悪霊の暗躍


『“生命の旅”これは永遠ですか。という質問をいただいた。
然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なる証(あかし)がある。
生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。
動と静は毎日繰り返されているのである。私たちは働き、休むことの繰り返しのなかで生きて向上するのである。
自然界の昼夜、光りと闇、春夏秋冬があるように動と静は相互に循環している。
私たちのきを支え、作り出すのはの時間があるからですが、しかし、静は停止ではない。静はチャージであり、休息であり働きである。
人類は“動”の世界にあり、この地上の観念でいえば幾十億年、限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩んでいる過程にある。
しかし超越的高次元な世界については地上人類は爪の垢ほども知る由がない。
知ったつもりでいてもその真実は宇宙のなかのチリ一つ程度にすぎないであろう。
宇宙の一切の秘密の中に心を寂滅(じゃくめつ)すると、それ以上は全てがあまりに高く、あまりに遠すぎるのである。
私たちはそこまで背伸びすることはない。
生命には事実上終末はなきものと心得るがよいだろう。
そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけて生きることが肝要だ。
大宇宙の唯一なる意識、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用については、より多くを学んできたが、しかし、私はまだまだ宇宙の入り口にさえも立っていない。
唯一なる意識そのものを直接には知り得ぬ。
これより後も、この地上を去り、かの静寂な超越的世界に入るまでは知り得ぬであろう。
人間にとっても唯一なるものの存在は、その現象的な働きにより知り得るのみである。
他の為に祈り現象として結果をいただけたときのようにです。
いつの時代も善と悪の闘いはあるものだが、時には未熟なる霊が圧倒的影響を及ぼす時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。
機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が同時多数に霊界へ送り込まれるためである。
彼らは未だ霊界への備えができていない者たちがいる。
しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒(ふんぬ)に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。
死せるのちもなお、その雰囲気の中にて怒りと恨みと復讐心と恐怖のなかで悪のかぎりを尽くす。
霊にとって、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。
いかなる霊にとっても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心しない。
自然災害などによる同時多数の犠牲者の場合は人間同士の殺りくとは異なり憎しみや恨みの念が少ないという点においてはまだ救いがある。
ということは、それだけ早い時期に霊界に入れることになるからだ。
霊的に判断すれば現代の死刑という法的な裁きとして極刑にするのだが、愚かにして野蛮(やばん)なる行為であるとする理由もそこにある。
断末魔の精神状態は自然災害、人間同士の殺戮、自殺、寿命、のいずれにおいても死後の所在地にまで多大な影響を及ぼし苦しみの元となるのだ。
戦争による殺戮や自殺、法的極刑は、死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念(おんねん)に燃えさせたまま肉体より離れ、さらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。
私たち地上人間の価値観は、自らが定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいて、あまりに盲目的であり無知である。
幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。
すると法曹たちも一般民衆もすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。
本来ならば、その者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる精神教育としての魂の学習環境下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込め、最後は処刑する。
そこには同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。
それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこ(刑務所)にたむろし、双方の邪念と怨恨(えんこん)とによって、まさに巣窟と化している。
そのためそこに勤務する心不調和な警察官のなかには邪霊の憑依を受け、悪に手を染める者もでてくるのだ。
邪霊たちの巣窟には、霊界における光の天使たちさえもただ茫然(ぼうぜん)として立ちすくむのみである。
そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団を目のあたりにして天使たちは悲しみの涙を流す。
人間が犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。
何となれば、人間自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。
いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、誰も知らぬし、知り得ぬことでもあろう。
が、もしも人間がこのような事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。
罪人は訓え導いてやらねばならない。法的に罰するのはよい。
が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための手段と教育内容でなければならぬ。
唯一なる存在の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならない。
そこには正しい心の教えを説ける人間が訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろうことが実現されることである。
然るに我らは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。
その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。
かくの如き扱いを受けし者は、心に愛をいただけず、また愛が満ちることもなく、心は荒ぶれて刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。いわゆる再犯である。
そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。
即ち死刑囚とされ、やがて抹殺される。
心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪(ぞうお)と復讐心に燃えて幽界へ入る。
それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その肉体という足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。
私たちは何も知らぬ。己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。
己こそ最大の敵であることを知らぬ。
私たちが欲望のままに執着し、心を不調和にし、邪心をもつことが邪悪な霊たちを呼び寄せ人生を翻弄されてしまうことを誰も知らぬ。
知らぬと同様に、愚かさの極みである。
邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。
凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。
厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。魂の救済という観点からすれば断じて間違いである。
この世においても、あの世においても、復讐は復讐をつくりだすだけである。
唯一なるものの優しさと慈悲、堕落せる霊を罪悪と憤怒(ふんぬ)の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、光の天使を通じて発揮される唯一なる意識の根本的原理の働きを知らねばならない。
不調和の如き行為を続けるのは、唯一なる意識の存在を皆目、知らぬが故である。
人間は本能的感覚をもって宇宙意識を想像した。
すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、権力者や法曹たちが、己に媚び、己への信仰を告白せる者のみを天国へ召すといい、その他に対しては容赦も寛容もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。
そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の唯一なる存在には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき御心には到底そぐわぬ律法を定めた。
つまり、自然の法則から逸脱した人間作りの律法を押し付けてきたのである。
宗教家やそれに先導された民衆たちで、何たる見下げ果てたる愚かな偶像的神をつくってきたものか。
一時の出来心から罪を犯せる無知なる子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは。
作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎない。
宗教団体で祀り上げているような神は存在しない。絶対に存在しない。
人間の創った神というものは人間の愚劣(ぐれつ)なる心の中以外のいずこにも存在しない。
真の神とは、大宇宙を統べる唯一つの意識そのものだけである。
そこかしこの作られた宮に祀り上げた名の神と称するものは神にあらず。
さらに、神が直接人間に神憑り言葉を発することはない。断じてない。
使命を持った光の天使が人間に掲示を与えていることはあっても、真の神が人間に懸(かか)ることなどないのである。
実(まこと)しやかに神の言葉として語り、利益する者たちは悪霊の支配下にあるということを知っておかなければならない。
まして、戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことであるが、本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たちのはずである。
肉体を失った者たちの家族は嘆き悲しむが、肉体の問題ではない、一時的に物的原子をまとえる“霊”(魂)こそが関心事であらねばならない。
その霊たちの利害の対立を人間は戦闘的手段によって処理しようとする。
血に飢えし魂たちは怨念と憤怒(ふんぬ)を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。
肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界に関わり、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。
然るに、邪悪な霊たちがそれに寄り添ってくるそもそもの原因は、単なる野心の満足、一時の気まぐれ、欲望の満足という地上人間の想念の波動に引き寄せられてくるのである。
私たちは、まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦しく、かつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。
人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。
仮にもし、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、私たち自らも間違いなく地獄へ堕ちねばならぬ。
邪霊を利する媒体となるのではなく、一人一人が、愛と慈悲の実践者とならねば真の地上楽園は築かれることはない。
やがて私も、これを読んでくださっているあなたも時が来れば、今世での肉体生命にも終わりが来る。しかし、それも来世への新たな出発になるのだ。
いま、このコラムを読んでくださっているあなたが愛と慈悲をもって人々に尽くす行為をするなら、臨終の際において、魂は光明に満たされて高き天上界へと、天使によって導かれるであろう。
愛した者たちに見送られながら。
真の愛と慈悲を実践する心をもったあなたの内にだけ神はいられるのである。
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