに一貫性がなく、時を経ると教義が変わる教団もある。
このような宗教は偽物であることは間違いなく、信者を当惑させ、真摯(しんし)に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。
自らの向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。宗教は心を学ぶものであって、執着を上塗りするためにあるのではない。
教義というものは木のように枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらない。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。
それだけに根幹がぶれたり、変わったりするような教えには疑問をもたなくてはならないということだ。
だが、迷信という名の迷路がある。無知という名の霧がある。因習という捨てるべき生活習慣がある。人々はこれまでの宗教的因習に疑問を持ちながらも何かを恐れ、その因習に流されてきた。
かくの如き彷徨(さまよ)える魂ではあっても人々の目にはみな同じように映るかも知れない。しかし、実際には実に多くの相違点のあることが判る。
宗派や教団や、教会と呼ぶ各教派を特徴づける教説は、人々が考えるほど同一ではない。否、むしろ解らないといったほうが的を得ている事だろう。
このことは、これまで受けてきた相談によって実態を知ることができたし、私自身も教団やその他の所に足を運び実態を確認してきたから言えるのである。
人間的欲望や不調和も肉体と共に滅び、霊界における生活が光り輝くものであればよいと思うが、しかし、現実は地上生活の時の心の癖を修正するために多くの時を要することになる。
この地上生活において真摯に人の道を求める者は、肉体から離れて死と共に地上時代の誤れるこれまでの生き方や信仰は速やかに影をひそめ、皆その低劣さと非真実性を悟っていくだろう。
死してなお、いつまでも地上のままの心、生き方を維持し続ける者は真理への欲求を欠く者であろうし、暗黒のなかで自らを苦しめるしかない。
この地上的価値観と実在界(霊界)における価値観には相当のひらきがあるということです。
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