戦死の誤報で母再婚 父2人のはざまで娘は

gwwgggggw
上の写真は核投下の被害
戦争は個人の意思に関係なく大きなイデオロギー(社会集団や社会的立場・国家・ 階級・党派・などにおいて思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・ 信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系)として働き、そのエネルギーは転変地異に勝るとも劣らない暴走となって多くの尊い人民を犠牲にしていきます。
日本の降伏
第二次世界大戦、日中戦争及び大東亜戦争並びに太平洋戦争において日本が、アメリカ・イギリス・中華民国・ソビエト連邦が共同で発した勧告「ポツダム宣言」を受諾して降伏しました。
日本で単に「敗戦」というと、この第二次世界大戦の降伏を指すのですが、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは前日の8月14日で あり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっているとしています。
ポツダム宣言
1945年7月 26日にベルリン郊外のポツダムで発表された日本の戦争終結条件を示したアメリカ、イギリス、中国3ヵ国首脳の宣言のこと。
これはポツダム会談の結果、アメリカ、イギリス両国の合意ができ、それに同会談に参加しなかった中国も同意して発表されたもので、同会談参加のソ連はまだ日本と中立関係にあったためにこの宣言には加わらなかった。
きょうは、公には終戦記念日ということもあり、戦争についてふれてみたいと思いまして、カナロコ by 神奈川新聞 8月14日(金)7時0分配信から転載させていただきました。
pttimage171以下、転載内容
の腕に抱かれ、ハンカチで口元を押さえる少女。
BC級戦犯としてフィリピンで死刑判決を受けながらも恩赦によって横浜港に帰還した元日本兵と、約10年ぶりに再会した子どもたちの写真が、1953年7月23日の本紙に載った。
その少女、尾畑慶子さん(76)=旧姓前川、横浜市鶴見区=は「これで元に戻れる、と思いました」と当時の心境を振り返る。
けれども、そこに母の姿はなかった。
夫が戦死したとの誤報を信じて再婚していたからだ。
市井の人の「戦争」は続いていた。
「私は覚えていないんですが、お葬式をしたと母から聞きました」と慶子さんは話す。
終戦から2、3年後に父・前川治助さんの戦死公報が届いた。
母の邦子さんは、生活を案じた近所の人の紹介で再婚した。2人の幼い弟は新潟の父方の実家に引き取られ、母は新しい父との間に妹と弟をもうけた。
治助さんがフィリピンの刑務所で健在だと分かると、邦子さんは煩悶(はんもん)した。
日本人戦犯の減刑のために奔走した横浜出身の歌手、渡辺はま子さんにしたためた手紙に「再婚したものゝ、前川が生存して居ると知つた其の時から、此の帰りを待ちわびて来た私でした」と真情を吐露した。
帰国がかなった53年7月の恩赦に加えて同年12月、さらなる恩赦で釈放されるまで、治助さんは東京・巣鴨刑務所で服役した。
その間、邦子さんは再婚した夫とともに巣鴨を訪れ面談した。
結局、邦子さんが選んだのは治助さんだった。
その気持ちを慶子さんは推し量る。「あんたが大人になったら分かる、とだけ言っていました。
結局、好きだったということでしょうね。
母は大恋愛で結ばれ、16で私を生んだんです」 治助さんは邦子さんを許し、新潟の弟たちも一緒に暮らすことになった。
横浜港で慶子さんが見せた涙には、新潟、横浜と離れ離れだった弟に再会した喜びもあった。
「うれしくてしょうがなかったんです」 一方で、新しい父は身を引き、妹と弟を連れて家を出た。
慶子さんにとって、その2人も大切なきょうだいだった。
内職に忙しかった母に代わり、赤ん坊のころから銭湯へ連れて行き、かわいがったのだ。
「会いたくて、親に黙って顔を見に行ったこともあります」
その弟は病で早世し、妹は慶子さんが20代前半のころ奉公に出されることになった。
そのことを慶子さんが伝えると、治助さんは自分が引き取ると言った。
戦後十数年、戦争に翻弄(ほんろう)された慶子さんのきょうだいが一つ屋根の下に集まった。
「私たちを育ててくれた新しいお父さんにも恩返しができたと思いました」
治助さんが亡くなったのは90年。フィリピンでのことは口を閉ざしたままだったが、かの地で10年間、家族を思い続けたことだけは確かだった。
慶子さんは、横浜港で父が最初に発した言葉を忘れない。「お前、腕は大丈夫か」。ごく幼いころ腕に負ったやけどを、ずっと心配していたのだ。
◆フィリピンのBC級戦犯
非戦闘員や捕虜などを殺害、虐待したなどの容疑でフィリピン政府が起訴した日本兵151人を指す。
79人が死刑判決を受け17人が刑死。エルピディオ・キリノ大統領の恩赦で帰国できたのは108人だった。
戦犯は首都マニラ郊外のモンテンルパにあるニュービリビッド刑務所に収監された。
教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍や、戦犯が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌った歌手の渡辺はま子らが減刑を嘆願した一方、日米両軍が激突し約10万人の民間人の命を奪った1945年のマニラ市街戦などを背景に、日本兵に対する住民の憎悪は根深かった。
自身も妻子4人を日本兵に殺されたキリノは、キリスト教精神に基づき恩赦を決断したが、必ずしも国民の共感は得られず、直後の大統選で落選した。
以上が転載記事の内容です。
私は思います。
戦争の背景にあるものはいつも政治や思想によるイデオロギーであり、その根底には根本的に人間としての個人の思惑というものが潜んでいると。
一国だけの利益や思惑を優先するあまり、戦いにまで発展してしまうのですが、戦争につきまとうのはいつも怒りである。
実はこの怒りは、何度もブログ上で述べてきたように、破壊のエネルギーとなって私たちの日頃の生活の中にもあるものであって、それは単なる個人感情だけではすまなくなり、その言動によって他人を傷つけたり、他人の人生の邪魔になったり、妨げとなることが多々あるものです。
子の心 親知らず
親はいつまでも子どもだと思っている傾向にありますが、実際は純粋な心であるが故に、親の言動にエゴをみて育ち心を歪ませていくのです。
親の心 子知らず
思うように行かないことがあるといつまでも言い訳をしたり、短気をおこして親にあたったり、親のせいにしたりする未熟な子もいます。
このように家族のなかにも戦争が絶えないという現状はたくさんみてきました。
願わくば仲良く暮らしたい。
戦争反対はだれもが思うことではありますが、その前に私たち自身の生活のなかで「怒り」の心を発しない生き方、相手に向けない生き方をしたいものだと思う。
怒りは、自分の意に沿わないことがあるときに湧き出してくる心であり、自我心(エゴ)といわれる自己保存、自己中心の未熟な心と受け止めたい。
お互いが気まずい関係になることはわかっているはずなのに、いざとなると感情をコントロールできずにその気持ちを相手に向けた言動でいつも後悔する。
こういうことを業というのでしょう。
業は時間をかけても修正していかなければならない。
個人の戦争も、国同士の戦争も、人類の戦争の原点は異なるものではないでしょう。合掌
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
岩手県 盛岡市 カウンセリング うつ病 パニック障害 自律神経失調症 アダルトチルドレン DV 悩み相談 無料 奉仕 スピリチュアルワーク 摂食障害 過食症 拒食症 家庭問題 仕事のモラル 人間関係 宗教被害 霊障 憑依 整体 カイロ アロマテラピ 夜泣き 癇癪 ライトワーカー 3次元 4次元 あの世 この世 霊界 魂 潜在意識