私心を離れてみることの必要

内省

感情がアンバランスであったり、偏った価値観があったり、理性に欠けていたり、謙虚さに欠けたりすると、物事の一面のみを見て、それにとらわれがちになってしまう。

人間の精神面の苦しみ、悩みというものは、ときとしてみずからの命を絶つほどに強く深いものがあるようです。

現に、今日のこの世の中においても、そうした悩みを抱き、絶望したり、行き詰って為す術を見失い、みずからの命を絶ってしまったという、まことに気の毒な姿がしばしばくり返されています。

たとえば、受験を前にした受験生が、自信をなくして自殺したとか、事業に失敗した人が絶望のあまり自殺したとか、あるいは失恋をしたショックが大きくて立ち上がれないとか、病気を苦にしてとか、人間関係がうまくいかないなどということで自殺したというような例が少なくないようです。

こうした不幸な姿というものは、内在する課題も大きなものですが、やはりお互いの努力によってなるべく少なくしてゆかなければならないと思います。

先ずは、そういった不幸な姿に結びつく悩みとか絶望というものは、なぜ生じてくるのでしょうか。

これについては、もちろんそこにはそれぞれの深い事情があって、一概にはいえないのですが、人それぞれに物事の見方、考え方も様々なものがあるでしょう。

しかし、総じていうならば、やはりそうした悩みなり絶望というものは、物事の一面のみを見てそれにとらわれてしまう、というようなところから生じてくる場合も少なくないのではないでしょうか。

例えば、A君16歳、高校一年生の野球部、有望なピッチャー。

真面目な、物静かな好青年は学校に行きたくない、野球部の練習にも行きたくないということで親御さんが心配して相談してきた。

先ずは、A君に会って状況を聞くことにした。

部員のみんなとは別に一人離れて練習をしていたら「バカ、なにやってんだよ」と、きつい口調で怒られた。

以来、気持ちが萎えてしまって学校に行きにくくなったということだった。

「A君、野球は部員みんなのチームプレーじゃないの?、もし君が三年生でキャプテンなら部員全体をまとめるためにいろいろと気遣いするでしょ?」

「はい」

「部員が自分勝手な行動して練習していたらチームはどうなる。まとまったチームプレーがしにくい野球になると思わないか?」

「君はピッチャーだから自分の練習をしたかったんだろうけど、何も言わず、自分一人の練習を始めたのは、キャプテンにすればチーム練習の規律を乱すやり方に思えたかもしれないね」

「そうだと思います。」

「それが分かるなら、明日学校に行って、キャプテンに一言お詫びをしてごらん。そしたら絶対にうまくいくから」と話して勇気づけて帰した。

後日談で、翌日いわれたことをキャプテンに話したら通常通りに接してくれて、以来、とても可愛がってもらっているということだった。

A君は、キャプテンに激怒されたことの一面のみを見て、それにとらわれてしまったために練習も嫌になり、さらに学校に行くことさえも嫌になったということでしょう。

しかしながら、激怒されたということだけに囚われてしまえばマイナスという受け止め方になるかもしれませんが、その反対にその激怒が何故なのか、という冷静で素直な受け止め方ができればプラスにも転じることもあるわけです。

こうしてみると同じ一つの物事であっても、それに対して、いろいろな見方があり、さまざまな面から考えることができます。

だから、一見してマイナスと思われるようなことでも、実際にはそれなりのプラスがあるというのが世の常ではないかと思います。

いってみれば、雨が降れば洋服がぬれて困ると見る見方もある反面、畑の作物をうるおしてくれると喜んで見る見方もあります。

ところが、そのうちの一面だけを見てそれに囚われてしまうと、不必要に心を悩ませたり、極端な場合は絶望してみずからの命をたつといったような不幸な姿にも陥りかねません。

人間はなぜ一面だけをみて、そのことに拘ってしまうのだろうか。

それはやはり偏り過ぎた思考、執着という心の働きによるものではないだろうか。

素直な心というものは、「素」つまり、何も余分なものがなく、「直」つまり、真っ直ぐなこと。

真っすぐということは、自分の我に閉じこもるのではなく、寛容 にして私心なき心、広く人の教えを受ける心をいうのでしょう。

素直な心の大切さは、どのような場面でも、必要欠かざる人間の要件のように思います。

物事の一面だけしか目に入らず、他の面まで見る心の余裕もなければ、また視野したがって、素直な心がない場合には、物事のさまざまな面を見、考えることができず、単に一面のみを見てそれにとらわれるといった姿に陥ることにもなりかねないでしょう。

そしてそういうところから、ここで述べたようなさまざまの不幸な姿が生じることにもなってくると思うのです。

私心を離れてよく状況を見極める習慣が日頃から成されていなければ、いざというときに必ず感情的になったり、冷静さを失って暴走したり、様々な災いを招いたりすることになりかねません。

私心を離れるとは、自分だけの都合で物事の一面だけを見ないことです。

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痛みを伴う成長と成熟

天国への階段

歳を重ねてこそ学べること

あーあ 歳はとりたくないな~。とよく聞く言葉です。

確かに、誰しも歳は取りたくないと思いがちですが、必ずしもそうとばかりもいえない。

私は、40代では体のことを考えたことがなかったのに、50歳を過ぎたあたりから体力的な衰えを感じるようにようになってきた。

勿論、仕事量がかなり多くて疲労が回復する間もなく連日無理をしていたからそれは当然のことでしょう。

しかし、体力が失われていく反面、得るものが増えていく喜びを感じるようにもなってきたことは私にとって嬉しいことでした。

得るものとは、心の財産のことです。

それからは財産となるような生き方をしたいという思いが、いろんな場面で芽生えるようになってきたのです。

それは、自分らしく生きるということ、時間を大切に過ごし、一つ一つの出会いや仕事がすべて私の学びになっているという実感が強くなり、自分を成長させていきたいという思いです。

肉体的成長は終わって、今や老化が進んでいても、人間的成長はいつまでも可能でありつづけます。

その際の成長とは、伸びてゆくよりも熟してゆくこと、成熟を意味するのだといってもよいかもしれません。

捨てる

リンゴの木は雪があるうちに剪定しますが、私自身も不要な枝葉を切り落とし、身軽になること、意地や執着を捨ててすなおになること、他人の言葉に耳を傾けて謙虚になることなどが「成熟」の為の大切な条件のように思います。

世の中が決して自分の思い通りにならないこと、人間一人ひとりは異なっていて、お互い同士を受け入れ許し合うことの必要性も、歳を重ねるたびに学びます。

そして、これらすべての中に働く愛に気付き、喜びと祈りと感謝を忘れずに生きることができたとしたら、それは、まぎれもなく「成長」したことになり、財産となる歳を取ったことになるだろうと。

成長も成熟も、痛みを伴います。

自分と戦い、真我に死ぬことを求めるからです。

一粒の麦と同じく、地に落ちて死んだ時にのみ、そこから新しい生命が生まれ、自らも、その生命の中に生き続けます。

一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものです。

故に、心の財産として残る日々を過ごしたいと思います。

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無力なのではなく無気力になっているだけ

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どうにも気持ちが乗らない時ってないだろうか?

例えば仕事に取り掛かっても、モチベーションは上がらず、しまいには仕事が片付いても片付かなくても、どうでもよくなっている。

友人と遊びに行っても仲間だけ盛り上がっていて、自分は冷めたまま……。

このように意欲、感情、情熱がスランプになってしまった状態がある種の無気力状態。

無気力が長引いたら危険!

一時的に無気力になる事は誰もがよくあることで珍しいことではない。

でも無気力が長引けば深刻な悪影響が出やすくもなってきます。

「能面のような」という言葉イコール「無表情」の代名詞として使われてきました。

能面の特徴は、表情があるのかないのかよくわからないように感じるだけに何かしらその奥に潜む深い喜怒哀楽、表面からはわからない人生の機微があるように思います。

A君20歳と面談してすぐ私の心に浮かんだことは、能面だった。

なぜ能面なのかというと、A君にはごく普通の目の動きや顔の表情筋の動きというものが感じられないからだ。

いわゆる表情がない状態。

語りかけても返事がこないし、片言の言葉を発するのに沈黙が続いて待っているという状況だった。

何が20歳の彼をこういう状況にさせたのだろうか。

勿論、心療内科の向精神薬を服用はしているのだが、薬の副作用だけではない寡黙さに大いに疑問がある。

「はやく服を着なさい、はやく学校に行きなさい、早くご飯を食べなさい、早く宿題をかたづけなさい、早くお風呂に入りなさい、早く寝なさい」これが一日繰り返され、毎日繰り返される。

とにかく忙しく、スピードが要求される子育て。

まるで呪いをかけて呪縛しているに等しい。

ブログを読んでくださっているあなたが子どもの頃はどのような環境だったでしょうか。

一般的に、子どもが幼いころは親のいう事をよくきくし、親の言うとおりにするものだし、また、させることが多いものですが、しかし、小学校高学年から中学生ともなると、しっかり自我が芽生えてきて必ずしも親の言う通りにはならなくなってきます。

男子の場合は中学生ともなるとお母さんの対応ではなく、お父さんの出番が必要となってきます。

お父さんが子供の躾や教育に関して、妻に「子供のことはお前に任せるから」という無責任なことを言う人ほど自分勝手な行動をしている場合がある。

それに伴ってお母さんの責任感が過干渉となりかねず、そのことが子どものやる気を失わせ、自立心の芽を摘んでしまい、やる気の邪魔しているようなこともあります。

子供が望んでいないことを親が先走って、何でもかんでもお膳立てしてしまうと、やがては無気力な子ども、物事に無関心な子供、必要な時に自分の意思で行動できない子どもがつくられていく。

こういった弊害はこれだけでは済まない。

子どもが社会に出たときに、まったくこれまでの家庭環境とは別な環境に戸惑い、対応しきれず、人間関係に円滑さを欠くことの根本的な原因となって社会生活に支障をきたす場合があり、それが「うつ病」を発症するきっかけになることもあります。

失敗したってまだ20代じゃないか

A君20歳は、朝は起きれない、夜は眠れない、日中は無気力状態で何も手につかず、行動をすることに不安感と、時には恐怖心さえもって悶々とした生活をし、やがては自己嫌悪に陥り、自分は無力だ、と将来への絶望感だけが頭をグルグルと巡るようになっていた。

自分は死んだ方がいいのかな。いないほうがいいのかな。と考えるときがある。

こうなると危険な信号を発していると受け止めなくてはならない。

根気よくA君に話をさせるように誘導し、ようやく聴きだした言葉が、

「今までは親や周りが何でもやってくれて自分の意思は何もなかった」というこの一言だった。

A君の今の状況からして、これまでの親子関係、家庭環境がこの一言で全て語られた気がした。

お母さんに来ていただき、日を改めてお父さんにもきていただき個人面談をしてお願いした。

「今後は全てに関して息子さんの意思で行動させてやってください」と。

A君は、就職に関して自分で行動することに躊躇して一歩が踏み出せないでいた。

ミスがなく、完全にやろうとする気持ちが先走り、失敗したらどうしようとか、自分にできるかなとか、仕事は厳しいのかなとか、タダタダ不安を募らせて臆病になっていた。

20歳の青年が初めて就職をするのですから多少の不安は当然のことでしょう。

その気持ちは十分に理解できる。

しかし、その不安も、まるで一生が決まるが如くに大げさに考えてしまって足元がすくんでしまっては一歩どころではありません。

君は元々物事に対してあまりにも拘りが強くて自分で心の自由をなくして苦しんできたことが過去に度々あったことを話してくれた。

私はA君に話した。

一歩を踏み出す勇気がある人、無い人、この違いは何だろうか?

敢えて言うなら、人間は危機感がないと前に進もうとしないところがある。

あなたは親や周りが何でもやってくれたから自分から踏み出す必要がなかったのでしょ。

渡らなくても良い橋ならば勇気を出して渡る必要もないかもしれない。

でも、その危険な橋しか渡る事が許されないなら、一歩を踏み出すしかない。

ここに必要なのが「勇気」でしょ?と。

失敗した時の自分のみじめさを考えるから不安が生まれる。

リスクを恐れるから不安が生まれる。

つまり、結果に拘ると、一歩を踏み出す勇気が影を潜めてしまうでしょう。

慎重も過ぎれば恐怖心にまで発展して歩みを止めてしまいます。

その意味では慎重な人のほうが踏み出しにくいところがある。

結果がどうなろうが、命までとられる訳じゃなし、一歩を踏み出すことが自分の意思で生きる人生になることを話した。

失敗したって20代じゃないか。

ときには絞り出す勇気が必要なときもある。

勝ちも負けは それほど大事なことではなく

実は小さなこと

もっと大事なことは

どれだけ真剣に取り組んだか!

帰り際の彼の表情は本来の自分の顔となり、うっすらと笑顔がみえた。

辛くなったらまたいつでもいらっしゃい(^_^.)

青年よ、逞しく生きてほしい。

命

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試練のなかで咲く美しい心の花

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花には季節がありますが、人間の花には季節がありません。

自分の生き方ひとつで、いつでもどこでも咲ける花が心の内にあります。

相手の立場に立ってモノを考えれば、人間は他者のためにどんなことでもできます。

どんな悲しみや苦しみも必ず時の流れが癒してくれることもあるでしょう。

その意味では時間も必要なプロセス。

人間の身体は体力が弱っていたり、病気をしているときなどは痛覚が増し敏感になる。

そういうときは痛みの感覚がレベル1程度のものであって、八にも十にも痛いと感じるものです。

もちろんん、痛みに関しては個人差があります。

これと同じように、人は、不幸のときは辛さや悲しみを一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思って不平不満を言ったりします。

ほんとうは誰もが、苦しんだ分だけ、愛の深い人に心が育っているのですがそれに気づけない。

気づけないほど自分の感情にどっぷりと浸かって本当の自分を見失っています。

それだけに、本当の自分、すなわち人を愛せる自分、人を許せる自分、苦しみのなかでも消えることのない愛に気づいたときの喜びは言葉で表現できないほど大きい。

他人のために心を尽くしても決してお返しを期待しない、感謝の言葉も求めない、ただ淡々とやっているだけ、それが本当の奉仕であって、その原点は愛。

心に何もないから美しいのでしょう。

ですから、心に余分なことをたくさん持てば持つほどキレイな大輪の花を咲かせることができません。

煩悩という言葉はそれをいうのでしょう。

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大きな美しい花を咲かせるには、どうすればいいのか。

例えば、ボタンのつぼみがたくさんついていたら、まだ、つぼみが小さいうちに、一枝に蕾を一個だけ残してあとは全部摘んでしまいます。

これは三分の二くらいは蕾を捨てることになりますから勿体ないと思うでしょうが、美しい大輪の花を楽しむには欠かせません。

そうすれば、大輪の花を咲かせることができるのです。

私たちも牡丹の花のように美しい大輪の人生にするにはどうしたらいいのでしょうか。

それには、心の中にある余分なものを捨てれば可能になります。

余分なものを抱えてしまって苦悩するのが人間の自我であることは、人類の抱えている課題そのものでしょう。

不要な思いを抱えていながらもそれを心から離すことができない、捨てることができない心とはいったい何でしょうか。

それこそが自我心です。

自分の思いを通したい、という拘り、執着がその背景にあります。

しかし、そのような思いが強ければ強いほど苦しみの淵から抜け出すことはできません。

ここで拘り、執着がどういうかたちであらわれてくるか述べておきます。

心の執われ

不満、愚痴、怒り、傲慢、逃避、誹謗、中傷、妬み、恨み、争い、独善、排斥、差別、自己顕示、自意識過剰、自己満足、自己否定、卑下、良く思われたい、悪く思われたくない、周りの目を過剰に気にする、高いプライド、過剰な不安感と恐怖心、物やお金の偏重主義、こういった心は自分自身の心を毒して苦しむだけではなく、他人をも苦しませることになっていきます。

何故なら、こういった想念と行為は執着に根があるからです。

拘りと執着の想念は、愛と慈しみの心から最も遠い距離にある。

人生の目的は?

最近何をするにもやる気がなく、気力が湧いてこないといった35歳の男性相談者に質問した。

あなたはこれまで35年間どういう思いで生きてきましたか?

あなたにとって人生の目的は何でしょうか?

そうすると「幸せになるために」という。

あなたにとって幸せとはどのようなことですか?と問うと。

「結婚してマイホームがあり、子どもがいたら幸せかなと思います」という。

人はさまざまな価値観をもって幸せを願うもののようです。

しかし、立派なマイホームを持ち、子どもたちにかこまれた生活をしていても苦悩のなかで葛藤しながら暮らしている人たちは多い。

小学生の子どもに「人間は何のために生きるの?」と質問された親が答えに窮して、

「生きるために生きるのよ」と真顔で答えたお母さんがいました。

このお母さんは実は何も答えようがなくそう答えただけでしたから答えになどなっていません。

子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてもいいと思います。

また、「自分の心をキレイに美しく、大きくするために生きるのだよ」と答えたら最高に素晴らしい答えになるでしょう。

円滑な人間関係

人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を認めること、そして好きになってしまうことではないでしょうか。

これは、自分が嫌いだと思っている人から好かれる道理がないように、相手もまた、あなたを嫌っていたらあなたから好かれる道理もないということを言っているものです。

相手の言葉、心の内にある思いを寛容な心で受け止めることが相手の立場、存在を認めることになり、それがまた、自分の身にかえってきてお互いの人間関係を円滑にすることになるだろうと思うのです。

一日に一回は鏡を見る

鏡を見たときにできればにっこりと笑ってみて、自分の笑顔がもっとも自然の状態を知る事。

心にわだかまりがない時は、鏡にうつった自分の表情がいきいきしているはずです。

その笑顔をもって、相手の立場を想像し、理解する力、相手の欲することを与えることができるなら、それは何にも勝る寛大な「愛」ではないだろうか。

誰もがたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。

相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりで、その思いやりが愛ですね。

相手が何を欲しているかを考えてみること。

相手の身になってしたいことを自分にできる範囲でしてあげればいいのです。

私は65歳、許されるなら20年は生きたいが、与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。

その愛は、訪ねてくる人たちの心の重荷を、少しでも降ろしてあげられることのために尽くせたらと願っている。

人間は善悪両方を持って生きる

自分の勉強や、その学んだことを実践によって善悪の判断をし、悪の誘惑に負けずに善行を積んでいければそれは最良の生き方となり、人の道だろうと思っています。

いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があり、私の今がある。

だからすべてに感謝したい。

「別れ」

私もいろんな別れを経験してきました。

別れの辛さに馴れることは決してありません。

幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。

それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。

だから人間であり、それが人間なのでしょう。

人生にはいろいろなことがあります。

しかし、悲しいことは時が助けてくれることもあります。

辛いことはじっと耐え忍んでいきましょう。

必ず安らかな心になれるときが訪れます。

それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。

自分を高める道

もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道、リスクを伴った道を歩かねばなりません。

また、そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えであり、より高いステージに自分を成していく道のりなのです。

人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。

そういった意味でいうなら、孤独は人間の本性でしょう。

だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。

反面、孤独は人間の心を深く、強く、広く、そして大きく育む時間です。

そして、人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。

だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗しますし、本当の意味で人を愛せないでしょう。

これは自分を甘やかすこととは違います。

人間は自分本位なところがあります。

そういう人は、自分中心に地球が廻っていると錯覚するところがあって、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言います。

しかしそれは単なる自己愛であって、自己中心主義です。

自己愛には、人や社会のせいにして自分の殻に閉じこもる傾向があり、責任転嫁がみられます。

平和も戦争も家庭から始まります。

もし本当に世界の平和を願っているなら自分の心に怒りをもってはならない。

そして一番身近な人と相互に愛し合うことから始めていかなくてはならない。

もし、喜びを広げていきたいなら、先ずは自分自身が喜びをもって生活することが大切でしょう。

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延命治療拒否の意思表示

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tom様からのコメント2014年11月14日 受信

私は、一人暮らしですが、たとえば交通事故で植物人間のようになったとき、「延命治療は拒否します」という文言を書いて記名押印した文書を常に携行しようかと考える時があります。

機械につながれれば、体は生きることができるのであっても、それを拒否するのは、自殺ということになると思われますか…?

本日返信 tom様。コメントありがとうございます。

最近マスコミで取り上げられた「自殺か尊厳死か」という投稿記事に関しては反響も多くありました。

延命治療の拒否は自殺になるのかというご質問ですが、とても重要な問題だと思いますので、ここで取り上げて返信にしたいと思います。

先ず、延命治療の定義ですが、実は、日本だけでなく、世界の医療現場でもこれといって確定した定義というのはないというのが実情のようです。

ですから、それに準ずるような内容を列挙してみます。

治療しなければ死に至る病気・障害で

1・完全な治癒・回復の可能性があり、完全に治癒・回復させ、寿命を何年・何十年の単位で延長させる治療。

2・完全な治癒・回復の可能性はないが、限定的に回復させ、寿命を何年・何十年の単位で延長させる治療。

3・完全な治癒・回復の可能性も、限定的な回復の可能性もないが、進行を遅延させ心身の機能を維持させ、寿命を何年・何十年の単位で延長させる治療。

4・完全な治癒・回復の可能性も、限定的な回復の可能性も、進行の遅延も心身の機能の維持も可能性がなく、余命が何日・何月の単位の終末期の死亡時期を何日・何月の単位で遅延させる治療。

5・心肺停止した人の心拍・呼吸を回復させる蘇生措置治療。

延命治療は複雑で多様な概念があり、国家の医療に対する倫理観の違いも多少の隔たりがあり、複数の異なる観点から、複数の異なる定義や解釈が成り立ち、統一された唯一の定義・解釈は困難なように思います。

そういったことから、何が延命治療で、何が延命治療でないかは、論理的に整合性を成り立たせて、唯一の完全無欠な定義を施行することは困難なのではないでしょうか。

「完全に治癒・回復させる方法がない病気・障害」と「死期が近い」ことは同義ではないでしょう。

そして「認識・判断・意思表示の能力がない」と「死期が近い」というこれもまた同義ではないでしょう。

そして「意識がない」と「死期が近い」は同義ではないと思います。

「現代の延命治療を受けません」という意思表示を何らかの方法、手段で行うことは自殺とは全く違うものと私自身は理解しております。

尚、延命治療拒否の意思表示として考えられることについてですが、病院側は、本人の意思が確認できない場合には、家族の希望を聞くのが通常の対応かと思います。

延命治療拒否の意思が医療者に届かなければそれは用を成しません。

ですからいつでも延命治療拒否の書類が発見されやすい手段講じておくとか、携帯しているとか、信頼できる身内に預けておくとか、事前に理解を求め、書類を預けておくことが有効ではないかと思います。

病院によっては、事前に本人の意思を確認する書面(事前指示書)を用意しているようですが、それだけでは不十分な場合もあろうかと思います。

例えば

●一瞬の判断で「寝たきり」の延命治療を施されてしまうケースもあるようですから、事前の準備が必要だと思います。
●医療現場は、「何もしない」事で非難される事を危惧していますから、装着を選択する場合があります。
●「何もしない看取り」を経験している医師は多くはないのではと思われます
●本人も家族も始めての経験で、重い決断を迫られますから、詳しく書いておきましょう
●一番重要なのは家族(身内)の理解です。家族全員の意見の一致です。
●最後まで人間らしく生活し、自然な死を迎えたいなら、作っておきたいところですね。

ここで参考のために延命治療拒否書作成の簡単な書式を紹介しておきます。

私は延命治療を拒否します

作成日時
住所
生年月日
氏名

延命治療拒否の意思表示にあたって

私は万一に備えこの延命治療拒否、事前指示書を1通作成し、家族に通知します。
家族は、私に正常な判断力が無い場合、意思表示できない場合、緊急時等、必要に応じて医療関係者にこれを提示して、私の意思どおりの(私の自己決定権を尊重した)死を迎えられるよう努めて下さい。
私は、医師がこの延命治療拒否、事前指示書にそって延命治療を差し控え、又は中止し、私の死期が早まることがあっても、医師や関係者が法的責任を負わないことを希望します。
この延命治療拒否、事前指示書の内容は私が撤回しない限り有効であり、家族に反対意見があった場合は家族の意見よりも優先され、尊重される事を希望します。
家族全員が私の意思を尊重してくれるよう、家族がこの「延命治療拒否、事前指示書」を精読し確認した旨の署名を添えておきます。

基本的な考え方

私は、私が治療不可能な傷病におかされ、回復の見込みがなく死が避けられない状態にある時、延命のための治療を拒否し、自然な人間的な死を希望します。
ただし、副作用により死期が早まることがあっても、緩和措置を優先し、十分に苦痛を緩和してくれることを希望します。

個別対応事項

1、「人間らしい生活」の限界(QOLの限界)

私は、病状の好転や進行阻止が期待できない状態で、しかも、下記の状態が1ないし2個ある場合は、人間的な尊厳ある生命ではないと考えます。緩和以外の延命処置を中止して下さい
意思疎通困難、摂食嚥下困難(むせる、飲み込み困難)、歩行困難、着座困難、排泄困難、寝返り困難、笑う能力の喪失、寝たきり、昏睡、混迷

2、AHN (人工的水分、栄養補給法

摂食嚥下困難となった場合は、AHNを実施しないで下さい。経口摂取できる状態までを人としての尊厳の限界と考えます。
口腔リハビリで回復の可能性を検討し、口腔ケア、体位管理、食前後の離床等を実施しても改善されない場合は、口の渇きを布等でしめらして下さい。
以上がどうしても受け入れられない場合は、最小限の末梢点滴だけにして下さい。
胃ろうは、回復の可能性があり、回復後は抜去する前提で一時的処置の場合のみ実施してそれ以外の状況では実施しないでください。
外傷性脳損傷や脳血管疾患などにより重度の障害を負った場合は意識障害のまま生存を長引かせる可能性がありますから、実施しないで下さい。 

3、生命維持装置(人工呼吸器、人工心肺、人工透析など)

回復の可能性があり、抜管の前提での措置以外は使用しないで下さい。
緊急措置として設置してしまった場合は、1ヶ月以内に見直し、好転していない、好転する見込みが不明の場合は即中止してください。

4、心肺蘇生、気管切開、昇圧薬投与

急性以外施さないで下さい

5、すでに装着してしまった後の対応

不幸にも生命維持装置やはAHNなどを実施してしまった場合は、1ヶ月以内に見直し、好転していなければ取り外す。好転の可能性が不明でも取り外して下さい。

6、退院後の在宅、介護施設等での対応

終末期では急変があっても救急車を呼ばないで下さい。

 

私の家族について : 私の家族は___________

家族内の決定権優先順位私の意思を代弁してもらう権限を____________に与えます。
確認者署名上記を精読し本人の意思を確認しました。
年月日
続柄
氏名        捺印
住所

以上、長くなりましたが、一つの作成例として参考になさっていただければと思います。

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大切な方を亡くしたあなたへの手紙

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松永様から2014年11月13日コメント受信

私は17歳の最愛の息子を交通事故で亡くした父親です。

高齢者による無謀運転でした。

今私たち遺族の生き地獄の私記を作成しています。

世の中に事故の悲惨さ、高齢者に車の危険さハンドルを持つ責任色々な場面で訴えていますが、高齢者は、車は便利という理由だけで運転しています。

車は人のいのちを簡単に奪えるものと考える方はほとんどいません。

このままではと考えます。この気持ちは遺族にしかわからないのでしょうか。

返信 松永様

コメントをいただきましてありがとうございます。すぐにお返事をしなくて失礼いたしました。

実はすぐに返事をしないのではなく、できなかったのです。

息子さんを亡くされたあなたの心中を思いますと、何と声を掛けたらよいのか、返事を書けばよいのか、言葉がみつからなかったからです。

ただただ心からお悔やみをと念ずることしかできません。

ここにひとつの事故死の事例を紹介させてください。これは読者の皆さんにも交通事故の悲惨さを知っていただきたいという意図で掲載いたします。

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一人息子を交通事故で失った母親より

私は、文章を書くことが苦手です。だから、最初、この手紙を書くことを断りました。

そうしたら、話し言葉を書き写すからと、言われて。。。

本当は書けないし話すことも出来ないんです。

どうしてかというと、私は息子の死からまだ立ち直れてはいません。

もうすぐ一年になるというのに、今でも泣いてばかりいます。 

今でも時々、死にたくなります。

だから、あなたを励ますことができない。

それに、私も励まして欲しくなかったし。。。

そしたら、「励ましのメール書いてって頼んでるんのではない」って。

でも、あの日のことを思い出すだけで苦しい。

雨の朝、息子は仕事からの帰宅途中に携帯電話をかけながらの運転ミスで塀にぶつかって死にました。20才でした。

他の人を巻き込まなかったのが救いだと思おうとしました。

他の人を死なしたら、あの子と私の2人が一生苦しまなければならなかったけど

あの子は苦しまずに済んだのだから・・・とも思おうとしました。

自分に何の落ち度もないのに交通事故に巻き込まれて亡くなる方もいます。

私の場合は自分が育てた子どもが自分の過失で死んだのだから・・と言い聞かせたり。。。

でも、悲しみは深くなるばかりでした。

家族はあの子と私だけです。父親とはあの子が小学校の時に離婚しました。

一人っきりの家で過ごす夜は地獄みたいに思いました。

このまま、朝になっても目が覚めなければいいのにとおもいました。

それなのに、どうして今もこうして死なずにいるかというと、

自分でも不思議です。私が生きているんじゃないんです。

私は、あの日、息子と一緒に死んでしまい、今いる私は息子に生かされている私

そんな気がします。

息子が私を生かせてくれているんだと思います。

そうでなければ、生きていけっこないと思います。

あの子が死んだとき、いろいろな宗教のひとが「この悲しみから救ってあげる」と

言いました。

けど、goshinさんやおじゅっさん(大阪弁で住職)は、言いませんでした。

goshinさんなんかは悲しみは絶対になくならないなんて言いました。

なくならなくていいのだって、大切なんだって・・へんなことをいうなと思いました

でも本当に悲しみはなくなりません。

死にたくなるくらいの悲しみのままです。

でも、悲しいときには、いつもあの子が私に声をかけてくれます。

だから、私は悲しくても生きてこれたのだと思います。

あのとき、悲しみがあるから死んだ息子から自分に懸けられた願いに気付くことが

できるとgoshinさんは何度も何度も私に言ってくれたけど、この頃になってやっと、分かるような気がします。

悲しみはなくならなくていい、大切なのだっていうことが

やっとわかるような気がします。

悲しくても死にたくなってもあの子がそばにいて守ってくれているから、

私は悲しくても死にたくなっても生きていられます。

息子のほかにもいろんな人やものや出来事がわたしを守ってくれているということもやっとわかってきました。

こんな話ですみません。

あなたのそばでもあなたの大切な人があなたを守ってくれています。

だから、わたしは、あなたを励ましません。

(ここまで転載させて頂きました。名は非公開)

私の体験(観童)

交通事故では、私自身も非常に怖い思いをしたことが二度あります。

一度目は、息子が4歳のときに飛び出しで軽トラックに6メートル飛ばされ回転して道路に落ちた時です。

道路を横断する時に親の不注意で家内が手をつながなかったことでそのような事態になったのでした。何年も後遺症で身体が痛がりました。

当時はとても痛がり、毎晩さすってあげることしかできなく、現在は通常の身体になっているようですから奇跡に近い事故としか言いようがありません。

二度目は10年前、直線で制限速度40キロ、脇に歩道のある道路でした。

ランドセルを背負った二人の小学生が前方から歩道を歩いてきます。

そして前方から普通車のトラックが対向してきます。

ほんとうは減速する必要のない道路状況と条件なのに、何故か私はブレーキペダルに足を乗せて減速していました。30キロ以下の速度でした。

その瞬間、歩道を歩いていた小学生が横向きになって一人歩道から飛び出しました。

ドーンという音とともに吹っ飛ばされて宙に舞い、対抗車線の私の車の前に落ちたのです。スローモーションを見ている感覚で全部みえていました。

一瞬、私は引き殺したと思いましたが、気を取り直して車外に出て確認すると、寸止め状態で子どもが倒れていました。

子どもを抱き抱えて歩道に寝かせて介抱していましたが、当のトラック運転手が降りてきません。

思いあまって声を掛けると、青ざめた顔をしてハンドルを握ったままガタガタと震えて声が出せないでいました。

私は近所の家に飛び込んで119番をお願いしますと頼み込んだ。

子どもは意識はしっかりしていた。間もなく救急車と警察が到着した。

やはり、運転手は降りてこれない。

警察は私が事故を起こした当事者だと勘違いしてあれこれ聞いてくる。

事故を起こした運転手はトラックの運転席にいる人です。私は通りがかりの者です、というと初めて理解した様子だった。

この事故で軽傷で済んだのはランドセルを背負っていた為に背中のランドセルがトラックのフロントに当たったからだった。

警察が計測すると、飛ばしたトラックと私の車のフロントまで8メートルあった。

最悪の事態にはなりませんでしたが、交通事故の恐ろしさを目の当たりにした二度としたくない経験でした。

私もゴールド免許とはいっても65歳、油断は直接事故につながると思い、運転する時は気を許さないことにしております。

高齢者の場合、運転にミスが増えたり、自信がなくなったらリタイヤするほうが事故をおこさないという意味では最善の選択肢かもしれません。

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バランスを欠いた感情

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短気をおこし頭に血が上って部下に暴言を吐く上司がいた。パワハラなどという言葉がない頃の話しです。

彼は自分の思い通りにいかないことにイライラと立腹し、立場を忘れて感情的になる傾向にあるばかりではなく、大勢の前で「いいかっこうしい」したがる上司であった。

人間、何かに執着している場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くこともある。

冷静で謙虚な心というものが働かない場合、物事を見、考える際に、ともすれば感情にふり回されたり、感情にとらわれて事をあやまることが多くなる傾向にあります。

つまり、人間は、良い場合も、良くない場合も、そこには必ず感情の動きがある。

嬉しいことがあれば喜び、腹が立つことがあれば怒り、辛く悲しいことあれば涙するというように、さまざまな感情の動き、起伏というようなものがあります。

人間は、「感情の動物」などといわれるように、そのような感情に左右されて動くといった傾向を誰もが少なからずもっているでしょう。

そうであるだけに、冷静で謙虚、素直な心が働かない場合には、そういう感情のままの言動が特に強く表面化するようです。

しかし、そういう感情の動きにとらわれて物事を判断し、行動するようなことがあったとしたならば、やはりそこには適切な判断ができず、結果的に思わぬあやまちを犯すことになる場合も間々あるでしょう。

そういうような例は、これまでの人間の歴史をふり返ってみても、枚挙にいとまがないと思います。

たとえば、古今東西においてお互い人間は、くり返し他を傷つけたり、命を奪ったりするということを繰り返してきましたが、そうした好ましからざる姿というか、行為を生ずる原因の大きなものの一つに、この「感情にとらわれる」ということがあったと思うのです。

つまり、お互いの不用意な言葉や行動によって、相手に恨みや憎しみといった感情を抱いたような場合、理性という心が足りず、冷静な対応ができなければ、バランスを欠いた感情に走ってしまうわけです。

そうなると、憎しみ、恨みを晴らしたいという思いに心奪われて、自分でもいろいろと心を労し、悩ませるばかりでなく、ついには相手と争いをおこし、互いに傷つけあい、最悪は血を流しあうといった、まことに不幸な姿をもたらすことにもなりかねないでしょう。

しかし、この場合に、もしも理性ある心、冷静な心、つまりバランスのとれた心が働いていたならば、そうした不幸な結果を生じることはなく、最悪な状況は避けられるはずであります。

偏りのない心、すなわち、拘らない心、執着しない心が働いていれば、自分の感情の動きというものも冷静に把握できますし、またそれにとらわれてしまうことのないように、自分を失うことのないように、といった自制の心も働くものです。

これは、憎しみとか恨みなどをまったく感じることがない、いわゆる悟りの境地に達するとか、あるいは感情の働きの弱い鈍感な姿になるということではありません。

そのような感情はふつうに生じるのですが、それを晴らすためとか、自分を押し通すというような直接行動に出ることはしない。

むしろそうした感情に学び、自分自身の向上の推進力へと転化して活用していく。

自己を励ますムチであり、糧としてといく。

こういうように、いざというときのその感情をよりよく導いて活用していくといったことも、冷静で謙虚な心があれば可能なものであります。

このことは、憎しみとか恨みといった感情に限らず、喜びや悲しみ、その他あらゆる感情についてもいえることではないかと思います。

つまり、偏りのない心が働いていたならば、大きな喜びを感じた場合でも、それで有頂天になって我を忘れてばか騒ぎしてしまうようなこともなく、また深い悲しみに出会った場合でも、それで絶望して自暴自棄になったりするようなこともさけられるのではないかと思うのです。

そして、つねに自分を失うことなく、そのときどきの感情にも、また大きな感情小さな感情、いずれにもとらわれることなく、決して驕り高ぶることもなく、大きく見れば淡々として人生を歩んでいくこともできるようになるのではないだろうか。

でも、冷静さや、謙虚さ、素直な心がない場合には、相当に難しい生き方となって様々な弊害が人生の壁となって立ちふさがることになるでしょう。

その場その時の感情にとらわれ、いわば一喜一憂といった状態で人生をおくっていくことになるのではないだろか。

事と次第によっては、一喜一憂だけで治まらず、場合によってはわれを忘れて、思わぬ不幸な事態をひきおこすことにもなりかねない。

最近のメディアでは、お互いの身の回りにおいて、カッとして、逆上して人と争い、傷つけ殺してしまったとか、好きな言葉ではありませんが、簡単に切れるとか、とかく感情にとらわれ、我を忘れて事を行なって失敗してしまったというような事件は、マスコミなどでも連日のように報道されています。

このような状況が発生する原因の一つには、冷静で素直な心が働いていないために感情にとらわれ、われを忘れてしまうというようなことが挙げられます。

このように、冷静で素直な心、謙虚な心が働いていない場合の弊害の一つには、感情にとらわれ、冷静な自分を忘れて、思わぬ失敗を招くことも少なくない、ということです

自らの失態を避けるために、あるいは相手をそのような状況に巻き込まないためにも、お互いに素直で冷静な心、謙虚な心というものを、常日頃から養い、高める努力を心掛けていきたいと思うのです。

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憑依の事例

possession

夜10時、電話が鳴った。

娘の様子がおかしく、異常な状況でどうしたらいいかわかりません。

夜分申し訳ありませんが助けてくださいというM子さんのお母さんからだった。

M子さんは過食症で二回ほどカウンセリングをおこなった子です。

M子さん。20歳の住む場所は東日本大震災の津波被災現場から5キロほど離れたところにあり直接の被害はまぬがれた。

自宅のすぐ近く数百メートルの場所に廃校となった中学校の校舎があり、震災直後には多くの遺体安置場所として使われた。

M子さんは今でも遺体の安置場所となった廃校の近くの道路を通れないという。

電話を受けた時のM子さんは、「ごめんなさい、ごめんなさい」とただただ泣いてばかりで呼吸ができないほど息苦しさを訴えていたという。

震災のときに波にのまれて、苦しさのなかで意識を失って亡くなった女性の霊がM子さんに憑依して苦しんでいたのです。

M子さんは元々、霊とコンタクトされやすい気質をもっていたのですが、そこにM子さん自身の心の不調和があるために未浄化な霊と波長が合い憑依をされたのだった。

直接会って手助けするにも、私の住まいとM子さんの住まいは同じ県内ではあるが、車で二時間半はかかる遠距離のために簡単には行ける距離にはない。

事は緊急を要する事態であり、何をおいても早速M子さんにまつわる霊を浄化して離脱させる必要がある。

事の経緯をお母さんから聞いてすぐに霊への浄化を始めることにした。

携帯電話をM子さんに持たせるようお願いした。

「M子さん。落ち付いて私の話しをよく聞きなさい。いいですね。」

私の守護指導霊に御協力をお願いし、M子さんに憑依する霊を浄化して離脱させ、然るべき天上界に案内するよう働きかけた。

私は電話口で祈った。

「大宇宙大神霊・仏よ、M子さんにまつわる諸霊たちに愛の光りをお与えください。諸霊達の心の罪を御許しください。諸霊たちの心に安らぎをお与えください。そしてM子さんの心に安らぎをお与えください。我が守護指導霊よM子さんにまつわる霊を然るべき天上界にお導きください。」と遠隔浄化をおこなった。

私の足元から頭のてっぺんまで身の毛がよだつほどに悪寒が走った。

そして数分後に悪寒は抜けた。

「M子さん。もう大丈夫ですよ。気分はどうですか?」

「涙がいっぱい出て、口から黒い影が抜けて行きました。気分が良くなり元に戻れました。」との返事だった。

憑依されないために

憑依はどのようなかたちであらわれてくるのかという判断材料としては、簡単に怒りを表面に出す人、何かするとすぐに泣き出す人、落ち込みやすい人、お酒を飲むと急に怒ったり、泣きじょうごになったりと、まわりがびっくりするほど人格が変わることでわかります。

こういったことはただ単に個人の性格の問題だといって片づけられるようなことではなく、霊的な視点からすれば、一時的な憑依によって起こり得るということです。

例えば、身体にアルコールが回ると先ず、理性が希薄になってきます。

理性が希薄になるということは表面意識の領域が沈んで、逆に潜在意識が表面に浮き出てくるということですが、憑依はこの潜在意識の部分が表面意識の理性や知性で守られないことで起こる危険な現象です。

ですから、お酒で表面意識の理性が失われることで憑依している霊が表面に浮き出てくるという現象がいわゆる酒乱という失態になるわけです。

お酒を飲んだから憑依されるということもありますが、むしろ普段憑依されている状態にある人がお酒を飲んで霊が表面化するととらえたほうが正しいでしょう。

憑依は段階があり、日頃気づかない程度であっても、突如として心を支配されて憑依霊が表にでてきて奇怪な言動をすることがあります。

憑依を取り除くこと以上に大事なことは、憑依されないためにはどうしたらいいかということを知って実践することです。

1・物事に対する思考を偏らせない事。

2・偏った眼で物事をみないこと。

3・言葉を大切にし、決して乱暴な言葉遣いをしないこと。偏った極端な発言はしない。

そして、拘り、執着を捨てた行動をすることで心のバランスが保たれることになり、それが憑依を未然に防ぐ唯一の方法です。

どれほど呪文を唱えようが、お経を唱えようが、塩を持ち歩こうが、水晶のブレスを身につけようが、自分の心が不調和という拘り、執着のエゴがあれば憑依は容易に誰にでも起こり得るということです。

よく憑依されやすい人は、先ずは自分の心の傾向性を見極めて反省をおこない、上記のような基準によって心を調える努力をすることです。

憑依は似た者同士のコンタクトであって、同じような心を持った霊とつながりやすいということですから、世間でよく言う、霊のせいにして先祖の霊がどうとか、水子の霊がどうとかいうのは全く持って責任転嫁といえます。

自分の不幸や災いを霊のせいにしたり、他人のせいにしているならば、即刻そういった考え方を根本的に改めて、自分自身の心の傾向性、あり方を見直すことが肝要です。

それが成されなければ災いや憑依は決して無くはならない。

M子さんはこれから心の正しいあり方を学ぶと約束してしてくれた。

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人類への警鐘

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「自殺か尊厳死か・アメリカ女性の服薬死」コメントへの返信。

がさわら様。いつもコメントくださいましてありがとうございます。

病気や死については、その病気や死に至るまでの経緯や状況、内容も人それぞれだとは思いますが、多分に本人に対するメッセージ性が含まれていると受け止めて良いのでなないでしょうか。

確かによくカルマという言葉で表現される場合があります。

死はその瞬間の精神状態がとても重要であり、精神の状態によっては、尊厳死、安楽死とは言っても必ずしも言葉通りではなく、自殺に近い状況で死に至る場合もあるでしょう。

今回話題になっている尊厳死?は一つのカルマとなって遠い来世に持越し、同じ課題を背負って人生を生きて学ぶという形になるのでは思うところです。

何故なら、いろんな事情があるにせよ本来の人生を全うした死とは言い難いからです。

今回のような事案は、私個人としては人類への警鐘として受け止めたいところですね。

そしてそれは病気の種類を問わず、人生の内容を問わず、人間は自らの命を絶つことが許されざる存在であり、病も人生における苦悩も本人が昇華しなければならない課題(カルマ)かと思います。

地上生活とあの世の生活を輪廻する人間ですが、課題をもって私たちは生まれてきます。

特に、自殺された方の場合、再び地上に生まれるにあたって、その課題を放棄したことになります。

こういう場合は来世でもまた同じような人生を繰り返す可能性が否めません。

これが輪廻の仕組みであり、原因と結果の法則であり、宇宙における循環の法則であります。

何人たりともこの仕組み、法則からのがれて生きることは適わないでしょう。

したがって、容易にこういう魂は自身の浄化もままならず、魂のステージアップもなかなか難しくなってくるようです。

例えば、自殺された人の霊の場合、自分の判断が正しいと思ってはいても、心に拘り、執着、エゴというものが強いために自分の心を真の意味で解放できません。

したがって、その現場に残り、自殺した時の苦しみを継続することになります。

いわゆる心が調和されていない、拘り、執着があるが故に地縛霊という生き方になるということです。

そうならないために日々、心のバランスを意識していきたいものです。

延命治療に関しても、単に肉体を生きながらえさせるためにたくさんの管や機械を装着することが本人のためになるのか、生命のもつ意義という観点からすれば果たしていかがなものか。

終末医療は限りなく自然死に近いことが命を尊ぶことだろうと考えます。

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苦しみは比較の論理からはじまる

比較

 

相対的価値観&絶対的価値観

35歳の若いお母さん。Yさんは精神的にかなり追いつめられ、心身ともに疲れ果て、心療内科で向精神薬の処方を受けて服用ちゅうだが事態が悪化するだけで何ら解消されることもなく不安と恐怖心に怯え相談にみえた。

「自分は何もできないし、人よりも劣る」といって劣等感のなかにいた。

その劣等感ゆえに、周りの目を気にし、必要以上に気遣いし過ぎて、人の顔色をみながら怯えた生き方をする傾向にあることがわかってきた。

そして他人と自分を比べて劣等感をもち、他人と打ち解けることができず、結果的に孤立してしまう。

このYさんは幼少の頃から姉妹の中で比較され、他人と比較され注意ばかりをされて育ってきたのだった。

親の正しい愛ではなく、エゴのままに、感情に任せ、子どもを比較して子育てをしてきた結果がこういった人間をつくったといっても過言ではない。

極論と思われるかもしれませんが、親の歪んだ愛の犠牲者といえなくもない。

幸せの実態

世の中の多くの人が幸せだと思っているものはどのようなものでしょうか。

厳しい競争に勝ち、他の人たちより上の立場に立って、より多くのお金や、衣食住、物で満たされ、より良い地位が得られれば、それが幸せだという人たちも多くいます。

もしそういうものが幸せというのなら、幸せというのは非常に不安定で、いつ消えてしまってもおかしくないものではないでしょうか。

何故なら、これらは非常に不確実なものであって、不安定なものだからです。

いくら競争に勝って幸せを感じても、それはほんの短い間だけであって、私たちはすぐまた次の競争に臨まなければなりません。

そして、そこで競争に負けてしまえば、即、幸せから不幸へと転落しなければならないからです。

社会構造がそうであることもあって、人間はふつうの考え方で生きていれば、死ぬまでそのような競争から逃れることはできません。

ということは、私たち人間は生涯を通じて、常に幸せと不幸の間で激しいアップダウンをくり返していくしかないということになると思うのです。

大方、人生というのはそういうものであって、どうすることもできないと諦めているところも無きにしも非ず、ですが、そういう人生観の中で徹底的に絶望や挫折を味わった挙句、もしかして自分が思っている幸せとは別の幸せというものがあるのかもしれないと思い始める人もいるでしょう。

そして、彼らの中で本当の自分に気づくことによって、社会一般的な相対的価値観から抜け出した人が、本当の幸せというのは、他人と自分を比較した優越感や劣等感とは無関係だということを悟るのです。

本当の幸せというのは、個々それぞれの人間が、他との比較の上で優っている時に感じるものであってはならず、むしろ人間というのはすべての人が本質的に同じひとつの命であって、お互いの間に優劣はないとわかった時に感じるものでなければならないでしょう。

つまり、本当の幸せというのは、そのように他との比較という価値観は含んでいないので、永続性があるということです。

いったん本当の幸せに目覚めたら、その幸せは何かのきっかけで消えてしまったりはしないということです。

紙幣には裏表があるように、優越感と劣等感は一枚の紙幣の裏表の関係にあり、実は、大きな優越感を感じている人は、何かの拍子に状況が一変すれば、その途端に強烈な劣等感を味わう危険性に常にさらされているのです。

優越感は、ときに慢心や傲慢(ごうまん)、驕(おご)りとなってエゴイスティックな人間を演じてしまいますから自重しなければなりません。

でも、そんな両極端な感情とは無縁の世界に目覚めなければ、いつまで経っても浮き沈みの激しい人生ドラマからは自由になれないということです。

でも、物や経済力によって得た優越感の激しい生き方に疲れたら、もっと心穏やかな平和でのんびりした生き方にも興味をもってほしいと思います。

相対的価値観

先に述べたように、私達は日常生活の中で、 無意識のうちに比較をしてしまうことがよくあります。
例えば、仕事の業績や自分の所有しているものだったり、 個人の能力などを周りの人達と比較して優越感を感じたり、 劣等感を感じたりしています。

比較すること自体は良いとか悪いということはないのですが、 それによって自分を落ち込ませたり、 周りの人に劣等感を与えることは良いことではありません。

例えば目標達成においては、 比較するということは自分の現在地や進捗状況を知る上で 便利なものだと思います。

しかし、自分の現在地、状況を把握し、知るということ以外に、 自分の優越感を満たそうとすることや、逆に比較によって 無価値観を感じて自分を落ち込ませることには何の意味もありません。

しかし、私達は子供の時からいつも比較したり、 比較されたりする習慣の中で生きてきました。

私が小学校低学年の頃、通信簿を受け取るときに、担任の女先生が成績の優秀な順番に教室の窓際に立って並ばせて優秀な順番に名前を呼んで通信簿を渡したものでした。

並んでいる順番をみれば誰が成績優秀かがわかります。私や友人はいつも最後のほうに並び通信簿を受け取ったもので、その顔触れはいつも同じです。

とても嫌な思いをしていましたが、女先生は決して子供たちからは好かれていませんでしたし、大病を患って亡くなりました。若い命でした。52年ぐらい前の話しです。

世の中には比較の論理がたくさん存在します。

周りの大人たちからは、周りの人よりも優秀になることだったり、 競争や闘いや争いの中で勝つことを良いことだと教えられてきました。

しかし、そういった想いの中で生きていくということは、 いつも自分はあの人より優秀だとか、あの人よりは劣っているなどという、 競争心や比較の中で生きていくということになります。

そして何より、そういった想いの中で生きていくということは、 心理的に争うという気持ちをいつも抱きながら生きていくということになります。

争うという気持ちが何処かにあると、 周りの状況が変わるたびに自分の心の状態も翻弄されて、 主体的な行動や考え方をすることが出来なくなります。

つまり、周りの状況に意識が向けられるほどに自分自身の理性的、且つ、客観的な判断ができにくくなるということです。

人は争うことでは決して豊かになることはできません。

むしろ貧しくなっていきます。

相対的な想いの中では豊かな心というものは育たないということです。

これを踏まえた上で、絶対的価値観ということについて考えてみましょう。

絶対的価値観とは、

自分と周りの人や、他人と他人を比較するのではなく、持ち物などを比較して優越感や劣等感をもつのではなく、 正しいことかどうかということを基準にするということです。

こういうと、 何が正しいことなのかわからないと思う人もいるかと思いますが、答えはいたってシンプルです。

誰もが正しいと言えること。

当たり前のことを基準にするということ。

社会通念から言っても極常識的なこと。

正しいことの基準はとなると決して偏ってはいないこと。

それは想いであり、思考であり、言葉であり、行動であれ、執着せず、バランスの取れた生き方ということが原点といえます。

今の時代は様々な情報や考え方があり、 何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってしまう時もあるかと思います。

しかしそれは、 「こんなことをすればあの人にこんな風に思われるんじゃないか」 とか 「こんなことをすると皆から否定されるのではないか」 などと、頭の中で相対的に考えて、 いつも自分自身と何かを比較してしまっています。

そうやって比較すればするほど、何が正しいのか、 あるいは自分はどうしたいのかがわからなくなってしまい、 自分自身の主体性や個性はなくなっていってしまいます。

比較の論理、すなわち相対的価値観から離れ、主体的な生き方をするには、人と比較するのではなく、 自分が一人でいるときでも、誰かといるときでも、偏りのない心、即ち中道の生き方こそが全ての調和の原点であるということをしっかりと心に落しておくことです。

「心はいつも天とともにあり、自然界のままにある」 と思うことです。

 天地を相手とするならば、個人的な価値観を超え、宗教や人種、時代や性別、 あらゆる違いを乗り越え、どんな人とも分かりあうことができます。

私たちの思考は、自分自身を何かと比較したり、人に合わせようとするのではなく、自然体でリラックスしていれば心も流れるようにスムーズになり、コミュニケーションも円滑なものになります。

自然体になるということ、リラックスするということは、そのまま自分自身の主体性や個性を発揮するということになり、誰とも、何とも比較の対象がなくなるということです。

それは私達皆が、 誰とも比較出来ない唯一の存在だということを気づき、思い出すということなのです。

こういった自然的(拘らない、執着しない、偏らない)な基準をもち、自分らしくブレることなく、自分自身を客観視できることは、 絶対的価値観をもつための必須条件である。

私たちは誰かと比べたり、比較によって優劣をもってはならないでしょう。

人間のエゴはそういうところから発生してきます。

正しく生きるということ。

それは、自分らしく(エゴではなく、偏らない)自由で主体的な生き方をすることが、 自分自身にも周りの人にも良い影響を与え、良い社会を創っていくものだと思います。

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