意識の中心は心
心は内面に存在し、肉体を支配している意識の中心であり、魂の核である。
あの世から下生して肉体に乗ってしまうと、外面的な諸現象にほんろうされて、肉体の支配者である自分が迷いを生じてくる。
心はとらえることがむずかしく、軽卒で、動揺しやすく、欲望のままに動き、守りがたく、押えがたいものだからである。
人間の意識は自己保存に走り、我欲をむさぼりやすい。
自我とは、いったい何でしょうか。また自我は、心の領域のどの部分なのだろうか。
自我という言葉は、非常に抽象的で誤解を招きやすいのですが、ここでは個性の魂という意味で広く捉えていただきたい。
したがって、この自我を偽我、善我、真我の三つに区分して考えた方が理解しやすいだろう。
ただ、通常は、他人と自分の相対関係のなかで、はじめて自分が意識されるものであることを理解しなければならない。
対象があり、相関関係のなかで自分の存在が意識できるということです。
その意味で、生れたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識に目覚めていません。
3ヵ月、半年、一年と経って、はじめて親と自分、つまり周囲の対象のなかで、自分の存在を自覚し始める。
そこで、自我のなかの偽我は、対象のなかの自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分である。
俗にエゴともいい、他人の不幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。
小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず、心の中は苦しみに満ちてきます。
次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、皆と手を取り合い、愛に生きなければならない、各人めいめいが、勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用という関係のなかで生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首をしめてしまうということがわかっている心をいうのである。
助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ、自分を生かし、皆を生かすことだと理解することが善我なのだ。
すべからく人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことです。
これから外れると、その外れた分量だけ自分が苦しむようになっています。
これが心の仕組みなのである。
次の真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分は本来一つのもので、別々ではない、現れの世界(物質的この世)では別々でも、神の子としての心は一つであり、そうして、すべての万物は、神の心の中で生かされ、生きている、という自覚の心です。
この場合の心は、大我というものであり、慈悲と愛一筋に生きるものです。
宇宙即我、それは、真我の現れです。
人間の心は、核の中心に近づくに従って、神仏の子としての自覚、善悪の判断を持つようになる。
これは、人間の誰彼なしに持っているものであり、その核は、無限大宇宙生命の唯一なる意識、つまり、神に通じている。
核の中心より外側へ行くに従って、肉体の五官に影響され、煩悩に支配されるようになって行く。
意識の想念は、無限大に拡大することも、極小の世界にも通じ、その中に存在する善悪の世界にも通じることができる。
大宇宙の支配者は、万象万物エネルギーの根本であり、この支配者こそ神仏であり、大宇宙体の意識である。
私達の意識は、大宇宙体の分身であり、分身である私たちの意識体は宇宙意識に調和するための修行を続け、あの世、この世と転生輪廻を永遠にくり返し、大宇宙体を調和させながら自己の魂を磨き、より高い意志の世界へ進展して行く。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません