苦しみは比較の論理からはじまる

比較
 
相対的価値観&絶対的価値観
35歳の若いお母さん。Yさんは精神的にかなり追いつめられ、心身ともに疲れ果て、心療内科で向精神薬の処方を受けて服用ちゅうだが事態が悪化するだけで何ら解消されることもなく不安と恐怖心に怯え相談にみえた。
「自分は何もできないし、人よりも劣る」といって劣等感のなかにいた。
その劣等感ゆえに、周りの目を気にし、必要以上に気遣いし過ぎて、人の顔色をみながら怯えた生き方をする傾向にあることがわかってきた。
そして他人と自分を比べて劣等感をもち、他人と打ち解けることができず、結果的に孤立してしまう。
このYさんは幼少の頃から姉妹の中で比較され、他人と比較され注意ばかりをされて育ってきたのだった。
親の正しい愛ではなく、エゴのままに、感情に任せ、子どもを比較して子育てをしてきた結果がこういった人間をつくったといっても過言ではない。
極論と思われるかもしれませんが、親の歪んだ愛の犠牲者といえなくもない。
幸せの実態
世の中の多くの人が幸せだと思っているものはどのようなものでしょうか。
厳しい競争に勝ち、他の人たちより上の立場に立って、より多くのお金や、衣食住、物で満たされ、より良い地位が得られれば、それが幸せだという人たちも多くいます。
もしそういうものが幸せというのなら、幸せというのは非常に不安定で、いつ消えてしまってもおかしくないものではないでしょうか。
何故なら、これらは非常に不確実なものであって、不安定なものだからです。
いくら競争に勝って幸せを感じても、それはほんの短い間だけであって、私たちはすぐまた次の競争に臨まなければなりません。
そして、そこで競争に負けてしまえば、即、幸せから不幸へと転落しなければならないからです。
社会構造がそうであることもあって、人間はふつうの考え方で生きていれば、死ぬまでそのような競争から逃れることはできません。
ということは、私たち人間は生涯を通じて、常に幸せと不幸の間で激しいアップダウンをくり返していくしかないということになると思うのです。
大方、人生というのはそういうものであって、どうすることもできないと諦めているところも無きにしも非ず、ですが、そういう人生観の中で徹底的に絶望や挫折を味わった挙句、もしかして自分が思っている幸せとは別の幸せというものがあるのかもしれないと思い始める人もいるでしょう。
そして、彼らの中で本当の自分に気づくことによって、社会一般的な相対的価値観から抜け出した人が、本当の幸せというのは、他人と自分を比較した優越感や劣等感とは無関係だということを悟るのです。
本当の幸せというのは、個々それぞれの人間が、他との比較の上で優っている時に感じるものであってはならず、むしろ人間というのはすべての人が本質的に同じひとつの命であって、お互いの間に優劣はないとわかった時に感じるものでなければならないでしょう。
つまり、本当の幸せというのは、そのように他との比較という価値観は含んでいないので、永続性があるということです。
いったん本当の幸せに目覚めたら、その幸せは何かのきっかけで消えてしまったりはしないということです。
紙幣には裏表があるように、優越感と劣等感は一枚の紙幣の裏表の関係にあり、実は、大きな優越感を感じている人は、何かの拍子に状況が一変すれば、その途端に強烈な劣等感を味わう危険性に常にさらされているのです。
優越感は、ときに慢心や傲慢(ごうまん)、驕(おご)りとなってエゴイスティックな人間を演じてしまいますから自重しなければなりません。
でも、そんな両極端な感情とは無縁の世界に目覚めなければ、いつまで経っても浮き沈みの激しい人生ドラマからは自由になれないということです。
でも、物や経済力によって得た優越感の激しい生き方に疲れたら、もっと心穏やかな平和でのんびりした生き方にも興味をもってほしいと思います。
相対的価値観
先に述べたように、私達は日常生活の中で、 無意識のうちに比較をしてしまうことがよくあります。
例えば、仕事の業績や自分の所有しているものだったり、 個人の能力などを周りの人達と比較して優越感を感じたり、 劣等感を感じたりしています。
比較すること自体は良いとか悪いということはないのですが、 それによって自分を落ち込ませたり、 周りの人に劣等感を与えることは良いことではありません。
例えば目標達成においては、 比較するということは自分の現在地や進捗状況を知る上で 便利なものだと思います。
しかし、自分の現在地、状況を把握し、知るということ以外に、 自分の優越感を満たそうとすることや、逆に比較によって 無価値観を感じて自分を落ち込ませることには何の意味もありません。
しかし、私達は子供の時からいつも比較したり、 比較されたりする習慣の中で生きてきました。
私が小学校低学年の頃、通信簿を受け取るときに、担任の女先生が成績の優秀な順番に教室の窓際に立って並ばせて優秀な順番に名前を呼んで通信簿を渡したものでした。
並んでいる順番をみれば誰が成績優秀かがわかります。私や友人はいつも最後のほうに並び通信簿を受け取ったもので、その顔触れはいつも同じです。
とても嫌な思いをしていましたが、女先生は決して子供たちからは好かれていませんでしたし、大病を患って亡くなりました。若い命でした。52年ぐらい前の話しです。
世の中には比較の論理がたくさん存在します。
周りの大人たちからは、周りの人よりも優秀になることだったり、 競争や闘いや争いの中で勝つことを良いことだと教えられてきました。
しかし、そういった想いの中で生きていくということは、 いつも自分はあの人より優秀だとか、あの人よりは劣っているなどという、 競争心や比較の中で生きていくということになります。
そして何より、そういった想いの中で生きていくということは、 心理的に争うという気持ちをいつも抱きながら生きていくということになります。
争うという気持ちが何処かにあると、 周りの状況が変わるたびに自分の心の状態も翻弄されて、 主体的な行動や考え方をすることが出来なくなります。
つまり、周りの状況に意識が向けられるほどに自分自身の理性的、且つ、客観的な判断ができにくくなるということです。
人は争うことでは決して豊かになることはできません。
むしろ貧しくなっていきます。
相対的な想いの中では豊かな心というものは育たないということです。
これを踏まえた上で、絶対的価値観ということについて考えてみましょう。
絶対的価値観とは、
自分と周りの人や、他人と他人を比較するのではなく、持ち物などを比較して優越感や劣等感をもつのではなく、 正しいことかどうかということを基準にするということです。
こういうと、 何が正しいことなのかわからないと思う人もいるかと思いますが、答えはいたってシンプルです。
誰もが正しいと言えること。
当たり前のことを基準にするということ。
社会通念から言っても極常識的なこと。
正しいことの基準はとなると決して偏ってはいないこと。
それは想いであり、思考であり、言葉であり、行動であれ、執着せず、バランスの取れた生き方ということが原点といえます。
今の時代は様々な情報や考え方があり、 何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってしまう時もあるかと思います。
しかしそれは、 「こんなことをすればあの人にこんな風に思われるんじゃないか」 とか 「こんなことをすると皆から否定されるのではないか」 などと、頭の中で相対的に考えて、 いつも自分自身と何かを比較してしまっています。
そうやって比較すればするほど、何が正しいのか、 あるいは自分はどうしたいのかがわからなくなってしまい、 自分自身の主体性や個性はなくなっていってしまいます。
比較の論理、すなわち相対的価値観から離れ、主体的な生き方をするには、人と比較するのではなく、 自分が一人でいるときでも、誰かといるときでも、偏りのない心、即ち中道の生き方こそが全ての調和の原点であるということをしっかりと心に落しておくことです。
「心はいつも天とともにあり、自然界のままにある」 と思うことです。
 天地を相手とするならば、個人的な価値観を超え、宗教や人種、時代や性別、 あらゆる違いを乗り越え、どんな人とも分かりあうことができます。
私たちの思考は、自分自身を何かと比較したり、人に合わせようとするのではなく、自然体でリラックスしていれば心も流れるようにスムーズになり、コミュニケーションも円滑なものになります。
自然体になるということ、リラックスするということは、そのまま自分自身の主体性や個性を発揮するということになり、誰とも、何とも比較の対象がなくなるということです。
それは私達皆が、 誰とも比較出来ない唯一の存在だということを気づき、思い出すということなのです。
こういった自然的(拘らない、執着しない、偏らない)な基準をもち、自分らしくブレることなく、自分自身を客観視できることは、 絶対的価値観をもつための必須条件である。
私たちは誰かと比べたり、比較によって優劣をもってはならないでしょう。
人間のエゴはそういうところから発生してきます。
正しく生きるということ。
それは、自分らしく(エゴではなく、偏らない)自由で主体的な生き方をすることが、 自分自身にも周りの人にも良い影響を与え、良い社会を創っていくものだと思います。
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