善因善果


意志は行為です。意志がなければ、物事を具体的に成就させることはできません。
意志は八正道(心眼を開く・偏見からの脱却)の念と非常に関連を持っており、したがって念の在り方が意志の機能を正しくさせていくでしょう。
意志は心の外に現れるものですから、人それぞれの意志は、その人の人格をも形成します。
意志の強い人を信念の人というし、弱い人は強い人の後からついて行くことになるようです。
意志の強弱が人それぞれの生活環境を形作ってゆきますが、強固な意志というものは、しばしば知性から直接意志につながる、本能からつながる、理性からつながる、という場合があります。
そうなると、どうしても他との調和に欠けてきます。
つまり、知が立てば角が立つというのは、知性から意志につながるからそうなるのです。
相手の感情を無視していますから、理屈が合わないと冷たく、思いやりのない意志として働くからです。
本能から意志につながる場合も、地位や名誉、金銭に集中し、そのために、人はどうでも自分さえよければ良いということになり、人を押しのけてもそれをやり通そうとします。
理性が意志に働くときは、独善的頑固者となり、ハシにも棒にもかからないことになりやすい。
感情の場合は、人の話など受け付けず、問答無用となり、これも人のことなど構いません。
要するに、各機能が単独で意志につながったときは、同じ信念の行動をとったとしても、周囲に悪影響を及ぼします。
同時に、自分自身にとってもマイナスとなります。心がもともと丸くないのですから、自分一人になると心の動揺は隠せないことになります。
一方、意志が弱いのは何が原因か。前述のように、各機能の単独の働きにあるのですが、その働きが、浅いために起こります。
つまり、知性を通していろいろ考える、そうしてこれはよいと判断し意志につながり、行動を起こしても、他の人から耳よりな話をきくと、それに動かされるからです。
行動を起こす際の思慮が浅いから、意志も弱くなってきます。感情で意志を働かせている場合は、その典型といってもいいでしょう。
意志の強弱は生活環境に左右されてつくられます。
大過なく人生を渡っている人の意志は比較的弱いです。強い意志を生活上にあまり必要としないからです。
これは子供の頃のわがまま、過保護が習性となり、根気にとぼしいからです。
反対に意志の強い大は、苦労人に多いのです。意志の決定は生活に直接ひびいてくるので、決定後の変更をしていては計画を遂行することができないからです。
立志伝中の人を見ると、この点がよくわかります。
心の各機能は過去世の影響をうけているわけですが、この意志についても同じことです。
意志が弱いと物事が中途半端になり、魂の成長を自らとめてしまうことになりますから、その原因をまずつきとめ、さまざまな機会を見つけ、意志を鍛錬することです。
意志を強くし、しかも周囲と調和させるには、心の各機能を働かせ、意志につなぐことです。
周囲の調和と自分の意志というものは、必ずしも一致しないものですが、こうした場合は時を待つことが必要であろう。
丸く豊かな心は、中道という片寄りのない、客観的な見方、思い方、言葉からつくられて行くわけですから、そうした方向に、智慧を働かせて達成させたいものです。
心の機能の大略は以上ですが、さて、日ごろの生活行為の反省は、このようにして、正しい想念を軸として行われることが必要です。
反省後の瞑想は、心を豊かに安定させます。
心のバイブレーションは宇宙意識の心に近づいて行きます。
心が落ち着き平静になりますと、守護霊の通信をうけやすくなり、示唆に豊んだ考えが腹の当りから浮んでくるようになります。
平静な心を生活の場に保ちつづけますと、外界の動きに心を動揺させることがなくなり、外界のさまざまな動きを正確にキャッチすることができます。
心を内に向け、外に向けるなということは、外界の動きに心をとらわれず、これらをすべて心の 糧とすることです。
誰かが自分を中傷したとします。心が外に向いているときは、すぐそれに反発し、心をいらだてます。
ところが内に向いているときは、その中傷を平静にうけとめ、冷静な立場でその中傷の中身を考えます。
もし自分に非のないものとすれば、中傷した人は真実を知らぬ気の毒な人であるわけですから、誤解を解く機会がなければ相手のために祈ってやることです。
中傷の中に自分を置くと、それだけ心を不安定にさせ、生活のバランスを崩してゆきます。
毒は食わないことでありますが、中傷という一つの事柄を通して、人間の心の姿を知る機会ができたのですから、心が内に向いているときは、すべてが心の糧になるということです。
こうして、日ごろの生活行為省みるということを重ねていきますと、やがて、静(心)と動(生活)のバランスが保たれ、不動の心が養われてきます。
つまり、日ごろの生活行為を省みることの目的は、一つには中道に照らした反省にありますが、今一つは、その静なる心を日常生活の中で活かしつづける不動心にあるということです。
かくの如き偏りのない正しい生活にこそ、
神仏の光明を得、
迷いの岸より、悟りの彼岸に到達するものなり。
このときに神仏の心と己の心が調和され、
心に安らぎを生ぜん。
心は光明の世界に入り、
三昧の境涯に到達せん。
正しい生き方とは、正しい法、万古不滅の真の理、宇宙の法則をいうのであります。

その法則とは、ものにはすべて転生輪廻という循環の法があり、その法自体が、万物万生を生かし、慈悲と愛に満ち満ちているということであります。

地球は太陽の周囲を回っています。極微の原子も、原子核を中心に陰外電子が回っています。

一日が終われば、また明日がやってきます。

人は生まれれば、やがては死に至ります。

善の行為は善の結果として返ってきます。

こういう原則を循環の法といいます。

したがって、人間の日常生活も、こうした法に乗った生活こそ、大事であるわけです。

正しき行為は、正しき結果として、その人の人生、健康、環境を整えてくれます。

自然の運行が、それを如実に示しています。

狂いのない運行があればこそ、私たち人間は、地上での生活が行えるのです。

慈悲と愛についてもそうです。

法が正しく運用されているから、太陽の熱は冷えないし、地球は定められた軌道を外さずに動くことができます。

地上での生活も、太陽のかわりない熱、光のエネルギーがあればこそ可能です。

慈悲と愛というと、いかにも人は、人間的行為、人間的感情を連想しますが、太陽も、地球も、人間同様に、心を中心にして動いているのです。

自然はものを語らない。人間はものを語る。喜怒哀楽の感情があるのに、自然は、そうした感情を示さない、といわれます。

たしかに、表面的にはそうです。ところがそれは違います。

この地球という大地も、空気も、水も、植物も、動物もみんな感情を持っており、意識もあります。

現象世界にあるものは、すべてが生命を持っており、生命があるということは、意識があるということです。

花でも動物でもそうです。人が愛念を持ってこれに接すれば、花も動物も、その人のいう通りに動き、言葉もわかりお互いに通じ合います。

更に進むと、花には花の精があって、人間の心が浄化されますと、花の精が姿を現わし語りかけます。松や銀杏の木でもそうです。

そこに住む植物の精霊が姿を現わし、三百年、五百年の風雪にたえた大木ならば、世の移りかわりをみてきています。

このように、人間が彼らに愛念を持って接するときには、彼らもまた、それに応えてくれます。

地球という大地でもそうです。大地は、人間をはじめとした地上や地下に住む生命を生かし続け、支えています。それはまったく辛抱強く、あらゆる生命を生かしつづけています。

大地に表情がないかというと、ちゃんとあります。私たちが旅行をします。知らない土地を見て歩きます。するとその土地、特有の雰囲気がつくられていることに気付きませんか。

大地は受動的です。人間は能動的につくられています。したがって、人間の感情想念 、いわばそこに住む人たちの意識の調和度、心の持ち方が、その土地の空気をつくつているのです。

争いの多い土地には、作物も育ちません。町も汚いです。調和に満たされた場所は、町もきれいで、明るくゆったりしています。

人気のない大地は、それではどうでしょうか。やはり、表情を持っています。

気候や風の流れに応じて、サラリとしたところもあるかと思えば、現在は人気はないが、その昔、人類が居を構えたところは無数にありますので、そうしたところは、かつての人類の波動を残し、明暗、美醜の空気をかもし出しているところもあります。

このように、大地といえども、生命を持ち、感情を抱いているのです。

意思というのは万象万物にあるものだということ、それを感じ取ることができるよう、私たちは心を調えて生きることが感謝へとつながるのである。

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