無為&中道

祈り

『彼が何を考えているのかわからない。好きだともいってくれない。ストレスで過食して太って困る』といって相談にみえた20代の女性。

人間は『要求』してしまうし、『求め』てしまう存在だけど、敢えて求めず要求せずにいると簡素な暮らしになる。

この求める、要求することをしなければいま自分がもっているもので足りることに気づきます。

でも求めないと言ったって、人間どうしても求める存在なのである。

大事なのは、過ぎてはいけない、程よいところで止める、それがポイントだ。

まったく話は逸れますが、私は5年前に心拍数が120まで上がり、倒れて救急搬送され、一晩だけ様子を見て帰宅した。

しかし、歩くことさえできない状態まで衰弱しきっていった。食べ物が摂れない、少し歩くと心拍数が上昇して呼吸が苦しくなる。

風呂に入ると浴槽の水圧が苦しくてシャワーだけ、シャンプーのシャワーが39度を超えると動悸がするから37度くらいのぬるめのシャワーしかできない。

これまで食べていたものが食べられず、トマトとスープしか喉を通らない。

あっという間に8キロ体重が落ちた。鏡に映った自分の体の肋骨が見えて唖然とした。

病院で全ての検査をしたが、病気といえるものは一切みつからなかった。過労である。

医師に言われた。『過労でも死ねますよ。』と。

私は『頑張って』いたのである。否、頑張り過ぎていた。

この頑張りの背景には求める欲がついて回っていたのです。

幸いにして3年かかって回復できたが実際、長かった。以来、『私は頑張らない』ことにした。

でも他から見ると頑張っているようにみえるようだ。根がそいう性分なのかもしれない。

しかし、倒れたことをきっかけに余分なものまで『求める』『頑張る』ということはしない。それは今まで以上に足ることを知ったからだ。

人間の求めるという心の働きは『物』に限ったことではない。

自分の生きる楽しさを犠牲にして、名誉、地位、名声を追う人は、実はいちばん大事なものを取り損ね、失っている人だといえる。

心豊かに生きたいと願う人は、過去に囚われず、先を憂えず、いまここを生きること。

しかし、今とはいっても、今は停まってはいない、動いている。

その意味では、過去も、未来も、今というこの瞬間の連続体のなかにある。

老子の言葉に『無為』というものがある。これは何もしないということではなく、自然に反した余計なことはするなということであろうか。

自然の営みといえば、生きるという欲望は絶対であり、子孫を残すという欲望も絶対。

自分の命を守るためのものが備わったら、それ以上に頑張らない、要求しないということ。

欲望は過ぎたら執着になる。だから右にも左にも、そして、上にも下にも大きくもなく、小さくもなく、決して偏らない生き方が足ることを知るということ。

自然に沿った生き方とはこのように調和された状態をいう。それが『無為』だ。

老子の言葉の『中気』、仏陀の言葉の『中道』、孔子の言葉の『中庸(ちゅうよう)はよく似ているが、三つともバランスの大切さを言っています。
けれど、真ん中にだけ道があるわけではない。孔子のいう中庸は、社会体制のバランスで、老子のいう中気は、天と地の間の大きなバランスをいう。
仏陀のいう中道は偏らないこと、執着しないこと、拘らないこと、つまり調和された心のバランスをいっている。
小さなバランスをとれば小さな道しかできないが、大きなバランスをとれば大きな道ができる。
私達は目の前の小さな欲望に振りまわされず、もっと大きな目的に気づかなくてはならないだろう。
『幸せになるために』、『成功する為に』、これらは最終目的に到達するためのプロセスであって、人生の目的ではない。
最終目的、それは、心の修行のために自らが望んで今の環境下に生れたのだということを忘れてはならない。
人間には試練、逆境が必要なのです。
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